#05.獣牙の兵士
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びゅうっと風を切る音がした。次にガン、と金属が飛んでいく。放り出された名前はそれきりまた身体を縮めてただ強く視界を閉じるしかなかった。現実を直視するには腹も頬も痛みが強くて何も考えられなかった。しかし閉じることが出来ない聴覚からは恐ろしい光景が広がっていることは理解していた。男たちの困惑した悲鳴に怒号。それに紛れるように獣の鋭い唸り声が混じる。またツンと鼻を刺すこの臭いは紛れもなく血が飛び交っているだろう。だから現実から逃れることを本能で名前は選んでいた。
静寂は思いのほかすぐにやってくる。あの恐ろしい男たちの声はもう聞こえない。代わりに何かが潜んでいることは確かである。だからいつまでもいつまでも暗闇に逃げ込む名前が、しかし視界を開けるきっかけは至極単純なものだった。
呼ばれたのだ。声を掛けられたような、しかし名前を呼ばれたわけでもなかった。なおん、と間延びしたその鳴き声に名前は思わず目の前の存在に瞬いて確認していた。
「ね…猫…?」
疑問符を付けたのは常識よりも遥かに巨大だったから。しかしそのしなやかそうな体躯と顔つきは似通うものがある。大きな耳が時折左右にアンテナを張るように動き、長い尻尾が優雅に宙で揺れている。青い毛並みの大きな猫なる獣は腰を落として名前を見下ろしていた。呆然とする名前に首を傾げて発せられたトーンの低い鳴き声が二度目に耳に届いたとき、ようやく名前は我を取り戻す。周りには血だまりが出来ており、黒鎧の男たちはどちらも地に伏せて動かない。その光景に驚いて腰を抜かしたものの、しかし名前はぞっとするよりも安堵の心地を覚えていた。同情など持つこともない。それからまた頬と腹から来る痛みが訴えかけてきて涙が出そうになった。助かったことが、何よりも嬉しかった。
静かに泣き始める名前に、目の前の猫が顔を寄せた。びくりとまた背を震わせるものの、しかし不思議と恐怖は湧かなかった。その大きな前足が赤く染まっていることを視界の端で確認して、思わず尋ねる。
「あっ…あなた、たすけ、て…?」
答えの代わりなのだろう、青い大きな尻尾が一際大きく地を叩く。それを肯定と取って、ありがとう、と一言呟いた。握りしめていた指先からなんとか力を抜いて長くなった青い獣の長い首にそっと添えた。指を立てて柔らかくその筋を掻いてやると鋭かった猫なる獣の瞳は丸くなる。思わず名前はあっと声があがる。
「色が!わっ…綺麗だね、きみ」
目の前の鼻がひくひくと動く。瞳は左右とも一色ずつ異なる色を宿していた。これを何と言うのだっけ、と名前は考えるも、鈍痛が続く個所がまたも思考を纏まらせない。そんなことをしている場合ではない、とまるで訴えかけるように。
(そうだ。ミストちゃん達は…。アイクさんに、団長が)
目の前の存在から視線を反らし、力が出ない足を叩きながらなんとか立ち上がる。が、腕から滑り落ちた一冊の本がぼとりと嫌な音を立てて地面に落ちた。それに獣は驚いたように飛び退いていった。名前はごめんね、と驚かせたことを謝りつつ、腹を庇いながらそれを拾い上げる。
(結局、何も出来なかった)
奇跡的に一度炎は具現したが、却ってそれが相手を怒らせる結果となり窮地を呼んだ。この巨大な猫が助けてくれなければ、どうなっていたかまでは考えないようにする。
