君を守る正しい方法
六月某日。
講義が終わって教室の窓越しに外を見ると、空は薄く曇っていた。明るいことは明るいけれど、晴れというには少し鈍い色をしている。雨が降りそう、とまではいかない。ただ、なんとなくすっきりしない空だった。
帰るにはまだ早い時間だった。いつもなら適当に駅へ向かって、そのまま流されるように帰っている頃だ。
ここ数日は基本的にそうしていた。帰るしかなくなるから帰る。別におかしなことではない。そう思おうとして、でも思いきれないまま、なんとなく同じことを繰り返している。
――帰る方へ寄せられている。
数日前に自分で思いついたその言い方が、まだ少しだけ頭の隅に残っていた。
七宮なのははスマートフォンを取り出して時間を見る。
まだ余裕はある。駅前へ出て、寄り道して、それから帰っても十分間に合う時間だった。
「……別に、今日くらい普通に行けるでしょ」
誰に聞かせるでもなく呟く。返事はない。あるわけもない。
昼休みに見かけた広告を思い出す。駅前のコーヒーショップの期間限定フラッペ。前は機械の調整中で飲めなかった。だから今日は、その続きみたいな気分だった。たかがフラッペひとつだ。そんなものに妙な意味を持たせる方が変だろう、と七宮なのはは思う。
鞄を肩にかけて教室を出る。廊下には帰り支度の空気が流れていた。講義終わりの学生たちが三々五々に散っていく。七宮なのはもその流れに混ざる。誰にも呼び止められない。特に何も起きない。それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
駅前までの道も、今日は妙に平和だった。
信号のタイミングも悪くないし、人の流れもそこまで煩わしくない。ここ最近のことが、逆に考えすぎだったような気さえしてくる。
だから行ける。今日はたぶん、普通に。
そう思って店の前まで来たところで、七宮なのはは足を止めた。ガラス扉の向こうには、やはりそれなりに人がいた。前より少し空いているようにも見える。少なくとも、入れないほどではない。機械が止まっている様子も、今のところ見当たらない。
「……ほら、普通じゃん」
小さく言って、自分で少しだけ笑う。馬鹿みたいだ。何を警戒していたのだろうと思う。たかが店に入るだけで。そのまま扉に手をかけようとして、七宮なのははふと鞄の中を探った。
――財布がなかった。
「え」
声が漏れる。もう一度確かめる。スマートフォン、定期、ポーチ、ノート。必要なものは大体入っている。なのに財布だけが見当たらない。
そんなはずない、と思う。今朝、家を出る前に入れた記憶はある。昼も学食で払っている。あるはずなのに、出てこない。七宮なのはは店の前に立ったまま、数秒動けなかった。
「……最悪」
思わず呟く。買えないなら意味がない。スマホ決済に対応していたかどうか、一瞬考える。けれど、普段そういうのを使う方でもない。
一歩引いて、壁際へ寄る。もう一度だけ鞄を探る。やはりない。代わりに底の方から丸まったレシートが一枚出てきて、余計に腹が立った。
どこかに忘れてきたのだろうか。だったら今日はもう諦めるしかない。大学に戻って探した方がいい。そう思ったところで、スマートフォンが震えた。
画面を見る。斎藤一からだった。
『今、駅前?』
七宮なのはは一瞬だけ息を止めた。何でもないメッセージのはずなのに、妙にタイミングがよすぎる。
『そうだけど。大学の帰り。』
短く返す。既読はすぐについた。
『僕も用事で近くにいるよ』
それだけ。それだけなのに、なんだか少しだけ嫌だった。嫌、というのも違う。落ち着かない。ちょうど店の前で財布が見つからないタイミングで、その人から「近くにいる」と連絡が来るのが、普通に考えれば偶然なのに、普通に受け取りきれない。
七宮なのはは、店のガラス扉越しに中を見た。機械は動いていそうだった。人も並んでいる。入ろうと思えば入れた。財布さえあれば。
