#13.今日の貴方はとても頑張りました
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精鋭部隊より離れ、本陣に残っていた自警団員達を集めたヴィオールは地図を広げて軍の進むべき経路を示した。半分の団員が道を開き、非戦闘員の人員を真ん中に進ませ、残りの半分は退きながら殿として後方守備を。その振り分けをしたいとして集めたのだ。
「僕は後方に残ろう。前方は名前君が付いてくれたまえ」
「わかりました」
「ならあたしも名前側に付くわ」
「うむ。ティアモ君はそれでいい。足のあるマリアベル君とリヒト君も彼女側に…あとは、」
「はいはーい!僕もそっちがいいなー」
「ヘンリー君。うむ、まぁ良いだろう」
「あーよかった。ありがとうねー僕がんばるよー」
手を挙げて珍しく意見を述べたのに他のメンバーは驚いていたが、当の本人は自分の意見が聞き入れられて満足そうに首をふらふら揺らしながら会議が終わるのを待ち始めた。
ヴィオールが咳払いをして残りの団員の振り分けを再開する。戦力のバランスを考えてテキパキとチームを振り分ける。こうして名前を擁する先見隊と、ヴィオール率いる後衛組に分かれることになった。
互いに武運を祈り合い、再開を信じて、二つの部隊は戦いに向かうのだった。
とにかく元解放軍とヴァルム兵によって閉じた経路をこじ開けることが最優先だった。このような修羅場を幾度もくぐり抜けてきたグレゴが先頭を歩く。その少し後ろに名前とティアモがいた。名前を下がらせようと必死になったティアモだったが、名前はそれを許さなかった。兵達に面と向かって演説した自分が後ろで守られる姿を見せていいわけがないと譲らなかった。
名前の頑固さをよく知るティアモは溜息を吐いたが無茶をしない約束を交わして、名前は刀を持って前線に出ることを許したのだ。久しぶりの実戦に緊張はあるが変に体が固いわけでも怯えているわけではない。それにイーリス后が率先して剣を取り、皆を守るために戦う姿は兵達を鼓舞し、士気を上げてくれた。これは焦燥感を払って統率の取れた動きが出来たのは、無意識にも勇気を払った名前への敬意の現れだとティアモは思う。そうなれば反対の理由が無い。ともかくルフレから頼まれていた目付役の効き目にならなかったことを心中詫びつつ、名前の背を守るべくティアモも愛槍を手にするのだった。
前方から威勢ある声が重なって現れた。飛び出してきた斧使いに動揺を見せず、前方のグレゴが振り下ろされた凶器を大剣でいなす。次々と現れる刺客にすぐに混戦状態と変わった。予想内の出来事だが、鬼気迫る勢いに気圧されつつも退くわけにはいかない。
名前も目の前に現れた剣士と打ち合った。激しい金属音が鳴り響くも、性別の差が徐々に開き始める。足底を擦りながら後退し、好機を狙うも機会が無い。
「名前!」
追い詰められた名前に気付き、急いで踵を返すティアモだが間に入った敵兵によって距離が縮まらない。
そのとき、名前の神経にぞわりとした何かが体に駆け上る。それは対した敵剣士も同じらしく名前から危険を感知したのか大きく距離を取った。だがそれでは足りない。同じく飛び退いたはずの兵士の影に重なっていた闇が彼を追いかけた。一瞬、動揺を見せた剣士は影から現れた黒い衝撃波に巻き込まれ血を吐いてよろめいた。その隙を名前は逃すわけにはいかず、咄嗟に剣を翻して大きく踏み込んだ。肉を斬り、骨を折る音が感触と共に手に伝わる。崩れ落ちた男の死体を置き去り、名前は刀を伝う血を払った。
「やったー!」
万歳をしながら駆け寄ってくる青年に名前は面食らう。
「大丈夫ー?怪我はないー?」
「あ…は、はい」
「ヘンリー。助かったわ、ありがとう」
ようやく駆けつけたティアモの労いにも顔色は明るいままにヘンリーは首を振って口角を上げた。
「じゃあ行こっか」
「え?」
「あとよろしくー」
がしっと名前の手を掴み、ティアモには空いた手を振り振り、ヘンリーは名前を引きずるように駆けだした。
「ちょっと!?」
「へ、ヘンリーさん!」
「どんどん進むぞー!」
ティアモの制止を無視する形でヘンリーと二人で戦場を駆ける。ぎょっとする仲間たちを置き去りに、名前も声を上げてヘンリーを止めるが足は一向に立ち止まらない。
「ヘンリーさん!?」
「あっ」
ヘンリーの踏み出す先に矢が刺さる。急な停止にどんと体をぶつけながら名前は冷や汗を流す。こんな時にも青年は笑みを浮かべていたのだ。
前方では大きな弓を掲げた兵が第二矢を構えている。息荒く、集中力が欠けているのか何処かその視線には焦りがあった。狙いを定めることも無く、矢は勢いよく放たれた。
飛んできた矢はヘンリーの横をひゅんと過ぎ去る。それは木々の腹もとに突き刺さった。弓兵が矢の哀れな運命に歯噛みしている間に、青年魔道士は得意の魔道を発動させた。黒い書から沸き起こる濃い影がそっと弓兵を囲み、逃げまどう標的を咀嚼する。影が散布した後には息乱れた弓兵が血を吐きながらもまた矢をつがえようと矢筒に手を伸ばす。だが、それよりも早く動き出していた女剣士がそれを阻んだ。弓兵の首元へ正確に刃をなぞり、ぱっくりと割れた皮膚から大量の血が溢れ出した。
