#09.絶対幸せにしてくれるから!
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ルフレ達が出発した後、クロムはそれを見送ることもなく、久しぶりに閑散とした傭兵団のアジトへ出向いていた。いつも留守を預かっていた少年魔道士はいないし、まさか影のような優しい鎧兵士は存在しない。恐らくはきっと、異邦の弓使いの少女だけがどこかで一人息づいているはず。
クロムはそうやって、逸る心と慎重な足取りで少女の部屋へ向かう。
間取りは身体が覚えていた。飾り気のない木製の扉に、少々迷いつつも結局は手の甲を打ち付けた。
返事はない。
こうなれば再度、再々度とノックを繰り返し、はじめて部屋主が留守なのかと気付く。
いや、クロムにはもう一つの懸念が頭にあった。
まさかもう旅立ってしまったのではないか。
クロムの知る少女なら有り得る話だ。寡黙を通り越して何もかも心に留めたままにしたがる名前に、もしかしたらと疑惑が立ちこめる。
そうなったらクロムは迷わなかった。ノブに手をかけると錠の有無さえ忘れて扉を開く。幸いなことに開けっ放しだったのでそれは簡単に開かれた。
簡素だった部屋は名前の荷物で溢れていた。服、装飾、それらをしまう質素な家具。
大きめのバッグさえ置き去りであると目視してクロムは安堵の溜息を吐いた。
ならば何処へ。
そうしてクロムははたと、彼女のトレードマークであるエメリナの弓を思い出した。それがあればアジト内にいるのだろうし、無ければ無いで外出を意味する。
矢筒も弓も見渡した部屋にはなかった。
粗探しをしたわけでもないが、クロムはそっと部屋から出た。
今更ながら少女の内側に土足で入り込んだ気恥ずかしさが込みあがる。
クロムは上気する頬を二度三度叩きつけて気を引き締めてアジトを出た。足は既に次の心当たりに向いていた。
彼女が修練に使う森だ。
クロムがようやく名前を見つけたときも、彼女は黙々と弓に矢をつがえて放っていた。後ろ姿は背筋を伸ばして緊迫した空気を放っていたが、彼女特有の凛とした立ち姿とはまた違っていた。クロムにはそれが何故なのかはわからない。
深い溜息の後、飛んでいった矢の先を見つめたまま動こうとしない名前に、クロムはそこで始めて声をかけた。
「……苗字?」
「っっ!!?」
まさか自分に声がかかると思っていなかった名前は急いで振り返り、そしてその反動でぴょんと跳ねた。身体は縮こまり、目を丸くさせている顔色は熱を帯びて真っ赤に染まっていく。何かを言おうと口を賢明に動かせど、声音は震わなかった。
「だ、大丈夫か?」
「ぁっ…えっ!え…な…!…く、クロムさま…!?」
「すまん、驚かせたな」
名前は思い切り首を振った。わかりやすいほどの嘘だったが、クロムは苦笑いを携えておどおどと周りを見渡す名前を見つめた。胸の内に沸き上がる感情は確かに久しぶりの会話による喜びだった。
「ど…どうして、ここに…みんなと行ったんじゃ…!み、みんなは…!?」
「ルフレ達は出発した。俺は残ったんだ」
「どう…して…」
「苗字が残ると言ったからだ」
「わ、私、別に、さぼったわけじゃ…」
「わかっている。俺に会いたくなかったんだろう?」
「!!」
「…すまなかった。お前を傷つけていることはわかっていたんだが…どうしても話す勇気がなかった」
「む、無理しないでください…!私、もうすぐ出て行きますから……」
「…!…手掛かりが見つかったのか?」
「サーリャさんが手伝ってくれるって…私の探す男の顔を見てくれるって…それで私…」
「そうか……そうか…」
「………」
名前はそれきり俯いて黙り込んだ。最初の驚きもすでに萎んでしまい、元の寡黙な少女のままになったのだ。クロムもまた、次に言葉にすべきことを迷って口を閉じる。
しばらく、そんな沈黙の時間が流れた。
「…弓の訓練か?」
「……」
その沈黙を破ったのもクロムだった。名前は怖ず怖ずとクロムを見上げ、それから小さく頷いた。
「今はもう『キュウドウ』をやらないのか?」
