君を守る正しい方法

斎藤一が、ゆっくりと息を吸う。

川の上を、ぬるい風がひとつ通り抜けた。
空はまだ曇ったままで、雨は降りそうで降らない。どこか中途半端なまま止まっている空気が、今の自分たちに少しだけ似ている気がして、七宮なのはは無意識に眉を寄せた。
「……このままじゃ、よくないと思ってる」
やがて、斎藤一が言った。低くて静かな声だった。言い訳をするみたいでもなく、何かを諦めたみたいでもなく、ただ事実を置くみたいな言い方だった。
「君の自由を奪ってまで安心したいわけじゃない」
七宮なのはは何も言わずに聞く。
斎藤一は一度だけ視線を落として、それからまたこちらを見た。
「でも、そう思ってしまっていたのは本当」
その言葉は、妙にまっすぐだった。七宮なのはは小さく息を吐く。
「そう思ってた、で済まないから今こうなってるんだけど」
「うん」
「私、さっきも言ったけど、勝手に色々決められるのほんとに嫌なんだよね」
「わかってる」
「いや、たぶん、わかってないからこうなってるんでしょ」
少しだけ刺すように言った。斎藤一は反論しなかった。しないことが余計に腹立たしい。
「守りたいとか、危ない目に遭わせたくないとか、そういうのはわかるよ。わかるけどさ。それで私の予定とか自由とか削るのは違うじゃん」
言いながら、自分でも少し息が上がっているのがわかる。怒っている。ちゃんと怒っている。なのに、どこかでこの人がそれを自覚して言っていることに、少しだけ安心している自分がいるのもわかって、余計に面倒だった。
「……うん」
また、それだけ。七宮なのはは目を細めた。
「“うん”じゃなくてさ」
「……ごめん」
「だから、謝られても困るって」
短く返す。ポケットの中のスマートフォンは、もう震えていなかった。さっきまでみたいなどうでもいい通知も来ない。けれど、それで安心する気にもなれない。
しばらくの沈黙のあと、斎藤一は静かに言った。
「君にちゃんと言うべきだったんだと思う」
七宮なのはは、少しだけ目を上げる。
「何を」
「帰ってほしい時があるってことも。危ない目に遭ってほしくないってことも」
一拍置いてから、斎藤一は続けた。
「……近くにいてほしいと思ってたことも」
その言葉は、前の会話より少しだけ整っていた。その分、誤魔化しが薄くなっているようにも聞こえる。
七宮なのはは、欄干から背中を離した。
「それ、今さら言うんだ」
「今さらだね」
斎藤一は苦く笑うでもなく、そのまま認めた。
「今さらだけど、言わないで済ませる方がもっとよくない気がしたんだ」
その返しに、七宮なのはは一瞬だけ言葉を失う。よくない。そうだ。今まで起きていたことは、たぶん全部よくなかった。怪異がどうこう以前に、この人が言葉にしないまま抱え込んで、結果として別の何かに代行させていたこと自体が。
「……はじめちゃんって、不器用とかの範囲ちょっと越えてるよね」
「そうかもね」
「他人事みたいに言うな」
「他人事じゃないから困ってるんだけど」
その返しに、七宮なのはは少しだけ口を閉じた。こんな時なのに、少しだけいつもの会話みたいな温度が混ざる。そのことに、変な安心と変な苛立ちが同時にある。
風がもう一度吹く。今度は少し冷たかった。曇った空気が、ゆっくり湿り気を増していく。
「……で、どうするの」
七宮なのははまっすぐ訊いた。
「このままじゃよくないと思ってるんでしょ」
「思ってる」
「だったら、どうするの」
斎藤一はすぐには答えなかった。また黙るのかと思って、七宮なのはは少しだけ苛立ちかける。けれど、その前に相手が口を開いた。
「なのはちゃんに、ちゃんと聞く」
予想していた言葉ではなかった。七宮なのはは一瞬だけ目を瞬いた。
「……何を」
「帰ってほしい時は、帰ってほしいって言うし」
斎藤一の声は静かだった。でも、今までよりずっとはっきりしている。
「一緒にいたい時も、そう言う」
七宮なのはは、相手を見たまま動けなかった。
それは派手な告白でも何でもない。なのに、今までのどの言葉よりも真っ直ぐだった。自分の言葉で出しているのがわかるからだ。
「君がどうするかは、君が決めて」
その続きが落ちてくる。
「僕は勝手に決めない」
しばらく、何も言えなかった。七宮なのはは指先を握って、それからゆっくり息を吐いた。胸の奥にあった張りつめたものが、少しだけ形を変える。まだ完全には解けない。でも、今までとは違った。
「……最初からそうしてよ」
ようやく出た言葉は、それだった。
「そうしてくれてれば、こんな面倒なことになってないんだけど」
「ごめん」
「それはもういい」
斎藤一は少しだけ目を細めた。
「……よくはないけど」
「じゃあ今からどうにかして」