数分後、通りの向こうから歩いてくる見覚えのある姿が見えた。
黒っぽい服。見慣れた立ち方。
斎藤一は人混みを抜けてこちらへ来ると、七宮なのはの前で足を止めた。
「なのはちゃん」
「……ほんとにいた」
「いるよ。何それ」
言い方は穏やかだった。
そのこと自体は別におかしくない。駅前にいると言って、本当に駅前にいる。それだけだ。なのに、その当たり前さが妙に引っかかった。
「どうしたの、入らないの?」
視線が店の方へ向く。七宮なのはは一瞬だけ口を閉ざして、それから小さく肩をすくめた。
「財布ない」
「財布」
「うん。あると思ってたんだけど、なんかなくて」
斎藤一は「そっか」とだけ言って、少しだけ考えるように目を伏せた。その反応があまりに自然で、逆にむかつく。
「だから1回大学に戻ろうと思ってた」
「ふうん」
それきり会話が途切れる。
数秒の沈黙のあと、斎藤一がごく当たり前みたいな口調で言った。
「じゃあ、僕が出そうか」
七宮なのはは顔を上げる。
「え」
「飲みたかったんでしょ」
「いや……いや、別にそこまででは」
「でもせっかく来たんでしょ」
淡々とした言い方だった。押しつけがましくはない。だからこそ断りづらい。七宮なのはは少しだけ眉を寄せる。
「いや、さすがにそれは」
「じゃあ、次何か奢って」
軽い調子でもなく、恩着せがましくもなく、ただ当然みたいに言う。その感じが妙にずるい。断る理由を先に削られたみたいで、七宮なのはは少しだけむっとした。
「……はじめちゃんって、そういうとこあるよね」
「何それ」
「別に」
言い返しながらも、完全には断れなかった。ここまで来て引き下がるのも癪だし、何より、目の前に本人がいる状態で「じゃあやっぱり帰る」はそれはそれで負けた感じがする。
結局、七宮なのはは小さく息を吐いた。
「じゃあ、お願いしよっかな」
「うん」
それだけ言って、斎藤一は先に扉を開けた。
店内は、さっき見た時とほとんど変わっていなかった。
人はそれなりにいる。レジ前に数人並んでいるのも同じ。けれど、なぜかさっきよりずっと入りやすく感じた。足が止まらない。変に引っかかることもない。
並んでいる列も、思ったより早く進んだ。機械は普通に動いている。店員も慣れた調子で注文を取っている。七宮なのはは自分の番が来るまでのあいだ、何度か店の奥を見た。席もいくつか空いている。前回やさっきの妙な感じが嘘みたいだった。
「なのはちゃん、決まった?」
斎藤一に言われて、七宮なのはははっとする。メニューは最初からほとんど決まっていた。
「……新作のやつ」
「うん」
それだけで十分だった。斎藤一は何も言わず、自分の分と一緒に会計を済ませる。止める暇もなかった。
商品を受け取って、二人で空いていた席に座る。窓際。曇った空の明るさがガラス越しに薄く差し込んでいた。カップ越しの冷たさが手に心地いい。ストローを刺して、一口飲む。
「……あ、おいしい」
思わず声が出た。斎藤一が小さく目を細める。
「よかったじゃない」
「うん」
返しながら、七宮なのはは少しだけ眉を寄せた。
一人では来れなかった。少なくとも、今日は。
来れなかったというより、来させてもらえなかったみたいな感じが、まだ消えない。なのに、斎藤一と一緒だと何も引っかからない。店にも入れたし、機械も動いていたし、列も普通だった。何も起きない。びっくりするくらい、普通だ。
――それが逆に気味が悪い。
「どうしたの」
「……いや」
七宮なのははストローから口を離して、カップの縁を見た。
「一人だと来れなかったのに、って思って」
言ってから、自分でその言葉の重さに少しだけ気づく。
けれど、もう引っ込めるには遅かった。
斎藤一はすぐには答えなかった。その沈黙に、七宮なのはは目だけを上げる。
「でも、来れたでしょ」
やがて返ってきた声は、穏やかだった。穏やかだったけれど、それだけだった。