「………もう、出来なくて…」
「え?」
「うまく、出来なくて…鍛錬…してたのに…また、的に当たらなくて…」
「疲れているんじゃないのか?ゆっくり休めば、また」
「……っ」
名前は唇を噛みしめて首を振った。暗い顔色は苦悩を表していて、淀んだ瞳が何処を見ているのかやはりクロムにはわからなかった。
「…なくなっちゃった…」
「え?」
「これだけが、私の自慢だったのに…あんなに、打つのが楽しかったのに…こんなことも出来なくなって、…これから私…どうすれば…っ」
「…苗字…」
「私にはもう、弓だけだった、のに…!」
目の前のクロムの存在を忘れたかのように、歯を食いしばり怒り、エメリナの弓を両手で握りしめて名前は嘆いた。
「もう一度」
「!」
「もう一度、射ってくれ」
「……でも…」
「うまく出来なくてもいい。やってくれ」
「………」
名前は訝しくクロムを見つめていたものの、有無を言わさないほどの眼力に負けて、渋々クロムから離れた。
巨木に掛けられた丸い的は手製のものだ。歪に描かれた赤丸は綺麗なもので、反面、的の縁から的そのものの外周は傷だらけ。また、引き抜かれるのを待った矢達があちこちに突き刺さっている。
名前は崩れた顔を腕元の服で拭い、深呼吸をして呼吸を抑えた。集中を意識して構えを取る。二矢を手にして弓を滑らし、地を踏み締めてからまずは一矢。きりきりと弦を振り絞って、よくしなる弓の感触を楽しんでから、ひゅん、と飛ばした。
遠くの方でざくりと木に突き刺さる。それはまた、矢達の墓場に仲間入りをしてしまって、もうどれが先程打ち込んだものなのかもわからなくなった。
やっぱり。
名前は目を怒らせ自分の未熟を再度恥じた。うまく出来なくてもいいとクロムは言うが、そんな姿を晒したくはなかったのが本心だ。きっと、呆れかえっているのだろう。自分が好んだ弓道がこんなにも脆く、拙いものだと思い知っただろう。
早く終わらせよう。
そう決意して最後の一矢を事務的に弓につがえた。
そっと、そんな名前の弓を持つ手に添えられる拳を認識したのは一間置いてからだ。
「く、くろ…っ」
「呼吸を乱すな」
「っ!」
「ゆっくり息を吐いて、吸い込め」
「……」
何時の間に、すぐ後ろに着いたのか。
クロムがすぐ後ろで、名前の構えを支えていた。動揺からふらつく名前の身体をしっかりと固定し、胸を張らせるように肩を掴む。名前は昔、顧問の先生に着いてもらって矢を打ったことを思い出した。だから無意識に反抗もなく、指示されるままに呼吸を整えようとする。
クロムの指先が一本、立つ。向けられた先には赤い丸の的がある。緊張に、乱れが収まらない吐息に、名前は焦りを感じて持つ手が震えた。
「大丈夫」
「……」
「俺が、いる」
引き絞る弦の手を引っ張って、クロムはその手で肩を叩いた。拍子に矢は放たれる。
空を切り裂いて、力強く軌道を描いた最後の一矢は、見事赤丸の中心に導かれるように突き刺さる。
「………」
「……」
「す、すごい、真ん中…」
「そう、だな」
「すごい!私、あんなに綺麗に飛んだの、初めて見た!」
「俺も驚いた…ははっ、やっぱりすごいな、苗字は!」
「ううんっ違う!クロム様がすごいんです!…クロム様がいてくれたから…綺麗に出来たんですっ」
「……」
しばらくは二人してその場に立ち尽くしていた。
しかし、呆然とした衝動の反動なのか、名前は弓を上下に揺らしながら身振り手振りで辿々しく熱弁を揮い始めた。
どうして今まで泣きそうだったのか、そんなことも忘れて胸の内ではしゃぐ名前に、クロムは緩む口元を抑えきれず、とうとうその手で少女を抱き寄せた。驚いた名前は慌てて悲鳴をあげた。
「くっクロム様っ!?」
「…駄目だ」
「えっ」
「あぁくそ!…こうなることくらいわかっていたのに…!やはり、やはり俺には無理だ!」
「な、なにを…っ?」
あまりにも突発的なことだったから気付くのに遅れたが、名前は徐々に息苦しさを感じる。胸の動悸の為でもあったが、相手の拘束がより強くなっているのだと気付く。
