#07.これからは俺が力になるから
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他人への感情や思いがヒステリックにならないところは、名前自身で自分の良いところだと自負していた。それは怒りだったり、恋心だったり、他人へぶつけるべき感情は至って淡泊だ。
何処か冷めた視線を送る精神が歯止めをかけているのかもしれない。そんな自己分析をしながら砂に足を取られつつもせかせかと女性用天幕へ急いでいた。
相変わらずルフレは頼りにするつもりだし、愛らしいスミアも好きだ。
今からは、それでいい。
名前はふぅ、と一息溜息を吐きながら、疲れた頭を少し休ませつつ歩き続けた。
「苗字!」
不意に呼び止められて、名前は足を止める。振り切っていた弓を握りながら辺りを見回した。先程と違って月が雲にでも隠れてしまったのか、柔らかな光は陰り暗い。
しかし、砂の混じる独特の足音が雑なテンポで近づいてくる。名前がようやく相手を見極めることが出来たのは、ほんの僅かの距離間になってからだった。
クロム様、と声も出さずに彼を認めると、青年はいつかと違って赤ら顔であまり締まりがない。どうやらこちらはアルコールが入っているようだ。
こういうときに限って忠節な部下であるフレデリクはいないのか。名前は暗い空の元を必死で分厚い鎧を探した。が、ふらりと揺れた身体を支えようとするクロムに肩を掴まれてあやうく膝から崩れそうになった。
「だ、大丈夫ですか」
「…あぁ…ちょっと、飲み過ぎた」
「……」
もう、こんな時に。名前は沈黙でそう呟くと、誰か人は来ないかとまた周りを見渡す。
「今まで、何処にいたんだ?」
「え…?…近くのオアシスですけど…」
「そうか、そうか…ルフレは?」
「ルフレさんはスミアさんと一緒ですから大丈夫です」
「…苗字は?」
「え?」
「苗字は大丈夫か?」
「……大丈夫ですよ」
何が、と問う手もあった。が、酔っているかもしれない男の言葉など流してしまえばいいと名前は判断した。
クロムは藍色に近い瞳でじっと名前を映している。名前はその瞳とかち合うと、相手が何を考えているのかわからずに図ってしまって離すことが出来なくなった。思わず、条件反射と言っていい、口角をあげて笑みを取り繕う。
すると不意に名前の頭に手を置かれた。
「な、なに…?」
「…無理するな」
「えっ」
「また自分に嘘を吐いているだろう」
「そっ…そんなこと…!」
「ルフレのことはもういいのか?」
「……っ」
目を丸くして相手を凝視した。辺りが暗いためか、やはりまだクロムの心境を推し量れない。彼の人は能面のように表情がないからだ。
しかし言葉は関係なしに紡がれていく。
「ルフレのことが、好きだったんだろう」
「っ!?」
「無理、するな」
「…っ無理なんて、してない!」
名前は一気に体温を上昇させながら叫んだ。耳まで真っ赤になったのだが、この暗闇で視認は難しいだろう。だが隠す気にはなれなかった。クロムに心中を土足で踏み込まれたような、そんな不愉快さに頭に血が上る。
これにクロムは、驚いたとはいかずに僅かに眉を傾けるのみだ。頭に乗せた手を振り払われてきりっと睨みつける夜色の名前の目は、怒りで目端が釣り合っていても相変わらず美しいと思う。むしろいつもひた隠しにするだけの少女の本音が自分にぶつかって嬉しいとさえ感じていた。
しかし、次の瞬間にはその猛々しい気性は形を潜めた。クロムに向けられた敵視するような強い視線も顔を反らされ外れてしまった。
「……ごめんなさい…もう、いいですから…お休みになられては?」
「……」
「……?…あ…あの、…ひっ!」
無口なクロムの反応を待っていた時、力任せに後ろ頭を掴まれてクロムの胸元に顔を押しつけられ、身体をぴたりとくっつく形になった。
