#13.今日の貴方はとても頑張りました
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シュヴァイン砦を放棄した後、合同軍は二手に分かれた。バジーリオを主体にフラヴィアも含めたフェリア軍。彼らはヴァルハルトが率いる主軍を引きつける囮役だ。殆ど勝機の見えぬ死地にも関わらず意気揚々と進んでいく。その間にもう一方のレンハ軍を撃破すべくクロム達は進行する。ヴァルムの挟撃を避けるためのルフレの奇策であった。
夜、疲労困憊の色を見せつつも軍は野営した。元解放軍はところ変わって執拗な追撃をしてはこなかったのが幸いした。兵達は短い時間を使って静養に励み、来る戦いに備える。
名前は仲間達の手厚い保護の上で一つの天幕に押し込められた。鼻の整形を終えた後も食事を持ちよって女子だけの会食が開かれたりと、現時点での憂慮すべき問題とはかけ離れた楽しいひとときを過ごした。あっという間に深夜へと時は移り、皆が退散した後の名残惜しい時間を一人、名前は過ごすことになった。そうなると名前の考えることは一つ。
結局クロムと話す機会が無かった。リズの話では心配していたらしいという夫に、とうとう声をかける隙がみつからなかったのだ。剣技をフラヴィアに認められたものの、これでは元も子もない。
思い返せば一人の夜というのは久しぶりな気がした。結婚してからはクロムと、修行に明け暮れていた頃は常にフラヴィアと寝床を共にしていた。広くはない天幕だが、何かぽっかりと穴が空いているような錯覚があった。
(寂しいなんて今更だ……きっとクロム様もあんな顔を見て呆れられているに決まってる)
己の我を貫いた結果だ、受け入れる他はない。そうは思っても、この夜だけは夫の存在が恋しくなっていた。
しばらく寝そべり天井を見やって物思いに耽る名前だが、目元を擦りつつ疲労による眠気でうつらうつらとし始めた頃。入り口を仕切る布の開く音に、まどろんでいた意識が急に現実に巻き戻される。出入り口を見れば、確かに人の気配がした。見張りの兵だろうかと思ったものの何の音沙汰が無い。相手と互いに読み比べをしていることに気づくと名前はぶるりと震えた。誰かが寝込みを襲いに来たのだと瞬時に考える。相手に悟られぬように近くの荷物へ手を伸ばした。それから無意識に捜していた物が昼間から手元に無いことに気付き頭の中は大慌てに。刀はノノが入り口近くに置いてそのままにしていた。わなわなと震える身体でいかにこの事態を脱するか、頭を巡らせても答えにたどり着けない。
名前は咄嗟にクロムの名前を呼んだ。声無き声でいないはずの夫に助けを求めていた。ぎゅっと目を瞑り、瞼の奥の男を追い求める。
「…名前?」
「!!」
「起こしてしまった、か…?」
「く、クロム様…!?」
男の声もその口調も間違いなくクロムのものだった。天幕の内に在するのは自分たちだけか推し量りながら、名前は震える手で灯りを求めた。声だけでなく、目で事実を確認するために。幸いにもクロムがいち早く近くのランプの火を灯らせてくれて、暗闇が照らされる。紛れもなく本物のクロムがそこにいた。大きめの荷物を担いでいる。無理に笑みを象って、誤魔化すように咳払いをしながら頬を掻く。
「…すまん、もう寝てしまっただろうと思って声もかけずに勝手に入ってしまった」
「い、いえ…あの…」
「あぁっそうだ。ヴィオールからお前に返してくれと頼まれた」
「エメリナ様の弓…!」
「あぁ。すぐに返してやりたくてな。嬉しい、か?」
「はい…!あ、ありがとうございます…クロム様…」
丁寧に包まれていた中から弓を取り出し、その身を撫でる。慣れ親しんだ弓の存在にほっと胸をなで下ろした。名前の視線に合わせ、屈んだクロムと目が合い、名前は胸元がきゅっと締まった感触を覚えた。
クロムは神妙そうな顔つきで、言葉を紡ぐ。灯りを少し遠ざけて名前の頬にそっと手のひらを添えた。
