#08.俺はお前を信じている
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名前は考え込んだ。素直に嬉しかった。だが同時に、クロムの言葉を否定する。
もう十分にクロムには助けられている。
名前はそう確信していた。しかし、気恥ずかしさに言葉で伝えられず、代わりに、問いかけられたことだけでも話そうと決意する。
今から話すことはただの不安だ。馬鹿馬鹿しいもしもの話。
そんなことを口にしていいのだろうか、と後先が予想できなかったが、名前はぽつりぽつりと巡らせていた話を表した。
「…思い出したんです…初めて戦いに交じったときのこと…」
「それは…」
「戦えると、思ったんです。…弓なら、感触もなく、人を殺せるって…でも…」
「……苗字は立派に戦っていた」
「……」
クロムは苦々しそうに慰めの言葉を呟いた。名前を傭兵団に誘った経緯はあれど、少女に酷なことを強いてしまった罪悪感がクロムにはあった。気力を奮って戦えとは今は言いたくないと思う。
名前は当然のように頭を振った。しかし、クロムの言葉を否定するのは謙遜からではない。名前の言いたいこととそぐわないからだ。
「…躊躇、したんです」
「……」
「いざって時に…打てなかった…」
「それは…何時のことだ」
名前が辿々しく説明した場面はクロムの知るより前のことだ。マリアベルが捕まり、エメリナがギャンレルと対峙していた時刻。
名前は岩陰からマリアベルを捕らえる男を狙っていた。
名前は思う。
あの時あの男を殺せていれば、事態は変わっていたのかもしれない。
あのときはまだ、イーリスとは関係のなかった自分だ。そんな己が横槍を入れることで、両国間の溝を保つことが出来たのではないか。
名前はまくし立てることもなく、淡々と語った。クロムは途中から顔をしかめて口を挟まなかったが、区切りがついたところで一際大きく、また力強く声を上げた。
「違う。それは、違うぞ」
「…でも狙えていたんです…男の頭も見えてた…」
名前は握りしめる弓の文様と自分の手のひらをじっと睨みつけた。
相手は動いていた。もしも人質の少女に当たったら、と言い訳をした。
しかし、それは全て自分の言い訳で、原因があるとするのなら覚悟を決めかねていた。
自分は最後の最後で躊躇したはずだ。
その手を汚す瞬間を間違えた。名前は一度強く目を閉じる。それから自嘲の声はぽつりぽつりと続く。
「…今なら…出来るのに…」
「……」
「今なら…きっとあの男を殺せる…ねらい打てる…!…あの時に戻れたら…エメリナ様も、フィレイン様も、きっとみんな無事で、」
「違う!」
「……っ」
「そんなことはない!」
「…クロムさま…」
「お前のせいじゃない!それに、仮に男を殺していても戦争は起こっていたんだ」
「でも!私は…私はイーリス人じゃないから…あのとき殺したって!」
「そんなのはこじつけだ!姉さんが!!…姉さんがお前を見捨てることが出来ると思うか?」
「っ!?」
「姉さんは絶対にお前を助けた。どんなことになっても…きっと…!」
「…っぅ…うぅ…っ」
名前は顔を伏せて涙が溢れる顔を隠した。弓を持つ手で顔を覆い、濡れる頬と情けない表情を隠す。
クロムは名前の艶やかな黒髪を撫でて今にも崩れそうな身体を支えてやりながらもぽつりと一言呟いた。
「…俺が、やったんだ」
「えっ…」
「あのとき、俺が一番に剣を抜いた。戦争を引き起こしたのは俺だ…。ただ、姉さんを守りたいだけだったのに…俺は、結局…」
「ち…、ちがう…ちがう!」
いつもより近いところにいるクロムは、泣きそうな笑みを浮かべただけだった。名前はさらに涙腺が切れて溢れる涙を止められなかった。
そんな残酷な事実を突きつけたかったんじゃない。