本を荷物に仕舞い込み、痛む個所を撫でながら歩き出した名前に、猫の鳴き声はもう一度呼びかけてきた。振り返ると青い獣は名前を追い越して前を行く。どうするのか見守っていたが、一定の距離で猫なる獣は再度名前を振り返る。まるで先導してくれるかのような素振りに引かれて、名前は猫を追いかけていた。多少迷いはしたものの地の利もなく、ミスト達と簡単に合流出来るとも思えない。心細さから一人になるのは怖かった。幸いにも、遅いながら着いてくる名前を青い獣は置いていくことはなかった。時々、痛そうに呻く名前を気遣うように立ち止まっては獣は猫の声で鳴いた。その励ましもあって歩みを止めることもなく。大丈夫、と笑ってみせると二度三度耳をピラピラと動かしてピンと張った髭を更に立てた。まるで笑い返してくれているような親しさに錯覚を覚えつつも、名前は懸命に進む。
そうして木々の隙間から明るさを見出した頃、猫は途端に駆け出して鬱蒼とした森の中へと帰っていった。突然一人に舞い戻ったものの、出口と思わしき場所まで来たからには進むしかない。もしかしたらまだミスト達は森の中で震えているかもしれないのだ。仲間達を探し、彼女たちを迎えに行かなくては。
しかしそれはただの杞憂として終わる。何せ、森から出た名前を出迎えたのは紛れもない少女と少年たちだったからだ。ヨファは大泣きし、対してミストは甲高い声で怒り出す。
「どうしてあんなことしたの!?心配、し、心配したんだから!」
「ごめんね、ごめんね、名前ちゃん…!」
「わ、私の方こそ、ごめんね…!」
そしてもう一人。エリンシア姫もまた泣き出しそうな名前を強く抱きしめた。彼女はぎゅうっと名前の背までその細腕を回して泣き出しそうなその顔を名前の肩に押し付ける。
「ご無事で…!ご無事で、本当によかった…!…よかった…!」
「ひ、姫様」
柔らかで優しい抱擁だった。思わず我慢していた分の涙がぽろりとこぼれる程に。互いに寄り添い合いながら無事を確認し合っていると、エリンシア姫を呼ぶ若い男の声にびくりと名前は硬直する。気付けば続々と四人を取り囲んでくる男たちに名前は慌てて仕舞いこんでいた魔道書を探した。しかし手に取る前に目の前で手のひらを翳されてストップをかけられたことで反射的にその手を止めてしまった。そんな様に手を翳した青い髪の青年が満足そうにニヤリと笑った。どうやらその一団の指揮官と思わしき若い男を前に、ミストがそっと耳打ちしてくれる。
「ガリアの人よ。名前ちゃんを探してくれたの」
「え?…え?」
「私たちでは、追いかけることも出来なかったので…」
エリンシア姫が付け加える説明に、名前は不安な心地でその男へ目を向けた。短い明るい青髪の男は親し気に笑みを返す。しかし、腰に抱き付いて隠れるヨファがぶるりと震えて呟いた。
「は、はんじゅう」
「!」
「……」
その場が一気に殺気立つ。名前もまたシノンの言葉を思い出していた。彼が言う半獣が彼らなのか。
しかし、同時に思う。
(思ったよりも、やっぱり怖くない)
ごめんなさい、と謝るエリンシア姫に倣って名前もまた頭を深く下げた。尚もざわつく男たちをよく見たら、耳は毛深く尻から生える尾が獣の名残がある。それでもやはりヨファの抱えるような恐怖までは至らなかった。
青毛の男もまた部下たちを落ち着かせる為に慰める。子供の言うことだ、と一蹴する中で名前とまた目が合った。瞬いたその両目がそれぞれ違う色彩をしていることに気づいて名前は電撃に打たれたような驚きを得る。ついさっきまで見ていた組み合わせだった。
男はまた親しく笑いかけた。
「お仲間の居所も掴んだ。これから向かいますが、姫は王宮へ向かってください」
「いいえ行きます!どうか連れて行ってください」
「しかし。…そちらのお嬢さんも怪我をしていることだし」
「本当!頬が腫れてる…!」