白黒と変えていた瞳から生気が抜け出たことを確認し、名前は刀を血を払いつつヘンリーの傍らへ。怒り顔で迫ってみたもののあまり効力は無かった。
「飛び出しすぎです!…一旦退いて、足並みをみんなと揃えないと……」
「えーせっかく此処まで来たのに。もうちょっとで砦に着くよ」
「駄目です!今はなんとか凌いでますが、万が一囲まれたりしたら…」
「そんな心配しなくてもいいと思うなー。怖がってるのはあっちなんだし」
「………?」
ヘンリーの言葉に同調出来ず、名前は二度首を傾げた。名前の反応に困ったように頬を掻くジェスチャーをしてみるも、相手の言葉無い質問にヘンリーはあのね、とようやく解答を口にした。
「彼等は自分のことでいっぱいいっぱいって感じじゃない?だから一緒になって殺してやるーって気迫は見えないなぁ」
「…それは…?」
「怖がってるみたいなんだよね。戦って殺されるんじゃなく、もっと別の何かにさ」
「……怖い…」
「戦いにしろ、何かにしろ、死ぬときは死んじゃうのにね」
「………」
ヘンリーの言葉に同意はしなかった。彼も自分の吐いた台詞を撤回こそしなかったが、一瞬ぶるりと震えてからにこりとお得意の笑顔に変わる。名前はその一瞬に安堵を覚えた。
とにかく前進は出来ないとヘンリーの手を掴み、来た道を引き返す。子供のように駄々をこねて見せたが全て無視した。
その間も名前はヘンリーの言葉を考える。確かに相対した裏切りの兵達は何処か挙動が慌ただしかった。集中力は欠き、折角の数の利にも関わらず団結して殲滅してくることも無い。それがヘンリーの言う「恐怖」の為なのかどうかは名前にはわからなかったが却ってそれは戦う余地を与えられたようでありがたかった。
砦にはクロムやルキナ達が取り残されている。中と外からの挟撃は苦戦を強いられているはずである。喉元を引き裂かれた男の死体をちらりと見、背筋を凍らせながらも名前は刀を持つ手に力を込めるのだった。
名前達は砦外で戦うフェリアの屈強な兵士たちと合流し、難はあったがその場を制圧した。遅れてくる物資運搬の係り達や後方部隊を招き入れていたところでようやく砦からヴァルムの国旗が取り外される。頑なな門が開くと急いで後軍は収容され、ヴァルムの追撃部隊から難を逃れるのだった。
一般兵達に混じって荷運びをしていた名前には相変わらずヘンリーが着いて回っていた。その理由は砦内に入った途端に判明する。
今にも泣き出しそうな声が彼を呼び、猛然としたスピードで迫ってきた女性がいたのだ。ヘンリーは顔色を一層輝かせて彼女を出迎える。
「ヘンリーさああんっ!!」
「オリヴィエー!怪我はないかい?心配したよー」
「は、はい!ヘンリーさんも無事で安心しましたぁ…!」
「あはは、僕は大丈夫だよー。砦に一番乗り出来て本当によかったぁ。ありがとうね、名前ー」
「あ……いえ」
呆気に取られていた名前の返事に、オリヴィエが顔色を変えた。どうやら青年の傍らの存在に気づかなかったらしく、慌てふためき真っ赤な顔のまましどろもどろな口調で無事を確認する。名前はそんなオリヴィエが可愛そうに思えて、とりあえず落ち着かせるために二人を追いやってやるのだった。
「どうやら彼、名前さんに着いていけばすぐに彼女に会えると思っていたようですわね」
「だね。通りで張り切ってたわけだ」
近くのリヒトとマリアベルの会話に耳を傾け、名前も同じ結論だったことから頷いてみた。オリヴィエが今回精鋭部隊の援護役に振り分けられていたことを、戦いから遠ざけられていた名前は知らなかったのだが、二人の挙動から間違いは無い。ヘンリーの日頃戦いを好む性格から、今回の戦いに臨んだと思っていた名前には、青年の顔色から想像も付かなかったことを反省する。
とはいえ、二人への冷やかしもそこそこに名前達は救護班を中心に怪我人の手当から始めた。それから物資の確認、武器の調達など、戦の後始末からすぐに此処を離れることが予想されていたので出立の準備が重なる。見事にごった返しの大騒動である。包帯と薬を抱えて処置する係りへ配り歩いていた最中、名前はフェリアの兵に呼び止められる。彼女は名前が瑣末な仕事に追われる様子に仰天してはいたが、従順なイーリス后を伴って主の元へ先導した。
待っていたのは勿論、フラヴィアである。すぐ側には西の王バジーリオとルキナの姿もあった。珍しい組み合わせに名前は首を左右に傾げる。
「お母様…!ご無事でよかった!」
「ルキナ…。怪我はない?」
「はい。私もお父様も大事ありません」
「そう……よかった…」
「親子の対面は十分かい?」
「あっ!これは失礼を致しました。…フラヴィア様、どうかなさいましたか?」
心配顔のルキナから視線を外し、身形を再度整えながら名前はフラヴィアに気を置く。彼女の機嫌を測るも、間髪入れずに剣を抜くフラヴィアに名前も困惑した。
「悪いね、バジーリオ。ちょっくら時間を頂くよ」
「…なにを…?」
「フラヴィアさん!?」
一足早く動いたフラヴィアに、ルキナが腰元のファルシオンを抜いた。ぼんやりと相対しようとする二人を見て、名前は息を呑む。構わず打ち込んできたフラヴィアの剣を跳ねようと神剣で素早く払い斬ったルキナだが、その剣は思わぬ者に止められる。
