君を守る正しい方法


 帰宅してからしばらく経っても、胸の奥の引っかかりは消えなかった。
エアコンの音が小さく鳴っている。部屋の中は快適な温度のはずなのに、どうにも落ち着かない。鞄は床に置いたまま、着替えも半端で、七宮なのははベッドの端に腰かけてスマートフォンを見下ろしていた。
新しい連絡は来ていない。画面の上には、さっきまでの会話の名残がそのまま残っている。
――嫌な思いをさせたいわけじゃないよ。
たった一文なのに、変に頭に残っていた。言い回しがおかしい。そう思うのに、何がどうおかしいのかを説明しようとすると、うまく言葉にならない。嫌な思いをしたのは確かだ。でも、それをあの人が意図的にやったと決めつけたいわけでもない。ただ、少しだけ出来すぎている。
七宮なのはは小さく息を吐いて、検索画面を開いた。
『行きたいとこに行けない 理由』
適当にそう打ち込んで検索をかける。出てきたのは、疲労、ストレス、無意識の回避、自己防衛、そういう類の言葉ばかりだった。ついでにスピリチュアル系のまとめ記事まで混ざっている。休息が必要です、心が拒否しています、今は行くべき時ではありません、だとか何だとか。
「いや、そういうんじゃないんだよな……」
思わず独り言が漏れる。疲れている自覚がないわけではない。でも、違う。こっちが行こうとすると、妙に都合よく何かが起きる。自分の気分や無意識の問題というより、もっと外側から小さく軌道をずらされているみたいな感じだ。
検索ワードを変えてみる。
『予定が流れる 頻繁 偶然』
似たような検索結果が並んだ。タイミングが悪いだけ、運が悪いだけ、思い込みです、と言われているようで、だんだん腹が立ってくる。そういう話ではない。少なくとも、自分の中では。
指が少し止まる。それから、七宮なのはは半ばやけっぱちみたいな気持ちで次の単語を打ち込んだ。
『守護霊 守りすぎる』
検索ボタンを押して、自分で少しだけ変な顔をする。
胡散臭い。ワードとしてかなり胡散臭い。こんな検索をしている時点で、我ながらどうかしていると思う。けれど、戻る気にもなれなかった。出てきたのは、案の定、怪しいサイトや体験談ばかりだった。
“守りたい気持ちが強すぎる存在は、ときに自由を奪う”
“守護が過剰になると、縁や予定を遠ざけることがある”
“危険から守るために対象を閉じた場所へ引き戻そうとする”
そこまで読んで、七宮なのはは眉を寄せた。
「……何それ」
馬鹿みたいだと思う。思うのに、嫌な引っかかりがあった。
さらにスクロールする。掲示板のまとめ、動画の切り抜き、都市伝説系の短い解説。信じるに値するとはとても思えないものばかりだった。その中に、妙に今の状況に近い文が混ざっている。
“願いを叶える存在は、願い主の意図通りではなく、解釈した形で動くことがある”
七宮なのはは画面を見つめた。
願いを、解釈した形で。意図通りではなく。少し歪んで。
別のページを開く。
“対象を危険から遠ざける代わりに、行動を阻害する”
“願い主と行動を共にしている時のみ静まるケースあり”
そこまで読んだところで、七宮なのははスマートフォンを伏せた。心臓が少しうるさい。変なものを見たせいだ、と思う。こんな胡散臭い文章に動揺しているのが腹立たしい。
けれど、最近の出来事を思い返すと、嘘だとも言いきれない。
一人では行けなかった。でも、はじめちゃんと一緒なら行けた。
予定が流れる。寄り道しようとすると失敗する。帰る方向ばかり、妙にうまくいく。
――そして、その時に限って、あの人がいる。
七宮なのはは再び画面を開き、今度は別のワードを打つ。
『願いを叶える存在 歪む』
自分でも雑だと思う。でも、その雑さのまま引っかかるものがいくつかあった。
“守りたいという願いは、時に閉じ込める形で叶う”
“悪意ではなく保護として機能するため、本人には自覚がないことも多い”
“願い主が近くにいる間だけ対象の行動制限が緩む例がある”