「だ、大丈夫、これくらい…」
ミストに痛む左頬を撫でられて名前は痛みに顔を顰めるも此処で引くわけにはいかない。時間経過とともに鈍痛も続いていたが動けない程でもない。何より置いていかれたくはなかった。
四人が引くことがないとようやく悟った指揮官のガリア兵は肩を下げつつも先導してくれた。屈強そうなガリア兵に囲まれながら、名前達は仲間達の元へと急ぐのだった。
グレイル傭兵団はある砦にてデイン兵達に囲まれていた。ガリア兵の介入によってデイン兵達は動揺したものの、女騎士の頑なな態度に戦闘は続くように思えた。それが、突如現れた漆黒の鎧を身に纏う一人の騎士によって状況はまた変わる。デインの騎士は指揮官の女騎士に退くように説き、不利をようやく受け入れた女騎士が渋々ながらもデイン兵を連れて退去していったのだ。
ようやく戦いを終えたのだ。それも、誰も欠くことなく。
ガリア兵達とは一瞬その呼称によって険悪になりはしたが、原因を生んだアイク自体が素直に非を認めて謝罪したために事なきを得る。そして同時に彼らは知るのだ。名前達も道中に知らされた、クリミアの正式な敗北を。それは、総指揮を執っていたレニング卿が姪であるエリンシアを残して亡くなったことも意味する。
ガリアはエリンシアを保護してくれることを約束した。だが他国民の傭兵団員までは連れてはいけない。その後の采配をガリア王に仰ぐことが決まり、それまで近くの古城で待機を求められるのだった。
ガリア兵達と別れる直前。腹を撫でる名前の前にこそりとあの青い髪のあの青年が声をかけた。半獣改め、ラグズと呼ばれる青年はやはり何処か親しそうな笑みを浮かべていた。
「大丈夫かい?まだ痛むんだろう?」
「あ、いえ、…すみません…」
「いいや。謝るのは此方の方さ。怖い思いをさせた」
「…どうかしたのか?」
「貴方、頬が腫れているじゃない」
「あ、えっと、あの…!」
割って入るアイクとティアマトに話していいものかと名前は悩む。心配をかけたくなかったし、大事にもしたくなかった。その間、青年は何も言わなくなった名前に苦笑いを浮かべながらも軽く少女の肩を叩いて離れていく。慌てて名前がラグズの青年を引き留めた。
「あの!あのときの、猫…さん?」
「あぁ」
「ご、ごめんなさい!あの…ありがとうございました」
やっと感謝を述べられて名前はほっと息を吐く。青髪の青年は異色の瞳を瞬かせ、それから口角をあげて目を細めた。名前もまた控えめに笑む。
青年はもう一言付け加える。
「怪我、ちゃんと見てもらいなよ。顔と腹は大事にした方がいい、女の子なんだからな」
「!」
「どういうこと?貴方、何を隠してるの」
「あ、え、えっと、あの」
ティアマトの顔色が変わる。こっちに来なさい、と引っ張られていく様子を見送って何も聞けなくなったアイクが小気味よく笑う青年に改めて向き直る。
「…世話になった」
「いんや。じゃあまたな、アイク。道中気を付けろよ」
「あぁ、ライ。あんたも」
ガリアの兵士、ライはひらひらと手の平を振って部下とエリンシア姫を連れて別れていった。
ひとまず、当初の目的は果たされた。アイクが経験した任務の中でも最も危険だったが遣り甲斐のある仕事でもあった。その終わりと思わしき今、なんだかとても呆気ない。こんなものなのだろうか。
クリミアが戦いに敗れた今、傭兵団はこれからどうするのだろう。
その指標を示す父の意見が知りたくてアイクはグレイルを顧みる。しかし当の父はそんな息子の不安さえ気づくことは無く、ある一点を見つめ続けていた。
この時、グレイルが何を見ていたのか。考えていたのか。
今となってはアイクには知る術がない。