「おっと、ルキナ。邪魔しちゃいけねぇぜ」
「バジーリオさんっ!?くっ…!」
「危ない!」
ルキナは屈強な男手に阻まれ、もたつく間に間合いを詰めたフラヴィアの刃が迫る。名前もようやく腰元の刀を鞘から抜き放ち、彼女の重い剣戟を受けた。
「刃に血が残ってるよ。名前、ちゃんと得物は綺麗にしてやんないとすぐダメになるからね。気をつけな」
「くっ………フラヴィア様…一体なにを…」
「なぁに、ちょっとばかし稽古をつけてやろうと思ってね」
「それは…今、でなくても」
「今しかないのさ。あんたも準備運動くらいはしてきただろうに」
フラヴィアの様子では退いてはくれぬだろうと安易に予測出来た。名前は溜息を呑み込んで持ち慣れた刀を構え直す。
「お母様!」
「ルキナ。今は口を出すんじゃねぇ。黙って二人を見ておけ」
真剣を持ち出す二人を止めようともがくルキナに、制止をかけるバジーリオ。ルキナは男の指先が示す名前に気付き視線を向けた。彼女はようやく母の着物のわずかな血の汚れを見、青ざめる。名前の刀にも拭い切れなかった血痕が。この世界の母も剣を手に戦っていたのだと思い知らされたのだ。
「お母様…戦ってこられたのですか…?」
「そりゃあ毎日フェリア王に仕込まれてきたんだ、目の前の戦いに後込みなんかできねぇだろうよ」
「…っでも、お母様はお体が…!」
「だからこそフラヴィアに弟子入りしたりしたんだろ?大丈夫。母ちゃんってのはそんなに柔に出来てねぇよ。好んでフラヴィアの世話までヤキモキしてたんだからな」
「……」
心配顔のルキナの様子を盗み見つつ、名前はフラヴィアとの距離を徐々に離していた。彼女はギラギラとした強い視線で名前を逃してはくれない。幾度も手合いをした仲とはいえ、真剣での勝負はこれが初めてだった。それが厳しいフラヴィアなりの優しさだったと気づいてはいたが、普段の様相とは違った殺気が恐ろしかった。高圧的な狩猟者の雰囲気に負けぬよう、名前は己の気持ちを高めて向き合う。そうしてたどり着いた答えが一歩先に出るのは自分であるべきだと名前は思った。
一気に間合いを詰め、両の手でしっかりと握った柄の先の刃がフラヴィアの首を狙う。真正面から刀を力一杯に振り下ろす。フラヴィアはそれを片手の剣で受けた。強い衝動は身体の筋を通して地に受け流す。刀を払い、剣が相手の身体に通る隙間を縫うように振るった。切っ先が通らなかったのは名前が身体を横に反転させて、翻った刃で剣の腹を打ち付け軌道を狂わせたからだ。それでも強引に押し進んできたフェリアの女傑に耐えきれず鍔迫り合いの競合に。互いの視線に火花が散る。
一合、二合、三合と、激しい金属音の響き合いにいつの間にか周りにはフェリア兵のギャラリーが集まっていた。
フェリア東の王のさすがの戦いぶりに感嘆を漏らすものがいれば、虎に果敢に挑むイーリスの若后を応援する者も。あまりの声の張り合いに耐えかねたフラヴィアが一喝しても声は収まらなかった。
名前の方はそんなギャラリーの好奇の目も声も意識が通ってはいなかった。いかに目の前の強敵にあらがい勝つか。肩で息切る自分と周りをいなす相手の戦力差はずっと以前から分かり切っていた。そうこうしている間も気を抜く時間は与えられず、次々と浴びせかかる猛攻に受け流すことしか出来ず、ついには壁際まで押し込まれる形になった。
「名前!!」
「っ!」
フラヴィアの容赦のない剣戟に、咄嗟に横に転がった。地に伏せてまるで猫のようにするりと消えた名前にフラヴィアは初めて一瞬の困惑の色を見せる。名前はその隙を絶対に見逃さなかった。
フラヴィアに飛び込むように延びた間合いを詰め、刀を振り落とす。
一撃、二撃、三撃、四撃。流れるような所作での猛撃だった。フラヴィアは無理な体勢でそれを受けつつも最後の五撃目でついに彼女の鼻先に刀の切っ先が流れる。これに驚いたのは名前の方だ。刀が掠めた感触を手に伝わり、フラヴィアの顔から血が流れる姿に背筋が凍った。
だがそれも刹那のことだ。次の間には、名前の顔に剣が打つ。がつん、と殴られた衝動に名前はふらふらと千鳥足で後退し、激痛に耐えかねて座り込む。ぼとぼとと落ちる血の固まりが容赦なく服と床に流れた。名前が顔を覆った手は、真っ赤に染まっていた。周りも、その様子にまたも騒然となる。
「お母様!!」
殆ど悲鳴に近い声音のルキナが駆けつけてきて母の傷の具合を確かめる。名前は目に一杯の涙を溜めて辛苦の表情を浮かべていたものの、ルキナの姿を一見、無理矢理笑みを浮かべて曲がった鼻を押さえた。
「お母様…あぁ、こんなに血を…!」
「…だ…だいじょうぶ…これくらい、へーき…」
「全くあんたって子は。あそこで気を緩めなきゃ避けられたろうに」
「あっ…ふっふっ…フラヴィアさま、かおに、きず…っ」
「こんなの掠り傷もいいとこさ。それよりあんたの方だよ。悪かったね、ちょっと強く殴り過ぎた」
名前はふらふらと頭を揺らす。何か言葉を、と思案しても血の巡りが悪くなったのかぼうっと呆けてしまった。ふらふらと揺らす頭をルキナが懸命に支えてくる。