「くっくっ…くろっ」
「泣いたっていい」
「…っ!」
「悲しければ思い切り泣いたっていい。じゃないと思い切り笑えないぞ」
「……」
「俺は…俺はお前の笑った顔が見たいんだ」
「か、勝手なこと言わないで!」
名前はクロムを押しやって体を離した。しかし寸でのところで遅れた腕を掴まれて全てが解放されたわけじゃない。
離せとばかりに睨みつけるも、クロムは動じることもなく。名前は歯噛む。
「わ、私のこと、何にも知らないくせにっ!変なこと言わないで!」
「あぁ、何も知らない。知らないから、知りたいんだ!」
「っ…」
「何故俺には話せない。ルフレには打ち明けて、俺は駄目なのか、わからない。俺だって…俺だってお前の力になれる。助けてやれる」
「…く…クロムさま」
「教えてほしい、苗字…そしたらもう、一人で泣かせたりなんかしないから」
「…………」
「これからは俺が力になるから」
名前は確かに動揺していた。目を泳がせ、周りの闇にさえ助けを求める程に。
クロムの顔は近くで見ても赤ら顔に変わりないし、鼻につくアルコールを確かに感知してしまう。冗談なのか、酔っているのか。真剣な面差しが本気なのかもわからない。
クロムの慈愛ぶりはこの間理解したはずだったのだが、計り間違えていたのだろうか。
名前は首を振り、何を焦っているのかと自問する。青年は酒が入っている。そう気付くと真面目に相手をするのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
相手と顔を合わせずに歪んだ笑みを浮かべて、名前はもう一度呟いた。
「も…もう、夜、遅いから、寝ましょう?」
「…苗字」
「もう、寝た方が」
「苗字」
「も……もう…いいので…早く、はやく離して」
「苗字!」
クロムの声が一段と大きくなった。ひそりひそりとした空気がピリピリと電気が走り、身体が強ばる。相変わらず月が雲から覗かれず、辺りは真っ暗闇で逃げ道を塞がれている閉塞感に息が詰まった。
このままクロムと話していたら、と考えて恐ろしくなった。
いつか自分は白状してしまうのではないか。そんなことになれば、待っているのは。
何が、待っているのか。考えられない。
内震え、とにかく次の言葉を急いで考える。クロムはどうあってもこの場から離してくれないつもりだとだけはわかりきっていた。
だから決定打となる言葉を投げつけなくては。しかしそれは寡黙な少女には難儀な問題だった。
それ故に、黙ってクロムが待っていてくれると思ったのだが、そろりそろりと距離を詰められて腕を取られて気が付けばまた抱きしめられていた。
垣間見た青年の顔は、薄暗かったけれども、あの夜のような優しいものではなかった。獰猛な、生命力の一端を見せる男だった。
「っ」
「苗字…俺は…俺はお前を一人にしたくない」
「く、くろ…む…さま…!」
「俺がお前の力になる。ルフレにも、負けない。だから逃げないでほしい。…俺から、逃げないでくれ」
逞しい腕が背を撫で、頭を押し当ててくる。強い拘束が、相手を見誤っていたことを強く訴えかけた。酔っているとは思えない。
なら鼻を突く酒の臭いはなんだ。男の汗の臭いと混じって、身の毛が弥立つのは何故だ。心地の良い感覚と暖かな心持ちを確かに認めてしまう自分がいるのはどうして。
彼は、その優しい声音で何を訴えているのか。クロムの言葉の裏側を掴み取るのは簡単だろう。
しかし。
「あ…っ」
「苗字…」
「…く…クロムさ…」
「クロム様?」
「!!」
「あっ」
「いやっ!!」
がん、とクロムを突き飛ばした。クロムはふらりと体勢を崩したが砂地をぐっと踏ん張って立ち尽くす。
名前は自分のしたことが信じられなくて動揺と困惑を隠せずに、驚くクロムと現れたフレデリクを交互に見比べる。松明を持って明るいフレデリクの顔は事態の把握が出来ずに何事かと首を捻るばかりだ。
