#12.今は二人を信じてあげて
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ヴァルム大陸上陸の日。西方の土地に佇む灯台を頼りにイーリス・フェリアの二国船団はようやく戦いの地へと赴く。到着したヴァルムの港町では戦団が待ちかまえているという予想を外れ、街は騒ぎを起こしていた。クロム達より先に戦いを始めた人物がこの街で抵抗しているのだと情報が入る。斥候の情報では女剣士が一人、ヴァルム兵に追われ逃げているという話だ。
女剣士の救助。また拠点地確保の為にクロムは精鋭部隊を率いて戦いに臨む。港街を占拠する部隊と砂浜から進行する部隊に挟まれ、地の利がないクロム達だったが、救助した女剣士の活躍とヴァルム軍の抱える優越感に付け込む形で撃退に成功する。戦いが収束した後、解放された港町の住人はイーリス同盟軍に友好的に接した。物資の補給は勿論、ヴァルム大陸に関する情報を提供してくれた。
こうしてイーリス・フェリア同盟軍は西大陸と繋ぐ安全な補給路を確保することに成功したのだった。
フレデリクに連れられ、イーリスの大天幕に久しぶりに足を運んだ名前を待っていたのは夫クロムは勿論、彼の片腕であるルフレに義妹リズ、そしてもう一人、見覚えのない女性が在った。
名前がフレデリクに目を向けると彼は心を読んだかの様に耳打ちしてくれた。
「ヴァルム解放軍の主将、サイリ殿です」
その説明に何故自分が呼び出されたのか、名前はようやく合点がいく。足を遠退いていたイーリス側の天幕に緊張しかもてなかった名前の心に安堵の色が広がる。ただの顔合わせに呼び出されたのだ。
クロムの咳払いが聞こえたのはそれからすぐだ。
「俺の妻の名前だ」
「名前と申します。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。サイリと申す」
名前がサイリの前でいつものように腰を折った後、ふと彼女を見やると、彼女もまた同じように頭を下げ終えたばかりであり、二人は目があう。名前はぎこちなく微笑んだが、サイリは表情が強ばる。じっと見やる彼女の目線に、名前は頬を染めた。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでも」
ルフレの言葉に気づいて、サイリは表情を緩める。
またもクロムの咳払いが間を切る。言葉をあげたのはルフレだ。
「今日はサイリを招いてみんなで食事を取ろうと思う。名前も是非参加してほしい」
えっ、と声を上げた名前は慌てた。最近食事はフラヴィアと共に過ごしてきた手前、まずは彼女の了承が名前には必要だった。
一瞬慌てた名前にさらに耳打ちがあった。勿論フレデリクである。
「フラヴィア様には既にお話を通しましたのでご安心を」
「あっよかった…ありがとうございます」
フレデリクはにっこりと笑う。その笑みを見た途端に何か腑に落ちない気持ちがわき起こるも名前は何も言わずに笑い返すしかなかった。
クロムの隣に座らされた名前の前には前菜が置かれた。美しく磨かれた銀食器の位置を目で確認し、緊張は高まる。胃の動きが縮まる気がした。フェリア軍で振る舞われた料理と言えば大皿を取り分ける所謂バイキング形式で、好きなものを好きなだけ食べるといったものだ。そこに料理を食す上でのマナーやら何やらは少ない。フラヴィア自身も細かい作法を苦手にしていたし、何より酒好きな彼女だ。酌をし、食べさせてしまえば容易い。
「食欲が無いか?」
「う、ううん」
心配そうな声音に慌てて名前は曖昧に笑い返した。主役の手前、いつものように誰かに食べてもらうわけにはいかない。
料理を肴にヴァルム大陸を巡る情勢について語り合う三人に、リズと二人取り残される形になる。あまりにも固い話題について行きづらい。ドニはこうなることを考えて欠席を、またルキナに至っては申し訳なさそうに遠慮するといって今回は見送ったそうだ。リズと顔を見合わせながら、自分も勇気を持って断るべきだったかと後悔の念が浮かぶ。香ばしい匂いを放つムニエルの切り分けに悪戦苦闘しつつ名前は溜息を押し殺すのだった。
「名前さん、よろしければいつもの食器をお持ちしましょうか?」
