雨と無知
「で?お前らはお兄ちゃんに何か用なの?」
1階の居間には、おそ松と一松、十四松、トド松の4人がちゃぶ台を囲んで座っていた。先程までカラ松がいたのだが、松代に買出しを頼まれて出ていった。というのも、最初に頼まれたのはトド松だったが、カラ松に頼み込んで半ば強制的に出ていかせた。外はザーザー降りで、カラ松は黒い傘を片手に小走りで出かけていった。トド松はカラ松の後ろ姿を見送ると、漫画を読んでいたおそ松をちゃぶ台のそばに座らせ、一松、十四松もまわりに座った。
「とりあえず、確認しておきたいことがある」
最初に口を開いたのは、おそ松から見て右隣に座ったトド松だった。トド松は人差し指を唇に当てて、皆の顔を見渡し、静かな声で言った。
「おそ松兄さんさ……カラ松兄さんに何かした?」
「は?俺が?」
おそ松は驚きつつも、トド松にならって小さな声で答える。
「カラ松兄さん、なんか様子がおかしいでしょ?まず疑うべきはおそ松兄さんかなあと思って」
一松と十四松がうんうんと頷く。突然窮地に立たされたおそ松は負けじと反論をする。
「いやいや、俺は何もしてないよ!喧嘩もしてないし、特に変わったことも話してない!」
そう言いながらも、おそ松には弟たちが自分を疑うのもわかる気がした。カラ松は普段、弟には甘い。多少嫌味を言われても、弟だからといってたいていのことは許してしまう。しかし、長男のおそ松に対してはあくまで対等なのだ。おそ松の前ではカラ松は弟なのだが、決しておそ松に甘えようとしないし、競い事にも手を抜かない。喧嘩だってする。カラ松の様子がおかしいのは、カラ松が何かに干渉されたからであって、その干渉をした可能性が一番高いのは長男のおそ松だ、というのが一松以下3人の結論である。
「ふーん、何もしてないのか」
トド松は腕組みをして首をかしげる。十四松は口を長い袖で隠し、何か考えるような顔をしている。
「お前らが俺を真っ先に疑うのはわかるけどさ、俺だって知りてーもん、カラ松がなんで急に説教がましくなったのか」
おそ松は、昨日のカラ松の様子を思い起こした。まず最初に、十四松が外に行こうとしてるのをカラ松が止めるのを見た。
「十四松、お前昨日カラ松になんて言われた?」
おそ松の問いに十四松が顔を上げる。
「んーとねぇ、ずっと家にいるのがもどかしいから、玄関先で素振りしようとしたのね。バット持って玄関の扉開けようとしたらさぁ。『十四松、雨で濡れるから止めなさい。代わりに家の中で素振りすればいいじゃないか、タオルでも使ってさ』って言われたぁ」
十四松の声真似に感心しながら、おそ松は次に一松に問いかける。
「一松、お前はカラ松になんか猫のことで言われてなかったか?」
「……言われた」
一松は舌打ちをしてぼそぼそと言った。
「『猫を家に上げるのはいいが、ちゃんと体を拭いてからにするんだぞ』って。わかってるし。一昨日のことで反省してたし」
最後におそ松はトド松の顔を見る。
「んで、トッティがあれだよな。正面から説教受けてたの」
「うん……」
トド松はちゃぶ台の上に置いていたスマートフォンをちらりと見た。
「『トド松、人が嫌がることはしちゃダメだ。そのスマホもだ、やりすぎには気をつけるんだぞ』って。まるで父さんみたいだ……」
こうやって聞くと、カラ松は実にしっかりしている兄のように聞こえるが、今までのカラ松のことを考えると実に不自然なのだ。今までどおりなら、カラ松は玄関先で素振りする十四松を止めることはなかっただろうし、一松が猫を家に上げても毎日のことなので特に触れもせず、トド松がスマートフォンをずっといじっていても、カラ松自身はずっと鏡を見続けているので気にもとめていなかっただろう。