呻き、押し退けようとするが、青年はそれでもぎゅう、と締めあげ緩めようとしない。
背を叩き、ようやく解放されたとしても、身体はくっついて離れてはくれなかった。
「クロム様…あの…」
「好きだ」
「えっ」
「好きだ、好きだ、好きだ!愛している、お前のこと!」
「へ、え!?えっ…で、でも、私は別の世界の、だから」
「それがどうした!お前は此処にこうして存在しているじゃないか!」
「う、うん」
「…帰らせたくない、故郷になんか、奪われたくない…!」
「!」
もしやこれが夢なのでは、と、怪しんでいた名前はクロムのその悲痛な呟きによって現実なのだと知る。
クロムはようやく名前から離れ、やはり苦しそうな面もちで名前を見下ろした。
「…すまん」
「……」
「こうなるとわかっていた…。面と向かえば、すぐにでも気持ちが抑えられなくなる。だから、会えなかった。お前のことを苦しませたくなかったから…」
「…クロム様…」
「いや…苦しませたくなかったとかじゃない。何時かお前がいなくなるんだとわかって…怖かったんだ…。もう、こうやって触れ合えなくなるのが…」
「………」
「答えなくていい。俺の身勝手な感情で苗字を縛りたくはない。…忘れてくれて、いい」
「……っ」
「…苗字」
「…っ…っ」
名前は首を振ってクロムの胸元に顔を押し付けた。クロムは困惑して、小さく身体を震わせて泣いているだろう少女を慰めていいかを迷った。頭に手を置いて、黒髪に指を絡ませれば、後には引けない気がしたのだ。
「わたしも…わからなかった…」
「……!」
「帰りたいのか…、此処にいたいのか…、ずっと、わからなくて…」
「苗字…」
「でも、いま、わたしが一緒にいたいのは…クロム様、だから…っ」
「!」
掠れていて、小さな声音だった。最早そんな言葉が本当に聞こえたのかもわからなくなって、クロムは確信を得ようともう一度その身体を抱き締める。
「もう、帰れないぞ?」
「…うん」
「家族にだって会えなくなる。後悔だってするかもしれん」
「……うん……でも…後悔してもいい…クロム様と一緒にいれるなら…」
これから訪れるだろう不安を噛み潰すために逞しい青年の背にしがみついた。クロムの胸元は少し濡れてしまったものの、その感触に、匂いに、名前は確かに愉悦を感じていた。夢にまで見た愛する人が傍にいる。クロムもまた、同じことを考えていた。先程とは違い、優しく抱擁を強める。
「後悔なんかさせない」
「……」
「此処に残って良かったと思えるように、幸せにする」
「…うん」
「だからもう…絶対離さないからな!帰りたくなっても、家族に会いたくなっても、絶対!」
「……うん!」
私も幸せにするから。クロム様のこと。離れないから。
言葉にしない名前はその変わり、抱き締める身体に容赦なく力を込めた。無理矢理ふりほどかれでもしない限り、引き離されぬよう。
その意が伝わったのかは定かではない。それでもクロムは耳元で嬉しそうに声をたてて笑い、名前を抱えるとその場でくるくると回り始めた。
それは勢いよく回転し、甲高い声が一つ増えて、クロムが足を滑らせるまで続いた。
尻餅を着いて倒れ込んでも、二人は顔を見合わせて一頻り笑う。特に名前が、声を上げ、大口を開けて笑ったのは久しぶりだった。周りを省みずに歓喜を露わにしたのはこの世界に来て、初めてだったのかもしれない。
しばらくそうやって高ぶる感情を発散した後、改めてクロムが名前の手を握る。覆われた弓兵独特の手袋を取り去って陽の当たらない白い少女の手。その指先に、懐から取り出した指輪をそっと通す。
「……」
「よく、似合う」
「…そう…かな…」
「あぁ。…愛している、苗字」
「……」
左の甲を引き寄せて、クロムは言葉の通り愛を込めて口付ける。ひくり、と震えるその手を握りしめて、きっと恥ずかしがっているだろう名前を顧みた。
しかし名前は、きょとんとした顔でクロムをじっと見つめている。
「どうした?」
「あ…いや…あの…すごく今更だけど…」
「ん?」
