#03.覚悟を背負え
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それから数日、名前は資料室に籠もりきりが続いた。入れ替わり立ち替わり団員達は出かけていって、決まって残されるミストやヨファに混じって掃除を主にこなしつつも時間が出来たら本に囲まれた。
名前がまず、始めたことは文字の解読だった。勿論、最初はわけがわからず、何処から手をつければいいかさえわからなかった。だから、ミストやヨファからわかる範囲で単語を教えてもらい、なぞるようにを書いて覚えた。書いていくうちに気づいたのは母国語と文体が全然違うということ。そしてテリウスの言葉は外国語のそれと似ていた。もう少し英語の授業を真面目に受けておけばよかったと頭を抱えながら一つ一つ単語を覚えていくしかなかった。訳しては書いて。書いては訳して。それに加えて母国語以外の字形に生理的な拒否感を捨てることがなかなか出来ない。そんなストレスでパンクしそうなときに限って、ミストやヨファが声をかけてくれて、無邪気な励ましと笑顔に何度癒されただろう。その都度二人に感謝した。頭が煮え切りそうなときは外にも出たが、焦燥感を拭うことが出来ず、少し休憩すれば資料室に戻る日々が続く。精神が削られていくような生活を送っていたが、あの悩むしか出来ない日々よりかはずっとましだと名前は思う。
だが成果はなかなかあがらない。出来のよくない頭では言語を切り替えるのは困難な作業だった。数日で出来ることじゃない、と理解していながらもそれを言い訳にしか出来ず、出来ないという自分が納得できなかった。何故なら早く習得したかった。テリウスの言葉を覚えたら、次は魔道書で使用される古代語が残されている。その二つを習得して初めて魔道の修行に入れるだろう。未だスタートラインに立てていないのだ。そうでなくとも、日常生活を送る上で言語がわからないのは辛い。
そのことを考える都度、グレイルの言う腕のいい魔道士が修行に出ていてよかったと思った。この状態では学ぶに値しないだろうから。なんにせよ、いろんな作用が名前に働いていて、すっかりグレイルの「少しずつ」という言葉を忘れて猛勉強していた。
昼下がり。日光が暖かく穏やかな時間が過ぎていたのだが、そんなことも関係なく名前は暗い資料室に身を置いていた。しかし暖かな風は何処からか吹いてくる。その心地よさに疲労した体は誘惑されてうとうとと眠気に変わっていた。少しくらいいいだろうか、と書き取った紙のインクの乾きさえ気にせずとうとう名前はその上に頭を突っ伏す。
限界故の睡眠は心地良い。何も考えなくて済むから。全てから解放されたような気になれるから。
そうして後悔する。
気がつけば、予定よりも時間が進みすぎていた。曇りがちの視界に入った窓を見やると昼だった外はすでに日が落ちそうで淡い橙色さえ闇に追いやられようとしている。しまったと思ったことはそれだけじゃない。顔を上げると粗雑な紙が一緒に引っ付いてきて、無理に剥がし、反射的に自分の顔を撫でると肌に何かがこびりついていることに気づく。間違いなく、インクの一部が顔についただろう。眠らなければよかった、と思う瞬間である。
「ひでえ顔だな」
「!…し、シノンさん」
怯む自分がいる。いつからいたのか、赤髪の男が出入り口近くの壁に寄りかかって何かを読んでいるらしく、片手に本を持っていた。決してこちらに目を向けようとしないのに、相手から威圧が向けられているようだ。インクのついた頬を手で隠し、どう彼から逃げようかと思案する。そのとき目の前にハンカチが放り出される。何処から来たのか、とシノンの方を見た。
「…なんだよ。俺が此処にいるのが邪魔だってんのか?」
「え?い、いえ…すみません」
シノンは眉を潜めた。嫌味のつもりだった。しかしそこにいる情けない姿の少女はあっさりと自分の非を認めた。それが面白くなくて威圧をかける。愚鈍な性格だが、警戒しているのか名前は顔をしかめた。
気味が悪い。シノンは目の前の素性のしれない存在がどうも気に食わなかった。いつの間にか傭兵団に居座った孤児。いつもへらへらと笑って、人に媚びいる術を知っていて、肝心の生活力も自立心も持たない典型的な駄目な子供。それでいてグレイルにどうやって取り入ったのか目をかけられているのが無性に腹が立った。この間の火事騒ぎも被害者面をしていたがシノン自身に疑惑を残す結果となった。彼の検証と、グレイルとの対話を聞いたことで疑心は確信へと変わる。この娘は目を離しては、何をするか、されるかわからない不安定さがある。
今のうちに排除しておきたかった。
「…オメェ、一体何者だ?」
「え…」