「てか、なんでおそ松兄さんだけ何も言われてないの」
トド松は頬を膨らませた。そういえば昨日カラ松に何も言われてないな、とおそ松は思った。
「……たまたまだと思う。俺が昨日、何もしなかっただけ。そうじゃない?」
一松ら3人はうーんと唸って首をかしげたのち、少し納得したような顔をした。
「はぁ……ボク、あんなカラ松兄さんやだよぉ。真面目に話すとちょっと怖いんだもーん、話しかけられなーい」
トド松が腕を伸ばしてちゃぶ台に上半身を倒す。
「ぼくもいや〜。イタいカラ松兄さんじゃなきゃやだぁ〜」
十四松も同じように上半身を倒すと、長い袖がぱふんとトド松の手の上に乗っかった。
「ケッ……クソ松はクソらしくしてろよな」
一松もだるそうに上半身を倒すと、十四松の右手の袖をいじって遊び始めた。
「はぁ、どうしたもんかねえ」
おそ松は左手で頬杖をついて、十四松が一松とトド松に長い袖を振って目くらまししているのをぼんやりと見つめた。
「説教キャラは2人もいらねーって感じだよな」
すると、一松ら3人はぴたりと手を止める。おそ松が不思議がっていると、3人はいっせいに顔をおそ松に向け指をさした。
「……それだよ」
「へ?」
3人は顔を見合わせると、人差し指を天井に向けてさした。おそ松はポカンとした。
「え、何?上がどうかした?」
おそ松は天井を見上げ、シミでもついてるのかと目を動かす。
「いるでしょ、上に。昨日何もしなかった人が」
トド松が静かに、かつしっかりとした調子で言う。
「いる……?」
おそ松はハッとして、目を見開いた。そして人差し指を勢いよく上に掲げた。
「あいつかーっ!!」
1時間後、松野家の玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
「フッ……こんなに降るとは聞いてなかったぜ……」
ザーザー降りだった雨は勢いを増し、今や台風が近づいているのではないかと疑うほどの豪雨であった。買い物袋は抱きかかえていたので中身は無事だったが、カラ松自身は傘をさしていても四肢がずぶ濡れの状態であった。風に運ばれた雫のせいで前髪や顔も濡れている。
「あら!ずいぶんと濡れちゃって……。シャワー浴びてきなさい、ありがとうね」
松代はパタパタとスリッパの音を鳴らして台所から出てきて、買い物袋を受け取った。
「フッ……お安い御用だぜマミー」
カラ松は立ったままずぶ濡れになった靴を脱ぎ、靴下を脱いで家の中に上がろうとしたその時だった。
「にぃーーーさぁーーーんっ!!」
十四松が居間から全速力で走ってきて、カラ松をひょいと両手で頭上に抱えた。
「えっ、おい十四松っ」
カラ松は、体が浮いたような感覚がしたかと思えば、十四松の両手によって全速力で風呂場へと運ばれていった。
「そりゃあーっ!!」
「どわーっ!!」
十四松は目にも止まらぬ速さでカラ松の服を脱がせ、風呂場へと投げ飛ばす。
「じゅうしまっ!あっつ!熱いからっ!!」
十四松は温度など確認をせずに、右手でシャワーヘッドを持って頭上からお湯を浴びさせ、左手でカラ松を高速回転させた。
目を回してしゃべれないカラ松を右手で引っ掴んで、脱衣所にあった小さなタオル数枚を左手に引っ掴み、1階の居間へと投げ飛ばした。
床に叩きつけられて呻き声をあげる素っ裸のカラ松の上に、はらりはらりとタオルが数枚落ちてきた。
「おかえりー、カラ松」
「おかえんなさーい」