「とにかくこれで心残りは無くなった。さあ!戦支度を始めなきゃねぇ」
「…どういう…?」
「名前、しばらくお別れだ。アタシはヴァルハルトの軍にバジーリオと挑んでくる」
「えっ…!」
今までの締まりのない表情から一転、更に青白くなった名前の顔色に、フラヴィアは珍しくも苦笑いを向けた。同時にルキナが目を伏せ、名前の服にすがりつく。
「なに心配してんだ。アタシ達が負けるとでも思ってんのかい」
「ですが、未来では…!」
「その話はさっき済んだはずだろ?ルキナ」
「……っ」
「…フラヴィアさま…」
「あんたはもう大丈夫だよ。このアタシに一太刀つけた立派な猛者さ」
「しかも顔と来たもんだ。師匠譲りの対した命知らずだねぇ」
「ふふん。そりゃあこのアタシが直々に叩き込んだんだから当たり前だろ」
バジーリオのニヤニヤした顔にフラヴィアは笑い飛ばす。その会話は普段通りの様相だった。これから死地へむかう悲壮など微塵もない。不安を煽らないように配慮しているのか、それとも自ら深く考えないようにしているのかまではわからない。
「とにかく。甲斐性無しのイーリス妃なんて、自分からへりくだったりするんじゃないよ。胸張って戦いな」
「は……はい」
「そんじゃあ行くとするか」
「あぁ。楽しい戦いが待ってるよ」
二人は最後まで愉快そうな笑みのままその場を離れた。これ以上長引けば、後ろ髪引かれることは目に見えていた。
名前はその背が消えるまで見送った。霞む視界だからか普段の二人の頼もしい存在が薄れて見えた。
それからふと、目が合う人が一人。彼も目があったとわかって一層その表情が歪むところまで見てしまった。咄嗟に視線を外し、鼻から下の傷を両の手で隠す。今までどうというわけでもなかったのに、ふつふつと顔から火が沸いてきた。ルキナの細い身体に隠れるように寄り添うと、娘は母の変化におろおろと慌て始めた。具合が悪くなったと錯覚した為だ。
同時に。どいてどいて、という声と共にかしましい娘達が名前達に駆け寄った。リズとマリアベルである。
「名前さん大丈夫!?」
「血がドバドバ流れてますわね。鼻の栓が馬鹿になってしまったのでしょうか」
「顔も真っ赤っかだよ!早く手当しなくちゃ!」
「…お母様?」
二人の言葉に反応せず、耳まで真っ赤に染まった名前に三人は疑問符を頭に浮かべた。名前は目線を地にぴったり付け、動かない。
「頭クラクラでしんどいの?」
「…く、クロムさまに、こんななさけないかお、みられて…!」
「!」
か細い声に耳をピッタリとくっつけて会話を試みたリズがこれにいの一番に反応する。真っ赤になってうなだれ始める名前へ駆け寄ろうとしていた兄の姿を一見、すっ飛んでその身を防壁とした。同時に多すぎるギャラリー達に近くにいたらしいルフレと共に解散を申し伝える。クロムは納得しきれていないのかリズと口論を繰り広げ始めたが名前の耳には内容までは入ってこなかった。血が足りなくなって意識が朦朧とし始めたことも大きい。
そんな名前を抱き抱えるルキナに、可憐なハンカチを広げて名前の頭に巻きつけるマリアベル。とりわけマリアベルは今、自分とリズが天馬騎士の修行中だったことに歯噛みしていた。
「とにかく杖使いの方をお呼びしましょう。貴方のお鼻から血を止めなければ」
「で、でも、杖をつかうのは…もっとひどい、キズのひとが…そのうち、はなぢ、とまるし…」
「そんな!十分深い傷です、お母様」
「そうです。これ以降口答えは許しませんわよ。…えぇっと、今杖を使える方は…」
「はい。それは私ですね」
ツカツカと歩いてきたミリエルはライブの杖を持ち出して名前の側に膝を付いて座った。うなだれたままの名前に、彼女は自らのトレードマークたる帽子を被せる。
「み、ミリエルさん…」
「これなら周囲から見たとき、影がかかっているでしょう。さ、お気になさらず顔をあげてください」
淡泊な調子を崩すことはなかったが名前にはありがたい親切だった。ルキナから身を起こし、そっと顔から手を外す。すると相手の眼鏡の奥の目がきらりと光った。
「…鼻とはこんな風に曲がるものですか…どれほどの力が与えられたのか、非常に興味深い」
「興味深くても真似しちゃ駄目だよ、ミリエル」
ルフレと一緒に周囲の兵を蹴散らしていた役目を終えて駆けつけたソワレの言葉に、ミリエルは残念そうに眉を下げて彼女はようやく杖を掲げた。淡い治癒の光が降り注ぎ、名前はようやく息を吐いた。
「……鼻の形まで治りませんね」
「えっ」
「だいじょーぶ!ノノ、痛いの痛いの飛んでけーしたげるね!」
「とにかくゆっくり治療出来るところに移動しよう。ルキナ、力を貸してくれ」
「は、はい!」
「ノノも手伝う!」
手をあげて主張する幼子に、ソワレが名前の刀を鞘に納めて手渡した。両手でしっかり持ち直した嬉しげなノノの先導で移動を始める。ルキノとソワレの二人が脇を固めて立ち上がった名前は自分で歩くと主張するも、マリアベルの一喝が。
「今日の貴方はとても頑張りました。最後は私達の好意に素直に甘えなさい!」
「そうそう!まだゆっくり出来るのは難しいかもしれないけど、私達もいるんだから無理しちゃ駄目!」