見られていない。気付けばほっと安堵していて、名前は後退ると弓を抱え直して駆けだした。
後ろからクロムの呼び声は届いていたが、名前は勿論振り返ることなどなかった。
「申し訳ありません。…彼女と何かあったのですか?」
「あ、あぁ…いや、なんでもない」
「そうですか?もう夜遅いですし、夜更かしは感心しませんよ」
「…すまん」
フレデリクは就寝前の夜回りをしていたのだろう。
クロムはただ、意気消沈していた。それは最後、名前の言葉が心に響き渡っていたからだ。
それは立派な拒絶の言葉。
名前は驚くほどに嘘が下手だとクロムは踏んでいる。本心ととって間違いないだろう。
片やフレデリクは動かない。どうやらクロムの天幕へ付いてくるようだ。
クロムは歩き出した。従順な騎士を、一刻も早く休ませてやりたかったからだ。
「どうかしたの?」
「……えっ」
「いつも以上にぼうっとしちゃって。…あまり眠れなかった?」
「あ…いや、大丈夫…」
ティアモに話しかけられて、名前は弱々しく頭を振った。そう、と、ティアモは深くは聞かなかったが、名前の様子がおかしいことは明らかだった。何よりその、いつも以上突っ慳貪な返事からして判断は出来る。
名前は干渉を嫌う。無理に聞き出そうとすれば返って機嫌を悪くなるだろうとティアモは感づいていた。だから言葉を繋がなかったのだが、まさか名前を悩ませていることが、まさにその所為だとはティアモも気付かない。
あれからクロムのことばかり考える自分がいる。ルフレへの思いが終わった途端に何故、と考えてばかりいて眠れなかった。
いや、正確に言えば、あまり深く考えられなかった。何故クロムがあんなことをしたのか、肝心の理由を問いかけた時に意味のない迷走は始まる。
まるで思いつくことを避けるように。
「苗字!」
「!」
「あっ、く、クロム様!」
「…………」
名前は少し身を反らしてシャッキリと背筋を伸ばしたティアモの影に隠れた。目線を下げ、クロムの顔を見ないようにティアモの美しい紅髪を見つめる。
それでもクロムは隠れた苗字を見つけて駆け寄ってきた。影を落として懸命にこちらを見ないでいる名前の顔色は無表情だ。そんな彼女に眉を顰め、頭を掻いて肩を落とす。
なにやら不穏な空気だ。更にそんな二人に挟まれてしまったティアモはどちらに注目すればいいのかと困って、ますます事態は混迷している。
「苗字…その…昨日は…」
「…、……、…」
「あっ…な、苗字!」
ぼそぼそと何やら呟いた後、名前は足早に二人から離れていった。クロムは追いかけない。突き放されて動けなかったと言っていい。
ティアモは心配そうに思い人へ声をかける。
「あの…クロム様…?」
「…ん?あ、あぁ。なんだ?」
「どうかしたんですか?あの子と昨日何か…」
「あ、あぁ。いや、ちょっとな」
「ちょっと…」
ティアモはクロムの言葉を反復しながらも、そのちょっとがちょっとではないだろうと思う。
クロムはそれじゃあ、と言葉少なく立ち去っていく。名前とは、反対の方だった。
一方の名前は、せかせかと歩き回っていた。お守りに近い弓を抱きしめて、誰とも目を合わせないようにして。
クロムのことが頭を離れない。
何故、何故、何故。
恋が終わって、一段落するはずだった。だが気持ちに余裕が出来るにはまだ時間が足りなかった。
ルフレのことが好きだ。
人として、好き。
だから幸せになってほしいと願える人間になろうと思った。
しかし、クロムのことは、どうだったろう。昨日の出来事から前の、自分の感情がわからない。
昨日の夜、クロムの優しい顔が、心が、男が目の前に迫っていた。
何故、と問いかけると答えはすぐに導かれるだろう。
(駄目だ…!)
