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雨と無知

松野チョロ松は機嫌が悪かった。
ここのところずっと雨が続いていて、家の中にいても湿度が高く、濡れたアスファルトや木や土のにおいが入りこんでくる。気温も20度に届くか届かないかくらいだったが、強い風が吹けば縮こまるほど寒く感じた。テレビの天気予報を見る限りでは、しばらくは雨が続くらしい。
20代前半だというのに全員揃ってニートである松野家の六つ子は、今日も外出せずにダラダラと時間を潰していた。1階の居間では、長男のおそ松は壁にもたれかかって漫画を読み、次男のカラ松はちゃぶ台に肘をつき手鏡に映る己の顔に見入っている。四男の一松と五男の十四松は、ボードゲームである野球盤を床に置き、カチャカチャと音を鳴らしながら遊んでいる。末弟のトド松は、カラ松と対面する位置に座り頬杖をついてスマートフォンをいじっている。父親の松蔵は仕事に行っており、母親の松代は、部屋干しに嫌気がさしつつも洗濯機をまわしていた。
三男のチョロ松は、寝室兼居間である2階にいた。道路に面した窓の窓台に体育座りをして、曇り空をぼーっと見ていた。窓から冷気が伝わってきて、左頬が冷たくなっていく。彼は口を真一文字に結び眉をひそめていたが、窓に映る彼の顔はどこか物憂げであった。
「……ゲホッ!ゴホゴホッ……あー……」
ふと、喉の奥が痛み咳き込んだ。喉の違和感は今朝からあって、声も少しかすれていた。原因はおそらく昨日の出来事にある。というのも、チョロ松にとって、昨日という日は本当に最悪であった。まず1つ、触るなと言われていたはずのチョロ松所有の雑誌をおそ松がおもしろがって読んでいたところ、思いがけずもあるページの端を2センチほど破ってしまった。そのページは、チョロ松が愛する地下アイドル・橋本にゃーの特集ページで、小さく写った彼女の右手の肉球が真っ二つに割かれていた。怒ったチョロ松に指摘されて初めて気づいたおそ松はすぐさま謝るも、チョロ松は一日中無視を決め込んだ。もう1つ、比較的小雨だからといって野球をしに出かけた十四松が、夕方の豪雨ですぶ濡れの泥まみれになって帰ってきた。十四松の帰宅にいち早く気づいたチョロ松は、玄関で泥を払うように言うが、十四松は大笑いしながら靴を脱ぎ捨てるとドタバタと風呂場へ駆け抜けていった。仕方なく廊下を雑巾で吹いている際に、自分のパーカーに泥が飛び散っているのに気づき悪態をついた。さらに1つ、チョロ松が洗濯物をたたんでいると、一松が戯れていた猫が突然飛び上がり洗濯物の山を崩した。ここまでは猫のしたことだからと思ったが、よくよく考えると雨の日に猫が家を出入りしている事実が嫌だったし、それを許す一松のことも気に入らなかった。そしてもう1つ、どんどん機嫌が悪くなるチョロ松を見て、トド松は笑いながらスマートフォンで写真を撮った。消すように促すも言う事を聞かないので、スマートフォンを奪おうとしてトド松ともみくちゃになりながら喧嘩した。結果、双方とも無視を決め込んだ。
そんな昨日の出来事を忘れぬようにと戒めのごとく現れたのが、この喉の痛みである。声を出そうとすればかすれるし、その度に咳が出てしまうので、なるべくしゃべらないようにすることにした。
「……怒りすぎたかな」
窓に打ちつけられた雫が絶え間なく滴るのを見ながら、チョロ松はぽつりと呟いた。
その時、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。ゆっくりと上がってくる足音と階段の軋む音を聞くと、その正体にだいたい検討がつく。
「フッ……暗黒の地に埋もれ、懺悔の涙に打たれる兄弟よ……このオレが暗雲を引き裂く光の架け橋となろう……」
襖を開けてやたらと格好をつけた声で言ったのは、次男のカラ松であった。左目でウインクをしながら右手を顎に添えチョロ松に視線を送るが、チョロ松はカラ松の方を見向きもしない。
「……電気、つけないのか」
「……いい」
カラ松はチョロ松から反応が返ってきたことにほっとし、薄暗い部屋を横切ってチョロ松のすぐそばで立ち止まる。
「ほら」
チョロ松はようやく顔を上げると、カラ松が差し出した右手に握られた物を見た。5センチほどの長さの細いプラスチックの棒に、小さな黄金色の球がついていた。
「喉が痛いんだろ?」
チョロ松はポカンとして、微笑むカラ松とその手に握られた球体を交互に見た。
「……ロリポップののど飴なんて初めて見たんだけど」
「オレもだ。珍しくてこの前買ってしまった」
使う予定もないのになんで買ったんだ、という言葉を飲み込み、チョロ松は礼を言ってロリポップを受け取った。口に含んで舐めると、甘ったるい蜂蜜の味が口の中に広がった。