リズとマリアベル二人の説教に名前は苦笑いだった。それから女子達に囲まれ、大きな帽子で狭くなった視界の中で、不意にクロムの姿を探してしまった。あまり鷹揚に動くことは出来なかった為にその姿を見つけられないまま、名前を連れて一団は動き出すのだった。
「僕は後方に残ろう。前方は名前君が付いてくれたまえ」
「わかりました」
「ならあたしも名前側に付くわ」
「うむ。ティアモ君はそれでいい。足のあるマリアベル君とリヒト君も彼女側に…あとは、」
「はいはーい!僕もそっちがいいなー」
「ヘンリー君。うむ、まぁ良いだろう」
「あーよかった。ありがとうねー僕がんばるよー」
手を挙げて珍しく意見を述べたのに他のメンバーは驚いていたが、当の本人は自分の意見が聞き入れられて満足そうに首をふらふら揺らしながら会議が終わるのを待ち始めた。
ヴィオールが咳払いをして残りの団員の振り分けを再開する。戦力のバランスを考えてテキパキとチームを振り分ける。こうして名前を擁する先見隊と、ヴィオール率いる後衛組に分かれることになった。
互いに武運を祈り合い、再開を信じて、二つの部隊は戦いに向かうのだった。
とにかく元解放軍とヴァルム兵によって閉じた経路をこじ開けることが最優先だった。このような修羅場を幾度もくぐり抜けてきたグレゴが先頭を歩く。その少し後ろに名前とティアモがいた。名前を下がらせようと必死になったティアモだったが、名前はそれを許さなかった。兵達に面と向かって演説した自分が後ろで守られる姿を見せていいわけがないと譲らなかった。
名前の頑固さをよく知るティアモは溜息を吐いたが無茶をしない約束を交わして、名前は刀を持って前線に出ることを許したのだ。久しぶりの実戦に緊張はあるが変に体が固いわけでも怯えているわけではない。それにイーリス后が率先して剣を取り、皆を守るために戦う姿は兵達を鼓舞し、士気を上げてくれた。これは焦燥感を払って統率の取れた動きが出来たのは、無意識にも勇気を払った名前への敬意の現れだとティアモは思う。そうなれば反対の理由が無い。ともかくルフレから頼まれていた目付役の効き目にならなかったことを心中詫びつつ、名前の背を守るべくティアモも愛槍を手にするのだった。
前方から威勢ある声が重なって現れた。飛び出してきた斧使いに動揺を見せず、前方のグレゴが振り下ろされた凶器を大剣でいなす。次々と現れる刺客にすぐに混戦状態と変わった。予想内の出来事だが、鬼気迫る勢いに気圧されつつも退くわけにはいかない。
名前も目の前に現れた剣士と打ち合った。激しい金属音が鳴り響くも、性別の差が徐々に開き始める。足底を擦りながら後退し、好機を狙うも機会が無い。
「名前!」
追い詰められた名前に気付き、急いで踵を返すティアモだが間に入った敵兵によって距離が縮まらない。
そのとき、名前の神経にぞわりとした何かが体に駆け上る。それは対した敵剣士も同じらしく名前から危険を感知したのか大きく距離を取った。だがそれでは足りない。同じく飛び退いたはずの兵士の影に重なっていた闇が彼を追いかけた。一瞬、動揺を見せた剣士は影から現れた黒い衝撃波に巻き込まれ血を吐いてよろめいた。その隙を名前は逃すわけにはいかず、咄嗟に剣を翻して大きく踏み込んだ。肉を斬り、骨を折る音が感触と共に手に伝わる。崩れ落ちた男の死体を置き去り、名前は刀を伝う血を払った。
「やったー!」
万歳をしながら駆け寄ってくる青年に名前は面食らう。
「大丈夫ー?怪我はないー?」
「あ…は、はい」
「ヘンリー。助かったわ、ありがとう」
ようやく駆けつけたティアモの労いにも顔色は明るいままにヘンリーは首を振って口角を上げた。
「じゃあ行こっか」
「え?」
「あとよろしくー」
がしっと名前の手を掴み、ティアモには空いた手を振り振り、ヘンリーは名前を引きずるように駆けだした。
「ちょっと!?」
「へ、ヘンリーさん!」
「どんどん進むぞー!」
ティアモの制止を無視する形でヘンリーと二人で戦場を駆ける。ぎょっとする仲間たちを置き去りに、名前も声を上げてヘンリーを止めるが足は一向に立ち止まらない。
「ヘンリーさん!?」
「あっ」
ヘンリーの踏み出す先に矢が刺さる。急な停止にどんと体をぶつけながら名前は冷や汗を流す。こんな時にも青年は笑みを浮かべていたのだ。
前方では大きな弓を掲げた兵が第二矢を構えている。息荒く、集中力が欠けているのか何処かその視線には焦りがあった。狙いを定めることも無く、矢は勢いよく放たれた。
飛んできた矢はヘンリーの横をひゅんと過ぎ去る。それは木々の腹もとに突き刺さった。弓兵が矢の哀れな運命に歯噛みしている間に、青年魔道士は得意の魔道を発動させた。黒い書から沸き起こる濃い影がそっと弓兵を囲み、逃げまどう標的を咀嚼する。影が散布した後には息乱れた弓兵が血を吐きながらもまた矢をつがえようと矢筒に手を伸ばす。だが、それよりも早く動き出していた女剣士がそれを阻んだ。弓兵の首元へ正確に刃をなぞり、ぱっくりと割れた皮膚から大量の血が溢れ出した。
白黒と変えていた瞳から生気が抜け出たことを確認し、名前は刀を血を払いつつヘンリーの傍らへ。怒り顔で迫ってみたもののあまり効力は無かった。