「えっ…えっと、構いませんか?」
「はい、すぐにご用意します」
フレデリクの言葉にチラ、と周りを見回すと自分の様子に歯牙にかけぬだろうと考える。ナイフとフォークを丁寧に置きつつ、フレデリクに手渡された箸を受け取る。騎士に礼を述べると彼は微笑んでから残りの銀食器を引き取ってから後ろにさがった。名前は器に手を添えて身を切り分けて後、一口大の魚を口に納めた。ようやく安心して食事が出来る気がした。
「いつ見ても器用だよね」
「慣れたら簡単ですよ」
「うん、密かに練習してるんだぁ。料理の時に便利そうだし!」
名前からして見ればナイフとフォークで綺麗に食すリズの方が器用に思える。長い習慣というものは体に染み込んでいるもので慣れてはきたものの、未だに抵抗感を拭えない。
「…時に奥方殿」
「えっ」
声がかかるとは思わなかった名前は箸を持ったままさっと手元をテーブルの下に隠した。指摘されたのかと無意識だったとは言え、この手の癖の悪さには名前は閉口する。
サイリに誤魔化すように笑って見ると、彼女は予想外にも目を爛々と輝かせた。
「奥方殿はもしや、ソンシンの生まれか、血縁者がおられるのですか?」
「え…、え?」
「ソンシンはヴァルム大陸に存在する国の一つだよ。サイリはそのソンシンを統治する一族の一人なんだ」
ルフレの説明を聞いても名前は納得が出来ずにいた。何故そんな質問を自分に投げかけるのか、その意図が掴めない。
「ごめんなさい…お恥ずかしい話ですがソンシンという国を今、初めて聞きました」
「…そうでしたか。私はてっきり同郷の方かと…いえ、知らぬのも無理はありません。我らの国は元より閉鎖的で外部との接触は最低限しか、」
「何故名前がソンシン生まれだと?」
サイリの言葉を途中で切るようにクロムが問う。名前も同じく頷いて疑問を表した。サイリはそんな夫婦を不思議そうに見比べながら言葉を紡ぐ。
「今…奥方が手に取られているのは箸ではありませんか?」
「!」
「我が故郷でも広く愛用されています。…西大陸では、このきらびやかな食器が主流なのかと思ったのですが」
「お箸…知ってるんですか?」
サイリはきょとんとした顔を一瞬して、それから微笑む。
「故郷を離れて久しいが、…奥方殿と話しているとソンシンにいた頃を思い出します。慣れたと思って気にせぬようにいたのですが、食器を持たずに食すのは…些か難しいですな」
「お、お茶碗!」
「!…えぇ」
「こうもって、こう…こう食べる?」
「はい。あとはお漬け物とお味噌汁があれば何も言うことはありませんね」
名前のジェスチャーにサイリも同じように表情を綻ばせた。彼女も同じように見えぬ箸と茶碗を持つ仕草を真似た。名前の感嘆のため息が漏れたのはそれからすぐだ。懐かしい空気を吸っている気がして心を表すように頬が紅潮する。
「不思議な話だ。本当に奥方殿はソンシンをご存じではないのか?」
「は、はい、はい!…知らないけれど…知ってる…同じ、同じです!」
「名前、落ち着いて」
「!…す、すみません」
「謝らなくていいよ!むしろ、これは落ち着いてられないよ!」
「これは…どういう?」
「彼女に理由を話そう。いいかな、クロム」
「……名前?」
「構いません。私は…大丈夫です」
迷い無く決断した名前の言葉にルフレはもう一度クロムを見やる。クロムの方が多少間を作る形になったが無言で頷いて了承する。
ルフレの説明は端的で短いものだった。突拍子の無い話にも関わらずサイリは驚く様を大きく見せなかった。間違いなく動揺はあったのだが、特別騒ぎ立てることもなく。話が終わった後も冗談の類として受け流すこともせず、サイリは名前を顧みた。名前も彼女がもう一度振り返るとわかって真っ直ぐに視線を向ける。
「……少し、待っていただけぬか?」
「え?」
サイリはフレデリクに二言三言話しかけると彼を引き連れて出て行った。残された四人のうち、二人はあっけに取られてそんな二人を見送っていたが、サイリを待つ名前は不意に夫に手を取られ、そちらに目を向けて唇を噛んだ。掴まれた手が無意識に震えていたのだ。
「大丈夫か?」
「う、うん…ご、ごめんなさい。大事な話、してたのに…私、はしゃいで」