名前は嬉しくなって笑う。クロムが触れる無骨な手に、自分のものも重ねた。
「…怪我は大丈夫か?」
「あ、はい。みんながいろいろ助けてくれて…ちょっとだけまだ違和感があるけど大丈夫です。……今日は、その…また、みっともない姿を、見せてしまって…」
「心配したぞ。フラヴィアと一騎打ちしていたときなんか、見ているこっちの寿命が縮んだ」
「わ、私はそんなに弱く見えますか?」
「あ…いや……お前は、弱くなんかない。ただ、もっと…」
「もっと…?」
頬から手が離れ、触れていた手を掴まれた。クロムはもう片方の手でがしがしと頭をかきむしる。言葉を選んでいるのだと名前は思って待った。
クロムは言いよどみながらもその言葉を続ける。
「もっと、俺に頼ってほしい」
「え……?」
「名前は一人でなんでも抱え込むから…時々俺は…お前が本当に辛いとき、ちゃんと支えてやれているのか…自信が無くなる」
「そんな、……そんなこと……」
言葉が続かない。名前はありきたりな返事しか出来ない自分がもどかしかった。このときばかりは、相手に自分の気持ちを伝えたく頭をフル回転させた。
それより先にクロムが笑みを繕って名前の側から離れようと立ち上がる。
「悪かった。お前の意志を聞かず、勝手なことを押しつけて」
「…あ…あの…」
「ずっと謝る機会を探していた。戦いの最中とはいえ、ゆっくり話をする時間を作れずにいたことが気掛かりだった。だからって、今すぐにお前の気持ちが晴れたとは思わん。お前が良いと思うまで…俺は待ってる」
「く、クロム様…!」
「おやすみ、名前。今日はゆっくり休め。また明日…元気にな」
顔を寄せて頬に唇がそっと触れる。名前は身体が一瞬跳ねた。白黒とする目の動きが動揺を隠しきれず、苦悶の表情がよく見て取れる。そんなリアクションが久しぶりで小さく笑ってしまった。クロムは掴んでいた手をそっと離そうと指の力を抜く。だが手のひらは名前の指ががっしりと掴んでいて離れない。クロムはどうしたかと問いかける前に、意を決した名前の口が開く。
「わ、わたし」
「?」
「今日、クロム様と…こうして話したかった」
「…名前…?」
「フラヴィア様と戦ったとき、クロム様の声だけが聞こえた…。頑張らなきゃって、思った」
「……」
「頑張って、強くなりたかった…どんどんクロム様が遠くに行ってしまうみたいで…怖かった…から…。少しでも、近づけるように…クロム様の見ている景色を、一番近くで見れるようにしたくて」
「名前…」
「でも、でも私…情けないところばかりで…すぐ泣いて…すぐ失敗して……今日だって、怪我した姿…クロム様だけには見られたくなかった…見られてすごく恥ずかしかった…」
「…俺は、情けないなんて思ってない」
「ううん…頼ってばっかりで、助けになれなくて、嫌われるのが怖くて…私、クロム様に一番迷惑をかけてる。…私の方がクロム様のことちゃんと支え切れてない…もっと頑張らなきゃ、もっと強くならなきゃ………なのにさっきも本当は怖かったの。誰かに襲われたのかと…思って…弓も…無くて…どうしようって…」
「…すまん」
「違うの…私、すぐにクロム様のことが浮かんだ……だから、クロム様だってわかって…安心して…本当に嬉しかった…だって、クロム様のこと、考えていたところだったから…」
「名前…」
「私、クロム様やルキナちゃんがいるって思うから頑張ろうって…頑張れるって思うの。…それだけは、本当だから」
「………」
クロムは再び身を屈ませた。さっきよりも間近に、泣き出しそうな顔から無理に笑う名前との距離を詰めた。
「もっとよく…顔を見せてくれ…」
「あの、でも」
「傷が付いた顔を見られたくないもんだっていうのは、リズにも言われた。それでもちゃんとお前の顔が見たい。…久しぶりだから、尚更…」
「…うん…」