何故あの時全力を尽くさなかったのか、後悔を知ってほしかったのに。
ただ、彼に慰めて欲しかっただけなのに。
名前は愚かにも青年に甘えてしまったことに悲しくなって、涙を拭うことも忘れてただただ首を振った。クロムを傷つけてしまった悔いばかりが溢れる。
それでも。
クロムの不意の言葉に名前ははたと動きを止める。
「でも、それでよかった」
「、…?」
「お前にそんな罪を背負わせなくて済んだ。…俺でよかったんだ」
「…っ…、…っ…」
クロムは優しく微笑んでいた。
名前には見覚えがある。初めてこの世界で安らぎを与えてくれたエメリナの微笑みを思い起こさせる。
名前は目の前の存在に寄りかかった。クロムの肩に額を押し付け、服を握り締めた。クロムは何も言わず受け入れてくれる。
青年の優しさが嬉しかった。
未熟な自分が情けなかった。
鼻を啜り、クロムの苦しみが自分に流れてくれないかと願った。
私が背負えばよかった。そんなことを言えば、クロムは怒るだろうか。呆れるだろうか。
名前は優しく頭を撫でてくれる相手から離れたくなくて、嗚咽を止めることも、しゃくる喉から言葉を紡ぐこともなかった。
自分はずるい。頭の中で何度も呟きながらも。
心中で渦巻く熱の固まりが徐々に冷えていく。名前は落ち着かないまま、少しずつクロムから離れた。名残惜しくも、いつまでもはしたなく泣いているわけにはいかないと戒める。
「…ごめん、なさい…」
「謝らなくていい。俺の方こそ…ハンカチくらい、持っておけばよかった」
「……」
ううん、と首を振って名前は自分で目元を手袋で拭った。擦るようにしてしまったので赤くなっただろうが、周りは薄暗いので相手には見えていないことを祈った。
「苗字」
「……?」
「明日は一緒に戦ってくれるか?」
「……」
迷わず頷いた。様々な示唆を含んでしまいながらも、彼の力になりたいという願いが強く働いていた。それは大好きなエメリナの弟君だからという理由だけじゃない。
クロムという人を失いたくない。守りたい大切な存在だから、名前は再び戦えると思った。
今度は迷わず弓を引ける。名前は確信していた。
そんな名前の真摯な瞳に目を奪われていたクロムだったが、思い出したように懐から何かを取り出した。
「…これを、持っていてほしい」
「……?」
小さな輪っかを手のひらに握らされて、名前はそれを翳して存在を確かめる。
指輪、と声をあげずに呟くと二回首を捻っていたが、綺麗な彫り模様の中によく見る紋章を見つけてあっと声をあげた。
「エメリナ様の…額の…」
「ん?…あ、あぁ…イーリスの国印だからな。実は俺の腕にも刻まれているんだぞ」
「えっ」
かっと赤くなり、名前は緩んだ神経を引き絞って鼻をすすり上げた。
いろんなことに驚いた。
「す、すっすみません!私、あの…!」
「いや、苗字はほんとに姉さんが好きなんだな」
「あ、や…あの、これ、大事なものなんじゃ…」
「あぁ。だから苗字に持っていてほしいんだ」
「でも…!」
こういうのは、フレデリクに預けるのが一番ではないか。頭の中でそう提案してみても、相手に伝わるわけはない。それどころか、クロムはそわそわと名前の手を取って手袋を脱がせようとする。
慌ててその手を払った。
「な、なにするんですっ」
「ゆ、指輪だぞ?着けなくていいのか?」
「えっ!?あ、預かりものをつけたりなんかしません!」
「!!」
クロムは驚いて目を見開き、それから固まってしまった。
何か変なことを言ってしまったのだと気づいて名前はあわあわと口を動かしながらクロムの機嫌を伺う。
「あ、あの…く…クロムさま…?」
「…あ…あぁ…すまん」
クロムは最初ひきつっていたが、腹の内から何かがこみ上げてきたのか、くくく、と腹を抑えて笑いを堪え始めた。これには名前の方が居心地が悪くなるばかりだ。
