#08.俺はお前を信じている
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とうとう作戦決行日を迎えた。
何処までも広がる澄み渡る青空を切り裂くような切り立った崖の上に、イーリス聖王エメリナはいた。傍に控える屈強な男はぞんざいな扱いで聖王を足場の先まで追いやる。
ペレジアの王、ギャンレルは芝居染みていて悪い冗談を述べているような口調で裁定を下した。憎きイーリスの聖王の命絶たれるときだと民衆を仰ぎ立て、自らも楽しむように。ギャンレルから放たれるあからさまな悪意は確かにイーリスという存在にまざまざと向けられていた。
執行人の男が、祈るエメリナの背に向けて巨斧を振り上げる。
が、その前に東フェリアの勇王、フラヴィアの放った投げ斧が執行人に命中した。肉を穿ち、骨を砕く痛みに耐え抜いたものの、男はその衝撃を受け流すことは出来ずに細い足場から片足を踏み外してしまったが為に落ちていった。
朽ちかけたペレジアの城下になだれ込む一軍はクロム達だ。崖上から愛する弟と妹、大事な国民達がかけつけてくる姿も追いつめられたエメリナは見守ることしか出来なかった。
ギャンレルとの口問答にも見切りを付け、クロム達は突き進む。
狙いは飛空部隊。屈強な竜騎兵達を弓・風魔道を操って落としていく。その中に名前の姿はなかった。この作戦が打ち立てられてからも弓兵の名前に出番は与えられなかった。何故、と問う仲間もいたが、名前は対してこの決定に反抗しなかった。
名前の仕事は前線で竜騎士落としを実行する仲間達を守る盾達のサポートだ。ティアモやスミア達空軍を狙う不届き者達へ容赦なく矢尻を向ける。
待ち望んでいた聖王処刑の場を混迷に陥れたイーリス人への怒りと、長年の恨みを晴らす機会を与えられた喜びで戦いに関してただでさえ士気は高い。さらには足場が柔らかな砂場であること、土地勘の有無による不利がある。
攻めてきた戦士達から名前を庇ったのは、ベテランの傭兵グレゴだ。矢を放った後の隙を突かれた名前を突き飛ばすように間に割り込み、襲いかかる斧を白光の剣で払い、そのままの勢いで身体を回転させて相手を斬り伏せた。まるで自分の手足のような剣技に、瞬きつつ驚きをなんとか受け流す。
「だーいじょうぶかい、嬢ちゃん」
「す、すみませ…ん!」
名前の手から放たれた矢は、グレゴの隣を駆け抜けて後ろでぶつぶつ呟いていた呪術士の肩に突き刺さる。二本目の矢はうずくまる頭を打ち抜いた。
乾いた口笛が表す賞賛を耳にしながら名前は眉を顰めた。
「おう、大丈夫そうだな」
「……」
「余所見なんざするなよ、気になるのはわかるけどな」
「…っ」
名前は飄々と語りかける男を睨みつけた。グレゴはやっぱりにんまりと笑っただけで堪えることはない。
見られていたのか、と、互いに余裕を持っていたことを名前は猛省する。空を仰ぐように切り立った崖上を見れば、エメリナは佇み見守ってくれている。恐らくは自分の存在は見えていないだろうが、それでも名前はよかった。この手で助けられるならそれでいい。
しかし、名前が見ていた者は彼女ではなかった。
封剣ファルシオンを手に戦場を駆け抜けていく背。軍師を共に、自らを危地に向けていく青年。
心配だった。最愛の姉の為なら自らの命を省みようともしない彼のことが。もちろん、自分が青年を心配する資格などないことは理解していても。
しかし傍にはルフレがいる。固い砂地を選び追従する騎士達がいる。
きっと彼は守られる。例え自分がそこにいなくても。何よりも安心できたのはルフレの姿も確認出来たことが大きかった。
名前は目を怒らせる。まだ戦いは続くのだ。グレゴの余裕も削ってやらなくてはならない。そうすることで、決着が早く着いてくれるのではないかと名前は考えて、確かに感じる寂しさを紛らわせるのだった。
続々と現れる竜騎兵達が地に伏した後、ペレジア兵たちは焦心から隊列を乱し、士気の下がりをルフレは読みとっていた。剣を抜き、一心に戦い続けるクロムのファルシオンに当てる。彼はようやく待ち望んでいた瞬間が訪れたことを知り、視線をあげた。
時期は整った。剣を掲げ合図をあげれば、疾風が広場を独占する。
白い羽根を広げ、力強く嘶く天馬達。怪我を受け、ぼろぼろの風体を纏いしも美しい女騎士達がそこには在った。
(フィレイン様…!)