「私の名前……名前って言って…」
「…は?」
「だからあの…苗字名前と言って…名前って、呼んでほしいな…と…」
「………」
しばらく言葉を失ったクロムが、イーリス中に響くような叫びをあげたのは、それからすぐだった。
クロムはそうやって、逸る心と慎重な足取りで少女の部屋へ向かう。
間取りは身体が覚えていた。飾り気のない木製の扉に、少々迷いつつも結局は手の甲を打ち付けた。
返事はない。
こうなれば再度、再々度とノックを繰り返し、はじめて部屋主が留守なのかと気付く。
いや、クロムにはもう一つの懸念が頭にあった。
まさかもう旅立ってしまったのではないか。
クロムの知る少女なら有り得る話だ。寡黙を通り越して何もかも心に留めたままにしたがる名前に、もしかしたらと疑惑が立ちこめる。
そうなったらクロムは迷わなかった。ノブに手をかけると錠の有無さえ忘れて扉を開く。幸いなことに開けっ放しだったのでそれは簡単に開かれた。
簡素だった部屋は名前の荷物で溢れていた。服、装飾、それらをしまう質素な家具。
大きめのバッグさえ置き去りであると目視してクロムは安堵の溜息を吐いた。
ならば何処へ。
そうしてクロムははたと、彼女のトレードマークであるエメリナの弓を思い出した。それがあればアジト内にいるのだろうし、無ければ無いで外出を意味する。
矢筒も弓も見渡した部屋にはなかった。
粗探しをしたわけでもないが、クロムはそっと部屋から出た。
今更ながら少女の内側に土足で入り込んだ気恥ずかしさが込みあがる。
クロムは上気する頬を二度三度叩きつけて気を引き締めてアジトを出た。足は既に次の心当たりに向いていた。
彼女が修練に使う森だ。
クロムがようやく名前を見つけたときも、彼女は黙々と弓に矢をつがえて放っていた。後ろ姿は背筋を伸ばして緊迫した空気を放っていたが、彼女特有の凛とした立ち姿とはまた違っていた。クロムにはそれが何故なのかはわからない。
深い溜息の後、飛んでいった矢の先を見つめたまま動こうとしない名前に、クロムはそこで始めて声をかけた。
「……苗字?」
「っっ!!?」
まさか自分に声がかかると思っていなかった名前は急いで振り返り、そしてその反動でぴょんと跳ねた。身体は縮こまり、目を丸くさせている顔色は熱を帯びて真っ赤に染まっていく。何かを言おうと口を賢明に動かせど、声音は震わなかった。
「だ、大丈夫か?」
「ぁっ…えっ!え…な…!…く、クロムさま…!?」
「すまん、驚かせたな」
名前は思い切り首を振った。わかりやすいほどの嘘だったが、クロムは苦笑いを携えておどおどと周りを見渡す名前を見つめた。胸の内に沸き上がる感情は確かに久しぶりの会話による喜びだった。
「ど…どうして、ここに…みんなと行ったんじゃ…!み、みんなは…!?」
「ルフレ達は出発した。俺は残ったんだ」
「どう…して…」
「苗字が残ると言ったからだ」
「わ、私、別に、さぼったわけじゃ…」
「わかっている。俺に会いたくなかったんだろう?」
「!!」
「…すまなかった。お前を傷つけていることはわかっていたんだが…どうしても話す勇気がなかった」
「む、無理しないでください…!私、もうすぐ出て行きますから……」
「…!…手掛かりが見つかったのか?」
「サーリャさんが手伝ってくれるって…私の探す男の顔を見てくれるって…それで私…」
「そうか……そうか…」
「………」
名前はそれきり俯いて黙り込んだ。最初の驚きもすでに萎んでしまい、元の寡黙な少女のままになったのだ。クロムもまた、次に言葉にすべきことを迷って口を閉じる。
しばらく、そんな沈黙の時間が流れた。
「…弓の訓練か?」
「……」
その沈黙を破ったのもクロムだった。名前は怖ず怖ずとクロムを見上げ、それから小さく頷いた。
「今はもう『キュウドウ』をやらないのか?」
「………もう、出来なくて…」
「え?」
「うまく、出来なくて…鍛錬…してたのに…また、的に当たらなくて…」
「疲れているんじゃないのか?ゆっくり休めば、また」
「……っ」