心配して損した、とばかりに怒った顔を見せていたが、クロムはもう一度よく謝った。
「すまん、すまん…ははっ…だが、苗字はこれをなんだと思ったんだ?」
「えっ?…え…指輪…でしょ…?…お守り…みたいなものの…」
「お守り?…そうだな、お守りだ。それでもいい」
「で…でも、お守りなら…クロム様が持っていた方が…」
クロムは緩慢に首を振って、指輪を持つ名前の手を両手で握った。名前はまた身体が硬直していくのを自覚する
「あ…っ」
「俺が守る。苗字のこと…絶対に」
「……」
クロムの顔が近寄ってくる。
苗字はどきりどきりと心臓を跳ねさせながらも逃げることは出来なかった。
「…っ」
「……」
「あ…」
頬に受けた柔い感触。立っているのが不思議な感覚に陥ったものの、淡い期待感を裏切られたような、なんだかがっかりする心持ちでクロムを見つめ返す。
クロムは目を細め、口角を上げてそんな名前に囁きかけた。
「口付けても…よかったのか?」
「っ!?」
「…っいて!!」
ばしっ、と乾いた音にクロムは飛び退いた。というのも、しこたま打ちつけてきた名前の弓はまだぶんぶんと空を切っている。まるで近づくな、とばかりにあらがう子供のようだ。
「すっすまん!」
「……っ」
「すまんかった!落ち着いてくれ!」
「……」
「はぁ…苗字は怒らせると怖いな」
「……」
どんなにおどけてみせても、名前はもう口を開く気はないのか歯をこれでもかというくらい噛みしめている。
それでもクロムは嬉しかった。感情をさらけ出してくれる名前を見れたのだ。悲しみも、怒りも、少女はすぐに包み隠してしまうから。
クロムは不機嫌な少女に笑いかけて夜空を仰いだ。そろそろ休ませてやらなければならない。少女は特別身体が弱いというのがクロムの知る名前だ。
「おやすみ、苗字。明日はよろしく頼む…な?」
「……」
名前はちょっと遅れて頷いた。これにクロムは満足する。
出来れば今度は思い切り笑ってほしい。
心の中でそう願い、クロムはもう一度溢れる愛しさを目線で注いでから名残惜しくもその場を離れた。
残された名前は、握り締めた手を開き、その中のものを一見しながら顔を緩ませるのだった。
決戦の朝。
イーリス・フェリア両国が攻め寄せたペレジアを迎え撃つときが来た。
心の拠り所となっていた聖王エメリナを失って心折られ、士気の低いところを突かれる形ではあるが、そこに誤算がある。
クロム達はこれまでの戦いで築いてきた確かな信頼がある。
誰かが倒れそうならば手を差し伸べて支え合う。決して誰も失わないように、皆が団結する力がある。
クロムは矢面に立つ。だからと言って一人ではない。未熟だからこそ、半人前の二人で分かち合う半身が隣に在った。ルフレは類まれなるその知略を秘めていた。
怖いものはなにもない。
隣のルフレを顧みてクロムはそう思って、考えを否定した。
恐ろしいのは失うことだ。共に培ってきた肉親を、友を、愛する人を。
だが同時に恐れを知るから彼らと共に命を賭けられるとも、クロムは知っていた。
クロム様、と控えめな少女の声に耳をそばだててクロムは振り返った。出来るだけ優しい顔をしようと意識しながら。
名前は緊張で顔を強ばらせながらも賢明にクロムへ視線を注いでいる。
その瞳がたまらなく愛しい。クロムは胸から熱い何かが吹き出して身体全体に流れていく感覚を覚える。
しかし、それを表すには時間が足りなかった。
「どうした?怖くなったか?」
「……」
名前は頭を振ってから、周りの視線を気にしてきょろきょろと見回した。しかし、皆がそれぞれ控える戦闘に備えて集中をしているだろうとクロムは気づいていた。隣のルフレとは目があったが、彼は素知らぬ振りをして少しだけ距離を取った。