名前は胸が高まるのを感じた。初めて天馬騎士達の行進を目撃したあの日のような、期待と希望を確かに感じた。
フィレインは今日までの日々の苦辛を覗かせるように少しやつれていたが、その目の輝きの力強さは誰よりも輝いていた。銀槍を抱え、戦乙女達は主人を出迎えに空を駆けていった。
ルフレは、エメリナの命が無事であることと天馬騎士達が捕虜となって囚われていることを確信していた。エメリナがむざむざとギャンレルに降伏したのは何故か。騎士達の命と己の命とを天秤にかけることを聖王は考えなかっただろう。
自分を含め、クロム傭兵団でペレジアの空軍を抑えると共に、フェリアの精鋭部隊が囚われの女騎士達を助ける時間稼ぎという囮役。そして、イーリスの天馬騎士達にエメリナの救助を任せるのだ。
ルフレの読み通り、事は運んだ。天駆ける騎馬は一目散にエメリナの元へ急ぐ。おめおめと主に屈辱を負わせてしまった。彼女たちは失った誇りを取り戻すべく駆け急いだ。
故に突如現れた天敵に一騎が墜落する様から、易々と崩れ落ちていくのは早かった。
地上から放たれる悪意は天馬の胴を、翼を容赦なく射抜き貫く。フィレインが地を認めたときには既に遅かった。先程まで影すら無かった弓を抱える屍兵の群がそこには在った。死せる者達に容赦はない。生者に向けられた一矢が、フィレインの肢体に刺さるのが一つの合図のように天馬達は堕ちていった。
何が起こったのか、わからない程に皆が凍り付いた。まるでさっきまで光り輝いていた希望がするりと逃げてしまったかのように。
フィレインは最後に悔し涙を浮かべ、守れず、救えなかった主への詫びを口にして息を引き取った。苦悶の表情を刻み、彼女がのばした手がことんと音を立てて崩れた際に、悲鳴はあちこちから巻き起こった。
ギャンレルは笑った。まるで喜劇の司会のようにフィレインの死を高らかに読み上げ、これが天命だ、と喜び吼えた。呆然と立ち尽くすエメリナの後ろには新たに向かわされた処刑人の姿がある。
ギャンレルはクロムに迫った。武器を捨て降伏し、クロムの持つ炎の台座を潔く譲渡せよと。さすれば命だけは助けてやるとわかりやすくも甘い誘惑をかけた。もちろんこれに信憑性などない。クロムは食いしばり、国の至宝をただただ握りしめるしかない。諦めるな、と叱咤するルフレを顧みたが、彼も逆転の一手を見つけてはいなかった。
三つ数えるうちに、と短いカウントダウンにクロムはとうとう心を折ろうとした。
しかし、それは叶わない。何故なら姉、エメリナの制止がかかったからだ。
彼女は目の前でめくるめく悲劇に涙していたが、心挫けそうな弟王子を叱りつける聖王でもあった。彼女はまだ、ペレジア王との対話が出来ないかと望む。しかしギャンレルの一蹴でいとも簡単に却下された。
力不足のくせに理想を語る口だけは立派。自分たちが被害者であるかのように振る舞い、過去を無かったことにして、理想を実現したかのように今は平和なイーリス。
ギャンレルは許せなかった。エメリナが、エメリナを信じて慕うイーリスの民が。だがその甘さ故に最悪の結末を迎えてしまった。彼女こそ最低の王であると指摘する。
エメリナは否定しなかった。何も言わず、ギャンレルの言葉を受け入れる。代わりにクロムの怒りの声が響きわたる。
ギャンレルは知らない。エメリナの苦悩もこれまでの人生を。戦いの残した傷跡を怒りもせず、憎まず、ただひたすらに耐えて国を立て直した人がエメリナだった。理想を語る者がいなければ、この世界に何が生まれるのか。エメリナはこの世界に希望を生む。だからこそクロムはエメリナという聖王の存在を強調し、彼女を力強く励ました。
掲げる理想に理解を示そうとするクロムに、エメリナは微笑み返し、ありがとうと呟いた。場違いなほどに美しく、気高く。誰が見ても何かを決意したとわかるような、優しい笑顔だった。
エメリナはペレジアに語りかけた。かつての混迷の時期にあったイーリスの民達に向けたように高らかな声音をあげた。
透き通るようなその優しい声音に誰もが耳を向けてしまう。
憎しみに囚われないで。
悲しみに支配されないで。
エメリナは訴える。
ひとかけらでもいい、その思いやりさえあれば世界は、平和はそこにあるのだと。