名前は首を振り気を紛らわせる。もうそれも何度目かわからない。
そこから先を考えるのは怖い。
彼は知らないのだ。自分の正体を。口を噤んだ理由も、異端と認められるのを恐れて決めたことだ。クロムがもし、その事実を突き止めたりなどしたら、どう彼は変わるのだろう。
そして自惚れたくはないと強く思う。魅力も人としての器も小さい自分が、と、認めているのだ。
何処かのお伽噺のようなことが起こるはずがないのはわかりきっていた。
そこまで考えて、改めて名前はクロムがイーリスという国の王子であることに気が付いた。
普段が気さくで市井にとけ込んでいるから忘れてしまいがちだけれど、彼は本物の王子様で。
自分と釣り合うはずがないとまで結論づけてから、色々なことが沸き起こって絶望した。
ルフレという憧れが消えて間もなく、自分がまた性懲りもなく恋をしてしまったこと。尻が軽い自分が情けなかった。
そしてもう一つはその恋が、自分を支えることもなく、叶うはずがないとわかってしまったこと。
相手と自分の身分があまりにも違いすぎた。
片や本物の王子。今は自由に過ごすことが出来ても、王家に連なる者はいつか国に殉じるものだ。高貴な血を絶やさないことも仕事の一つと言われる。教養や思想をしっかりと身に付けたお嬢様やお姫様と呼ばれる人をいつかは伴侶に迎えるだろう。
それに比べて自分はどうだ。
身元を明かせない後ろめたさと、常識外れの異邦人。生きてきた世界が違いすぎる。
どう想像しても、自分が傷つく結果しか待ち受けない。
ルフレの時のように穏やかな気持ちに落ち着いてはくれない。片思いで良いから、思うだけでいいからと思えたのは何故か。
クロムのことを思うだけで気が重くなる。それは秘密を明かせぬ後ろめたさの為だとは気づいていた。
─今はただ、時間が足りないのだ。器用な己でないから全てを処理仕切れないでいるだけだ。
名前はそう結論づけて、溜息を吐いた。元来考えすぎるところが災いに転じているような気がする。
自分は大丈夫だ。
何時だって一人でいた自分なら大丈夫。
少し人と深く関わりすぎた。それは長くこの世界に留まりすぎているせいだと、名前はそう思うことにして思考を閉じることにした。
ペレジアの城は近い。
戦いはこれから始まることが考え疲れた名前にはありがたい気がしなくもなかった。
何処か冷めた視線を送る精神が歯止めをかけているのかもしれない。そんな自己分析をしながら砂に足を取られつつもせかせかと女性用天幕へ急いでいた。
相変わらずルフレは頼りにするつもりだし、愛らしいスミアも好きだ。
今からは、それでいい。
名前はふぅ、と一息溜息を吐きながら、疲れた頭を少し休ませつつ歩き続けた。
「苗字!」
不意に呼び止められて、名前は足を止める。振り切っていた弓を握りながら辺りを見回した。先程と違って月が雲にでも隠れてしまったのか、柔らかな光は陰り暗い。
しかし、砂の混じる独特の足音が雑なテンポで近づいてくる。名前がようやく相手を見極めることが出来たのは、ほんの僅かの距離間になってからだった。
クロム様、と声も出さずに彼を認めると、青年はいつかと違って赤ら顔であまり締まりがない。どうやらこちらはアルコールが入っているようだ。
こういうときに限って忠節な部下であるフレデリクはいないのか。名前は暗い空の元を必死で分厚い鎧を探した。が、ふらりと揺れた身体を支えようとするクロムに肩を掴まれてあやうく膝から崩れそうになった。
「だ、大丈夫ですか」
「…あぁ…ちょっと、飲み過ぎた」
「……」
もう、こんな時に。名前は沈黙でそう呟くと、誰か人は来ないかとまた周りを見渡す。
「今まで、何処にいたんだ?」
「え…?…近くのオアシスですけど…」
「そうか、そうか…ルフレは?」
「ルフレさんはスミアさんと一緒ですから大丈夫です」
「…苗字は?」
「え?」
「苗字は大丈夫か?」
「……大丈夫ですよ」