「一体なんだっていってんだよ」
「……」
名前の顔が歪んでいく。今にも泣き出しそうな、それでいて困惑しているような。同情でも引こうというのか、シノンは顔色を変えはしなかった。だが、少女は頑なに口を開かない。
「…ケッ。意地でも言わないってか」
「……」
「まあいい。団長は何考えてるか知らないが…こんな貧乏傭兵団でテメェのような足手まといを食わしてやる余裕なんざないんだ。それくらいわかんだろ」
「……」
「だんまりか」
「…わかって、います。私が何も出来ないの」
「だったら身の振りくらい考えろ」
「でも、私、本当に行くところが…」
「…!」
「…行き、場所が…」
「へっ…得意の泣き落としってわけか」
「!」
ひくり、と肩が跳ねた。それから水分の多い目がシノンを捉える。その瞳には敵対心が露わにされていた。
とうとう正体を現したか。勿論そんな少女の小さな敵意等で怯むわけもなく。シノンは逆に笑い飛ばしてみせる。
「わ、私だって、」
「あぁ?」
「…私だって、帰りたい」
「……」
「帰れるものなら、帰りたい…!」
じわじわと涙の粒が目に溜まっていくが、まるで流してなるものかと我慢しているのか、顔を強ばらせて悔しそうに呟いた。
この砦に来て少し経った後も「帰りたい」と感情を高ぶらせていたことをシノンは聞いていた。だが今のようにあたかも不満をまき散らすような姿を晒すことはなかっただろう。よっぽどシノンの言葉に腹が立ったのか。それとも猫かぶりの面を剥がされた結果だろうか。
名前は泣くまいと耐えていたが、とうとう滴が頬に伝い、それを隠すようにすぐに荒々しく名前によって拭われる。それきり俯いてしまった。
シノンはしばらくそんな少女の姿を見ていたが大袈裟に溜息を吐いた。
「ハンカチ、やっただろ」
「…!」
「悪かったよ」
「……」
「それ使って、いい加減そのインクがついた汚い面なんとかしろ」
「……すみません」
小さく、また上擦った声だった。我慢の限界だったのだろう、机と書取に使った紙に水滴が幾度も落ちる。
シノンは舌打ちを打った。シノンは温情につけ込んで生活する乞食の類を追い出すつもりで攻撃した。その際、女の武器の一つとして少女が泣くだろうとは想定していた。しかし予想外にも胸の内はムカムカしている。これではただ、自分が一方的に悪いようではないか。
(本当になんなんだ、このガキ…)
「…す、すみません…」
「……」
「あ、貴方が、言いたいことも、わかって、いるつもりです…でも、もう少しだけ、時間をください。せ、せめて、魔道の力をなんとかしてから…」
「魔道?」
「き…きちんと、しないと、いけないんです…じゃないと、また…」
「またって……そうか、あの放火はお前がやったんだったな。魔道か、通りであの死体が丸焦げだったわけだ」
「……っ」
名前は目を強く瞑り、シノンの言葉に耐えるように頭を抱えた。否定の言葉を吐かない。
(…言い訳もなしかよ)
言葉を選んでも、考えている様子もない。ただゆっくりと事実に耐えているのだろう。息を詰めていたが、その内深呼吸を繰り返してぼんやりと目を開けた。
「…すみません。もう少し、時間をください」
「……」
「まだ、全然頭に入らないんです…でも、なんとか、しますから」
「…字くらい読めんだろ」
「……読めないんです」
「はぁ?」
「読め、ないんです…」
「……」
包帯を巻いた両拳が名前の頭を二度三度と叩く。どうやら相当頭が煮詰まっているらしい。頭の出来が良さそうには見えなかったがそれ以上にシノンは驚いていた。
名前は外で生きていたような気配が全くなかった。そこらの貴族被れか、そこそこ生活基準の高い人生を送っていたのだろうとシノンは考えていたのだ。だから字くらい、教えられているだろうと思った。今の字の書取はあくまでも「振り」で時間稼ぎだったはずだ。それがシノンの思惑通りならば。
本当にどういう生活を送っていたのか全くわからない。
「で、でも、がんばりますから…なんとか…頑張って…」
「…あーあーわかったよ。俺が全面的に悪かった」
「え…?…っ!」
ぼさぼさの髪がシノンによってぐしゃぐしゃになる。名前は困惑した。シノンの態度が変わったのだ。何よりも相手の威圧がなくなった。
「ガキが。生き急ぐんじゃねぇよ」
「…でも…」
「もういいっつってんだろ。そんないっぺんにテメェ、抱えきれんのか?」
「……」
「時間かけろ。わからなかったら頼れ。いいな」
「…っ」
喉が圧迫して返事ができなかった。また新しく涙が浮かぶ。悲しくも、悔しくもない。なのに涙が出た。シノンの手は名前の頭を軽く叩く。名前はもう一度頷いて、それから瞬きをして水滴を払った。