クロムの顔が寄る。暗い視界に、愛しい男の蒼い瞳だけがきらきらと光っている。その瞳が瞼に隠れるのと同時に、名前も目を閉じた。唇に柔らかな感触を得るのはそれからすぐだ。長い口づけを終えた後もしばらく余韻に浸る為に見つめ合い、額をくっつけて笑い合った。名前はその後、久しぶりにクロムの胸元に落ち着いた。
「………駄目だな」
「え…?」
「ちょっと寝顔を見るだけだったのに、…駄目だ。手放せなくなる」
「……」
「そろそろフレデリクが騒ぎ出すかもしれんしな…」
名前はクロムがわざと言葉を選んでいることに気付いて困ってしまった。沸き起こる笑いを堪えられない。
なんて言えば喜んでもらえるのか、名前は考える。それがとても嬉しくて、楽しかった。名前はとりあえず回す腕に力を込めて、あぁだのうぅだの言って唸る夫の胸元に頬を擦り付けた。
「おはようございます、ルフレさん」
「あ、おはよう」
周辺の地理を把握するため測量に夢中で寝不足のルフレは自分とは間逆に元気で笑顔なフレデリクに少し気後れを感じた。彼はニコニコと汚れた食器具を手にしていることから、主達の配膳が終わったのだなと予測する。少しだけいつもより多めである。
「随分機嫌がいいね、今日は」
「はい。今日は久しぶりに皆さん全員でお食事でしたから」
「へぇ……え?名前帰ってきたの?」
「はい。クロム様もとても嬉しそうでした」
成る程、と合点がいって、ルフレはほっと安堵していた。私事を持ち込まないとはいえ、クロムの落ち込みようを近くで見てきたルフレの一つの心配事だった。それが自分を挟まずに二人で解決してくれたのだ。フレデリクの上機嫌の理由と重なってルフレも口角をあげる。
フレデリクは鼻歌を歌っていそうな雰囲気で楽しげに去っていった。今の状況を理解しているのか少しだけ不安に思えるが、悩みの種を取り除いた嬉しさに水を差すのも悪い気がして嘆息だけを漏らすに終えた。
「あの、ルフレさん」
「あっ…やぁ、名前。おはよう」
「…おはようございます」
噂をすれば、の登場にルフレはドキリとしたものの、彼女が現れた理由はすぐに察した。もじもじと恥ずかしそうにしている名前の様子を伺って、とりあえず助け船を出す。
「クロムと話し合えた?」
「あ…!…は、はい。…昨日、お話出来て…クロム様のお気持ちが少しだけわかった気がします」
「話が出来たのならよかった。クロムもきっと同じだと思う」
「それで…あの、ルフレさんにはご迷惑をお掛けしまして」
「うん、本当にね!」
「あ…!」
「クロムはふとした瞬間にしょんぼりするし!名前は相変わらず頑固に何も言わないし!間に挟まれる気にもなってほしいよ、本当!」
「ご、ごめんなさい、本当にご迷惑を…」
「うん、反省しているならいいよ。とりあえず仲直りしてよかったって思うし。これからはクロムと仲良くね」
「…はい」
お母様、と控えめに名前を呼ぶルキナの声が。名前はルフレに改めて頭を下げ、軽やかな足取りで娘の元へ。心なしか、ルキナの表情も明るくなったとルフレは思う。二人は談笑しながら歩いていく。剣を持っていたところを見て鍛錬をしに行くのだろう。
よし、と声を上げ、ルフレは両頬を叩いた。状況は至って厳しい。それでも進むしか道は無い。
迫る剣聖の軍に備え、出来ることすべてを実行する。空を仰ぎ見れば、バジーリオ達の向かった地は雲が厚く黒い。もうすぐ決戦が始まる。彼らの覚悟を無にしない為に、ルフレは作った地図と戦術書を見比べる作業にまた戻ることにした。
「…お母様、ルフレさんと何を?」
「あっうん、迷惑かけちゃったから…謝っていたの。ルキナも心配かけてごめんね」
「いいえ!きっとすぐ仲直りされると信じてましたから。…それにしてもお母様は、ルフレさんと仲が良いのですね」
「仲がいい…かなぁ…ルフレさんと一番仲がいいのはクロム様とスミアさんだと思うけど…」
「……」