七宮なのはは、そこでもう一度画面を閉じた。
「……最悪」
小さく呟く。信じるわけがない。というか、信じたくない。なのに、嫌なほど当てはまる。そして何より嫌なのは、そこに斎藤一の気配があることだった。
守りたい。危ない目に遭って欲しくない。目の届くところにいて欲しい。
そんなふうに誰かが思ったとして。それが勝手に歪んで外に出たら、今みたいな形になるのだろうか。そこまで考えて、七宮なのはは顔をしかめた。
「いや、でも」
そこで止まる。あの人がそんなふうに思っている、と思いたいわけじゃない。思われているのだとしても、こんな形で勝手に叶えられたくない。守るのと行き先を奪うのは、たぶん違う。
少し考えてから、七宮なのはは連絡先を開いた。
斎藤一の名前を見つけて、指が止まる。いきなり電話は重い。メッセージも、何をどう送ればいいのかわからない。しばらく迷ってから、短く打つ。
『明日、少し話せる?』
送信。画面を見つめる。既読は思ったより早くついた。
『いいよ』
『どうしたの』
七宮なのはは、返事を打つ前に一度目を閉じた。どうしたの、と聞かれて、どうしたのだろうと思う。自分でもまだ整理がついていない。ただ、これ以上ひとりでぐるぐる考えていても進まない気がした。
『最近のこと』
『なんか変だから』
それだけ送る。
斎藤一からの返信は、少し間を置いて届いた。
『うん』
『僕もそう思ってる』
七宮なのはは画面を見つめたまま固まった。
僕も。そう思ってる。
否定されると思っていた。考えすぎだよ、とか、偶然だよ、とか、せいぜいそういう曖昧な返しが来るものだと思っていた。なのに、今の返事は違う。自分だけじゃないみたいな言い方だった。鼓動がひとつ、強く鳴る。
『どういう意味?』
打ってから、少しだけ待つ。返信はすぐには来なかった。その沈黙が、やけに長かった。やがて届いたのは、短い一文だった。
『その件については、また明日ね』

翌日。
待ち合わせたのは駅前ではなく、大学から少し離れた静かな喫茶店だった。夜の時間帯で、店内はそこまで混んでいない。テーブルに置かれたグラスの水滴が、やけに冷たそうに見えた。
向かいに座った斎藤一は、いつもと変わらないようで、少しだけ違った。落ち着いてはいる。落ち着いているのに、どこか様子をうかがっているようにも見える。先に話し始めるのはどちらでもよかったはずなのに、七宮なのはは自分の方から口を開いた。
「最近のこと、変だよね」
斎藤一は、少しだけ目を伏せてから頷いた。
「うん」
それだけで、喉の奥が少し詰まる。七宮なのはは水を一口飲んだ。
「……私だけがそう思ってるんじゃなかったんだ」
「違うと思う」
「じゃあ、やっぱり何か起きてるってこと?」
すぐには返事が来なかった。斎藤一はテーブルの上で組んだ指先を少しだけ動かして、それから静かに口を開く。
「偶然で片づけるには、重なりすぎてるとは思う」
「はじめちゃんも?」
「うん」
「いつから」
「はっきりとはわからない。でも、君の予定が流れたり、妙なタイミングで帰る方向にばかり物事が転ぶのは、たぶん、見過ごしていいことじゃない」
七宮なのはは、じっと相手を見た。
「……知ってたんだ」
「全部じゃないよ」
その返しは、否定として少し足りなかった。全部じゃない。なら、少しは知っているのだ。
「知らない、とは言えないってこと?」
斎藤一は少しだけ黙った。それから、観念したように小さく息を吐く。
「似た話は調べた」
「似た話」
「願いが、そのままじゃなくて、少し歪んだ形で出るもの」
七宮なのはの背中が、うっすらと冷えた。昨夜、自分が見たものと近い。守護。保護。自由を削る。同行時のみ静まる。そういう胡散臭い断片たちが、急に現実味を持ちはじめる。
「……何それ」
「僕も、全部わかってるわけじゃない」
斎藤一の声は低かった。言い訳にも、説明にも聞こえる声だった。
「でも、君に起きてることと、あまりにも噛み合いすぎてる」