大丈夫だ、と名前に聞こえる程度に声を下げて再度問いかけると、名前は怖ず怖ずと小さく囁きだした。
「…この戦いが終わったら、全部話します」
「全部?」
「…私のこと…全部…」
「……」
クロムはこんなときに、と思いながらも歓喜する心持ちを自覚した。しかし、次の瞬間それはちょっとした自惚れだったかと思わされる。
みんなにも、と、名前の言葉は続いていた。
仲間と一緒に聞いてくれ、ということだ。そう理解してはいるものの、自分だけじゃないのかという落胆と打ち解けようとする名前の勇気を感じて胸が熱くなって複雑に絡まる。
しかし、まだ言葉は続いていた。
「…変な話ばかりで…あの、でも、…クロム様だけは…信じてほしいの…だから…」
「……」
クロムは驚いて目を見開いた。少女の恐れはとても根深く、だからこそ今の今まで口を噤んでいたのだと知った。
クロムは名前を抱き寄せた。そんな不安を抱え戦っていた名前が不憫でたまらなく思ったのだ。小さな頭を自分の胸に押し付けて、声じゃなく、言葉を発する身体の振動で、少女に思いを伝える。
「っ」
「信じる」
「…クロムさま…」
「何があっても。俺はお前を信じている」
「…っ」
すぐ少女を解放した。名前はやはり泣き出しそうにくしゃりと表情を崩していたが、赤く蒸気した頬を引き締め、大きく息を吸い込んだ後、鷹揚に頷いた。
唇が動く。クロムには声まで届かなかった。が、確かに名前の感謝の意が聞こえた気がした。
「行こう」
クロムの言葉に、名前の目が光った。言葉より声より多くを語るその黒い瞳が決意を表す。絶対にクロムの側を離れない、と暗に伝えていた。
クロムはそれから自分の半身となってくれたルフレと目が合う。彼は普段誰かをからかうときのような笑みを見せたが、それはほんの一瞬だった。すぐに彼は元の軍師へと変貌し、戦場となる大地へ意識を向けた。
戦いを終わらせる。エメリナが望んだ平和を掴む為に。
クロムは柄をぐっと強く握り締め、ファルシオンを天に翳した。
もう十分にクロムには助けられている。
名前はそう確信していた。しかし、気恥ずかしさに言葉で伝えられず、代わりに、問いかけられたことだけでも話そうと決意する。
今から話すことはただの不安だ。馬鹿馬鹿しいもしもの話。
そんなことを口にしていいのだろうか、と後先が予想できなかったが、名前はぽつりぽつりと巡らせていた話を表した。
「…思い出したんです…初めて戦いに交じったときのこと…」
「それは…」
「戦えると、思ったんです。…弓なら、感触もなく、人を殺せるって…でも…」
「……苗字は立派に戦っていた」
「……」
クロムは苦々しそうに慰めの言葉を呟いた。名前を傭兵団に誘った経緯はあれど、少女に酷なことを強いてしまった罪悪感がクロムにはあった。気力を奮って戦えとは今は言いたくないと思う。
名前は当然のように頭を振った。しかし、クロムの言葉を否定するのは謙遜からではない。名前の言いたいこととそぐわないからだ。
「…躊躇、したんです」
「……」
「いざって時に…打てなかった…」
「それは…何時のことだ」
名前が辿々しく説明した場面はクロムの知るより前のことだ。マリアベルが捕まり、エメリナがギャンレルと対峙していた時刻。
名前は岩陰からマリアベルを捕らえる男を狙っていた。
名前は思う。
あの時あの男を殺せていれば、事態は変わっていたのかもしれない。
あのときはまだ、イーリスとは関係のなかった自分だ。そんな己が横槍を入れることで、両国間の溝を保つことが出来たのではないか。
名前はまくし立てることもなく、淡々と語った。クロムは途中から顔をしかめて口を挟まなかったが、区切りがついたところで一際大きく、また力強く声を上げた。
「違う。それは、違うぞ」