ペレジアの民は戦うことを選んだ。過酷な道しか、彼らには示されなかったのだ。かつてのイーリスのように。
エメリナは戦争を否定した。争いからは何も生まれない。その上で新しい道を照らした。
広場が静かになった。耳が痛いほどの静寂が辺りを包み込む。誰もがそうして彼女の次の言葉を待ち望んでいるように。
だがすでに決意は下されていた。エメリナは短い道を歩み、そして、途切れた崖上から身を投げた。
リズの悲鳴が乾いた空気を切り裂くように響いた。身を崩し、小さな身体から放たれる絶望の声が静寂を乱し、その場が騒然となるきっかけとなった。
駆けだしていたクロムの身体は膝から崩れ落ちる。魂が離れてしまったかのように力が抜けていくのだ。
姉へ向けていた手が届くこともなく。
最期までエメリナは笑っていた。その口元が何事かを呟いていたところまで鮮明に皆が確認できた。
それは確かに、血を分けた家族への愛の言葉だった。
身を投げたエメリナの姿が消えて、耳が痛いほどの張りつめた空気を裂く場違いな男の笑い声。
ペレジア王ギャンレルはエメリナの死を美しいと賛しあざ笑った。同時に無責任な王のレッテルを貼り、死者を愚弄した。
引き時だ。ルフレの頭がそう判断したと同時に、フェリアのバジーリオからも同じ声があがる。抜け目なく彼は退路を確保していた。
それでもクロムは姉を連れ帰ろうと、這い進む。生気が無く、青白い顔をした青年の頭に、耳に、何も通らない。
ルフレはクロムを支えた。バジーリオ、フラヴィアの二人からも傍を離れるなと命じられ、ルフレは力無い青年を引き退陣を皆に宣告した。
何が起こったのか、名前にはわからなかった。理解することを頭が拒否するように呆然と事のあらましを目撃していたのだ。仲間の大半がそうであったように、見ていることしか出来なかった。ざわざわと耳鳴りを感じても、違和感も不快感も生まれない。
冷静な者達が動き出す。混乱する仲間を諫め、連れて行く。名前も腕を引かれ、肩を掴まれていつの間にか引きずられるようにして走らされた。長く美しい金髪が視界の端で揺れる。線の細くも背の高い人が隣で何かを語りかけてきていたが、名前は声を上げられなかった。
何処までも広がる澄み渡る青空を切り裂くような切り立った崖の上に、イーリス聖王エメリナはいた。傍に控える屈強な男はぞんざいな扱いで聖王を足場の先まで追いやる。
ペレジアの王、ギャンレルは芝居染みていて悪い冗談を述べているような口調で裁定を下した。憎きイーリスの聖王の命絶たれるときだと民衆を仰ぎ立て、自らも楽しむように。ギャンレルから放たれるあからさまな悪意は確かにイーリスという存在にまざまざと向けられていた。
執行人の男が、祈るエメリナの背に向けて巨斧を振り上げる。
が、その前に東フェリアの勇王、フラヴィアの放った投げ斧が執行人に命中した。肉を穿ち、骨を砕く痛みに耐え抜いたものの、男はその衝撃を受け流すことは出来ずに細い足場から片足を踏み外してしまったが為に落ちていった。
朽ちかけたペレジアの城下になだれ込む一軍はクロム達だ。崖上から愛する弟と妹、大事な国民達がかけつけてくる姿も追いつめられたエメリナは見守ることしか出来なかった。
ギャンレルとの口問答にも見切りを付け、クロム達は突き進む。
狙いは飛空部隊。屈強な竜騎兵達を弓・風魔道を操って落としていく。その中に名前の姿はなかった。この作戦が打ち立てられてからも弓兵の名前に出番は与えられなかった。何故、と問う仲間もいたが、名前は対してこの決定に反抗しなかった。
名前の仕事は前線で竜騎士落としを実行する仲間達を守る盾達のサポートだ。ティアモやスミア達空軍を狙う不届き者達へ容赦なく矢尻を向ける。
待ち望んでいた聖王処刑の場を混迷に陥れたイーリス人への怒りと、長年の恨みを晴らす機会を与えられた喜びで戦いに関してただでさえ士気は高い。さらには足場が柔らかな砂場であること、土地勘の有無による不利がある。
攻めてきた戦士達から名前を庇ったのは、ベテランの傭兵グレゴだ。矢を放った後の隙を突かれた名前を突き飛ばすように間に割り込み、襲いかかる斧を白光の剣で払い、そのままの勢いで身体を回転させて相手を斬り伏せた。まるで自分の手足のような剣技に、瞬きつつ驚きをなんとか受け流す。
