#01.灯された始まり
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「大丈夫」
「キルロイ?」
「謝らなくていいんだよ。何も心配することはないからね」
青白い顔をしたままキルロイはそっと名前に歩み寄った。隅の方で静かに泣き続ける少女の頭にそっと大きな掌が優しく撫でる。その度に肩が跳ねた。一層身体を固くして、比例するように拳も握られていきアイクは無性に焦りを感じる。それでもキルロイは離れなかった。そうする内に名前の呼吸が収まり、上がる肩が下がっていく。
「大丈夫かい?」
「……」
「そう。でもね、自分を責めなくていいんだよ」
「…でも…みんな…、優しいのに…うまくできないのに、やさしいのに…わたし、うれしいのに、うれしくない…」
「どうしてだい?」
「夢から、覚めない…いつまでも、ずっと、そんな気がして…」
「夢から?」
「い…いきている、きが、ぜんぜんしなくて…」
「……」
「ど、どうしてここにいるのか…わからない…どうしてこんなことしているのか、わからない…」
「…うん」
「こんなことばかり考えてるのに、みんな、優しくて、ど、どうすればいいか、わからなくて、いきている、感覚が、わからない、くるしいの、ばっかり、で…」
「名前。我慢しなくてもいいんだよ。君はどうしたいんだい?」
ぱちり、と目が大きく開いた。初めて直視した目の前の男を見れば穏やかだが何処か突き放してくれるように、冷たい雰囲気がそこにあった。頬笑みがない。だが、それが名前には嬉しかった。言葉を偽るなと言われているようだった。
我慢していたことがあった。でも一度も言葉にはしなかった。もう子供じゃない、言葉にしても仕方がないと思っていたことだった。
名前は呼吸を忘れて口を開くと咳をした。苦しい胸元がさらに苦しくなって名前を追いつめる。
「か、かえりたい、かえりたい」
「うん」
「とうさんとかあさんにあいたい」
「…うん」
「か、かえりたい、かえりたい、よ…!」
「名前。我慢していたんだね。ずっと一人で我慢していたんだね。一人でずっと、苦しかったんだね。僕らに気を使って、寂しくても言えなかったんだね」
「う、うぅっううう…」
「我慢することないんだよ。君の言葉をきちんと聞いてあげるから」
咳を繰り返し、涙を流し、鼻が垂れる。堪えることが出来なくなって顔を隠しているとその手を取られる。広がった傷から血が滲み手が赤くなっていた。キルロイはその手を覆い、溢れた傷のある指をそっと撫でた。ぴりりとした電撃が脳に直撃する。
「名前。痛いかい?」
「……」
「痛いんだね。わかるようになったんだね」
「……」
「名前。君の手はとても暖かいね」
「!」
「僕の手は、わかるかい?」
(つめたい)
ひやりとした掌が己の熱を吸っていく。そして新しい熱が生まれていく。皮膚の下で脈々と流れる感覚が熱を過剰にしていく。
彼が生きている証拠。そして同じく自分も。
感じるのは、生きている心地。
生きている、自分を感じる。
(私は、生きている、今、此処で、生きている)
頭がゆっくりと垂れていった。涙が熱い。血を流しているかのように、熱い。そんな熱を久し振りに感じた気がすると名前は思った。
(認めるのはとても怖かった。目の前の人を受け入れてしまえば、二度とこの夢から覚めることがないと、信じていたかった)
だが未だ握る男の手をもう否定することができない。彼はそこにいて、そして自分を認めてくれている。もう、目を閉じていることなど出来ないのだと悟った。目を開けて、現実を受け入れて生きていかなければ、視界をきちんと正さなければならないのだと。
それは諦めだろうか。過去の心地よさを奪い去る現実が憎い。
だがゆらゆらと揺れていた足元がしっかりと着いた気がした。ぐるぐると身体を拘束していた何かが解けていく気がした。
これでよかったのだと、認めることで楽になっていく。胸にあったわだかまりが消えていくのが止められなかった。
「大丈夫?」
「…うん。ごめんね、取り乱して」