「…でも狙えていたんです…男の頭も見えてた…」
名前は握りしめる弓の文様と自分の手のひらをじっと睨みつけた。
相手は動いていた。もしも人質の少女に当たったら、と言い訳をした。
しかし、それは全て自分の言い訳で、原因があるとするのなら覚悟を決めかねていた。
自分は最後の最後で躊躇したはずだ。
その手を汚す瞬間を間違えた。名前は一度強く目を閉じる。それから自嘲の声はぽつりぽつりと続く。
「…今なら…出来るのに…」
「……」
「今なら…きっとあの男を殺せる…ねらい打てる…!…あの時に戻れたら…エメリナ様も、フィレイン様も、きっとみんな無事で、」
「違う!」
「……っ」
「そんなことはない!」
「…クロムさま…」
「お前のせいじゃない!それに、仮に男を殺していても戦争は起こっていたんだ」
「でも!私は…私はイーリス人じゃないから…あのとき殺したって!」
「そんなのはこじつけだ!姉さんが!!…姉さんがお前を見捨てることが出来ると思うか?」
「っ!?」
「姉さんは絶対にお前を助けた。どんなことになっても…きっと…!」
「…っぅ…うぅ…っ」
名前は顔を伏せて涙が溢れる顔を隠した。弓を持つ手で顔を覆い、濡れる頬と情けない表情を隠す。
クロムは名前の艶やかな黒髪を撫でて今にも崩れそうな身体を支えてやりながらもぽつりと一言呟いた。
「…俺が、やったんだ」
「えっ…」
「あのとき、俺が一番に剣を抜いた。戦争を引き起こしたのは俺だ…。ただ、姉さんを守りたいだけだったのに…俺は、結局…」
「ち…、ちがう…ちがう!」
いつもより近いところにいるクロムは、泣きそうな笑みを浮かべただけだった。名前はさらに涙腺が切れて溢れる涙を止められなかった。
そんな残酷な事実を突きつけたかったんじゃない。
何故あの時全力を尽くさなかったのか、後悔を知ってほしかったのに。
ただ、彼に慰めて欲しかっただけなのに。
名前は愚かにも青年に甘えてしまったことに悲しくなって、涙を拭うことも忘れてただただ首を振った。クロムを傷つけてしまった悔いばかりが溢れる。
それでも。
クロムの不意の言葉に名前ははたと動きを止める。
「でも、それでよかった」
「、…?」
「お前にそんな罪を背負わせなくて済んだ。…俺でよかったんだ」
「…っ…、…っ…」
クロムは優しく微笑んでいた。
名前には見覚えがある。初めてこの世界で安らぎを与えてくれたエメリナの微笑みを思い起こさせる。
名前は目の前の存在に寄りかかった。クロムの肩に額を押し付け、服を握り締めた。クロムは何も言わず受け入れてくれる。
青年の優しさが嬉しかった。
未熟な自分が情けなかった。
鼻を啜り、クロムの苦しみが自分に流れてくれないかと願った。
私が背負えばよかった。そんなことを言えば、クロムは怒るだろうか。呆れるだろうか。
名前は優しく頭を撫でてくれる相手から離れたくなくて、嗚咽を止めることも、しゃくる喉から言葉を紡ぐこともなかった。
自分はずるい。頭の中で何度も呟きながらも。
心中で渦巻く熱の固まりが徐々に冷えていく。名前は落ち着かないまま、少しずつクロムから離れた。名残惜しくも、いつまでもはしたなく泣いているわけにはいかないと戒める。
「…ごめん、なさい…」
「謝らなくていい。俺の方こそ…ハンカチくらい、持っておけばよかった」
「……」
ううん、と首を振って名前は自分で目元を手袋で拭った。擦るようにしてしまったので赤くなっただろうが、周りは薄暗いので相手には見えていないことを祈った。
「苗字」
「……?」
「明日は一緒に戦ってくれるか?」
「……」
迷わず頷いた。様々な示唆を含んでしまいながらも、彼の力になりたいという願いが強く働いていた。それは大好きなエメリナの弟君だからという理由だけじゃない。