居間にはおそ松と一松、トド松がちゃぶ台を囲って座っていた。カラ松が着地したのはそれを飛び越えた居間の奥で、障子のそばには十四松が敬礼をして立っていた。
「ぐえ……ずいぶんとご丁寧なお迎えだったぜ、十四まぁつ……」
全身を真っ赤にしたカラ松が背中をさすりながら上体を起こした。
「カラ松、お前茹でダコみたいに顔赤くなってんぞ」
おそ松は腹をかかえて大笑いした。トド松はすかさずスマートフォンで写真を撮った。
「それでさあ、ちょっと聞きたいんだけど〜」
タオルをかき集めて全身を覆ったカラ松を、おそ松ら4人が囲いこんだ。
「え……何だ……」
頭からまだ湯気が立ち込めているカラ松に、おそ松が顔を近づける。
「お前、チョロ松となんか話しただろ?」
カラ松はびくっと体を震わせて、おそ松から目を反らした。それを見た4人は顔を見合わせ、いっせいに笑い出した。
「やっぱりなー!つか、お前正直すぎーっ!ビビリすぎーっ!」
「やば、めっちゃウケるんですけどー!チョロ松兄さんがあまりにも静かすぎて存在忘れてたとか、絶対言えなーい!」
「すげーね!忘れるもんだねぇ〜!」
「つか、看病したお前が気づかないってバカだろ!」
「ひひ、い、いや、まさかチョロ松兄さんがけしかけるなんて思ってなかったから……」
カラ松は、大笑いをしている4人を見つめてただポカンとしていた。
「はぁ〜、笑った笑ったぁ。んで、カラ松ぅ」
おそ松はまだ笑いが収まらないまま、カラ松の顔を見つめる。
「何言われたか知らないけどさぁ、お前はどうしたいの?」
「ど、どうしたいか?」
ここでようやくカラ松の表情が変わる。眉をひそめ、おそ松の目をじっと見つめ返す。
「そう。今のお前さ、人格が2つあるみたいでおかしなことになってんだよ」
「……そうか……おかしいか」
カラ松は腕組みをして下を向く。
一松以下3人が顔を見合わせていると、カラ松はふと顔を上げてこう問いかけた。
「一応聞くが、皆はどっちのオレが良いんだ?」
チョロ松が目を覚ましたのは、夜18時を回った頃であった。部屋は豆電球の明かりで包まれている。額に乗せていたタオルは枕の左隣に落ちていて、湿ったまま冷たくなっていた。毛布もいつの間にか肩の位置まで下げられている。
チョロ松は両手をついて上体を起こした。目が腫れぼったいのを感じたが、体の熱っぽさはだいぶ引いたようだ。喉の痛みも少しだけ和らいだ。正面の窓を見上げると、まだ雨が降っているのを確認できた。
「……のど、かわいた」
チョロ松はかすれた声でぽつりと言うと、ふらつきながら立ち上がる。襖を開けて、壁に手をつきながら階段を下っていく。廊下は暗くて寒かったが、居間の障子から漏れる明かりがあたたかかった。チョロ松はふと疑問に感じた。玄関の引き戸がガタガタと音を立てているが、居間からは物音1つしないのだ。兄弟たちはどこに行ったのだろうか。
そんな疑問に答えを見いだせないまま、チョロ松は居間の障子に手をかけ、ゆっくりと開いた。
「……えっ」
チョロ松が目にしたのは、ちゃぶ台を囲んで座る兄弟たち、ではなく、5人のチョロ松だった。みな上半身裸で、下はジーンズや半ズボン、ジャージという格好なのだが、整えられた髪、下がった眉、きゅっと結ばれた口、と、チョロ松の特徴を備えた人間が5人座っていた。
「……何してんの」
チョロ松はかすれた声でチョロ松たちに問いかける。すると、5人のチョロ松たちはいっせいに障子の横に立つチョロ松を見つめた。
「おはよ、チョロ松。ようやく起きたんだね」
「夕ご飯も食べないのかと思ったよ。さすがにお腹空いたのかな?」
「てか、何その顔。僕らしくないじゃない」