ルキナはあやふやに笑って言葉を切った。名前もにこと笑ってそれ以降話題を広げない。ルキナは母のその笑顔に喜びを覚えつつ、元来た道を振り返った。逆の道を行く軍師の背はこれからの戦いに向けて活気はやっていて頼もしくもあった。それでもルキナの表情には影が浮かぶ。
足を止めたルキナを呼ぶ名前の声に気付き、ルキナは頭を振って急いで母を追いかけるのだった。
夜、疲労困憊の色を見せつつも軍は野営した。元解放軍はところ変わって執拗な追撃をしてはこなかったのが幸いした。兵達は短い時間を使って静養に励み、来る戦いに備える。
名前は仲間達の手厚い保護の上で一つの天幕に押し込められた。鼻の整形を終えた後も食事を持ちよって女子だけの会食が開かれたりと、現時点での憂慮すべき問題とはかけ離れた楽しいひとときを過ごした。あっという間に深夜へと時は移り、皆が退散した後の名残惜しい時間を一人、名前は過ごすことになった。そうなると名前の考えることは一つ。
結局クロムと話す機会が無かった。リズの話では心配していたらしいという夫に、とうとう声をかける隙がみつからなかったのだ。剣技をフラヴィアに認められたものの、これでは元も子もない。
思い返せば一人の夜というのは久しぶりな気がした。結婚してからはクロムと、修行に明け暮れていた頃は常にフラヴィアと寝床を共にしていた。広くはない天幕だが、何かぽっかりと穴が空いているような錯覚があった。
(寂しいなんて今更だ……きっとクロム様もあんな顔を見て呆れられているに決まってる)
己の我を貫いた結果だ、受け入れる他はない。そうは思っても、この夜だけは夫の存在が恋しくなっていた。
しばらく寝そべり天井を見やって物思いに耽る名前だが、目元を擦りつつ疲労による眠気でうつらうつらとし始めた頃。入り口を仕切る布の開く音に、まどろんでいた意識が急に現実に巻き戻される。出入り口を見れば、確かに人の気配がした。見張りの兵だろうかと思ったものの何の音沙汰が無い。相手と互いに読み比べをしていることに気づくと名前はぶるりと震えた。誰かが寝込みを襲いに来たのだと瞬時に考える。相手に悟られぬように近くの荷物へ手を伸ばした。それから無意識に捜していた物が昼間から手元に無いことに気付き頭の中は大慌てに。刀はノノが入り口近くに置いてそのままにしていた。わなわなと震える身体でいかにこの事態を脱するか、頭を巡らせても答えにたどり着けない。
名前は咄嗟にクロムの名前を呼んだ。声無き声でいないはずの夫に助けを求めていた。ぎゅっと目を瞑り、瞼の奥の男を追い求める。
「…名前?」
「!!」
「起こしてしまった、か…?」
「く、クロム様…!?」
男の声もその口調も間違いなくクロムのものだった。天幕の内に在するのは自分たちだけか推し量りながら、名前は震える手で灯りを求めた。声だけでなく、目で事実を確認するために。幸いにもクロムがいち早く近くのランプの火を灯らせてくれて、暗闇が照らされる。紛れもなく本物のクロムがそこにいた。大きめの荷物を担いでいる。無理に笑みを象って、誤魔化すように咳払いをしながら頬を掻く。
「…すまん、もう寝てしまっただろうと思って声もかけずに勝手に入ってしまった」
「い、いえ…あの…」
「あぁっそうだ。ヴィオールからお前に返してくれと頼まれた」
「エメリナ様の弓…!」
「あぁ。すぐに返してやりたくてな。嬉しい、か?」
「はい…!あ、ありがとうございます…クロム様…」
丁寧に包まれていた中から弓を取り出し、その身を撫でる。慣れ親しんだ弓の存在にほっと胸をなで下ろした。名前の視線に合わせ、屈んだクロムと目が合い、名前は胸元がきゅっと締まった感触を覚えた。
クロムは神妙そうな顔つきで、言葉を紡ぐ。灯りを少し遠ざけて名前の頬にそっと手のひらを添えた。
名前は嬉しくなって笑う。クロムが触れる無骨な手に、自分のものも重ねた。
「…怪我は大丈夫か?」
「あ、はい。みんながいろいろ助けてくれて…ちょっとだけまだ違和感があるけど大丈夫です。……今日は、その…また、みっともない姿を、見せてしまって…」