クロムという人を失いたくない。守りたい大切な存在だから、名前は再び戦えると思った。
今度は迷わず弓を引ける。名前は確信していた。
そんな名前の真摯な瞳に目を奪われていたクロムだったが、思い出したように懐から何かを取り出した。
「…これを、持っていてほしい」
「……?」
小さな輪っかを手のひらに握らされて、名前はそれを翳して存在を確かめる。
指輪、と声をあげずに呟くと二回首を捻っていたが、綺麗な彫り模様の中によく見る紋章を見つけてあっと声をあげた。
「エメリナ様の…額の…」
「ん?…あ、あぁ…イーリスの国印だからな。実は俺の腕にも刻まれているんだぞ」
「えっ」
かっと赤くなり、名前は緩んだ神経を引き絞って鼻をすすり上げた。
いろんなことに驚いた。
「す、すっすみません!私、あの…!」
「いや、苗字はほんとに姉さんが好きなんだな」
「あ、や…あの、これ、大事なものなんじゃ…」
「あぁ。だから苗字に持っていてほしいんだ」
「でも…!」
こういうのは、フレデリクに預けるのが一番ではないか。頭の中でそう提案してみても、相手に伝わるわけはない。それどころか、クロムはそわそわと名前の手を取って手袋を脱がせようとする。
慌ててその手を払った。
「な、なにするんですっ」
「ゆ、指輪だぞ?着けなくていいのか?」
「えっ!?あ、預かりものをつけたりなんかしません!」
「!!」
クロムは驚いて目を見開き、それから固まってしまった。
何か変なことを言ってしまったのだと気づいて名前はあわあわと口を動かしながらクロムの機嫌を伺う。
「あ、あの…く…クロムさま…?」
「…あ…あぁ…すまん」
クロムは最初ひきつっていたが、腹の内から何かがこみ上げてきたのか、くくく、と腹を抑えて笑いを堪え始めた。これには名前の方が居心地が悪くなるばかりだ。
心配して損した、とばかりに怒った顔を見せていたが、クロムはもう一度よく謝った。
「すまん、すまん…ははっ…だが、苗字はこれをなんだと思ったんだ?」
「えっ?…え…指輪…でしょ…?…お守り…みたいなものの…」
「お守り?…そうだな、お守りだ。それでもいい」
「で…でも、お守りなら…クロム様が持っていた方が…」
クロムは緩慢に首を振って、指輪を持つ名前の手を両手で握った。名前はまた身体が硬直していくのを自覚する
「あ…っ」
「俺が守る。苗字のこと…絶対に」
「……」
クロムの顔が近寄ってくる。
苗字はどきりどきりと心臓を跳ねさせながらも逃げることは出来なかった。
「…っ」
「……」
「あ…」
頬に受けた柔い感触。立っているのが不思議な感覚に陥ったものの、淡い期待感を裏切られたような、なんだかがっかりする心持ちでクロムを見つめ返す。
クロムは目を細め、口角を上げてそんな名前に囁きかけた。
「口付けても…よかったのか?」
「っ!?」
「…っいて!!」
ばしっ、と乾いた音にクロムは飛び退いた。というのも、しこたま打ちつけてきた名前の弓はまだぶんぶんと空を切っている。まるで近づくな、とばかりにあらがう子供のようだ。
「すっすまん!」
「……っ」
「すまんかった!落ち着いてくれ!」
「……」
「はぁ…苗字は怒らせると怖いな」
「……」
どんなにおどけてみせても、名前はもう口を開く気はないのか歯をこれでもかというくらい噛みしめている。
それでもクロムは嬉しかった。感情をさらけ出してくれる名前を見れたのだ。悲しみも、怒りも、少女はすぐに包み隠してしまうから。
クロムは不機嫌な少女に笑いかけて夜空を仰いだ。そろそろ休ませてやらなければならない。少女は特別身体が弱いというのがクロムの知る名前だ。
「おやすみ、苗字。明日はよろしく頼む…な?」
「……」
名前はちょっと遅れて頷いた。これにクロムは満足する。
出来れば今度は思い切り笑ってほしい。