「そうだけど」
「じゃあ、いいんじゃない?」
それで終わらせる気らしい。七宮なのはは少しだけ苛立つ。
「よくないんだよね、たぶん」
「何が?」
「何がって……」
言葉が続かない。おかしいのは、何となくわかる。気味が悪いのも本当だ。けれど、何がどうおかしいのかを、今この場でうまく説明できるわけではなかった。
一人だとうまく辿り着けない。
でも、はじめちゃんと一緒なら来れる。そんなの、ただの偶然で片づけるには少し出来すぎていた。
七宮なのははカップを少し回して、それから小さく言った。
「……条件付きみたい」
斎藤一が目を上げる。
「条件?」
「一人だとだめで、はじめちゃんがいると平気、みたいな」
言ってしまってから、自分でぞっとした。言葉にした途端、それがただの冗談ではなく聞こえてしまったからだ。
斎藤一は少しだけ視線を伏せる。その反応が一拍遅れたことを、七宮なのはは見逃さなかった。
「そんなこと、あるかな」
返ってきた声は静かだった。否定でも肯定でもない、曖昧な言い方だった。
「知らない。でも最近ずっと変なんだよね」
「うん」
「予定は流れるし、寄り道しようとすると失敗するし、帰る方ばっかり上手くいくし」
そこまで言って、七宮なのはは口を閉ざした。斎藤一は黙ったままこちらを見ている。その沈黙に押されるみたいに、七宮なのはは残りを飲み込んだ。
「……しかも、そういう時に限ってはじめちゃんいるし」
ほんの少しだけ、責める響きが混ざったかもしれない。
けれど、斎藤一は眉一つ動かさなかった。
「それは偶然じゃない?」
穏やかな声だった。あまりに穏やかで、逆に薄く腹が立つ。
「そうかな」
「駅前だし」
「そうだけど」
「僕が駅前にいるの、そんなに不自然?」
不自然、という言葉を向こうから出されると、急に足場が悪くなる。別に、不自然だと断定したいわけではない。したいわけではないのに、何かが引っかかっている。それがうまく説明できない。
七宮なのはは視線を逸らして、ストローを指で弄んだ。
「……うまく言えないけど、なんか嫌」
ぽつりと零す。自分でも思ったより素直な言い方だった。
斎藤一はしばらく何も言わなかった。
窓の外を行き交う人の姿だけが、ガラス越しに流れていく。店内の空調の音と、遠くの話し声と、氷の触れ合う小さな音だけが妙に鮮明だった。
やがて、斎藤一が静かに口を開く。
「嫌な思いをさせたいわけじゃないよ」
七宮なのはは顔を上げる。
その一言は、少しだけおかしかった。“させたいわけじゃない”という言い方は、まるで本人に何かしら関係があるみたいだ。気のせいかもしれない。言い間違いかもしれない。そう流せる程度の小さな違和感だった。でも、小さいからこそ余計に引っかかった。
「……それ、どういう意味?」
今度こそ、斎藤一は少しだけ困ったように目を細めた。けれど次の言葉は、すぐには出てこなかった。
七宮なのははカップを握ったまま、じっと相手を見る。
逃げるように話を逸らされるのか、それともまた曖昧に笑われるのか。そう思って待つ。
けれど、返ってきたのは短い一言だった。
「そのままの意味だよ」
納得はできない。できないのに、それ以上追及すると何かが決定的に変わってしまいそうで、七宮なのはは少しだけ息を詰めた。
結局、そのあとは当たり障りのない話をいくつかして店を出た。
外はもう、来た時より少しだけ暗くなっていた。曇った空の下で、駅前の明かりがぼんやり滲んで見える。帰宅の時間だった。
帰り道も、何も起きなかった。
信号は普通に青になるし、人とぶつかりもしない。道が塞がることもない。さっきまで感じていた引っかかりだけが、胸の奥に小さく残っている。
駅のホームで並びながら、七宮なのはは改めて思う。
一人では来れなかった。はじめちゃんと一緒なら、来れた。
それがただの偶然なら、それでいい。
――でも、もしそうじゃないなら?