名前は唇を噛みしめて首を振った。暗い顔色は苦悩を表していて、淀んだ瞳が何処を見ているのかやはりクロムにはわからなかった。
「…なくなっちゃった…」
「え?」
「これだけが、私の自慢だったのに…あんなに、打つのが楽しかったのに…こんなことも出来なくなって、…これから私…どうすれば…っ」
「…苗字…」
「私にはもう、弓だけだった、のに…!」
目の前のクロムの存在を忘れたかのように、歯を食いしばり怒り、エメリナの弓を両手で握りしめて名前は嘆いた。
「もう一度」
「!」
「もう一度、射ってくれ」
「……でも…」
「うまく出来なくてもいい。やってくれ」
「………」
名前は訝しくクロムを見つめていたものの、有無を言わさないほどの眼力に負けて、渋々クロムから離れた。
巨木に掛けられた丸い的は手製のものだ。歪に描かれた赤丸は綺麗なもので、反面、的の縁から的そのものの外周は傷だらけ。また、引き抜かれるのを待った矢達があちこちに突き刺さっている。
名前は崩れた顔を腕元の服で拭い、深呼吸をして呼吸を抑えた。集中を意識して構えを取る。二矢を手にして弓を滑らし、地を踏み締めてからまずは一矢。きりきりと弦を振り絞って、よくしなる弓の感触を楽しんでから、ひゅん、と飛ばした。
遠くの方でざくりと木に突き刺さる。それはまた、矢達の墓場に仲間入りをしてしまって、もうどれが先程打ち込んだものなのかもわからなくなった。
やっぱり。
名前は目を怒らせ自分の未熟を再度恥じた。うまく出来なくてもいいとクロムは言うが、そんな姿を晒したくはなかったのが本心だ。きっと、呆れかえっているのだろう。自分が好んだ弓道がこんなにも脆く、拙いものだと思い知っただろう。
早く終わらせよう。
そう決意して最後の一矢を事務的に弓につがえた。
そっと、そんな名前の弓を持つ手に添えられる拳を認識したのは一間置いてからだ。
「く、くろ…っ」
「呼吸を乱すな」
「っ!」
「ゆっくり息を吐いて、吸い込め」
「……」
何時の間に、すぐ後ろに着いたのか。
クロムがすぐ後ろで、名前の構えを支えていた。動揺からふらつく名前の身体をしっかりと固定し、胸を張らせるように肩を掴む。名前は昔、顧問の先生に着いてもらって矢を打ったことを思い出した。だから無意識に反抗もなく、指示されるままに呼吸を整えようとする。
クロムの指先が一本、立つ。向けられた先には赤い丸の的がある。緊張に、乱れが収まらない吐息に、名前は焦りを感じて持つ手が震えた。
「大丈夫」
「……」
「俺が、いる」
引き絞る弦の手を引っ張って、クロムはその手で肩を叩いた。拍子に矢は放たれる。
空を切り裂いて、力強く軌道を描いた最後の一矢は、見事赤丸の中心に導かれるように突き刺さる。
「………」
「……」
「す、すごい、真ん中…」
「そう、だな」
「すごい!私、あんなに綺麗に飛んだの、初めて見た!」
「俺も驚いた…ははっ、やっぱりすごいな、苗字は!」
「ううんっ違う!クロム様がすごいんです!…クロム様がいてくれたから…綺麗に出来たんですっ」
「……」
しばらくは二人してその場に立ち尽くしていた。
しかし、呆然とした衝動の反動なのか、名前は弓を上下に揺らしながら身振り手振りで辿々しく熱弁を揮い始めた。
どうして今まで泣きそうだったのか、そんなことも忘れて胸の内ではしゃぐ名前に、クロムは緩む口元を抑えきれず、とうとうその手で少女を抱き寄せた。驚いた名前は慌てて悲鳴をあげた。
「くっクロム様っ!?」
「…駄目だ」
「えっ」
「あぁくそ!…こうなることくらいわかっていたのに…!やはり、やはり俺には無理だ!」
「な、なにを…っ?」
あまりにも突発的なことだったから気付くのに遅れたが、名前は徐々に息苦しさを感じる。胸の動悸の為でもあったが、相手の拘束がより強くなっているのだと気付く。
呻き、押し退けようとするが、青年はそれでもぎゅう、と締めあげ緩めようとしない。
背を叩き、ようやく解放されたとしても、身体はくっついて離れてはくれなかった。
「クロム様…あの…」
「好きだ」