「飛び出しすぎです!…一旦退いて、足並みをみんなと揃えないと……」
「えーせっかく此処まで来たのに。もうちょっとで砦に着くよ」
「駄目です!今はなんとか凌いでますが、万が一囲まれたりしたら…」
「そんな心配しなくてもいいと思うなー。怖がってるのはあっちなんだし」
「………?」
ヘンリーの言葉に同調出来ず、名前は二度首を傾げた。名前の反応に困ったように頬を掻くジェスチャーをしてみるも、相手の言葉無い質問にヘンリーはあのね、とようやく解答を口にした。
「彼等は自分のことでいっぱいいっぱいって感じじゃない?だから一緒になって殺してやるーって気迫は見えないなぁ」
「…それは…?」
「怖がってるみたいなんだよね。戦って殺されるんじゃなく、もっと別の何かにさ」
「……怖い…」
「戦いにしろ、何かにしろ、死ぬときは死んじゃうのにね」
「………」
ヘンリーの言葉に同意はしなかった。彼も自分の吐いた台詞を撤回こそしなかったが、一瞬ぶるりと震えてからにこりとお得意の笑顔に変わる。名前はその一瞬に安堵を覚えた。
とにかく前進は出来ないとヘンリーの手を掴み、来た道を引き返す。子供のように駄々をこねて見せたが全て無視した。
その間も名前はヘンリーの言葉を考える。確かに相対した裏切りの兵達は何処か挙動が慌ただしかった。集中力は欠き、折角の数の利にも関わらず団結して殲滅してくることも無い。それがヘンリーの言う「恐怖」の為なのかどうかは名前にはわからなかったが却ってそれは戦う余地を与えられたようでありがたかった。
砦にはクロムやルキナ達が取り残されている。中と外からの挟撃は苦戦を強いられているはずである。喉元を引き裂かれた男の死体をちらりと見、背筋を凍らせながらも名前は刀を持つ手に力を込めるのだった。
名前達は砦外で戦うフェリアの屈強な兵士たちと合流し、難はあったがその場を制圧した。遅れてくる物資運搬の係り達や後方部隊を招き入れていたところでようやく砦からヴァルムの国旗が取り外される。頑なな門が開くと急いで後軍は収容され、ヴァルムの追撃部隊から難を逃れるのだった。
一般兵達に混じって荷運びをしていた名前には相変わらずヘンリーが着いて回っていた。その理由は砦内に入った途端に判明する。
今にも泣き出しそうな声が彼を呼び、猛然としたスピードで迫ってきた女性がいたのだ。ヘンリーは顔色を一層輝かせて彼女を出迎える。
「ヘンリーさああんっ!!」
「オリヴィエー!怪我はないかい?心配したよー」
「は、はい!ヘンリーさんも無事で安心しましたぁ…!」
「あはは、僕は大丈夫だよー。砦に一番乗り出来て本当によかったぁ。ありがとうね、名前ー」
「あ……いえ」
呆気に取られていた名前の返事に、オリヴィエが顔色を変えた。どうやら青年の傍らの存在に気づかなかったらしく、慌てふためき真っ赤な顔のまましどろもどろな口調で無事を確認する。名前はそんなオリヴィエが可愛そうに思えて、とりあえず落ち着かせるために二人を追いやってやるのだった。
「どうやら彼、名前さんに着いていけばすぐに彼女に会えると思っていたようですわね」
「だね。通りで張り切ってたわけだ」
近くのリヒトとマリアベルの会話に耳を傾け、名前も同じ結論だったことから頷いてみた。オリヴィエが今回精鋭部隊の援護役に振り分けられていたことを、戦いから遠ざけられていた名前は知らなかったのだが、二人の挙動から間違いは無い。ヘンリーの日頃戦いを好む性格から、今回の戦いに臨んだと思っていた名前には、青年の顔色から想像も付かなかったことを反省する。
とはいえ、二人への冷やかしもそこそこに名前達は救護班を中心に怪我人の手当から始めた。それから物資の確認、武器の調達など、戦の後始末からすぐに此処を離れることが予想されていたので出立の準備が重なる。見事にごった返しの大騒動である。包帯と薬を抱えて処置する係りへ配り歩いていた最中、名前はフェリアの兵に呼び止められる。彼女は名前が瑣末な仕事に追われる様子に仰天してはいたが、従順なイーリス后を伴って主の元へ先導した。
待っていたのは勿論、フラヴィアである。すぐ側には西の王バジーリオとルキナの姿もあった。珍しい組み合わせに名前は首を左右に傾げる。
「お母様…!ご無事でよかった!」
「ルキナ…。怪我はない?」
「はい。私もお父様も大事ありません」
「そう……よかった…」
「親子の対面は十分かい?」
「あっ!これは失礼を致しました。…フラヴィア様、どうかなさいましたか?」
心配顔のルキナから視線を外し、身形を再度整えながら名前はフラヴィアに気を置く。彼女の機嫌を測るも、間髪入れずに剣を抜くフラヴィアに名前も困惑した。
「悪いね、バジーリオ。ちょっくら時間を頂くよ」
「…なにを…?」
「フラヴィアさん!?」
一足早く動いたフラヴィアに、ルキナが腰元のファルシオンを抜いた。ぼんやりと相対しようとする二人を見て、名前は息を呑む。構わず打ち込んできたフラヴィアの剣を跳ねようと神剣で素早く払い斬ったルキナだが、その剣は思わぬ者に止められる。
「おっと、ルキナ。邪魔しちゃいけねぇぜ」
「バジーリオさんっ!?くっ…!」
「危ない!」