「髪だって寝癖ばっかりだよ。ちゃんと綺麗に整えなきゃ」
「チョロ松らしくないよ、チョロ松」
5人のチョロ松たちはほぼ同じ声色でチョロ松に話しかけた。本物を真似ているのだろうが、今のチョロ松は過去最低の声の低さであった。
「今日の夕ご飯は何だろうね、チョロ松」
「お前が買出しに行ったんじゃないのか、チョロ松」
「違うよ、チョロ松が買出しに行ったんだよ。チョロ松がじゃんけんに負けたから、チョロ松が行く羽目になったんだよ」
「じゃあ今日の夕ご飯はチョロ松の好きなものじゃないのか?」
「えっ、そんなルールなら今度からチョロ松は買出しに行かせないよ」
「なんだよそれ、チョロ松に行かせないって不平等じゃない?チョロ松」
「は?当たり前でしょ、チョロ松はチョロ松の好きなものしか買ってこないなら、僕らがローテーションして買出しに行くしかないでしょ?そうでしょ、チョロ松」
「その通りだよ、チョロ松」
「おいチョロ松!さっきから聞いていればチョロ松ばっかり責めやがって!どう考えてもお前の方が悪いだろ、このクソ三男!」
「はぁ!?誰が悪いだって!?もう一回言ってみろこのアイドルオタク!」
「おい、チョロ松とチョロ松!こんなところで喧嘩すんなよ!」
「外でやってくんないかなぁ!チョロ松とチョロ松!」
「うるせぇ!てめえの顔見るとケツ毛燃えるわ!クソ童貞!」
5人のチョロ松たちはちゃぶ台を蹴り飛ばし、取っ組み合いの喧嘩を始めた。少しにやけた顔をしたチョロ松は眉が太めなチョロ松の左頬をぶん殴り、そのチョロ松は軟体動物のような動きを見せるチョロ松を投げ飛ばし、そのチョロ松はやや内股のチョロ松の腹にパンチを食らわせ、そのチョロ松は眠そうな目のチョロ松の脇腹をつねり、そのチョロ松は少しにやけた顔をしたチョロ松の頭にチョップを繰り出した。
本物のチョロ松はというと、障子の横に突っ立ったままで、両手を握りしめてわなわなと震えていた。全身の熱っぽさは消えていたが、今度は首から上に熱が集中していた。耳も目も頬も真っ赤になり、心臓のあたりから何かがこみ上げてくる。チョロ松は、大きく息を吸い込むと、ぎゅっと目を瞑った。
「……お前らぁ!!」
5人のチョロ松たちは、取っ組み合いの喧嘩をぴたりとやめた。本物のチョロ松はマスクを下げてカッと目を見開いた。
「いい加減にしろぉぉぉぉぉっ!!!!!」
次の瞬間、眩い光とともに、爆発音が鳴り響いた。両耳の鼓膜が破れたかと思った。チョロ松たちも本物のチョロ松も全員ひっくり返った。ハッとあたりを見渡すと、電気が落ちて真っ暗になっている。
「………なに…………」
暗闇で、トド松の震える声が聞こえた。
すると、いっせいに、家の明かりがついた。居間を見渡すと、上体を起こしてキョロキョロしているおそ松、頭を両手で守るカラ松、床にうつ伏せに大の字になっている一松、障子を突き破っている十四松、両腕で胸を守るようにして怯えているトド松の姿があった。
最初に口を開いたのは、5人のチョロ松たちでも、本物のチョロ松でもなく、2階の自室で作業をしていた松代であった。
「ニートたちーーっ!無事なのーっ!?」
家の中に松代の声が響き渡る。それに対して、おそ松が叫んで答える。
「だいじょぶだいじょぶ〜っ!!」
本物のチョロ松は這いつくばって居間の中に入ると、兄弟たちを見渡した。皆、まだ何が起こったのかわからない様子で、顔面蒼白であった。
「いやぁ〜、感心したよチョロ松〜」
しかし、長男だけは違った。アホ毛が飛びてていないおそ松が、鼻の下をこすってニカッと笑った。