自分に起きている妙なことには、条件があることになる。許される、ということは、許さない何かがある、ということだ。
電車がホームに滑り込んでくる。開いたドアの向こうへ人が流れ込み、七宮なのはもその中へ混ざる。吊革を掴んで窓の外を見た時、スマートフォンの画面は暗いままだった。新しい連絡は何もない。
それでも、今日いちばん頭に残っているのは、フラッペの味でも、駅前の人混みでもなかった。
――嫌な思いをさせたいわけじゃないよ。
その言い方だけが、妙に胸に残っている。
疑いたくはない。疑いたくはないのだが――最近のはじめちゃんはどこか少しだけ、変な気がする。
講義が終わって教室の窓越しに外を見ると、空は薄く曇っていた。明るいことは明るいけれど、晴れというには少し鈍い色をしている。雨が降りそう、とまではいかない。ただ、なんとなくすっきりしない空だった。
帰るにはまだ早い時間だった。いつもなら適当に駅へ向かって、そのまま流されるように帰っている頃だ。
ここ数日は基本的にそうしていた。帰るしかなくなるから帰る。別におかしなことではない。そう思おうとして、でも思いきれないまま、なんとなく同じことを繰り返している。
――帰る方へ寄せられている。
数日前に自分で思いついたその言い方が、まだ少しだけ頭の隅に残っていた。
七宮なのははスマートフォンを取り出して時間を見る。
まだ余裕はある。駅前へ出て、寄り道して、それから帰っても十分間に合う時間だった。
「……別に、今日くらい普通に行けるでしょ」
誰に聞かせるでもなく呟く。返事はない。あるわけもない。
昼休みに見かけた広告を思い出す。駅前のコーヒーショップの期間限定フラッペ。前は機械の調整中で飲めなかった。だから今日は、その続きみたいな気分だった。たかがフラッペひとつだ。そんなものに妙な意味を持たせる方が変だろう、と七宮なのはは思う。
鞄を肩にかけて教室を出る。廊下には帰り支度の空気が流れていた。講義終わりの学生たちが三々五々に散っていく。七宮なのはもその流れに混ざる。誰にも呼び止められない。特に何も起きない。それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
駅前までの道も、今日は妙に平和だった。
信号のタイミングも悪くないし、人の流れもそこまで煩わしくない。ここ最近のことが、逆に考えすぎだったような気さえしてくる。
だから行ける。今日はたぶん、普通に。
そう思って店の前まで来たところで、七宮なのはは足を止めた。ガラス扉の向こうには、やはりそれなりに人がいた。前より少し空いているようにも見える。少なくとも、入れないほどではない。機械が止まっている様子も、今のところ見当たらない。
「……ほら、普通じゃん」
小さく言って、自分で少しだけ笑う。馬鹿みたいだ。何を警戒していたのだろうと思う。たかが店に入るだけで。そのまま扉に手をかけようとして、七宮なのははふと鞄の中を探った。
――財布がなかった。
「え」
声が漏れる。もう一度確かめる。スマートフォン、定期、ポーチ、ノート。必要なものは大体入っている。なのに財布だけが見当たらない。
そんなはずない、と思う。今朝、家を出る前に入れた記憶はある。昼も学食で払っている。あるはずなのに、出てこない。七宮なのはは店の前に立ったまま、数秒動けなかった。
「……最悪」
思わず呟く。買えないなら意味がない。スマホ決済に対応していたかどうか、一瞬考える。けれど、普段そういうのを使う方でもない。
一歩引いて、壁際へ寄る。もう一度だけ鞄を探る。やはりない。代わりに底の方から丸まったレシートが一枚出てきて、余計に腹が立った。
どこかに忘れてきたのだろうか。だったら今日はもう諦めるしかない。大学に戻って探した方がいい。そう思ったところで、スマートフォンが震えた。