何が、と問う手もあった。が、酔っているかもしれない男の言葉など流してしまえばいいと名前は判断した。
クロムは藍色に近い瞳でじっと名前を映している。名前はその瞳とかち合うと、相手が何を考えているのかわからずに図ってしまって離すことが出来なくなった。思わず、条件反射と言っていい、口角をあげて笑みを取り繕う。
すると不意に名前の頭に手を置かれた。
「な、なに…?」
「…無理するな」
「えっ」
「また自分に嘘を吐いているだろう」
「そっ…そんなこと…!」
「ルフレのことはもういいのか?」
「……っ」
目を丸くして相手を凝視した。辺りが暗いためか、やはりまだクロムの心境を推し量れない。彼の人は能面のように表情がないからだ。
しかし言葉は関係なしに紡がれていく。
「ルフレのことが、好きだったんだろう」
「っ!?」
「無理、するな」
「…っ無理なんて、してない!」
名前は一気に体温を上昇させながら叫んだ。耳まで真っ赤になったのだが、この暗闇で視認は難しいだろう。だが隠す気にはなれなかった。クロムに心中を土足で踏み込まれたような、そんな不愉快さに頭に血が上る。
これにクロムは、驚いたとはいかずに僅かに眉を傾けるのみだ。頭に乗せた手を振り払われてきりっと睨みつける夜色の名前の目は、怒りで目端が釣り合っていても相変わらず美しいと思う。むしろいつもひた隠しにするだけの少女の本音が自分にぶつかって嬉しいとさえ感じていた。
しかし、次の瞬間にはその猛々しい気性は形を潜めた。クロムに向けられた敵視するような強い視線も顔を反らされ外れてしまった。
「……ごめんなさい…もう、いいですから…お休みになられては?」
「……」
「……?…あ…あの、…ひっ!」
無口なクロムの反応を待っていた時、力任せに後ろ頭を掴まれてクロムの胸元に顔を押しつけられ、身体をぴたりとくっつく形になった。
「くっくっ…くろっ」
「泣いたっていい」
「…っ!」
「悲しければ思い切り泣いたっていい。じゃないと思い切り笑えないぞ」
「……」
「俺は…俺はお前の笑った顔が見たいんだ」
「か、勝手なこと言わないで!」
名前はクロムを押しやって体を離した。しかし寸でのところで遅れた腕を掴まれて全てが解放されたわけじゃない。
離せとばかりに睨みつけるも、クロムは動じることもなく。名前は歯噛む。
「わ、私のこと、何にも知らないくせにっ!変なこと言わないで!」
「あぁ、何も知らない。知らないから、知りたいんだ!」
「っ…」
「何故俺には話せない。ルフレには打ち明けて、俺は駄目なのか、わからない。俺だって…俺だってお前の力になれる。助けてやれる」
「…く…クロムさま」
「教えてほしい、苗字…そしたらもう、一人で泣かせたりなんかしないから」
「…………」
「これからは俺が力になるから」
名前は確かに動揺していた。目を泳がせ、周りの闇にさえ助けを求める程に。
クロムの顔は近くで見ても赤ら顔に変わりないし、鼻につくアルコールを確かに感知してしまう。冗談なのか、酔っているのか。真剣な面差しが本気なのかもわからない。
クロムの慈愛ぶりはこの間理解したはずだったのだが、計り間違えていたのだろうか。
名前は首を振り、何を焦っているのかと自問する。青年は酒が入っている。そう気付くと真面目に相手をするのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
相手と顔を合わせずに歪んだ笑みを浮かべて、名前はもう一度呟いた。
「も…もう、夜、遅いから、寝ましょう?」
「…苗字」
「もう、寝た方が」
「苗字」
「も……もう…いいので…早く、はやく離して」
「苗字!」
クロムの声が一段と大きくなった。ひそりひそりとした空気がピリピリと電気が走り、身体が強ばる。相変わらず月が雲から覗かれず、辺りは真っ暗闇で逃げ道を塞がれている閉塞感に息が詰まった。
このままクロムと話していたら、と考えて恐ろしくなった。