「これがほんとの、『雷が落ちる』ってやつ?」
1階の居間には、おそ松と一松、十四松、トド松の4人がちゃぶ台を囲んで座っていた。先程までカラ松がいたのだが、松代に買出しを頼まれて出ていった。というのも、最初に頼まれたのはトド松だったが、カラ松に頼み込んで半ば強制的に出ていかせた。外はザーザー降りで、カラ松は黒い傘を片手に小走りで出かけていった。トド松はカラ松の後ろ姿を見送ると、漫画を読んでいたおそ松をちゃぶ台のそばに座らせ、一松、十四松もまわりに座った。
「とりあえず、確認しておきたいことがある」
最初に口を開いたのは、おそ松から見て右隣に座ったトド松だった。トド松は人差し指を唇に当てて、皆の顔を見渡し、静かな声で言った。
「おそ松兄さんさ……カラ松兄さんに何かした?」
「は?俺が?」
おそ松は驚きつつも、トド松にならって小さな声で答える。
「カラ松兄さん、なんか様子がおかしいでしょ?まず疑うべきはおそ松兄さんかなあと思って」
一松と十四松がうんうんと頷く。突然窮地に立たされたおそ松は負けじと反論をする。
「いやいや、俺は何もしてないよ!喧嘩もしてないし、特に変わったことも話してない!」
そう言いながらも、おそ松には弟たちが自分を疑うのもわかる気がした。カラ松は普段、弟には甘い。多少嫌味を言われても、弟だからといってたいていのことは許してしまう。しかし、長男のおそ松に対してはあくまで対等なのだ。おそ松の前ではカラ松は弟なのだが、決しておそ松に甘えようとしないし、競い事にも手を抜かない。喧嘩だってする。カラ松の様子がおかしいのは、カラ松が何かに干渉されたからであって、その干渉をした可能性が一番高いのは長男のおそ松だ、というのが一松以下3人の結論である。
「ふーん、何もしてないのか」
トド松は腕組みをして首をかしげる。十四松は口を長い袖で隠し、何か考えるような顔をしている。
「お前らが俺を真っ先に疑うのはわかるけどさ、俺だって知りてーもん、カラ松がなんで急に説教がましくなったのか」
おそ松は、昨日のカラ松の様子を思い起こした。まず最初に、十四松が外に行こうとしてるのをカラ松が止めるのを見た。
「十四松、お前昨日カラ松になんて言われた?」
おそ松の問いに十四松が顔を上げる。
「んーとねぇ、ずっと家にいるのがもどかしいから、玄関先で素振りしようとしたのね。バット持って玄関の扉開けようとしたらさぁ。『十四松、雨で濡れるから止めなさい。代わりに家の中で素振りすればいいじゃないか、タオルでも使ってさ』って言われたぁ」
十四松の声真似に感心しながら、おそ松は次に一松に問いかける。
「一松、お前はカラ松になんか猫のことで言われてなかったか?」
「……言われた」
一松は舌打ちをしてぼそぼそと言った。
「『猫を家に上げるのはいいが、ちゃんと体を拭いてからにするんだぞ』って。わかってるし。一昨日のことで反省してたし」
最後におそ松はトド松の顔を見る。
「んで、トッティがあれだよな。正面から説教受けてたの」
「うん……」
トド松はちゃぶ台の上に置いていたスマートフォンをちらりと見た。
「『トド松、人が嫌がることはしちゃダメだ。そのスマホもだ、やりすぎには気をつけるんだぞ』って。まるで父さんみたいだ……」
こうやって聞くと、カラ松は実にしっかりしている兄のように聞こえるが、今までのカラ松のことを考えると実に不自然なのだ。今までどおりなら、カラ松は玄関先で素振りする十四松を止めることはなかっただろうし、一松が猫を家に上げても毎日のことなので特に触れもせず、トド松がスマートフォンをずっといじっていても、カラ松自身はずっと鏡を見続けているので気にもとめていなかっただろう。