クロムは何も言わなかった。その代わりに口角をあげて笑み、触れていた手を力強く握る。名前は胸の内がやがてじわじわと熱を帯びていくような気がした。久しぶりに味わう感覚だった。笑って返したかったのに、いつものように上手く表情を作れずに顔が強ばり、誤魔化すように夫の手を握り返す。視線を下に向けて俯きながら。
それでもクロムは何も言わなかった。
ほんの数十分が経って、サイリは戻ってきた。芳しい匂いが先立ち、名前はそわそわとし出した矢先のことだった。サイリの手には人数分の木造りの器とそれを乗せた盆がある。良い匂いだね、とリズが一声かけるとサイリは自慢げに頷いた。この鼻につく独特の香りには名前も覚えがある。思わず空を嗅ぎ続けてしまう。
暖かで、懐かしい匂いだった。
「それ、お味噌汁!」
「はい。味噌を物資で持ってきてよかった。本当は白米とかぶ漬けも用意したかったのですが、さすがに米を炊く時間が無く…お口に合えばいいのだが」
名前の前に置かれた男の拳ほどの汁椀。湯気立つ鮮やかな茶色のスープに浮かんでいるのは半透明の玉葱である。具は有り合わせだとサイリは言うが、名前にはあまり関係なかった。
名前はいそいそと箸を握り直し、合掌した。
「いただきます」
汁碗をそっと持ち、もう一度よく匂いを堪能する。それだけで涙腺が緩んでいくような気がしたが、それどころではなかった名前は汁湾に口を付けて口内に流し込んだ。
サイリ以外の皆が固唾を飲んで見守っている。
ふぁ、と始まった長いため息の後、名前はもごもごと口許を動かす。
「名前さん…?泣いてるの?」
表情が崩れるのが止められない。背が丸まり体が震え、瞬く度に少量の滴が頬を流れる。喉元が引き絞って狭くなる。その奥の胃が驚きで跳ね上がった。そこに苦しみは無く、胃から体の隅々まで流れていく暖かな熱が、名前の顔に苦悶を象っていく。それでも目の前の腕を手放すことなく落ち着きそうになったら口に運び続けた。時折箸でかき込むように具を運び咀嚼する。咳が邪魔をするのも気にとめず。
声もなく泣き続け、食べ続ける名前にリズは心配になって兄を見た。声をかけるべきかと図って、しかし彼女にしては珍しく声が出なかった。妻を見るクロムは停止したように動かない。愕然としている様に不安に駆られ、リズは第二にフレデリクに助けを求め、それからルフレに視線を移す。しかし二人も間が持てずにいた。
そうこうしている内に、名前はひっくり返りそうな呼吸を繰り返しながら空の椀をそっと戻した。びくりびくりと肩を跳ね、涙で濡れた目元を擦った。
久しぶりに味わう深い出汁に溶けた味噌は絶品だった。味覚は時と共に忘れ去られることもなく、むしろきっちりと覚えていた。間違いなく故郷を彷彿とさせる味と匂い。安寧と切望を沸く一品だった。
もう二度と味わうことのないと覚悟していたものだった。
「ごちそうさまです」
「いえ、お粗末でした」
「本当に…本当に美味しかった」
「それはよかった。急ごしらえだが作った甲斐があったというもの」
「サイリさん、私…貴方のことやソンシンのこと、もっと知りたい!」
「是非に。私も奥方殿の国に興味がある」
「はい!」
名前は笑った。作り物ではなく、晴れやかな表情で元気よく頷いた。柔らかな頬を紅潮させにこにこと笑みながら。
一方で。
名前の晴れやかな態度とは裏腹に、ルフレはリズと目配せし合った。名前の見たことのない嬉しそうな仕草に同調してしまいたいのだが、そうも出来ないでいた。
クロムの様子がおかしい。二人の口を閉じさせたのは彼の停止した態度にある。名前の明るい様子に見覚えがないのは一番近しい関係のはずのクロムにも該当していたのだろう。
名前はいつものように、自分のことで精一杯。サイリのような同郷に近い女性に出会えた喜びで一杯なのだ。夫を顧みる暇が無い。
(まずいんじゃないか…これ)
サイリの持つ武人気質で独特な雰囲気から、軍内での孤立を密かに危惧していたルフレにとっては今回の出来事は良いものだと言える。元々はそんな彼女の緊張を少しでも解す為の会なのだから。だがこの食事会がギクシャクした夫婦間の取り持ちも兼ねてしまったことを今更になって後悔していた。