カラ松は窓台に腰掛け、右足を立てて左足を床に下ろした。
「しばらく止みそうにないな」
そう言うと、カラ松は窓にふうっと息を吹きかけて、右手の人差し指で自画像を描き始めた。窓に現れた顔は、サングラスらしきものをかけて余裕の笑みを浮かべている。描き終えると、カラ松は満足そうにそれを見つめて鼻歌を歌い始めた。やがて窓の自画像は水滴が垂れて縦に数本の線が入っていく。
「フッ……水も滴るいい男……のオレ」
「あのさぁ」
しびれを切らして、チョロ松は飴を舐めながら口を開く。カラ松は笑みを消して、対面するチョロ松の顔を見る。
「僕に何か用なの?」
チョロ松はそう言い放った瞬間、少し後悔した。1つ上の兄であるカラ松は、昨日のチョロ松に何の害も加えていない唯一の兄弟であった。普段から干渉することもなく、干渉されることもなく、心地の良い距離感を保っていたのだが、この時、たまたまカラ松がアプローチを仕掛けてきたからといって突き放してしまったのは大いなる間違いであった。
「……飴をあげに来ただけだが」
カラ松は至極真っ当な答えを出し、首をかしげる。その仕草がまたチョロ松の良心を傷つけた。
「……そうなんだ」
チョロ松はぷいっと窓の方を見てカラ松の視線から逃れた。気まずい雰囲気の中、チョロ松はひたすら飴を口の中で転がし、プラスチックの棒を上下に揺らした。
「邪魔なら下に戻るとするか」
カラ松は窓の自画像と同じ顔をして前髪をサラリと梳くと、立ち上がって襖の方へと向かう。しかし、チョロ松は慌ててそれを阻止する。
「まっ……ゲホゲホッ」
思わず咳き込んでしまったチョロ松に、振り返るカラ松。
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
チョロ松は飴をくわえ直し、また窓の方を向いてしまった。
「邪魔じゃないから」
カラ松は無言でまた窓台に腰掛けると、チョロ松の顔をじっと見つめる。チョロ松はバツが悪そうに、窓に息を吹きかけてへのへのもへじを描き始めた。
「何かあったのか?」
カラ松は落ち着き払った声で言った。カラ松は何か話をする時、余計な詮索はせず、必要最低限の言葉だけを使うのをチョロ松は知っていた。チョロ松はバランスの悪くなったへのへのもへじを消して、今度は猫を描き始めた。
「……昨日のことを引きずってるだけだよ」
チョロ松は昨日の出来事を事細かにカラ松に話した。カラ松は昨日、雨の中半日パチンコに行っていたのもあって、チョロ松に起こったすべてのことを把握していなかった。ただなんとなく、おそ松とチョロ松とトド松の機嫌が悪そうなことだけは把握していた。
「そりゃあ厄日だったな」
カラ松は思わず苦笑いをする。カラ松は問題行動をしないかといえばそうではないが、ファッションセンスがぶっ飛んでいて、たまにおかしな言語を扱うくらいなので、チョロ松の逆鱗に触れることはほとんどなかった。
「あいつらはもう気にしてないはずさ。今朝だって普通だったろう?そんなに気を病まなくていいんじゃないか、チョロ松」
たしかに、今朝のおそ松とトド松は普通の調子であった。明らかにチョロ松を避けているような素振りは見せなかったし、ただ喉の調子が悪くしゃべらないチョロ松と言葉をかわさなかっただけだ。それに、階下からおそ松たちの楽しげな会話も聞こえてくる。
「……そうだね」
チョロ松は小さくなった飴をかじり、ぽつりと言った。しかし、だからといって下の階に下りて兄弟たちの輪に入る気にはなれなかった。チョロ松の心に何かが引っかかっていた。
「……僕、怒るの疲れた」
いつの間にか心の声が飛び出していたようで、チョロ松は自身の言葉に驚いた。
「あいつらは僕の言うことを聞いてくれないんだ。みんな自分勝手すぎる。僕が間違ってるのかなぁ」
チョロ松は膝を抱き寄せ、顔を埋める。それを見て、カラ松は慌てて手をバタバタと振る。
「い、いや、そんなことはないと思うぞ、ブラザー」
カラ松は必死に笑みを作る。
「チョロ松みたいに、誤りを正す存在は必要だと思うぞ。オレは」
その時、チョロ松の頭の中で何かが弾けた。チョロ松は顔をばっと上げ、カラ松を食い入るように凝視する。そのあまりの眼光に、カラ松はたじろいだ。
「カラ松、お前が僕の代わりをやってよ」
「……え?」
カラ松は口を開けてポカンとした。
「あいつらを怒るのって、何も僕の役割じゃないし」
チョロ松は足を崩すと、両手でカラ松の両肩をがっしりつかむ。カラ松は小さく悲鳴を上げた。
「お願いね、カラ松……いや、『カラ松兄さん』?」
「……は、え……?」
カラ松は、チョロ松の眼光に圧倒されて何も言い返すことができなかった。