「噛み合いすぎてる、って」
七宮なのはは少しだけ笑いそうになった。笑える話ではないのに、言い方が妙に冷静で、逆に変だった。
「私も昨日ちょっと調べたよ。守護霊が守りすぎるとか、願いを歪んで叶える怪異とか、そういう胡散臭いの」
斎藤一の表情が、ほんの少しだけ固まる。それを見て、七宮なのはは確信に近い何かを覚えた。
「あ、やっぱりそこは知ってるんだ」
「知ってる、というか……見たことがある程度」
「でも無関係ではないって思ってる?」
問いというより確認に近かった。斎藤一は、今度は否定しなかった。
「思ってる」
その一言が、静かに落ちた。
七宮なのはは息を呑んだ。認めるんだ、と思う。全部ではないにしても、少なくとも無関係ではないと、この人は思っている。
「なんで」
その問いは短かった。何を訊きたいのか、自分でもわからないまま出た声だった。
なんで知ってるのか。
なんで言わなかったのか。
なんで自分に起きているのか。
なんで、はじめちゃんなのか。
斎藤一は少しだけ視線を逸らした。
「……わからないことの方が多いよ」
「でも、わからないで済ませてる感じもしないけど」
「済ませてはいない」
その返しに、七宮なのはは一瞬だけ言葉を失った。
済ませてはいない。つまり、この人はずっと考えていたということだ。自分が何かしら関わっている可能性を、ひとりで抱えたまま。
「じゃあ何を知ってるの」
今度ははっきり訊いた。斎藤一はしばらく答えなかったが、やがてゆっくり口を開いた。
「君が一人でいる時の方が起きやすいこと」
「……うん」
「僕と一緒だと静かになること」
「うん」
「あと、君を早く帰したいと思った日に限って、帰る方向に物事が転びやすいこと」
七宮なのはは、テーブルの下で指先を握った。
「それ、自分で言ってて変だと思わないの」
「思うよ」
「じゃあ」
続けようとして、言葉が詰まる。その先を口に出すのが、少し怖かった。
じゃあ、それって。
はじめちゃんがそう思ったから起きてるってことじゃないのか。
斎藤一は、それを察したみたいに小さく目を伏せた。
「……僕のせいかもしれない、とは思ってる」
店内の音が一瞬遠くなる。七宮なのはは、うまく息ができなくなったみたいに黙り込んだ。
責めたいわけではない。でも、その言葉は思っていたよりずっと重かった。
「僕が何かした、とは言えない」
斎藤一は続けた。
「でも、僕が無関係とも言えない」
「それって、つまり」
「たぶん、僕が思ってることと無関係じゃない」
そこまで聞いて、七宮なのははゆっくり息を吐いた。
「何を思ってるの」
斎藤一は答えなかった。答えないまま、水の入ったグラスに目を落とす。その沈黙が、さっきまでとは別の意味を帯びて重くなっていく。
七宮なのはは視線を逸らさなかった。
「守りたい、とか?」
少しだけ棘のある言い方だった。自分でもわかる。綺麗に聞く気になれなかった。
「危ない目に遭わせたくない、とか?」
斎藤一の睫毛がわずかに揺れる。それだけで、図星なのだとわかってしまう。
「……それは、そうだよ」
声は低かった。苦しそうでも、開き直っているわけでもない。ただ、言い逃れはしなかった。
七宮なのはは、テーブルの上の紙ナプキンを指で折った。
「でも、それで私が勝手に帰らされるのは違うでしょ」
その言葉には、自分で思っていたより熱が乗った。
「私は別に、毎回帰りたいわけじゃないし、寄り道したい時だってあるし、勝手に予定潰されたり、行こうとした場所に行けなくなるの、普通に嫌なんだけど」
一度出ると、言葉は止まらなかった。
「……守るのと、勝手に決めるのは違うじゃん」
斎藤一は黙って聞いていた。言い返さない。そのことが逆に腹立たしかった。
「……わかってる」
やっと返ってきた声は、やけに静かだった。
「わかってるよ」
「じゃあ何で」
