君を守る正しい方法

斎藤一が、ゆっくりと息を吸う。
けれど、その先はすぐには続かなかった。
川の上をぬるい風が通り過ぎる。曇った空は低いままで、雨が降るのか降らないのかもはっきりしない。さっきまでより少しだけ湿り気を増した空気が、妙に肌に張りついていた。
七宮なのはは待った。帰る方向へ流される前に。何かに勝手に決められる前に。今度こそ、本人の口から答えを聞くために。
けれど、斎藤一はしばらく黙ったままだった。
「……このままじゃ、よくないと思ってる」
やがて落ちてきた声は、低く静かだった。
「でも、すぐにどうするかをちゃんと決められるほど、まだ整理できてないんだ」
七宮なのはは相手を見たまま、何も言わなかった。言葉の意味はわかる。わかるけれど、それで納得できるかと言われたら別だった。
「整理って、何を」
ようやくそう返す。斎藤一は一度だけ視線を逸らして、それからまた戻した。
「自分がどこまで関係してるのかも。君にどう言うべきなのかも」
「……今さら」
「うん……今さらだよね」
言い直すみたいに言う。斎藤一は否定しなかった。その返しが、ひどく静かだった。静かすぎて、逆に腹が立つ。
七宮なのはは小さく息を吐いた。
「私、さっきも言ったけど、勝手に決められるの、普通に嫌なんだよね」
「……うん」
「守りたいのか何なのか知らないけど、それで私の自由を奪うのは違うでしょ」
斎藤一は黙って聞いている。反論しない。しないまま、受け止めているような顔だけする。そのことが少しだけ腹立たしくて、少しだけ困る。
「……わかってる」
やっと出てきた言葉は、またそれだった。七宮なのはは眉を寄せる。
「わかってる、で済むなら今こんなことになってないんだけど」
「……ごめん」
すぐに返ってきた声に、ほんの少しだけ言葉が止まる。
なら、どうするのだ。そこを聞きたいのに、その先が出てこない。
川の流れる音が、やけに近く聞こえた。
しばらくの沈黙のあと、斎藤一が低く言った。
「……君に危ない目に遭ってほしくないと思ってたのは本当」
「うん」
「一人でいるのを、あまり良く思ってなかったのも本当」
そこまで言って、また黙る。その続きがあるのか、ないのかもわからない間だった。
七宮なのははわずかに唇を引き結ぶ。
「それで」
促す。斎藤一は小さく息を吐いた。
「それで、たぶん……見えるところにいてほしかった」

