#05.獣牙の兵士
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髪から汗が滴る。それが鬱陶しくて遊ばせた手拭いで額を無造作に擦った。疲労から来る足の気怠さが更に煩わしい。背負う荷物を何度も揺すりながらも、口から溢れそうになる弱音をただ飲み込んで、次に肺から疲れの籠った空気を吐き出す。
今日はどれ程進んだのだろうか。クリミアからガリアへ向かう逃避行も幾日経った。途中何度か村にも立ち寄ったが、祖国なるクリミアがデインに侵攻されているという危機感は思うほど浸透に至っておらず。物資の補給はスムーズなれど先行きに不安がぬぐい切れない。国境を越えてガリア領土へ到着してからは熱帯の森林地区が更に体力を奪っていく。
名前も馬に乗せてもらう機会はあった。しかし、自分よりも年が若い少年少女達を差し置いて騎乗することの罪悪感に負けて遠慮するようになる。体力の無さでいえば一番と言えよう名前はその為に遅れがちになった。そんな彼女に寄り添うのは大半がミストであり、その次には同じく後続組のキルロイがよく励ましてくれた。団のお荷物である自覚に脅かされて数日、名前はすっかり気落ちしていた。野営中はよく隅の方で息を殺しながら大人しく休むのが日課になりつつあった。
団はピリピリしている。何時デインの追跡が忍び寄って戦闘になるかわからない。休む暇もなく警戒を怠らない団長グレイルは勿論、ティアマトにシノンもまた休んでいる様子がない。それでもグレイルもティアマトも時折名前の心理状態を見抜いてか彼らも励ましてくれた。無理せず馬に乗せてもらえばいい。名前はそんな彼らの言葉に素直に甘えられないのだった。
[獣牙の兵士]
汗を流してベッドで何時間も眠りたい。そんな欲求に駆られてウトウトしていると目のまえに湯気立つ芋のスープの入った器が差し出される。
「大丈夫か?」
「あ…は、はい」
ご飯が出来ていたのか。名前はすぐに立ち上がろうとするが、既に配膳は終わりかけている。これくらいしか出来ることがないというのに、そのタイミングさえ今日は見逃してしまって名前は焦りに周囲を見回す。
そんな彼女にアイクはほら、と再度受け取るように催促した。頭と体がどうにも繋がっていない様子が気にかかるが名前の場合は普段からその調子なのだと都合よく考える。名前はまた「すみません」と小さく謝って器を受け取った。アイクはそのまま名前の隣に座り込み、二人は並んで食事を始めるのだった。
アイクと話すのは久しぶりだった。普段彼は前列の方でティアマトの引く馬に乗るエリンシアの護衛役として動いていた。殿を務めて#name1の背を押すガトリーがしきりにいいな、いいな、と呟くので、それに同調するという形で最近は背を靡くマントしか見ていない気がした。アイクの顔色は変わりない。疲労はあるだろうがやはりそれを感じさせなかった。
「キルロイもあんたもそろそろ限界そうだな。あんたは特に、死にそうな顔をしている」
「ごめんなさい…こんなに歩いたのは初めてで…」
「なら馬を借りればいい。俺から話してやろうか?」
「い、いいえ。そこまでしてもらうわけには…」
「…そうか?」
「すみません、大丈夫ですから…」
「まぁ、もうすぐガリアに着くはずだ。あんたが言いにくいなら俺から話してやるから」
「…すみません…」
もうすぐ到着する。そう言い聞かせて何日になるだろうか。名前はふとそう考えて溜息を吐いた。ガリアに付いたらお風呂に入りたい。アイクに気づかれないように身を引いて間を作る。満足な湯浴みが出来たのは何時だったか、記憶を掘り下げるのは止めておいた。いつでも奇襲に対応するため鎧を脱げないでいるガトリーの嘆きで嫌でも思い出すのだから。
ふと、あまり減らないでいるスープに影がかかる。前方に誰かが立っていることにようやく気付いて名前は慌ててしまった。相手がエリンシアであることも作用している。エリンシア姫は困ったように微笑んでいた。スープ鍋に使っただろうおたまを持って首を傾げる姿は素直に愛らしい。
「名前様は、おかわりは…?」
「あ、い、いえ!大丈夫です…」
「エリンシア姫。あんたがそんなことをしなくていい。ずっと馬に揺られて疲れているだろうから、ゆっくりしていてくれ」
「い、いえ、そんなことは…。…私だけ、馬に乗せてもらっています…だから、お手伝いだけでもさせて頂きたくて…」
「……なら、俺の分を頼めるか?」
「…はい!」
エリンシアは嬉しそうに微笑んでアイクの空の器を引き取ってオスカーの管理する鍋の元へと舞い戻っていく。名前はというと、アイクが素直にエリンシアに頼む姿に驚愕していた。一国の姫君に対して青年の行いに心配になっていたのだ。
「お、怒られませんか…?」
「…親父に知られたら、な…。まぁ大丈夫だ。姫も何かしている方が落ち着くんだろう」
「……」
