#01.灯された始まり
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柔らかい布が身じろぐ度に絡まりついた。それが妙な違和感と変わり、無意識に瞼を開けるとうっすらとした彩色が出迎えて名前は瞬きを繰り返してはっきりとした世界を掴み取る。呼吸を繰り返し、木板で敷き詰められた天井を見ていたが、不意に上半身を起こした。そこは森林の緑に囲まれた場所ではなく、簡素な白い部屋のベッドの上に名前は存在した。自室に帰ったのかと一瞬期待してしまったが部屋の模様に記憶はなく、自分の持ち物など一切なかった。結局は見慣れない部屋の中だった。膨らんだ期待が凋んでしまい、落胆で背を丸めていると何処からか視線を感じて首を振った。
すると扉の角が開いているのに気付き、その奥へと目を向けた。
そこには透き通る水色の瞳が名前とかち合い、盗み見ていたと気付かれた扉の奥の人物は急いで扉を閉めてしまった。それからパタパタと盛大な足音を立てながら廊下を走りぬけていく。父を呼ぶ幼い少女の声と共に。
追いかけようかとベッドから足を出したが力が思った以上に入らず、立ち上がるのに躊躇してしまった。幾度目かの溜息を点いた後、部屋の前に重厚な足音が聞こえて身を固めて緊張した。足音はゆっくりと徐々に大きくなって名前の部屋の前に立ち止まる。ノック音の後、一人の体躯の良い中年の男が部屋へと入ってきた。先程出会った顔つきはとても厳つい気がしたが、彼らと違って柔らかな雰囲気があった。
「気がついたか。何処か怪我はないか?」
「……」
「緊張しなくていい。まずは水でも飲むか?」
口を開いたはいいが、喉が震わなかった。男が用意してくれた水をもらい、口元を濡らすと一層緊迫が和らいだ。男の意図だろうとはわかったが、それでも安心できた。ありがとうございます、と今度はしっかりとした声音で男に伝えると彼は口角をあげて微笑んだ。
「君は見慣れないが、あの付近に住んでいる者か?」
「いいえ、あ、いや、…多分違う…と、思います」
「…よくわからんな。旅をしているにしては、無防備すぎるが…」
「……あの…」
「うん?」
「此処は、何処なんですか?貴方は外国の人?」
「……」
男の目が驚きで見開かれる様を目にし、#名前#は発言に後悔した。この質問が的外れなことだけは察し、目の前の男の豹変する態度に恐れを抱いた。しかし思った以上に男は冷静だった。神妙な顔つきではあったがこちらを批難することも落しめたりすることもない。言うならば、言葉を選んでいると名前は男を見て思った。男は溜息をつくと部屋にぽつりとおかれた椅子を手繰り寄せてどっしりと腰を落した。
「話を聞かせてくれないか。それから解かる限り、君の知りたいことを教えよう」
「話…」
「君のことを聞かせてくれ。もちろん悪いようにはしない」
「……」
「話せないか?」
男の問いかけに真っ先に首を振って応えた。それからすぐにそれでいいのかと自分に問いかける。見ず知らずの男だ、本当に身の保証があるのかどうかさえ疑わしいのに、名前は答えることを無意識に選んでいた。妙な安心感が、それを許してしまった。
名前は口を開いた。もう答えると約束してしまった以上逃げることも出来ないと言い訳を噛みしめながら。
それから自分のこと、親のこと、友達のこと、学校のこと、近所のこと。思いつく限り、そして思いついた時分にさっきまで話していたことをすっ飛ばしてまでそれを言葉にした。いつの間にか必死になって男に自分の身の上話を打ち明けていた。考えれば滑稽な図のように思える。しかし名前は自分のことを話すことで男の信頼がほしかった。それが安全に繋がるだろうと無意識に理解していたからだと思う。だが、無尽蔵に話題があるわけではない。ついに話す内容さえ尽きてしまった名前の様子に男は鷹揚に頷いた。そしてわかったことがある、と言いにくそうに声を濁した。