それは半分八つ当たりみたいな言い方だった。でも、斎藤一は困ったように笑うでもなく、ただ小さく頷いた。
「……うん」
その時、ふっと何かが抜けた気がした。風の音でもなく、空気の重さでもなく、もっと曖昧なもの。ここ数日ずっとまとわりついていた、帰る方へ引かれるような感覚。何かが先回りして予定を削るような、薄くて嫌な圧迫感。あれが、ほんの少しだけ遠のいた気がした。
七宮なのはは反射みたいに周囲を見回す。
何も変わっていない。川は鈍く流れていて、遠くの車の音も同じだ。空はまだ曇っているし、雨も降っていない。ただ、それだけなのに、さっきまでより少しだけ呼吸がしやすい。
「……今、ちょっと静かにならなかった?」
気づけばそう言っていた。斎藤一も、少しだけ眉を寄せる。
「そうかも」
「“そうかも”ばっかり」
「でも、本当にそう感じたから」
七宮なのはは、もう一度だけ深く息を吸った。やっぱり少し違う。帰る方向へ勝手に流される感じがない。今ここにいることが、ようやく自分の意思で立っている感じに戻った。
「……じゃあ、やっぱりこれ」
言いかけて止まる。
怪異が消えた、と断言するにはまだ早い。けれど、少なくとも“言葉にした”ことと、今の変化が無関係ではない気がした。
斎藤一が、七宮なのはを見る。
「少なくとも、さっきまでとは違う気がする」
「うん」
「じゃあたぶん、今まで足りなかったのこれじゃん」
七宮なのはは少しだけ呆れたように笑った。
「最初から言ってくれればよかったんだよ」
「……そうだね」
その返事には、今までみたいな逃げがなかった。七宮なのははそれを見て、少しだけ肩の力を抜く。
空の端で、また小さく音が鳴った。
けれど今度は、さっきみたいに会話を邪魔する感じではなかった。
七宮なのははスマートフォンを取り出して時間を見る。
帰るには帰れる時間だ。けれど、すぐ帰らなければいけない理由もない。
そのことに気づいて、ふと顔を上げる。
「……コンビニ寄ろうかな」
斎藤一が少しだけ目を瞬いた。
「今?」
「うん。なんか甘いもの買いたい」
「帰らないの?」
その問いかけに、七宮なのはは少しだけ眉を上げた。
「それ、また言うの?」
「……いや」
「今日は私がやりたいようにやる」
はっきり言う。そのあとで、少しだけ言い方が強かったかなと思ったが、引っ込める気にはなれなかった。
斎藤一は、今度は止めなかった。ただ、小さく頷く。
「……うん」
七宮なのははその返事を見てから、踵を返す。川沿いの遊歩道を離れて、駅前とは反対方向の小さなコンビニへ向かう。数歩進んでから、ふと後ろを振り返ると、斎藤一が少しだけ間を置いてついてきた。
「何」
「……ついていっちゃだめ?」
その言い方に、七宮なのはは一瞬だけ黙る。
だめ、とは思わなかった。でも、それをそのまま顔に出すのも癪だった。
「勝手に決めないなら?」
「じゃあ聞くよ」
「何を」
「僕も、一緒に行ってもいい?」
七宮なのはは、思わず目を細めた。たったそれだけのことなのに、今までとまるで違う。聞かれている。選べる。自分で決めていいのだと、ようやく普通のことを普通に思える。
「……いいよ」
小さく返す。それだけで十分だった。
二人で並んで歩き出す。
途中で妙な通知は来なかった。信号も、ただ普通に赤になって、青になった。人とぶつかることもないし、足を止める理由もない。何も起きない。今までなら、それだけのことが少し不安でもあったのに、今は不思議と落ち着いた。
コンビニの灯りが見えてくる。
七宮なのははその前で、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
――守られる、ということ。
その言葉の形は、たぶん思っていたよりずっと曖昧だ。閉じ込めることでも、勝手に遠ざけることでもなくて、本当はもっと地味で、もっと面倒で、ちゃんと相手に聞かなければ成立しないものなのかもしれない。
七宮なのはは横を歩く斎藤一をちらりと見た。
「……はじめちゃん」
「うん」
「今度から、ちゃんと言って」
「わかった」
「私も、ちゃんと考えるから」
その返事は少し間を置いてから来た。
「……ありがとう」
七宮なのはは、それには答えずにコンビニの扉を押した。
冷房の効いた空気が肌に触れる。明るい店内に入った瞬間、ここ数日まとわりついていた妙な引っかかりが、ようやく自分の外へ出ていったような気がした。

何も起きない。ただ、行きたい場所に行ける。
――それだけのことが、嬉しかった。


Happy END.
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