「それよりあんたも食っておいた方がいいんじゃないか?水でも汲んできてやろうか?」
名前はただ首を振ってアイクの提案を断る。喉を通るスープは確かに美味しいのだろうが、ゆっくり味わえるほどの環境でもなく。名前はエリンシア姫が戻る前に食器を片付ける為に立ち上がるのだった。
エリンシア姫は戻らなかった。代わりにオスカーが眉を下げて困ったという表情で微笑みつつアイクにスープで満ちた器を返す。
「まさか配膳を頼む者が現れるとは思わなかったよ」
「…すまん」
「いいや。姫の気持ちも君の気遣いもわかるつもりだからね。…さすがに私には、姫の気持ちに応えることが出来なかった」
アイクは記憶の片隅でオスカーが騎士だったことを思い出してそれ以上何も言わなかった。団員の誰もがエリンシアには敬意を以て接していることも知っている。ボーレでさえ、慣れぬ敬語の末に彼女を避けた。しかし、腫れ物のように接する方がアイクには重荷だった。先程まで隣で虚ろだった名前にも上手く励ませた気がしなかった。
「きっと姫は君達と食事を取りたかったのかも」
「そうなのか?」
「君達は年が近い。特に名前とは同性同士、仲良くなりたいのかもしれないね」
「……」
オスカーの考察にアイクはスープを頬張りながら自分も考える。名前と話をしたかったのだとしたら、スープのおかわりを頼むべきではなかったのかもしれない。だが弱って自分の事で精一杯だろう名前を見ているとエリンシア姫と仲良くしようにも上手くいっただろうかと少し疑問に思えた。
なら、とアイクは一つの提案を口にする。
「明日は姫を乗せて少し後方から行こうか?名前も話し相手がいた方が気がまぎれるだろうし」
「それを決めるのは団長と副団長だよ」
「…そうだな」
「アイク」
「……」
「仲良くなるのはいいことだ。だけど、彼女は私たちにとって雇い主になる。これは彼女が王族であることは関係ない。傭兵である私達は、きちんと弁えておかないといけないよ」
「…わかった」
オスカーはやはり優しく笑ってくれていた。アイクもまた彼のアドバイスを素直に受け入れる。皆のようにうまく振る舞えなくとも、確かに大事なことだと思えた。先輩として何年も仕事をこなしてきたオスカーの言葉に、大切じゃないことなどひとつもなかったのだから。
僕も一緒に行く、と数人分の汚れた食器を手にしたヨファと合流して名前は近くの川に向かった。少年もまたヘトヘトの筈だが日頃からよく手伝っているからだろうか、溌剌とした様子が崩れてはいない。それでも何日も続く進行に疲労感は隠し切れない。二人共に頼りない足取りで進むと、シノンとガトリーが揃って偵察から帰ってきたところに遭遇した。
「おかえりなさい!」
「…あぁ。お前等か」
「いつデインの追手が迫るかわかんないっすからねぇ…いやあ、疲れた疲れた」
「お疲れ様です」
口数の少ないシノンに対してガトリーは変わらずに軽妙さが抜けきれない。しかし、ヨファの目は見過ごすことはなかった。
「ガトリー…怪我、したの?」
「えっ」
「あぁ?」
「!…ち、血が…」
ヨファの指摘に初めて名前も気付く。暗がりでもわかりづらいが、確かにガトリーの青い鎧が汚れていた。名前が眉を寄せて苦々しい表情になったので、ガトリーは慌てて身振り手振りで無事を示しだした。
「だ、大丈夫っすよ名前!何処も怪我してないんすから!」
「でも、じゃあその血は…!」
「あぁー…えぇっとこれはその…」
「返り血だ。心配する必要なんざねぇよ」
返り血。その言葉に対してまた一つ連想してしまう。つまり彼らは戦闘帰りなのだ。名前は息を呑み、またヨファは不安そうに名前の裾を掴んでシノンを見上げる。シノンは面倒そうに頭を掻きつつも言葉を続けてくれた。
「功を焦ったんだろうさ。俺達に見つかったのが運の尽きだったがね」
「団長にも報告済っすから、心配御無用!」
「そ…そっか…」
「お前等も気なんか抜くなよ。残党はいねぇとは言い切れねぇ。それに此処はあのガリアなんだ。半獣に襲われねぇように常に警戒していろよ」
「は、半獣」
「……」
半獣というものが、ガリアの住人であることを知ったのもこの旅が始まってからだ。言葉通りの種族でとても獰猛なのだとよく脅かされている。噛みつかれるんじゃないかとヨファは怖がっているが、名前は何処かそれが空言のように感じていた。シノンの語り口がとても真剣には思えないし、何よりもそんな危険な国にエリンシア姫が助けを求めるのは矛盾している。このガリアという国もまたファンタジーでよくあるような異種族が住んでいるのだろうか、となんだか他人事のように思えていた。
ぼうっとした名前は別として、怖がるヨファに満足したのか、シノンはさっさと踵を返す。ガトリーもまたそんな彼に着いていくのだった。名前もヨファの背を撫でて落ち着かせつつ、そんな彼らと別れて当初の目的を果たしに川へ向かうのだった。