「君の住んでいた土地、習慣…この世界にはないものだ」
「…え?」
「此処はテリウス大陸という。大陸中の国の一つ、クリミアの片田舎だ。聞いた限りの地名はどれも聞いたこともない」
「……」
「間違いなく、君の知るものではないだろう」
頭が、真っ白になった。突拍子のない出来ごとに思考が一度停止したのだ。
男の説明は続いていたが、話は耳から抜けていきそうになって、しかしそれでも必死に食らいついた。何処かで男が間違っているのだと笑い飛ばそうとして、だがそれも出来なくて名前の気力だけが殺がれていく。治安も、歴史も、環境全てが異なる世界。
異物なのは、どちらかなど明らかだ。
みるみる落ち込んでいく少女に、男はどうすることもできなかった。今は時間が必要だろうと見切り、身体を休めるよう助言すると部屋から出ていくことにした。
「…そうだ。名乗っていなかったな」
「……」
「私の名はグレイル。傭兵を生業として生活をしている。不便な思いはするだろうが、行く場所がないのなら好きなだけ此処にいるといいだろう」
「あ…ありがとう、ございます…」
「気にすることはない。困った時はお互い様だからな」
部屋に入ってきたときと変わらず、男は頬笑み、それから静かに出て行った。
(頭がおかしいわけではない。嘘を吐いたにしても上手いものとは言えん)
短い廊下をゆっくりと進みながらグレイルは顎を摩り、考える。世間を知らないのは親に可愛がられて育てられたからか。言葉遣いや思考力からそれなりの教養も垣間見た。何よりも名前の世界とテリウスの違いは治安。平和な場所で生まれ、生きていたのだろう。己に危害を加えられたことも、ましてや命の危険にさらされたことのない、そしてそれが普通であると疑うこともなかったのだろう。その常識から外れて狼狽する姿が、何よりも嘘ではないと物語っていたと思う。
「団長?あの子の様子は…」
「あぁ。心配いらん。擦り傷以外は特に外傷はないようだ」
「…それで、あんな軽装で旅でもしてた馬鹿だったんすか?」
「そのことだが」
行き着いた先の広間には仕事を終えたばかりの者が合わさったことで砦に住む者全てが集まっていた。皆がグレイルの言葉を待っている。
(このことは、伏せておいたほうがいいな)
グレイルに真実を告げられた時の名前の顔はあまりにも落胆していた。そしてグレイルに疑われることを何よりも恐れていた。真実を隠し、覆うことで救われることもあると、何よりも男は信じていた。第一に、それが少女の為になると信じてグレイルは口を開いたのだった。
「家に捨てられた…?」
「混乱しているが、聞いた限りではそうなるだろう。そういう事情もあるから此処で面倒を見ようと思うが、異議はないな」
「もっちろん!そんな子を追いだすなんて出来るわけないや」
「あぁ、ボーレ。アイクとお前達二人、特に年が近いから色々教えてやってくれ」
「私も!」
「勿論だ、ミスト。だがあくまでも同情で接するな。これからは俺達が家族になるんだからな」
「うん!」
「みんなも頼む。箱入だったようだから多少厳しくしても構わん」
「そりゃあ、腕がなるな」
すぐに赤毛の女性が鼻で笑う男を一睨みして制する。肩をあげておどけて誤魔化しながら弓と矢筒を掲げて男は出て行き、それに便乗するように皆も解散していった。
これが彼女の世界にも神がいるのならば、なんて残酷な悪戯をするのだろうか。些細な暇つぶしであったなら、人の人生などたかが玩具でしかないと告げているものである。そしてこの世界を見守るテリウスの女神は、異端者にもその祝福は与えられるだろうか。
グレイルは世界に弾かれてしまった少女の行く末ばかりに不安を抱かずにはいられなかった。