その言葉は、前より少しだけ曖昧だった。
たぶん。そういう言い方が混ざるだけで、届きかけたものが少し遠のく気がする。
七宮なのはは目を伏せた。
「たぶん、じゃなくて」
「……うん」
「そういうとこだよ」
責めるつもりで言ったはずなのに、少しだけ疲れた声になった。斎藤一は何も返さない。返せないのだろうと思う。
ここで押し切れば、もっと言わせられる気もした。はっきりしろと責めることもできる。結局どうしたいのか、最後まで言わせることも。でも、その一歩を踏み込んだところで、今のこの人がちゃんと答えられるのかと考えると、少しだけ違う気もした。
言えないまま抱え込んで、こんな形になった。その結果が今なのだとしたら、今この場で無理やり全部言わせることが、正しいとも思えなかった。
それが甘いのかどうかは、七宮なのはにもわからない。
ポケットの中のスマートフォンが、小さく震えた。
二人とも、同時にそちらを見た。七宮なのはは少しだけ嫌そうな顔をして画面を出す。大学からの一斉連絡。ニュースアプリ。どうでもいい通知がいくつか並んでいる。さっきまでみたいに露骨に会話を切るほどではない。けれど、妙に今の空気に入り込んでくる感じがした。
「……ほんと、こういうの」
小さく呟く。斎藤一は画面を見てから、何も言わなかった。
七宮なのはは通知を消し、スマートフォンを伏せる。
「やっぱり、まだ続いてるんじゃないの」
その言葉に、斎藤一の目が少しだけ揺れた。
「……かもしれない」
「そこは否定しないんだ」
「できないから」
短い返答。七宮なのはは一度だけ空を見上げる。曇った空は、相変わらず何も答えない。小さく雷みたいな音が鳴ったが、雨は降ってこなかった。
「ねえ」
今度は少しだけ声を落として言う。
「これ、ちゃんとケリつける気ある?」
斎藤一はすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、ようやく言う。
「終わらせたいとは思ってる」
「……“とは”って何」
「君の自由を奪いたいわけじゃない」
「うん」
「……でも、まだ全部うまく言えない」
それが今の限界なのだろう。そうわかる言い方だった。
七宮なのはは小さく息を吐いた。
怒っている。腹も立っている。けれど、それだけではない。相手を完全に外側へ放り出せない程度には、もうこの人が関係していると知ってしまっている。それが一番面倒だった。
「……今日はもういいよ」
ぽつりと落とすように言う。斎藤一がわずかに目を上げる。
「いい、っていうか」
七宮なのはは少しだけ言葉を探した。
「今ここで、これ以上聞いたところで、たぶんあんまり意味ない気がする」
その言い方が正しいのか、自分でもわからない。でも、今の自分に言えるのはそれくらいだった。
斎藤一はしばらく黙ってから、静かに頷いた。
「……うん」
「その代わり、考えといて」
「わかった」
「今度はちゃんと、自分の言葉で」
そこまで言ってから、七宮なのはは少しだけ目を細めた。
「別の何かに勝手にやらせるんじゃなくて」
斎藤一はまた、小さく頷く。
「……そうだね」
本当にわかっているのかどうかは、まだわからない。でも、それ以上は今は追わなかった。
しばらくその場に立っていたあと、七宮なのはは踵を返す。
「帰る」
短く言う。斎藤一は止めなかった。ただ、少しだけ間を置いてから歩き出す気配がした。並ぶでもなく、離れすぎるでもなく、微妙な距離を空けたまま、同じ方向へ向かってくる。
それが少しだけおかしくて、少しだけ気詰まりだった。
駅までの道は、妙に静かだった。さっきまでみたいな通知は来ない。信号も、変に待たされることなく青になる。人とぶつかることもない。何も起きない。あまりにも平和で、逆に少しだけ気味が悪い。
七宮なのはは歩きながら、ぼんやり考える。
今日はもう帰るか、と思った。そう思ったのは、自分だ。たぶん本当に。これ以上話しても進まない気がしたし、少し疲れてもいた。だから帰る。その判断自体は、自分のものであるはずだった。
でも、それだけではない気もする。
駅までの道が、あまりにも都合よく整っている。
信号はちょうどよく青になるし、人の流れも妙に空いている。帰る以外の選択肢が、静かに削られているような気がして、七宮なのはは少しだけ眉を寄せた。
――やっぱり、まだ少し残っている。
そう思ってから、自分でその言い方を反芻する。
残っている。何が?怪異か。願いか。その両方か。
駅の改札が見えてくる。その少し手前で、斎藤一が足を止めた。
「……今日は、ごめん」
七宮なのはは振り返った。その謝罪は、たぶん今までより少しだけましだった。少なくとも、何に対して言っているのかが前より見える。
「うん」
「ちゃんと考えるね」
「……私は、待ってるから」
それ以上の返事は、すぐには出なかった。
斎藤一も無理に続けなかった。ただ静かにこちらを見ている。何か言いかけてやめたような顔だった。
七宮なのはは、それを見て少しだけ目を逸らす。
「……じゃあ、また」
最後にそう言う。それが約束になるのか、先延ばしになるのかは、まだわからない。
「うん」
返ってきた声は、やけに静かだった。
改札を抜けて、ホームへ向かう。階段を下りながら、七宮なのははスマートフォンを取り出して時間を見る。寄り道するには遅い時間ではない。気が向けば、コンビニに寄ることだってできた。別にそれを禁じるものは、もう何もないはずだ。
なのに、今日はそのまま帰ろうと思った。それは自分の意思だった。たぶん。少なくとも、そう思える程度には。けれど、その“たぶん”の薄さが少しだけ嫌だった。
電車がホームに滑り込んでくる。開いたドアの向こうへ人が流れ込み、七宮なのはもその中へ混ざる。吊革を掴んで窓の外を見た時、スマートフォンの画面は暗いままだった。新しい連絡は何もない。
それでも、胸の奥にはまだ少しだけ残っている。
行き先を削られるような嫌な感じ。それと、同じくらい薄く残る、あの人の願いの気配。
守られたいわけじゃない。
勝手に決められたいわけでもない。
でも、あの人が何を抱えたまま黙っていたのか、その輪郭だけはもう知ってしまった。
それが完全に消えないまま、生活の端に残っている。
窓の外に流れていく夜の色を見ながら、七宮なのはは小さく息を吐いた。
全て曖昧なままだ。終わったとも、続いているとも言い切れない。それでも電車は進む。日常は、その顔をしたまま続いていく。

――胸の奥にまだ少しだけ、あの人の願いを残したままで。

Normal END.
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