「だーいじょうぶかい、嬢ちゃん」
「す、すみませ…ん!」
名前の手から放たれた矢は、グレゴの隣を駆け抜けて後ろでぶつぶつ呟いていた呪術士の肩に突き刺さる。二本目の矢はうずくまる頭を打ち抜いた。
乾いた口笛が表す賞賛を耳にしながら名前は眉を顰めた。
「おう、大丈夫そうだな」
「……」
「余所見なんざするなよ、気になるのはわかるけどな」
「…っ」
名前は飄々と語りかける男を睨みつけた。グレゴはやっぱりにんまりと笑っただけで堪えることはない。
見られていたのか、と、互いに余裕を持っていたことを名前は猛省する。空を仰ぐように切り立った崖上を見れば、エメリナは佇み見守ってくれている。恐らくは自分の存在は見えていないだろうが、それでも名前はよかった。この手で助けられるならそれでいい。
しかし、名前が見ていた者は彼女ではなかった。
封剣ファルシオンを手に戦場を駆け抜けていく背。軍師を共に、自らを危地に向けていく青年。
心配だった。最愛の姉の為なら自らの命を省みようともしない彼のことが。もちろん、自分が青年を心配する資格などないことは理解していても。
しかし傍にはルフレがいる。固い砂地を選び追従する騎士達がいる。
きっと彼は守られる。例え自分がそこにいなくても。何よりも安心できたのはルフレの姿も確認出来たことが大きかった。
名前は目を怒らせる。まだ戦いは続くのだ。グレゴの余裕も削ってやらなくてはならない。そうすることで、決着が早く着いてくれるのではないかと名前は考えて、確かに感じる寂しさを紛らわせるのだった。
続々と現れる竜騎兵達が地に伏した後、ペレジア兵たちは焦心から隊列を乱し、士気の下がりをルフレは読みとっていた。剣を抜き、一心に戦い続けるクロムのファルシオンに当てる。彼はようやく待ち望んでいた瞬間が訪れたことを知り、視線をあげた。
時期は整った。剣を掲げ合図をあげれば、疾風が広場を独占する。
白い羽根を広げ、力強く嘶く天馬達。怪我を受け、ぼろぼろの風体を纏いしも美しい女騎士達がそこには在った。
(フィレイン様…!)
名前は胸が高まるのを感じた。初めて天馬騎士達の行進を目撃したあの日のような、期待と希望を確かに感じた。
フィレインは今日までの日々の苦辛を覗かせるように少しやつれていたが、その目の輝きの力強さは誰よりも輝いていた。銀槍を抱え、戦乙女達は主人を出迎えに空を駆けていった。
ルフレは、エメリナの命が無事であることと天馬騎士達が捕虜となって囚われていることを確信していた。エメリナがむざむざとギャンレルに降伏したのは何故か。騎士達の命と己の命とを天秤にかけることを聖王は考えなかっただろう。
自分を含め、クロム傭兵団でペレジアの空軍を抑えると共に、フェリアの精鋭部隊が囚われの女騎士達を助ける時間稼ぎという囮役。そして、イーリスの天馬騎士達にエメリナの救助を任せるのだ。
ルフレの読み通り、事は運んだ。天駆ける騎馬は一目散にエメリナの元へ急ぐ。おめおめと主に屈辱を負わせてしまった。彼女たちは失った誇りを取り戻すべく駆け急いだ。
故に突如現れた天敵に一騎が墜落する様から、易々と崩れ落ちていくのは早かった。
地上から放たれる悪意は天馬の胴を、翼を容赦なく射抜き貫く。フィレインが地を認めたときには既に遅かった。先程まで影すら無かった弓を抱える屍兵の群がそこには在った。死せる者達に容赦はない。生者に向けられた一矢が、フィレインの肢体に刺さるのが一つの合図のように天馬達は堕ちていった。
何が起こったのか、わからない程に皆が凍り付いた。まるでさっきまで光り輝いていた希望がするりと逃げてしまったかのように。
フィレインは最後に悔し涙を浮かべ、守れず、救えなかった主への詫びを口にして息を引き取った。苦悶の表情を刻み、彼女がのばした手がことんと音を立てて崩れた際に、悲鳴はあちこちから巻き起こった。
ギャンレルは笑った。まるで喜劇の司会のようにフィレインの死を高らかに読み上げ、これが天命だ、と喜び吼えた。呆然と立ち尽くすエメリナの後ろには新たに向かわされた処刑人の姿がある。