「てか、なんでおそ松兄さんだけ何も言われてないの」
トド松は頬を膨らませた。そういえば昨日カラ松に何も言われてないな、とおそ松は思った。
「……たまたまだと思う。俺が昨日、何もしなかっただけ。そうじゃない?」
一松ら3人はうーんと唸って首をかしげたのち、少し納得したような顔をした。
「はぁ……ボク、あんなカラ松兄さんやだよぉ。真面目に話すとちょっと怖いんだもーん、話しかけられなーい」
トド松が腕を伸ばしてちゃぶ台に上半身を倒す。
「ぼくもいや〜。イタいカラ松兄さんじゃなきゃやだぁ〜」
十四松も同じように上半身を倒すと、長い袖がぱふんとトド松の手の上に乗っかった。
「ケッ……クソ松はクソらしくしてろよな」
一松もだるそうに上半身を倒すと、十四松の右手の袖をいじって遊び始めた。
「はぁ、どうしたもんかねえ」
おそ松は左手で頬杖をついて、十四松が一松とトド松に長い袖を振って目くらまししているのをぼんやりと見つめた。
「説教キャラは2人もいらねーって感じだよな」
すると、一松ら3人はぴたりと手を止める。おそ松が不思議がっていると、3人はいっせいに顔をおそ松に向け指をさした。
「……それだよ」
「へ?」
3人は顔を見合わせると、人差し指を天井に向けてさした。おそ松はポカンとした。
「え、何?上がどうかした?」
おそ松は天井を見上げ、シミでもついてるのかと目を動かす。
「いるでしょ、上に。昨日何もしなかった人が」
トド松が静かに、かつしっかりとした調子で言う。
「いる……?」
おそ松はハッとして、目を見開いた。そして人差し指を勢いよく上に掲げた。
「あいつかーっ!!」
1時間後、松野家の玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
「フッ……こんなに降るとは聞いてなかったぜ……」
ザーザー降りだった雨は勢いを増し、今や台風が近づいているのではないかと疑うほどの豪雨であった。買い物袋は抱きかかえていたので中身は無事だったが、カラ松自身は傘をさしていても四肢がずぶ濡れの状態であった。風に運ばれた雫のせいで前髪や顔も濡れている。
「あら!ずいぶんと濡れちゃって……。シャワー浴びてきなさい、ありがとうね」
松代はパタパタとスリッパの音を鳴らして台所から出てきて、買い物袋を受け取った。
「フッ……お安い御用だぜマミー」
カラ松は立ったままずぶ濡れになった靴を脱ぎ、靴下を脱いで家の中に上がろうとしたその時だった。
「にぃーーーさぁーーーんっ!!」
十四松が居間から全速力で走ってきて、カラ松をひょいと両手で頭上に抱えた。
「えっ、おい十四松っ」
カラ松は、体が浮いたような感覚がしたかと思えば、十四松の両手によって全速力で風呂場へと運ばれていった。
「そりゃあーっ!!」
「どわーっ!!」
十四松は目にも止まらぬ速さでカラ松の服を脱がせ、風呂場へと投げ飛ばす。
「じゅうしまっ!あっつ!熱いからっ!!」
十四松は温度など確認をせずに、右手でシャワーヘッドを持って頭上からお湯を浴びさせ、左手でカラ松を高速回転させた。
目を回してしゃべれないカラ松を右手で引っ掴んで、脱衣所にあった小さなタオル数枚を左手に引っ掴み、1階の居間へと投げ飛ばした。
床に叩きつけられて呻き声をあげる素っ裸のカラ松の上に、はらりはらりとタオルが数枚落ちてきた。
「おかえりー、カラ松」
「おかえんなさーい」