心の中でそう願い、クロムはもう一度溢れる愛しさを目線で注いでから名残惜しくもその場を離れた。
残された名前は、握り締めた手を開き、その中のものを一見しながら顔を緩ませるのだった。
決戦の朝。
イーリス・フェリア両国が攻め寄せたペレジアを迎え撃つときが来た。
心の拠り所となっていた聖王エメリナを失って心折られ、士気の低いところを突かれる形ではあるが、そこに誤算がある。
クロム達はこれまでの戦いで築いてきた確かな信頼がある。
誰かが倒れそうならば手を差し伸べて支え合う。決して誰も失わないように、皆が団結する力がある。
クロムは矢面に立つ。だからと言って一人ではない。未熟だからこそ、半人前の二人で分かち合う半身が隣に在った。ルフレは類まれなるその知略を秘めていた。
怖いものはなにもない。
隣のルフレを顧みてクロムはそう思って、考えを否定した。
恐ろしいのは失うことだ。共に培ってきた肉親を、友を、愛する人を。
だが同時に恐れを知るから彼らと共に命を賭けられるとも、クロムは知っていた。
クロム様、と控えめな少女の声に耳をそばだててクロムは振り返った。出来るだけ優しい顔をしようと意識しながら。
名前は緊張で顔を強ばらせながらも賢明にクロムへ視線を注いでいる。
その瞳がたまらなく愛しい。クロムは胸から熱い何かが吹き出して身体全体に流れていく感覚を覚える。
しかし、それを表すには時間が足りなかった。
「どうした?怖くなったか?」
「……」
名前は頭を振ってから、周りの視線を気にしてきょろきょろと見回した。しかし、皆がそれぞれ控える戦闘に備えて集中をしているだろうとクロムは気づいていた。隣のルフレとは目があったが、彼は素知らぬ振りをして少しだけ距離を取った。
大丈夫だ、と名前に聞こえる程度に声を下げて再度問いかけると、名前は怖ず怖ずと小さく囁きだした。
「…この戦いが終わったら、全部話します」
「全部?」
「…私のこと…全部…」
「……」
クロムはこんなときに、と思いながらも歓喜する心持ちを自覚した。しかし、次の瞬間それはちょっとした自惚れだったかと思わされる。
みんなにも、と、名前の言葉は続いていた。
仲間と一緒に聞いてくれ、ということだ。そう理解してはいるものの、自分だけじゃないのかという落胆と打ち解けようとする名前の勇気を感じて胸が熱くなって複雑に絡まる。
しかし、まだ言葉は続いていた。
「…変な話ばかりで…あの、でも、…クロム様だけは…信じてほしいの…だから…」
「……」
クロムは驚いて目を見開いた。少女の恐れはとても根深く、だからこそ今の今まで口を噤んでいたのだと知った。
クロムは名前を抱き寄せた。そんな不安を抱え戦っていた名前が不憫でたまらなく思ったのだ。小さな頭を自分の胸に押し付けて、声じゃなく、言葉を発する身体の振動で、少女に思いを伝える。
「っ」
「信じる」
「…クロムさま…」
「何があっても。俺はお前を信じている」
「…っ」
すぐ少女を解放した。名前はやはり泣き出しそうにくしゃりと表情を崩していたが、赤く蒸気した頬を引き締め、大きく息を吸い込んだ後、鷹揚に頷いた。
唇が動く。クロムには声まで届かなかった。が、確かに名前の感謝の意が聞こえた気がした。
「行こう」
クロムの言葉に、名前の目が光った。言葉より声より多くを語るその黒い瞳が決意を表す。絶対にクロムの側を離れない、と暗に伝えていた。
クロムはそれから自分の半身となってくれたルフレと目が合う。彼は普段誰かをからかうときのような笑みを見せたが、それはほんの一瞬だった。すぐに彼は元の軍師へと変貌し、戦場となる大地へ意識を向けた。
戦いを終わらせる。エメリナが望んだ平和を掴む為に。
クロムは柄をぐっと強く握り締め、ファルシオンを天に翳した。