久しぶりに妻との食事を楽しみにしていた友の姿が脳裏に過ぎる。その落胆ぶりもルフレには手に取るように汲み取れた。そして、彼の気落ちは、今回に限って決して自分には打ち明けてはこないだろうとも。
二人の間に刻まれる溝が更に深まっていることを、当事者はまだ知らない。
女剣士の救助。また拠点地確保の為にクロムは精鋭部隊を率いて戦いに臨む。港街を占拠する部隊と砂浜から進行する部隊に挟まれ、地の利がないクロム達だったが、救助した女剣士の活躍とヴァルム軍の抱える優越感に付け込む形で撃退に成功する。戦いが収束した後、解放された港町の住人はイーリス同盟軍に友好的に接した。物資の補給は勿論、ヴァルム大陸に関する情報を提供してくれた。
こうしてイーリス・フェリア同盟軍は西大陸と繋ぐ安全な補給路を確保することに成功したのだった。
フレデリクに連れられ、イーリスの大天幕に久しぶりに足を運んだ名前を待っていたのは夫クロムは勿論、彼の片腕であるルフレに義妹リズ、そしてもう一人、見覚えのない女性が在った。
名前がフレデリクに目を向けると彼は心を読んだかの様に耳打ちしてくれた。
「ヴァルム解放軍の主将、サイリ殿です」
その説明に何故自分が呼び出されたのか、名前はようやく合点がいく。足を遠退いていたイーリス側の天幕に緊張しかもてなかった名前の心に安堵の色が広がる。ただの顔合わせに呼び出されたのだ。
クロムの咳払いが聞こえたのはそれからすぐだ。
「俺の妻の名前だ」
「名前と申します。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。サイリと申す」
名前がサイリの前でいつものように腰を折った後、ふと彼女を見やると、彼女もまた同じように頭を下げ終えたばかりであり、二人は目があう。名前はぎこちなく微笑んだが、サイリは表情が強ばる。じっと見やる彼女の目線に、名前は頬を染めた。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでも」
ルフレの言葉に気づいて、サイリは表情を緩める。
またもクロムの咳払いが間を切る。言葉をあげたのはルフレだ。
「今日はサイリを招いてみんなで食事を取ろうと思う。名前も是非参加してほしい」
えっ、と声を上げた名前は慌てた。最近食事はフラヴィアと共に過ごしてきた手前、まずは彼女の了承が名前には必要だった。
一瞬慌てた名前にさらに耳打ちがあった。勿論フレデリクである。
「フラヴィア様には既にお話を通しましたのでご安心を」
「あっよかった…ありがとうございます」
フレデリクはにっこりと笑う。その笑みを見た途端に何か腑に落ちない気持ちがわき起こるも名前は何も言わずに笑い返すしかなかった。
クロムの隣に座らされた名前の前には前菜が置かれた。美しく磨かれた銀食器の位置を目で確認し、緊張は高まる。胃の動きが縮まる気がした。フェリア軍で振る舞われた料理と言えば大皿を取り分ける所謂バイキング形式で、好きなものを好きなだけ食べるといったものだ。そこに料理を食す上でのマナーやら何やらは少ない。フラヴィア自身も細かい作法を苦手にしていたし、何より酒好きな彼女だ。酌をし、食べさせてしまえば容易い。
「食欲が無いか?」
「う、ううん」
心配そうな声音に慌てて名前は曖昧に笑い返した。主役の手前、いつものように誰かに食べてもらうわけにはいかない。
料理を肴にヴァルム大陸を巡る情勢について語り合う三人に、リズと二人取り残される形になる。あまりにも固い話題について行きづらい。ドニはこうなることを考えて欠席を、またルキナに至っては申し訳なさそうに遠慮するといって今回は見送ったそうだ。リズと顔を見合わせながら、自分も勇気を持って断るべきだったかと後悔の念が浮かぶ。香ばしい匂いを放つムニエルの切り分けに悪戦苦闘しつつ名前は溜息を押し殺すのだった。
「名前さん、よろしければいつもの食器をお持ちしましょうか?」
「えっ…えっと、構いませんか?」
「はい、すぐにご用意します」