ギャンレルはクロムに迫った。武器を捨て降伏し、クロムの持つ炎の台座を潔く譲渡せよと。さすれば命だけは助けてやるとわかりやすくも甘い誘惑をかけた。もちろんこれに信憑性などない。クロムは食いしばり、国の至宝をただただ握りしめるしかない。諦めるな、と叱咤するルフレを顧みたが、彼も逆転の一手を見つけてはいなかった。
三つ数えるうちに、と短いカウントダウンにクロムはとうとう心を折ろうとした。
しかし、それは叶わない。何故なら姉、エメリナの制止がかかったからだ。
彼女は目の前でめくるめく悲劇に涙していたが、心挫けそうな弟王子を叱りつける聖王でもあった。彼女はまだ、ペレジア王との対話が出来ないかと望む。しかしギャンレルの一蹴でいとも簡単に却下された。
力不足のくせに理想を語る口だけは立派。自分たちが被害者であるかのように振る舞い、過去を無かったことにして、理想を実現したかのように今は平和なイーリス。
ギャンレルは許せなかった。エメリナが、エメリナを信じて慕うイーリスの民が。だがその甘さ故に最悪の結末を迎えてしまった。彼女こそ最低の王であると指摘する。
エメリナは否定しなかった。何も言わず、ギャンレルの言葉を受け入れる。代わりにクロムの怒りの声が響きわたる。
ギャンレルは知らない。エメリナの苦悩もこれまでの人生を。戦いの残した傷跡を怒りもせず、憎まず、ただひたすらに耐えて国を立て直した人がエメリナだった。理想を語る者がいなければ、この世界に何が生まれるのか。エメリナはこの世界に希望を生む。だからこそクロムはエメリナという聖王の存在を強調し、彼女を力強く励ました。
掲げる理想に理解を示そうとするクロムに、エメリナは微笑み返し、ありがとうと呟いた。場違いなほどに美しく、気高く。誰が見ても何かを決意したとわかるような、優しい笑顔だった。
エメリナはペレジアに語りかけた。かつての混迷の時期にあったイーリスの民達に向けたように高らかな声音をあげた。
透き通るようなその優しい声音に誰もが耳を向けてしまう。
憎しみに囚われないで。
悲しみに支配されないで。
エメリナは訴える。
ひとかけらでもいい、その思いやりさえあれば世界は、平和はそこにあるのだと。
ペレジアの民は戦うことを選んだ。過酷な道しか、彼らには示されなかったのだ。かつてのイーリスのように。
エメリナは戦争を否定した。争いからは何も生まれない。その上で新しい道を照らした。
広場が静かになった。耳が痛いほどの静寂が辺りを包み込む。誰もがそうして彼女の次の言葉を待ち望んでいるように。
だがすでに決意は下されていた。エメリナは短い道を歩み、そして、途切れた崖上から身を投げた。
リズの悲鳴が乾いた空気を切り裂くように響いた。身を崩し、小さな身体から放たれる絶望の声が静寂を乱し、その場が騒然となるきっかけとなった。
駆けだしていたクロムの身体は膝から崩れ落ちる。魂が離れてしまったかのように力が抜けていくのだ。
姉へ向けていた手が届くこともなく。
最期までエメリナは笑っていた。その口元が何事かを呟いていたところまで鮮明に皆が確認できた。
それは確かに、血を分けた家族への愛の言葉だった。
身を投げたエメリナの姿が消えて、耳が痛いほどの張りつめた空気を裂く場違いな男の笑い声。
ペレジア王ギャンレルはエメリナの死を美しいと賛しあざ笑った。同時に無責任な王のレッテルを貼り、死者を愚弄した。
引き時だ。ルフレの頭がそう判断したと同時に、フェリアのバジーリオからも同じ声があがる。抜け目なく彼は退路を確保していた。
それでもクロムは姉を連れ帰ろうと、這い進む。生気が無く、青白い顔をした青年の頭に、耳に、何も通らない。
ルフレはクロムを支えた。バジーリオ、フラヴィアの二人からも傍を離れるなと命じられ、ルフレは力無い青年を引き退陣を皆に宣告した。
何が起こったのか、名前にはわからなかった。理解することを頭が拒否するように呆然と事のあらましを目撃していたのだ。仲間の大半がそうであったように、見ていることしか出来なかった。ざわざわと耳鳴りを感じても、違和感も不快感も生まれない。
冷静な者達が動き出す。混乱する仲間を諫め、連れて行く。名前も腕を引かれ、肩を掴まれていつの間にか引きずられるようにして走らされた。長く美しい金髪が視界の端で揺れる。線の細くも背の高い人が隣で何かを語りかけてきていたが、名前は声を上げられなかった。