いつか自分は白状してしまうのではないか。そんなことになれば、待っているのは。
何が、待っているのか。考えられない。
内震え、とにかく次の言葉を急いで考える。クロムはどうあってもこの場から離してくれないつもりだとだけはわかりきっていた。
だから決定打となる言葉を投げつけなくては。しかしそれは寡黙な少女には難儀な問題だった。
それ故に、黙ってクロムが待っていてくれると思ったのだが、そろりそろりと距離を詰められて腕を取られて気が付けばまた抱きしめられていた。
垣間見た青年の顔は、薄暗かったけれども、あの夜のような優しいものではなかった。獰猛な、生命力の一端を見せる男だった。
「っ」
「苗字…俺は…俺はお前を一人にしたくない」
「く、くろ…む…さま…!」
「俺がお前の力になる。ルフレにも、負けない。だから逃げないでほしい。…俺から、逃げないでくれ」
逞しい腕が背を撫で、頭を押し当ててくる。強い拘束が、相手を見誤っていたことを強く訴えかけた。酔っているとは思えない。
なら鼻を突く酒の臭いはなんだ。男の汗の臭いと混じって、身の毛が弥立つのは何故だ。心地の良い感覚と暖かな心持ちを確かに認めてしまう自分がいるのはどうして。
彼は、その優しい声音で何を訴えているのか。クロムの言葉の裏側を掴み取るのは簡単だろう。
しかし。
「あ…っ」
「苗字…」
「…く…クロムさ…」
「クロム様?」
「!!」
「あっ」
「いやっ!!」
がん、とクロムを突き飛ばした。クロムはふらりと体勢を崩したが砂地をぐっと踏ん張って立ち尽くす。
名前は自分のしたことが信じられなくて動揺と困惑を隠せずに、驚くクロムと現れたフレデリクを交互に見比べる。松明を持って明るいフレデリクの顔は事態の把握が出来ずに何事かと首を捻るばかりだ。
見られていない。気付けばほっと安堵していて、名前は後退ると弓を抱え直して駆けだした。
後ろからクロムの呼び声は届いていたが、名前は勿論振り返ることなどなかった。
「申し訳ありません。…彼女と何かあったのですか?」
「あ、あぁ…いや、なんでもない」
「そうですか?もう夜遅いですし、夜更かしは感心しませんよ」
「…すまん」
フレデリクは就寝前の夜回りをしていたのだろう。
クロムはただ、意気消沈していた。それは最後、名前の言葉が心に響き渡っていたからだ。
それは立派な拒絶の言葉。
名前は驚くほどに嘘が下手だとクロムは踏んでいる。本心ととって間違いないだろう。
片やフレデリクは動かない。どうやらクロムの天幕へ付いてくるようだ。
クロムは歩き出した。従順な騎士を、一刻も早く休ませてやりたかったからだ。
「どうかしたの?」
「……えっ」
「いつも以上にぼうっとしちゃって。…あまり眠れなかった?」
「あ…いや、大丈夫…」
ティアモに話しかけられて、名前は弱々しく頭を振った。そう、と、ティアモは深くは聞かなかったが、名前の様子がおかしいことは明らかだった。何よりその、いつも以上突っ慳貪な返事からして判断は出来る。
名前は干渉を嫌う。無理に聞き出そうとすれば返って機嫌を悪くなるだろうとティアモは感づいていた。だから言葉を繋がなかったのだが、まさか名前を悩ませていることが、まさにその所為だとはティアモも気付かない。
あれからクロムのことばかり考える自分がいる。ルフレへの思いが終わった途端に何故、と考えてばかりいて眠れなかった。
いや、正確に言えば、あまり深く考えられなかった。何故クロムがあんなことをしたのか、肝心の理由を問いかけた時に意味のない迷走は始まる。
まるで思いつくことを避けるように。
「苗字!」
「!」
「あっ、く、クロム様!」
「…………」
名前は少し身を反らしてシャッキリと背筋を伸ばしたティアモの影に隠れた。目線を下げ、クロムの顔を見ないようにティアモの美しい紅髪を見つめる。