フレデリクの言葉にチラ、と周りを見回すと自分の様子に歯牙にかけぬだろうと考える。ナイフとフォークを丁寧に置きつつ、フレデリクに手渡された箸を受け取る。騎士に礼を述べると彼は微笑んでから残りの銀食器を引き取ってから後ろにさがった。名前は器に手を添えて身を切り分けて後、一口大の魚を口に納めた。ようやく安心して食事が出来る気がした。
「いつ見ても器用だよね」
「慣れたら簡単ですよ」
「うん、密かに練習してるんだぁ。料理の時に便利そうだし!」
名前からして見ればナイフとフォークで綺麗に食すリズの方が器用に思える。長い習慣というものは体に染み込んでいるもので慣れてはきたものの、未だに抵抗感を拭えない。
「…時に奥方殿」
「えっ」
声がかかるとは思わなかった名前は箸を持ったままさっと手元をテーブルの下に隠した。指摘されたのかと無意識だったとは言え、この手の癖の悪さには名前は閉口する。
サイリに誤魔化すように笑って見ると、彼女は予想外にも目を爛々と輝かせた。
「奥方殿はもしや、ソンシンの生まれか、血縁者がおられるのですか?」
「え…、え?」
「ソンシンはヴァルム大陸に存在する国の一つだよ。サイリはそのソンシンを統治する一族の一人なんだ」
ルフレの説明を聞いても名前は納得が出来ずにいた。何故そんな質問を自分に投げかけるのか、その意図が掴めない。
「ごめんなさい…お恥ずかしい話ですがソンシンという国を今、初めて聞きました」
「…そうでしたか。私はてっきり同郷の方かと…いえ、知らぬのも無理はありません。我らの国は元より閉鎖的で外部との接触は最低限しか、」
「何故名前がソンシン生まれだと?」
サイリの言葉を途中で切るようにクロムが問う。名前も同じく頷いて疑問を表した。サイリはそんな夫婦を不思議そうに見比べながら言葉を紡ぐ。
「今…奥方が手に取られているのは箸ではありませんか?」
「!」
「我が故郷でも広く愛用されています。…西大陸では、このきらびやかな食器が主流なのかと思ったのですが」
「お箸…知ってるんですか?」
サイリはきょとんとした顔を一瞬して、それから微笑む。
「故郷を離れて久しいが、…奥方殿と話しているとソンシンにいた頃を思い出します。慣れたと思って気にせぬようにいたのですが、食器を持たずに食すのは…些か難しいですな」
「お、お茶碗!」
「!…えぇ」
「こうもって、こう…こう食べる?」
「はい。あとはお漬け物とお味噌汁があれば何も言うことはありませんね」
名前のジェスチャーにサイリも同じように表情を綻ばせた。彼女も同じように見えぬ箸と茶碗を持つ仕草を真似た。名前の感嘆のため息が漏れたのはそれからすぐだ。懐かしい空気を吸っている気がして心を表すように頬が紅潮する。
「不思議な話だ。本当に奥方殿はソンシンをご存じではないのか?」
「は、はい、はい!…知らないけれど…知ってる…同じ、同じです!」
「名前、落ち着いて」
「!…す、すみません」
「謝らなくていいよ!むしろ、これは落ち着いてられないよ!」
「これは…どういう?」
「彼女に理由を話そう。いいかな、クロム」
「……名前?」
「構いません。私は…大丈夫です」
迷い無く決断した名前の言葉にルフレはもう一度クロムを見やる。クロムの方が多少間を作る形になったが無言で頷いて了承する。
ルフレの説明は端的で短いものだった。突拍子の無い話にも関わらずサイリは驚く様を大きく見せなかった。間違いなく動揺はあったのだが、特別騒ぎ立てることもなく。話が終わった後も冗談の類として受け流すこともせず、サイリは名前を顧みた。名前も彼女がもう一度振り返るとわかって真っ直ぐに視線を向ける。
「……少し、待っていただけぬか?」
「え?」
サイリはフレデリクに二言三言話しかけると彼を引き連れて出て行った。残された四人のうち、二人はあっけに取られてそんな二人を見送っていたが、サイリを待つ名前は不意に夫に手を取られ、そちらに目を向けて唇を噛んだ。掴まれた手が無意識に震えていたのだ。
「大丈夫か?」
「う、うん…ご、ごめんなさい。大事な話、してたのに…私、はしゃいで」
クロムは何も言わなかった。その代わりに口角をあげて笑み、触れていた手を力強く握る。名前は胸の内がやがてじわじわと熱を帯びていくような気がした。久しぶりに味わう感覚だった。笑って返したかったのに、いつものように上手く表情を作れずに顔が強ばり、誤魔化すように夫の手を握り返す。視線を下に向けて俯きながら。