そこまで言って、七宮なのはは言葉を切る。何でやめないの、とはまだ言えない。だって、この人が本当に“やっている”のかどうか、まだ最後のところまではわからないから。
斎藤一はその沈黙の意味をわかったような顔をした。それから、ほんの少しだけ苦く笑った。
「僕にも、どこまでが僕で、どこからがそうじゃないのか、まだちゃんとはわからない」
その一言に、七宮なのはは息を呑んだ。言い訳のようでいて、たぶん本音だ。この人も、全部はわかっていない。わかっていないくせに、自分が関係している可能性だけは知っていて、それを抱えたままここまで来てしまった。
「……最悪」
小さく呟く。何に対しての言葉か、自分でも少し曖昧だった。
斎藤一は少しだけ目を伏せる。
「ごめん」
その謝罪は、七宮なのはを少しだけ苛立たせた。
「謝られても困るんだけど」
「うん」
「ていうか、謝るなら先に言ってよ」
「言い切れるものがなかったから」
「でも一人で抱え込んでた」
「……そうだね」
七宮なのはは深く息を吐いて、背もたれに体重を預けた。
気味が悪い。でも、それだけじゃない。腹が立つ。勝手に帰らされていたことにも、ひとりで抱え込まれていたことにも、そのどっちにも。
窓の外では、曇った夜の色が濃くなっていた。通りを歩く人の姿も、店の灯りも、どこか少しだけ遠い。
「ねえ、はじめちゃん」
「うん」
「それが本当に、はじめちゃんの“守りたい”とかから出てるなら」
七宮なのはは、一度言葉を選ぶみたいに間を置いた。
「私は、それを嬉しいとは思わないよ」
はっきりと伝える。ここだけは曖昧にしたくなかった。
斎藤一は、ゆっくり目を閉じるみたいに瞬きをした。
「……うん」
「守られてるんだとしても、勝手に行き先決められるのは嫌」
「うん」
「あとさ、私を帰らせたいなら普通に言えばいいじゃん。それだけのことでしょ?」
その一言で、斎藤一の表情がほんの少しだけ崩れた。驚いたのか、刺さったのか、どちらともつかない顔だった。
七宮なのははそれを見て、少しだけ目を細める。やっぱり、そういうことなのではないかと思う。この人はたぶん、自分が思っていることをちゃんと言葉にできていない。だから“何か”が勝手に代行する。そんな最悪な形で。そこまで考えて、七宮なのはは内心で舌打ちしたくなった。
「……ほんと、最悪」
今度は少しだけはっきりと。斎藤一は苦笑するでもなく、ただ静かにこちらを見た。

その夜、帰り道では何も起きなかった。
もしかしたら、最初から起きていなかったのかもしれない。あるいは、もう充分だったのかもしれない。わからない。ただ、今までみたいな“勝手な寄せ”を感じることはなかった。
駅のホームで並びながら、七宮なのははぼんやり考える。
願いを歪んで代行するもの。
守るために自由を削るもの。
一緒にいる時だけ静まるもの。
そんな胡散臭い話が、本当にあるのかはまだわからない。
でも、もしあるのだとしたら。その“何か”が掬っているのは、たぶん。
――はじめちゃんの、言葉になっていない願いだ。
その認識は、少しだけぞっとするのに、不思議としっくりもきた。しっくりきてしまうこと自体が嫌だった。
電車がホームに滑り込んでくる。
開いたドアの向こうへ人が流れ込み、七宮なのはもその中へ混ざる。吊革を掴んで窓の外を見た時、スマートフォンの画面には新しい連絡がひとつだけ届いていた。
『今日はありがとね』
短い一文。それだけだった。
七宮なのははその画面を見つめて、それからゆっくり息を吐く。
ありがとう、じゃないでしょ……そう思うのに、その言葉をすぐには返せなかった。
守りたいのだとしても。
そう思っているのだとしても。
――勝手に歪められていい理由にはならない。
でも同時に、七宮なのははもう気づいてしまっていた。この現象を“あの人の外側にあるもの”としては、もう見られない。

それが一番厄介だった。
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