「心配したぞ。フラヴィアと一騎打ちしていたときなんか、見ているこっちの寿命が縮んだ」
「わ、私はそんなに弱く見えますか?」
「あ…いや……お前は、弱くなんかない。ただ、もっと…」
「もっと…?」
頬から手が離れ、触れていた手を掴まれた。クロムはもう片方の手でがしがしと頭をかきむしる。言葉を選んでいるのだと名前は思って待った。
クロムは言いよどみながらもその言葉を続ける。
「もっと、俺に頼ってほしい」
「え……?」
「名前は一人でなんでも抱え込むから…時々俺は…お前が本当に辛いとき、ちゃんと支えてやれているのか…自信が無くなる」
「そんな、……そんなこと……」
言葉が続かない。名前はありきたりな返事しか出来ない自分がもどかしかった。このときばかりは、相手に自分の気持ちを伝えたく頭をフル回転させた。
それより先にクロムが笑みを繕って名前の側から離れようと立ち上がる。
「悪かった。お前の意志を聞かず、勝手なことを押しつけて」
「…あ…あの…」
「ずっと謝る機会を探していた。戦いの最中とはいえ、ゆっくり話をする時間を作れずにいたことが気掛かりだった。だからって、今すぐにお前の気持ちが晴れたとは思わん。お前が良いと思うまで…俺は待ってる」
「く、クロム様…!」
「おやすみ、名前。今日はゆっくり休め。また明日…元気にな」
顔を寄せて頬に唇がそっと触れる。名前は身体が一瞬跳ねた。白黒とする目の動きが動揺を隠しきれず、苦悶の表情がよく見て取れる。そんなリアクションが久しぶりで小さく笑ってしまった。クロムは掴んでいた手をそっと離そうと指の力を抜く。だが手のひらは名前の指ががっしりと掴んでいて離れない。クロムはどうしたかと問いかける前に、意を決した名前の口が開く。
「わ、わたし」
「?」
「今日、クロム様と…こうして話したかった」
「…名前…?」
「フラヴィア様と戦ったとき、クロム様の声だけが聞こえた…。頑張らなきゃって、思った」
「……」
「頑張って、強くなりたかった…どんどんクロム様が遠くに行ってしまうみたいで…怖かった…から…。少しでも、近づけるように…クロム様の見ている景色を、一番近くで見れるようにしたくて」
「名前…」
「でも、でも私…情けないところばかりで…すぐ泣いて…すぐ失敗して……今日だって、怪我した姿…クロム様だけには見られたくなかった…見られてすごく恥ずかしかった…」
「…俺は、情けないなんて思ってない」
「ううん…頼ってばっかりで、助けになれなくて、嫌われるのが怖くて…私、クロム様に一番迷惑をかけてる。…私の方がクロム様のことちゃんと支え切れてない…もっと頑張らなきゃ、もっと強くならなきゃ………なのにさっきも本当は怖かったの。誰かに襲われたのかと…思って…弓も…無くて…どうしようって…」
「…すまん」
「違うの…私、すぐにクロム様のことが浮かんだ……だから、クロム様だってわかって…安心して…本当に嬉しかった…だって、クロム様のこと、考えていたところだったから…」
「名前…」
「私、クロム様やルキナちゃんがいるって思うから頑張ろうって…頑張れるって思うの。…それだけは、本当だから」
「………」
クロムは再び身を屈ませた。さっきよりも間近に、泣き出しそうな顔から無理に笑う名前との距離を詰めた。
「もっとよく…顔を見せてくれ…」
「あの、でも」
「傷が付いた顔を見られたくないもんだっていうのは、リズにも言われた。それでもちゃんとお前の顔が見たい。…久しぶりだから、尚更…」
「…うん…」
クロムの顔が寄る。暗い視界に、愛しい男の蒼い瞳だけがきらきらと光っている。その瞳が瞼に隠れるのと同時に、名前も目を閉じた。唇に柔らかな感触を得るのはそれからすぐだ。長い口づけを終えた後もしばらく余韻に浸る為に見つめ合い、額をくっつけて笑い合った。名前はその後、久しぶりにクロムの胸元に落ち着いた。
「………駄目だな」