それでもクロムは何も言わなかった。
ほんの数十分が経って、サイリは戻ってきた。芳しい匂いが先立ち、名前はそわそわとし出した矢先のことだった。サイリの手には人数分の木造りの器とそれを乗せた盆がある。良い匂いだね、とリズが一声かけるとサイリは自慢げに頷いた。この鼻につく独特の香りには名前も覚えがある。思わず空を嗅ぎ続けてしまう。
暖かで、懐かしい匂いだった。
「それ、お味噌汁!」
「はい。味噌を物資で持ってきてよかった。本当は白米とかぶ漬けも用意したかったのですが、さすがに米を炊く時間が無く…お口に合えばいいのだが」
名前の前に置かれた男の拳ほどの汁椀。湯気立つ鮮やかな茶色のスープに浮かんでいるのは半透明の玉葱である。具は有り合わせだとサイリは言うが、名前にはあまり関係なかった。
名前はいそいそと箸を握り直し、合掌した。
「いただきます」
汁碗をそっと持ち、もう一度よく匂いを堪能する。それだけで涙腺が緩んでいくような気がしたが、それどころではなかった名前は汁湾に口を付けて口内に流し込んだ。
サイリ以外の皆が固唾を飲んで見守っている。
ふぁ、と始まった長いため息の後、名前はもごもごと口許を動かす。
「名前さん…?泣いてるの?」
表情が崩れるのが止められない。背が丸まり体が震え、瞬く度に少量の滴が頬を流れる。喉元が引き絞って狭くなる。その奥の胃が驚きで跳ね上がった。そこに苦しみは無く、胃から体の隅々まで流れていく暖かな熱が、名前の顔に苦悶を象っていく。それでも目の前の腕を手放すことなく落ち着きそうになったら口に運び続けた。時折箸でかき込むように具を運び咀嚼する。咳が邪魔をするのも気にとめず。
声もなく泣き続け、食べ続ける名前にリズは心配になって兄を見た。声をかけるべきかと図って、しかし彼女にしては珍しく声が出なかった。妻を見るクロムは停止したように動かない。愕然としている様に不安に駆られ、リズは第二にフレデリクに助けを求め、それからルフレに視線を移す。しかし二人も間が持てずにいた。
そうこうしている内に、名前はひっくり返りそうな呼吸を繰り返しながら空の椀をそっと戻した。びくりびくりと肩を跳ね、涙で濡れた目元を擦った。
久しぶりに味わう深い出汁に溶けた味噌は絶品だった。味覚は時と共に忘れ去られることもなく、むしろきっちりと覚えていた。間違いなく故郷を彷彿とさせる味と匂い。安寧と切望を沸く一品だった。
もう二度と味わうことのないと覚悟していたものだった。
「ごちそうさまです」
「いえ、お粗末でした」
「本当に…本当に美味しかった」
「それはよかった。急ごしらえだが作った甲斐があったというもの」
「サイリさん、私…貴方のことやソンシンのこと、もっと知りたい!」
「是非に。私も奥方殿の国に興味がある」
「はい!」
名前は笑った。作り物ではなく、晴れやかな表情で元気よく頷いた。柔らかな頬を紅潮させにこにこと笑みながら。
一方で。
名前の晴れやかな態度とは裏腹に、ルフレはリズと目配せし合った。名前の見たことのない嬉しそうな仕草に同調してしまいたいのだが、そうも出来ないでいた。
クロムの様子がおかしい。二人の口を閉じさせたのは彼の停止した態度にある。名前の明るい様子に見覚えがないのは一番近しい関係のはずのクロムにも該当していたのだろう。
名前はいつものように、自分のことで精一杯。サイリのような同郷に近い女性に出会えた喜びで一杯なのだ。夫を顧みる暇が無い。
(まずいんじゃないか…これ)
サイリの持つ武人気質で独特な雰囲気から、軍内での孤立を密かに危惧していたルフレにとっては今回の出来事は良いものだと言える。元々はそんな彼女の緊張を少しでも解す為の会なのだから。だがこの食事会がギクシャクした夫婦間の取り持ちも兼ねてしまったことを今更になって後悔していた。
久しぶりに妻との食事を楽しみにしていた友の姿が脳裏に過ぎる。その落胆ぶりもルフレには手に取るように汲み取れた。そして、彼の気落ちは、今回に限って決して自分には打ち明けてはこないだろうとも。
二人の間に刻まれる溝が更に深まっていることを、当事者はまだ知らない。