ルキナは屈強な男手に阻まれ、もたつく間に間合いを詰めたフラヴィアの刃が迫る。名前もようやく腰元の刀を鞘から抜き放ち、彼女の重い剣戟を受けた。
「刃に血が残ってるよ。名前、ちゃんと得物は綺麗にしてやんないとすぐダメになるからね。気をつけな」
「くっ………フラヴィア様…一体なにを…」
「なぁに、ちょっとばかし稽古をつけてやろうと思ってね」
「それは…今、でなくても」
「今しかないのさ。あんたも準備運動くらいはしてきただろうに」
フラヴィアの様子では退いてはくれぬだろうと安易に予測出来た。名前は溜息を呑み込んで持ち慣れた刀を構え直す。
「お母様!」
「ルキナ。今は口を出すんじゃねぇ。黙って二人を見ておけ」
真剣を持ち出す二人を止めようともがくルキナに、制止をかけるバジーリオ。ルキナは男の指先が示す名前に気付き視線を向けた。彼女はようやく母の着物のわずかな血の汚れを見、青ざめる。名前の刀にも拭い切れなかった血痕が。この世界の母も剣を手に戦っていたのだと思い知らされたのだ。
「お母様…戦ってこられたのですか…?」
「そりゃあ毎日フェリア王に仕込まれてきたんだ、目の前の戦いに後込みなんかできねぇだろうよ」
「…っでも、お母様はお体が…!」
「だからこそフラヴィアに弟子入りしたりしたんだろ?大丈夫。母ちゃんってのはそんなに柔に出来てねぇよ。好んでフラヴィアの世話までヤキモキしてたんだからな」
「……」
心配顔のルキナの様子を盗み見つつ、名前はフラヴィアとの距離を徐々に離していた。彼女はギラギラとした強い視線で名前を逃してはくれない。幾度も手合いをした仲とはいえ、真剣での勝負はこれが初めてだった。それが厳しいフラヴィアなりの優しさだったと気づいてはいたが、普段の様相とは違った殺気が恐ろしかった。高圧的な狩猟者の雰囲気に負けぬよう、名前は己の気持ちを高めて向き合う。そうしてたどり着いた答えが一歩先に出るのは自分であるべきだと名前は思った。
一気に間合いを詰め、両の手でしっかりと握った柄の先の刃がフラヴィアの首を狙う。真正面から刀を力一杯に振り下ろす。フラヴィアはそれを片手の剣で受けた。強い衝動は身体の筋を通して地に受け流す。刀を払い、剣が相手の身体に通る隙間を縫うように振るった。切っ先が通らなかったのは名前が身体を横に反転させて、翻った刃で剣の腹を打ち付け軌道を狂わせたからだ。それでも強引に押し進んできたフェリアの女傑に耐えきれず鍔迫り合いの競合に。互いの視線に火花が散る。
一合、二合、三合と、激しい金属音の響き合いにいつの間にか周りにはフェリア兵のギャラリーが集まっていた。
フェリア東の王のさすがの戦いぶりに感嘆を漏らすものがいれば、虎に果敢に挑むイーリスの若后を応援する者も。あまりの声の張り合いに耐えかねたフラヴィアが一喝しても声は収まらなかった。
名前の方はそんなギャラリーの好奇の目も声も意識が通ってはいなかった。いかに目の前の強敵にあらがい勝つか。肩で息切る自分と周りをいなす相手の戦力差はずっと以前から分かり切っていた。そうこうしている間も気を抜く時間は与えられず、次々と浴びせかかる猛攻に受け流すことしか出来ず、ついには壁際まで押し込まれる形になった。
「名前!!」
「っ!」
フラヴィアの容赦のない剣戟に、咄嗟に横に転がった。地に伏せてまるで猫のようにするりと消えた名前にフラヴィアは初めて一瞬の困惑の色を見せる。名前はその隙を絶対に見逃さなかった。
フラヴィアに飛び込むように延びた間合いを詰め、刀を振り落とす。
一撃、二撃、三撃、四撃。流れるような所作での猛撃だった。フラヴィアは無理な体勢でそれを受けつつも最後の五撃目でついに彼女の鼻先に刀の切っ先が流れる。これに驚いたのは名前の方だ。刀が掠めた感触を手に伝わり、フラヴィアの顔から血が流れる姿に背筋が凍った。
だがそれも刹那のことだ。次の間には、名前の顔に剣が打つ。がつん、と殴られた衝動に名前はふらふらと千鳥足で後退し、激痛に耐えかねて座り込む。ぼとぼとと落ちる血の固まりが容赦なく服と床に流れた。名前が顔を覆った手は、真っ赤に染まっていた。周りも、その様子にまたも騒然となる。
「お母様!!」
殆ど悲鳴に近い声音のルキナが駆けつけてきて母の傷の具合を確かめる。名前は目に一杯の涙を溜めて辛苦の表情を浮かべていたものの、ルキナの姿を一見、無理矢理笑みを浮かべて曲がった鼻を押さえた。
「お母様…あぁ、こんなに血を…!」
「…だ…だいじょうぶ…これくらい、へーき…」
「全くあんたって子は。あそこで気を緩めなきゃ避けられたろうに」
「あっ…ふっふっ…フラヴィアさま、かおに、きず…っ」
「こんなの掠り傷もいいとこさ。それよりあんたの方だよ。悪かったね、ちょっと強く殴り過ぎた」
名前はふらふらと頭を揺らす。何か言葉を、と思案しても血の巡りが悪くなったのかぼうっと呆けてしまった。ふらふらと揺らす頭をルキナが懸命に支えてくる。
「とにかくこれで心残りは無くなった。さあ!戦支度を始めなきゃねぇ」
「…どういう…?」
「名前、しばらくお別れだ。アタシはヴァルハルトの軍にバジーリオと挑んでくる」
「えっ…!」