「ううん!いいのよ、そんなこと。ね、ヨファ」
「うん」
パチパチと火花が飛びかう窯の前で名前を挟んで三人は並んでいた。火の番は結局名前が請け負うことにしたのだが、食事が終わってからミストとヨファが二人して付き合うことになった。今はキルロイが風呂場を使用している。気まずい雰囲気はあった。だが二人は子供特有の無邪気さで目をそらしてくれた。お腹が空いているだろうと持ち寄ってくれたサンドイッチと飲み物を口に含みながら名前は新しい薪を窯の中へと放り込んだ。不意に横から強い視線を感じてそちらの方を見た。ミストだ。眉を寄せて空色の瞳がじっと見つめてくる。目を反らしてしまいたくなるほどにまっすぐに。
「私たちじゃ、駄目なの?」
「…え?」
「私たちじゃ名前ちゃんの家族にはなれないの?」
「……」
「血が繋がってなくても、一緒にいたら、寂しくないよ」
「……ありがとう」
腕に絡みつくミストの温もりを感じて名前はまた泣きそうになった。もう片方のヨファも頷きながら名前の掌を握る。きらきらと光る少年少女の瞳はとても鮮やかで、とても綺麗だと思えた。きっと初めてこの世界で感じたことだ。名前はもう一度ありがとう、と礼を述べて二つの幼い温もりを握りしめた。
(そうか……何処にいても、生きることから逃げられない)
この暖かみは夢の感触ではない。頭の霧が晴れたように無くなって名前はぼんやりとしながらも気付いた。逃げることは出来ない。今だって己は生きているのだと知らされる。眠りで与えられる強烈な安堵感が此処にはない。代わりにあるものは。
(出来るなら、前を向いて。帰れない、なんて、ないんだから…ちゃんと生きなくちゃ…)
「……!」
廊下の先で名前の姿を見かけてアイクは足を止めた。今顔を合わせていいものだろうか、と迷いが生じたのだ。夕刻前のあの出来事が脳裏に浮かぶ。あのときはキルロイがいてくれたからなんとかなった。しかしあの状況をもう一度突きつけられたらと思うと場の収集などもってのほかだ。アイクは眉間に皺をよせながらどう彼女から回避するかと頭を捻った。しかし元来そういう手回しには疎い性格だ、逃げる前に対象に見つかって声をかけられた。
名前も若干の迷いがあったものの、見かけてしまった時分には声をかけなければならないという義務感に負けた結果である。口角をあげてにこやかに笑って見せるものの何処か力のない笑みが名前にはあった。
アイクは緊張を携える。
「こんばんは…さっきは、あの、ごめんなさい」
「…別に気にしていない。俺は何もやってないからな」
「いいえ、あの、それでも本当に迷惑をかけてしまったから」
「……」
どう言葉をかけるべきかわからない。アイクは頭をひっかいて誤魔化していると名前の先でミストの姿が暗闇から現れた。名前を呼び、先に風呂場に行っているからと足早に立ち去っていく。アイクが驚いたのは、いつの間に心を開いた名前の姿にあった。妹に応える彼女の声はなんと明るいことか。晴れやかで楽しそうな返事など、彼女の口からでも発せられるのだとなんだか不思議に思えた。
「あの」
「…っん?」
「時間があるときでいいんですけど、…火の付け方のコツ、また教えてください」
「……」
「駄目、ですか?」
「あ…いや。わかった。また今度に」
ありがとう、と名前は目を細めて微笑みながら礼を言うとミストの消えていった奥の方へと駆けだしていった。アイクはその背を見送る。
「……」
(昼間とは、大違いだな)
濁りきった瞳。鬱そうに何かを考えている表情。いつも悲しそうに佇んでいる姿。それが一変したとアイクは思う。何よりもあんな風に笑えるのかと。
アイクにだってわかる。キルロイが彼女を変えたのだ。名前の胸の内にあった枷を取り払い何かにふっ切らせた。
「……」
胸がむずがゆい。服の上から強めに掻き毟るが皮膚が痛みを訴えるだけで何も解決はしなかった。それはきっとまっすぐにこちらに向けられた頬笑みがあまりにも唐突だったからだ。頭を振るい雑念を払うとアイクは自室へと足を向けるのだった。