居間にはおそ松と一松、トド松がちゃぶ台を囲って座っていた。カラ松が着地したのはそれを飛び越えた居間の奥で、障子のそばには十四松が敬礼をして立っていた。
「ぐえ……ずいぶんとご丁寧なお迎えだったぜ、十四まぁつ……」
全身を真っ赤にしたカラ松が背中をさすりながら上体を起こした。
「カラ松、お前茹でダコみたいに顔赤くなってんぞ」
おそ松は腹をかかえて大笑いした。トド松はすかさずスマートフォンで写真を撮った。
「それでさあ、ちょっと聞きたいんだけど〜」
タオルをかき集めて全身を覆ったカラ松を、おそ松ら4人が囲いこんだ。
「え……何だ……」
頭からまだ湯気が立ち込めているカラ松に、おそ松が顔を近づける。
「お前、チョロ松となんか話しただろ?」
カラ松はびくっと体を震わせて、おそ松から目を反らした。それを見た4人は顔を見合わせ、いっせいに笑い出した。
「やっぱりなー!つか、お前正直すぎーっ!ビビリすぎーっ!」
「やば、めっちゃウケるんですけどー!チョロ松兄さんがあまりにも静かすぎて存在忘れてたとか、絶対言えなーい!」
「すげーね!忘れるもんだねぇ〜!」
「つか、看病したお前が気づかないってバカだろ!」
「ひひ、い、いや、まさかチョロ松兄さんがけしかけるなんて思ってなかったから……」
カラ松は、大笑いをしている4人を見つめてただポカンとしていた。
「はぁ〜、笑った笑ったぁ。んで、カラ松ぅ」
おそ松はまだ笑いが収まらないまま、カラ松の顔を見つめる。
「何言われたか知らないけどさぁ、お前はどうしたいの?」
「ど、どうしたいか?」
ここでようやくカラ松の表情が変わる。眉をひそめ、おそ松の目をじっと見つめ返す。
「そう。今のお前さ、人格が2つあるみたいでおかしなことになってんだよ」
「……そうか……おかしいか」
カラ松は腕組みをして下を向く。
一松以下3人が顔を見合わせていると、カラ松はふと顔を上げてこう問いかけた。
「一応聞くが、皆はどっちのオレが良いんだ?」
チョロ松が目を覚ましたのは、夜18時を回った頃であった。部屋は豆電球の明かりで包まれている。額に乗せていたタオルは枕の左隣に落ちていて、湿ったまま冷たくなっていた。毛布もいつの間にか肩の位置まで下げられている。
チョロ松は両手をついて上体を起こした。目が腫れぼったいのを感じたが、体の熱っぽさはだいぶ引いたようだ。喉の痛みも少しだけ和らいだ。正面の窓を見上げると、まだ雨が降っているのを確認できた。
「……のど、かわいた」
チョロ松はかすれた声でぽつりと言うと、ふらつきながら立ち上がる。襖を開けて、壁に手をつきながら階段を下っていく。廊下は暗くて寒かったが、居間の障子から漏れる明かりがあたたかかった。チョロ松はふと疑問に感じた。玄関の引き戸がガタガタと音を立てているが、居間からは物音1つしないのだ。兄弟たちはどこに行ったのだろうか。
そんな疑問に答えを見いだせないまま、チョロ松は居間の障子に手をかけ、ゆっくりと開いた。
「……えっ」
チョロ松が目にしたのは、ちゃぶ台を囲んで座る兄弟たち、ではなく、5人のチョロ松だった。みな上半身裸で、下はジーンズや半ズボン、ジャージという格好なのだが、整えられた髪、下がった眉、きゅっと結ばれた口、と、チョロ松の特徴を備えた人間が5人座っていた。
「……何してんの」
チョロ松はかすれた声でチョロ松たちに問いかける。すると、5人のチョロ松たちはいっせいに障子の横に立つチョロ松を見つめた。
「おはよ、チョロ松。ようやく起きたんだね」
「夕ご飯も食べないのかと思ったよ。さすがにお腹空いたのかな?」
「てか、何その顔。僕らしくないじゃない」