「えっ」
「好きだ、好きだ、好きだ!愛している、お前のこと!」
「へ、え!?えっ…で、でも、私は別の世界の、だから」
「それがどうした!お前は此処にこうして存在しているじゃないか!」
「う、うん」
「…帰らせたくない、故郷になんか、奪われたくない…!」
「!」
もしやこれが夢なのでは、と、怪しんでいた名前はクロムのその悲痛な呟きによって現実なのだと知る。
クロムはようやく名前から離れ、やはり苦しそうな面もちで名前を見下ろした。
「…すまん」
「……」
「こうなるとわかっていた…。面と向かえば、すぐにでも気持ちが抑えられなくなる。だから、会えなかった。お前のことを苦しませたくなかったから…」
「…クロム様…」
「いや…苦しませたくなかったとかじゃない。何時かお前がいなくなるんだとわかって…怖かったんだ…。もう、こうやって触れ合えなくなるのが…」
「………」
「答えなくていい。俺の身勝手な感情で苗字を縛りたくはない。…忘れてくれて、いい」
「……っ」
「…苗字」
「…っ…っ」
名前は首を振ってクロムの胸元に顔を押し付けた。クロムは困惑して、小さく身体を震わせて泣いているだろう少女を慰めていいかを迷った。頭に手を置いて、黒髪に指を絡ませれば、後には引けない気がしたのだ。
「わたしも…わからなかった…」
「……!」
「帰りたいのか…、此処にいたいのか…、ずっと、わからなくて…」
「苗字…」
「でも、いま、わたしが一緒にいたいのは…クロム様、だから…っ」
「!」
掠れていて、小さな声音だった。最早そんな言葉が本当に聞こえたのかもわからなくなって、クロムは確信を得ようともう一度その身体を抱き締める。
「もう、帰れないぞ?」
「…うん」
「家族にだって会えなくなる。後悔だってするかもしれん」
「……うん……でも…後悔してもいい…クロム様と一緒にいれるなら…」
これから訪れるだろう不安を噛み潰すために逞しい青年の背にしがみついた。クロムの胸元は少し濡れてしまったものの、その感触に、匂いに、名前は確かに愉悦を感じていた。夢にまで見た愛する人が傍にいる。クロムもまた、同じことを考えていた。先程とは違い、優しく抱擁を強める。
「後悔なんかさせない」
「……」
「此処に残って良かったと思えるように、幸せにする」
「…うん」
「だからもう…絶対離さないからな!帰りたくなっても、家族に会いたくなっても、絶対!」
「……うん!」
私も幸せにするから。クロム様のこと。離れないから。
言葉にしない名前はその変わり、抱き締める身体に容赦なく力を込めた。無理矢理ふりほどかれでもしない限り、引き離されぬよう。
その意が伝わったのかは定かではない。それでもクロムは耳元で嬉しそうに声をたてて笑い、名前を抱えるとその場でくるくると回り始めた。
それは勢いよく回転し、甲高い声が一つ増えて、クロムが足を滑らせるまで続いた。
尻餅を着いて倒れ込んでも、二人は顔を見合わせて一頻り笑う。特に名前が、声を上げ、大口を開けて笑ったのは久しぶりだった。周りを省みずに歓喜を露わにしたのはこの世界に来て、初めてだったのかもしれない。
しばらくそうやって高ぶる感情を発散した後、改めてクロムが名前の手を握る。覆われた弓兵独特の手袋を取り去って陽の当たらない白い少女の手。その指先に、懐から取り出した指輪をそっと通す。
「……」
「よく、似合う」
「…そう…かな…」
「あぁ。…愛している、苗字」
「……」
左の甲を引き寄せて、クロムは言葉の通り愛を込めて口付ける。ひくり、と震えるその手を握りしめて、きっと恥ずかしがっているだろう名前を顧みた。
しかし名前は、きょとんとした顔でクロムをじっと見つめている。
「どうした?」
「あ…いや…あの…すごく今更だけど…」
「ん?」
「私の名前……名前って言って…」
「…は?」
「だからあの…苗字名前と言って…名前って、呼んでほしいな…と…」
「………」
しばらく言葉を失ったクロムが、イーリス中に響くような叫びをあげたのは、それからすぐだった。