翌日、チョロ松の体調は悪化していた。喉の痛みは増し、体がだるく熱っぽい。松代に心配されたチョロ松は、2階の寝室で安静にするようにと言われた。六つ子が横一列になって寝る布団を半分丸め、1人用の厚めの毛布を取り出す。さらに枕を1つ取り出してパジャマ姿で横になった。マスクをして、額には松代が用意した冷えたタオルを乗せた。頭を襖側に向けて横になったチョロ松は、ぼーっと天井の電球を見つめた。額の冷たさと顔の熱さがせめぎ合い、ドクンドクンと脈打つのを感じた。窓に冷たい雨が打ち付ける音が響いた。
1時間ほど経っても眠れないでいると、階段を上がってくる足音が近づいてきた。一歩一歩がどっしりとした足音。やがて、襖がゆっくりと開けられた。
「……生きてる?」
「……なんとかね」
氷水が入った桶を持って現れたのは、一松であった。一松はチョロ松の頭のすぐそばに座り込むと、額から温かくなったタオルをそっと取って、ちゃぷんと音を立てて氷水に浸した。タオルの熱がなくなったのを確認すると、腕まくりをして、タオルをきつく絞る。指先が少しばかり赤くなった手で、チョロ松の額にタオルを戻した。
「ありがと」
そういえばだいぶ前に同じようなことがあったな、とぼんやり思った直後、チョロ松はゲホゲホと体を揺らして咳き込んだ。喉を潰したチョロ松は、過去最低とも言えるほどの声の低さだった。
「無理、しないでね」
一松は桶を持ってのそのそと立ち上がると、襖に手をかけて閉めようとするが、ぴたりと手を止めた。
「昨日の猫、ごめんね」
一松の言葉に、チョロ松はぴくりと反応した。
「……寒そうだったから」
一松はチョロ松に背を向けたままぽりぽりと頬をかいた。
「……別に、気にしてないよ」
チョロ松は、かすれた声で返した。
一松はちらりとチョロ松を見ると、ゆっくりと襖を閉めた。階段を下る足音が途中で止まったので、聞き耳を立てていると、何やら言い争いが聞こえてきた。
「ハッ……退けよクソ松」
「ひっ……い、一松、何も兄貴に対してそんな言い方ないだろう」
「うるせえボケェ!」
「うわっつめたっアイターーッ!!」
その直後、1階の床に何かが派手に転げ落ちる音がした。情けない悲鳴から察するに、カラ松が落ちたのだろう。
「病人が寝てんだ……静かにしろよな」
「お前だよぉ!」
一松は捨て台詞と共に消えていったようで、しばらくカラ松のうめき声だけが聞こえてきた。やがてカラ松は危なっかしい足取りで階段を上がってきた。
「フッ……悪魔の襲撃にあったぜ……」
「察してたよ」
カラ松は頭に2つほど大きなたんこぶを作り、右足の膝小僧をさすっていた。襖を閉めると、やれやれとため息をつきながら、一松と同じようにチョロ松のすぐそばに座り込むと、カラ松は口を開いた。
「やっぱり、風邪だったようだな」
チョロ松も長いため息をついた。昨日まで自由に動き回れていたのが嘘のように体が重い。おまけに喉も完全に潰れて唾を飲み込むのもつらい。
「……なあチョロ松、オレはチョロ松みたいになれているだろうか」
カラ松は腕組みをしてチョロ松の顔を見つめる。
「昨日はオレなりにやってみたんだが……どうもブラザーたちの様子がおかしいんだ」
チョロ松は、昨日のカラ松の行動を思い出した。自分の代わりになれ、と言われたカラ松は、兄弟たちの問題行動を見るとすぐにやめるよう制していた。それを聞いた兄弟たちは、反省したのかずいぶんと大人しくなり、結果、カラ松に呆れたチョロ松が出るという展開にはならなかった。チョロ松はそれを見て嬉しく思っていたのだが、反面、怒りともいえない感情がこみ上げてきたのだった。
「……何がおかしいんだよ。皆素直に聞いていたじゃない」
チョロ松は顔をしかめてぼそぼそと言った。
「カラ松には、皆を動かす力があるんだよ。今まで発揮されなかっただけで。間違っちゃいないでしょ」
「いや、そうじゃなくて……」
カラ松は何か言いかけたが、口を閉じて黙ってしまった。この言葉をきっかけに、チョロ松の苛立ちは早くも沸点に達した。マスク越しに、チョロ松は怒鳴り声をあげる。
「何が不満なんだよ!!」
カラ松はびくっと体を震わせた。
「僕の言うことは聞いてくれないくせに、カラ松の言うことは皆聞くんだ。それでいいでしょ!こんなことなら、最初から兄さんに任せておけばよかった!!」
チョロ松は一段と大きく咳き込んだのち、荒く呼吸をした。毛布を目より上までたぐり寄せて、カラ松の視線を遮断する。チョロ松は、それ以上言葉を続けることはなかった。
カラ松は、驚きで固まっていた口を閉じ、目を瞑った。ゆっくりと立ち上がると、襖を静かに開き、ちらりとチョロ松の方を見た。
「……すまない」
襖は静かに閉められた。足音がだんだん小さくなっていく。チョロ松は、両方の目から溢れ出るものを、握りしめた毛布に染み込ませていった。
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