それでもクロムは隠れた苗字を見つけて駆け寄ってきた。影を落として懸命にこちらを見ないでいる名前の顔色は無表情だ。そんな彼女に眉を顰め、頭を掻いて肩を落とす。
なにやら不穏な空気だ。更にそんな二人に挟まれてしまったティアモはどちらに注目すればいいのかと困って、ますます事態は混迷している。
「苗字…その…昨日は…」
「…、……、…」
「あっ…な、苗字!」
ぼそぼそと何やら呟いた後、名前は足早に二人から離れていった。クロムは追いかけない。突き放されて動けなかったと言っていい。
ティアモは心配そうに思い人へ声をかける。
「あの…クロム様…?」
「…ん?あ、あぁ。なんだ?」
「どうかしたんですか?あの子と昨日何か…」
「あ、あぁ。いや、ちょっとな」
「ちょっと…」
ティアモはクロムの言葉を反復しながらも、そのちょっとがちょっとではないだろうと思う。
クロムはそれじゃあ、と言葉少なく立ち去っていく。名前とは、反対の方だった。
一方の名前は、せかせかと歩き回っていた。お守りに近い弓を抱きしめて、誰とも目を合わせないようにして。
クロムのことが頭を離れない。
何故、何故、何故。
恋が終わって、一段落するはずだった。だが気持ちに余裕が出来るにはまだ時間が足りなかった。
ルフレのことが好きだ。
人として、好き。
だから幸せになってほしいと願える人間になろうと思った。
しかし、クロムのことは、どうだったろう。昨日の出来事から前の、自分の感情がわからない。
昨日の夜、クロムの優しい顔が、心が、男が目の前に迫っていた。
何故、と問いかけると答えはすぐに導かれるだろう。
(駄目だ…!)
名前は首を振り気を紛らわせる。もうそれも何度目かわからない。
そこから先を考えるのは怖い。
彼は知らないのだ。自分の正体を。口を噤んだ理由も、異端と認められるのを恐れて決めたことだ。クロムがもし、その事実を突き止めたりなどしたら、どう彼は変わるのだろう。
そして自惚れたくはないと強く思う。魅力も人としての器も小さい自分が、と、認めているのだ。
何処かのお伽噺のようなことが起こるはずがないのはわかりきっていた。
そこまで考えて、改めて名前はクロムがイーリスという国の王子であることに気が付いた。
普段が気さくで市井にとけ込んでいるから忘れてしまいがちだけれど、彼は本物の王子様で。
自分と釣り合うはずがないとまで結論づけてから、色々なことが沸き起こって絶望した。
ルフレという憧れが消えて間もなく、自分がまた性懲りもなく恋をしてしまったこと。尻が軽い自分が情けなかった。
そしてもう一つはその恋が、自分を支えることもなく、叶うはずがないとわかってしまったこと。
相手と自分の身分があまりにも違いすぎた。
片や本物の王子。今は自由に過ごすことが出来ても、王家に連なる者はいつか国に殉じるものだ。高貴な血を絶やさないことも仕事の一つと言われる。教養や思想をしっかりと身に付けたお嬢様やお姫様と呼ばれる人をいつかは伴侶に迎えるだろう。
それに比べて自分はどうだ。
身元を明かせない後ろめたさと、常識外れの異邦人。生きてきた世界が違いすぎる。
どう想像しても、自分が傷つく結果しか待ち受けない。
ルフレの時のように穏やかな気持ちに落ち着いてはくれない。片思いで良いから、思うだけでいいからと思えたのは何故か。
クロムのことを思うだけで気が重くなる。それは秘密を明かせぬ後ろめたさの為だとは気づいていた。
─今はただ、時間が足りないのだ。器用な己でないから全てを処理仕切れないでいるだけだ。
名前はそう結論づけて、溜息を吐いた。元来考えすぎるところが災いに転じているような気がする。
自分は大丈夫だ。
何時だって一人でいた自分なら大丈夫。
少し人と深く関わりすぎた。それは長くこの世界に留まりすぎているせいだと、名前はそう思うことにして思考を閉じることにした。
ペレジアの城は近い。
戦いはこれから始まることが考え疲れた名前にはありがたい気がしなくもなかった。