今までの締まりのない表情から一転、更に青白くなった名前の顔色に、フラヴィアは珍しくも苦笑いを向けた。同時にルキナが目を伏せ、名前の服にすがりつく。
「なに心配してんだ。アタシ達が負けるとでも思ってんのかい」
「ですが、未来では…!」
「その話はさっき済んだはずだろ?ルキナ」
「……っ」
「…フラヴィアさま…」
「あんたはもう大丈夫だよ。このアタシに一太刀つけた立派な猛者さ」
「しかも顔と来たもんだ。師匠譲りの対した命知らずだねぇ」
「ふふん。そりゃあこのアタシが直々に叩き込んだんだから当たり前だろ」
バジーリオのニヤニヤした顔にフラヴィアは笑い飛ばす。その会話は普段通りの様相だった。これから死地へむかう悲壮など微塵もない。不安を煽らないように配慮しているのか、それとも自ら深く考えないようにしているのかまではわからない。
「とにかく。甲斐性無しのイーリス妃なんて、自分からへりくだったりするんじゃないよ。胸張って戦いな」
「は……はい」
「そんじゃあ行くとするか」
「あぁ。楽しい戦いが待ってるよ」
二人は最後まで愉快そうな笑みのままその場を離れた。これ以上長引けば、後ろ髪引かれることは目に見えていた。
名前はその背が消えるまで見送った。霞む視界だからか普段の二人の頼もしい存在が薄れて見えた。
それからふと、目が合う人が一人。彼も目があったとわかって一層その表情が歪むところまで見てしまった。咄嗟に視線を外し、鼻から下の傷を両の手で隠す。今までどうというわけでもなかったのに、ふつふつと顔から火が沸いてきた。ルキナの細い身体に隠れるように寄り添うと、娘は母の変化におろおろと慌て始めた。具合が悪くなったと錯覚した為だ。
同時に。どいてどいて、という声と共にかしましい娘達が名前達に駆け寄った。リズとマリアベルである。
「名前さん大丈夫!?」
「血がドバドバ流れてますわね。鼻の栓が馬鹿になってしまったのでしょうか」
「顔も真っ赤っかだよ!早く手当しなくちゃ!」
「…お母様?」
二人の言葉に反応せず、耳まで真っ赤に染まった名前に三人は疑問符を頭に浮かべた。名前は目線を地にぴったり付け、動かない。
「頭クラクラでしんどいの?」
「…く、クロムさまに、こんななさけないかお、みられて…!」
「!」
か細い声に耳をピッタリとくっつけて会話を試みたリズがこれにいの一番に反応する。真っ赤になってうなだれ始める名前へ駆け寄ろうとしていた兄の姿を一見、すっ飛んでその身を防壁とした。同時に多すぎるギャラリー達に近くにいたらしいルフレと共に解散を申し伝える。クロムは納得しきれていないのかリズと口論を繰り広げ始めたが名前の耳には内容までは入ってこなかった。血が足りなくなって意識が朦朧とし始めたことも大きい。
そんな名前を抱き抱えるルキナに、可憐なハンカチを広げて名前の頭に巻きつけるマリアベル。とりわけマリアベルは今、自分とリズが天馬騎士の修行中だったことに歯噛みしていた。
「とにかく杖使いの方をお呼びしましょう。貴方のお鼻から血を止めなければ」
「で、でも、杖をつかうのは…もっとひどい、キズのひとが…そのうち、はなぢ、とまるし…」
「そんな!十分深い傷です、お母様」
「そうです。これ以降口答えは許しませんわよ。…えぇっと、今杖を使える方は…」
「はい。それは私ですね」
ツカツカと歩いてきたミリエルはライブの杖を持ち出して名前の側に膝を付いて座った。うなだれたままの名前に、彼女は自らのトレードマークたる帽子を被せる。
「み、ミリエルさん…」
「これなら周囲から見たとき、影がかかっているでしょう。さ、お気になさらず顔をあげてください」
淡泊な調子を崩すことはなかったが名前にはありがたい親切だった。ルキナから身を起こし、そっと顔から手を外す。すると相手の眼鏡の奥の目がきらりと光った。
「…鼻とはこんな風に曲がるものですか…どれほどの力が与えられたのか、非常に興味深い」
「興味深くても真似しちゃ駄目だよ、ミリエル」
ルフレと一緒に周囲の兵を蹴散らしていた役目を終えて駆けつけたソワレの言葉に、ミリエルは残念そうに眉を下げて彼女はようやく杖を掲げた。淡い治癒の光が降り注ぎ、名前はようやく息を吐いた。
「……鼻の形まで治りませんね」
「えっ」
「だいじょーぶ!ノノ、痛いの痛いの飛んでけーしたげるね!」
「とにかくゆっくり治療出来るところに移動しよう。ルキナ、力を貸してくれ」
「は、はい!」
「ノノも手伝う!」
手をあげて主張する幼子に、ソワレが名前の刀を鞘に納めて手渡した。両手でしっかり持ち直した嬉しげなノノの先導で移動を始める。ルキノとソワレの二人が脇を固めて立ち上がった名前は自分で歩くと主張するも、マリアベルの一喝が。
「今日の貴方はとても頑張りました。最後は私達の好意に素直に甘えなさい!」
「そうそう!まだゆっくり出来るのは難しいかもしれないけど、私達もいるんだから無理しちゃ駄目!」
リズとマリアベル二人の説教に名前は苦笑いだった。それから女子達に囲まれ、大きな帽子で狭くなった視界の中で、不意にクロムの姿を探してしまった。あまり鷹揚に動くことは出来なかった為にその姿を見つけられないまま、名前を連れて一団は動き出すのだった。