「え…?」
「ちょっと寝顔を見るだけだったのに、…駄目だ。手放せなくなる」
「……」
「そろそろフレデリクが騒ぎ出すかもしれんしな…」
名前はクロムがわざと言葉を選んでいることに気付いて困ってしまった。沸き起こる笑いを堪えられない。
なんて言えば喜んでもらえるのか、名前は考える。それがとても嬉しくて、楽しかった。名前はとりあえず回す腕に力を込めて、あぁだのうぅだの言って唸る夫の胸元に頬を擦り付けた。
「おはようございます、ルフレさん」
「あ、おはよう」
周辺の地理を把握するため測量に夢中で寝不足のルフレは自分とは間逆に元気で笑顔なフレデリクに少し気後れを感じた。彼はニコニコと汚れた食器具を手にしていることから、主達の配膳が終わったのだなと予測する。少しだけいつもより多めである。
「随分機嫌がいいね、今日は」
「はい。今日は久しぶりに皆さん全員でお食事でしたから」
「へぇ……え?名前帰ってきたの?」
「はい。クロム様もとても嬉しそうでした」
成る程、と合点がいって、ルフレはほっと安堵していた。私事を持ち込まないとはいえ、クロムの落ち込みようを近くで見てきたルフレの一つの心配事だった。それが自分を挟まずに二人で解決してくれたのだ。フレデリクの上機嫌の理由と重なってルフレも口角をあげる。
フレデリクは鼻歌を歌っていそうな雰囲気で楽しげに去っていった。今の状況を理解しているのか少しだけ不安に思えるが、悩みの種を取り除いた嬉しさに水を差すのも悪い気がして嘆息だけを漏らすに終えた。
「あの、ルフレさん」
「あっ…やぁ、名前。おはよう」
「…おはようございます」
噂をすれば、の登場にルフレはドキリとしたものの、彼女が現れた理由はすぐに察した。もじもじと恥ずかしそうにしている名前の様子を伺って、とりあえず助け船を出す。
「クロムと話し合えた?」
「あ…!…は、はい。…昨日、お話出来て…クロム様のお気持ちが少しだけわかった気がします」
「話が出来たのならよかった。クロムもきっと同じだと思う」
「それで…あの、ルフレさんにはご迷惑をお掛けしまして」
「うん、本当にね!」
「あ…!」
「クロムはふとした瞬間にしょんぼりするし!名前は相変わらず頑固に何も言わないし!間に挟まれる気にもなってほしいよ、本当!」
「ご、ごめんなさい、本当にご迷惑を…」
「うん、反省しているならいいよ。とりあえず仲直りしてよかったって思うし。これからはクロムと仲良くね」
「…はい」
お母様、と控えめに名前を呼ぶルキナの声が。名前はルフレに改めて頭を下げ、軽やかな足取りで娘の元へ。心なしか、ルキナの表情も明るくなったとルフレは思う。二人は談笑しながら歩いていく。剣を持っていたところを見て鍛錬をしに行くのだろう。
よし、と声を上げ、ルフレは両頬を叩いた。状況は至って厳しい。それでも進むしか道は無い。
迫る剣聖の軍に備え、出来ることすべてを実行する。空を仰ぎ見れば、バジーリオ達の向かった地は雲が厚く黒い。もうすぐ決戦が始まる。彼らの覚悟を無にしない為に、ルフレは作った地図と戦術書を見比べる作業にまた戻ることにした。
「…お母様、ルフレさんと何を?」
「あっうん、迷惑かけちゃったから…謝っていたの。ルキナも心配かけてごめんね」
「いいえ!きっとすぐ仲直りされると信じてましたから。…それにしてもお母様は、ルフレさんと仲が良いのですね」
「仲がいい…かなぁ…ルフレさんと一番仲がいいのはクロム様とスミアさんだと思うけど…」
「……」
ルキナはあやふやに笑って言葉を切った。名前もにこと笑ってそれ以降話題を広げない。ルキナは母のその笑顔に喜びを覚えつつ、元来た道を振り返った。逆の道を行く軍師の背はこれからの戦いに向けて活気はやっていて頼もしくもあった。それでもルキナの表情には影が浮かぶ。
足を止めたルキナを呼ぶ名前の声に気付き、ルキナは頭を振って急いで母を追いかけるのだった。