「髪だって寝癖ばっかりだよ。ちゃんと綺麗に整えなきゃ」
「チョロ松らしくないよ、チョロ松」
5人のチョロ松たちはほぼ同じ声色でチョロ松に話しかけた。本物を真似ているのだろうが、今のチョロ松は過去最低の声の低さであった。
「今日の夕ご飯は何だろうね、チョロ松」
「お前が買出しに行ったんじゃないのか、チョロ松」
「違うよ、チョロ松が買出しに行ったんだよ。チョロ松がじゃんけんに負けたから、チョロ松が行く羽目になったんだよ」
「じゃあ今日の夕ご飯はチョロ松の好きなものじゃないのか?」
「えっ、そんなルールなら今度からチョロ松は買出しに行かせないよ」
「なんだよそれ、チョロ松に行かせないって不平等じゃない?チョロ松」
「は?当たり前でしょ、チョロ松はチョロ松の好きなものしか買ってこないなら、僕らがローテーションして買出しに行くしかないでしょ?そうでしょ、チョロ松」
「その通りだよ、チョロ松」
「おいチョロ松!さっきから聞いていればチョロ松ばっかり責めやがって!どう考えてもお前の方が悪いだろ、このクソ三男!」
「はぁ!?誰が悪いだって!?もう一回言ってみろこのアイドルオタク!」
「おい、チョロ松とチョロ松!こんなところで喧嘩すんなよ!」
「外でやってくんないかなぁ!チョロ松とチョロ松!」
「うるせぇ!てめえの顔見るとケツ毛燃えるわ!クソ童貞!」
5人のチョロ松たちはちゃぶ台を蹴り飛ばし、取っ組み合いの喧嘩を始めた。少しにやけた顔をしたチョロ松は眉が太めなチョロ松の左頬をぶん殴り、そのチョロ松は軟体動物のような動きを見せるチョロ松を投げ飛ばし、そのチョロ松はやや内股のチョロ松の腹にパンチを食らわせ、そのチョロ松は眠そうな目のチョロ松の脇腹をつねり、そのチョロ松は少しにやけた顔をしたチョロ松の頭にチョップを繰り出した。
本物のチョロ松はというと、障子の横に突っ立ったままで、両手を握りしめてわなわなと震えていた。全身の熱っぽさは消えていたが、今度は首から上に熱が集中していた。耳も目も頬も真っ赤になり、心臓のあたりから何かがこみ上げてくる。チョロ松は、大きく息を吸い込むと、ぎゅっと目を瞑った。
「……お前らぁ!!」
5人のチョロ松たちは、取っ組み合いの喧嘩をぴたりとやめた。本物のチョロ松はマスクを下げてカッと目を見開いた。
「いい加減にしろぉぉぉぉぉっ!!!!!」
次の瞬間、眩い光とともに、爆発音が鳴り響いた。両耳の鼓膜が破れたかと思った。チョロ松たちも本物のチョロ松も全員ひっくり返った。ハッとあたりを見渡すと、電気が落ちて真っ暗になっている。
「………なに…………」
暗闇で、トド松の震える声が聞こえた。
すると、いっせいに、家の明かりがついた。居間を見渡すと、上体を起こしてキョロキョロしているおそ松、頭を両手で守るカラ松、床にうつ伏せに大の字になっている一松、障子を突き破っている十四松、両腕で胸を守るようにして怯えているトド松の姿があった。
最初に口を開いたのは、5人のチョロ松たちでも、本物のチョロ松でもなく、2階の自室で作業をしていた松代であった。
「ニートたちーーっ!無事なのーっ!?」
家の中に松代の声が響き渡る。それに対して、おそ松が叫んで答える。
「だいじょぶだいじょぶ〜っ!!」
本物のチョロ松は這いつくばって居間の中に入ると、兄弟たちを見渡した。皆、まだ何が起こったのかわからない様子で、顔面蒼白であった。
「いやぁ〜、感心したよチョロ松〜」
しかし、長男だけは違った。アホ毛が飛びてていないおそ松が、鼻の下をこすってニカッと笑った。
「これがほんとの、『雷が落ちる』ってやつ?」