画面を見る。斎藤一からだった。
『今、駅前?』
七宮なのはは一瞬だけ息を止めた。何でもないメッセージのはずなのに、妙にタイミングがよすぎる。
『そうだけど。大学の帰り。』
短く返す。既読はすぐについた。
『僕も用事で近くにいるよ』
それだけ。それだけなのに、なんだか少しだけ嫌だった。嫌、というのも違う。落ち着かない。ちょうど店の前で財布が見つからないタイミングで、その人から「近くにいる」と連絡が来るのが、普通に考えれば偶然なのに、普通に受け取りきれない。
七宮なのはは、店のガラス扉越しに中を見た。機械は動いていそうだった。人も並んでいる。入ろうと思えば入れた。財布さえあれば。
数分後、通りの向こうから歩いてくる見覚えのある姿が見えた。
黒っぽい服。見慣れた立ち方。
斎藤一は人混みを抜けてこちらへ来ると、七宮なのはの前で足を止めた。
「なのはちゃん」
「……ほんとにいた」
「いるよ。何それ」
言い方は穏やかだった。
そのこと自体は別におかしくない。駅前にいると言って、本当に駅前にいる。それだけだ。なのに、その当たり前さが妙に引っかかった。
「どうしたの、入らないの?」
視線が店の方へ向く。七宮なのはは一瞬だけ口を閉ざして、それから小さく肩をすくめた。
「財布ない」
「財布」
「うん。あると思ってたんだけど、なんかなくて」
斎藤一は「そっか」とだけ言って、少しだけ考えるように目を伏せた。その反応があまりに自然で、逆にむかつく。
「だから1回大学に戻ろうと思ってた」
「ふうん」
それきり会話が途切れる。
数秒の沈黙のあと、斎藤一がごく当たり前みたいな口調で言った。
「じゃあ、僕が出そうか」
七宮なのはは顔を上げる。
「え」
「飲みたかったんでしょ」
「いや……いや、別にそこまででは」
「でもせっかく来たんでしょ」
淡々とした言い方だった。押しつけがましくはない。だからこそ断りづらい。七宮なのはは少しだけ眉を寄せる。
「いや、さすがにそれは」
「じゃあ、次何か奢って」
軽い調子でもなく、恩着せがましくもなく、ただ当然みたいに言う。その感じが妙にずるい。断る理由を先に削られたみたいで、七宮なのはは少しだけむっとした。
「……はじめちゃんって、そういうとこあるよね」
「何それ」
「別に」
言い返しながらも、完全には断れなかった。ここまで来て引き下がるのも癪だし、何より、目の前に本人がいる状態で「じゃあやっぱり帰る」はそれはそれで負けた感じがする。
結局、七宮なのはは小さく息を吐いた。
「じゃあ、お願いしよっかな」
「うん」
それだけ言って、斎藤一は先に扉を開けた。
店内は、さっき見た時とほとんど変わっていなかった。
人はそれなりにいる。レジ前に数人並んでいるのも同じ。けれど、なぜかさっきよりずっと入りやすく感じた。足が止まらない。変に引っかかることもない。
並んでいる列も、思ったより早く進んだ。機械は普通に動いている。店員も慣れた調子で注文を取っている。七宮なのはは自分の番が来るまでのあいだ、何度か店の奥を見た。席もいくつか空いている。前回やさっきの妙な感じが嘘みたいだった。
「なのはちゃん、決まった?」
斎藤一に言われて、七宮なのはははっとする。メニューは最初からほとんど決まっていた。
「……新作のやつ」
「うん」
それだけで十分だった。斎藤一は何も言わず、自分の分と一緒に会計を済ませる。止める暇もなかった。
商品を受け取って、二人で空いていた席に座る。窓際。曇った空の明るさがガラス越しに薄く差し込んでいた。カップ越しの冷たさが手に心地いい。ストローを刺して、一口飲む。
「……あ、おいしい」
思わず声が出た。斎藤一が小さく目を細める。
「よかったじゃない」
「うん」
返しながら、七宮なのはは少しだけ眉を寄せた。
一人では来れなかった。少なくとも、今日は。
来れなかったというより、来させてもらえなかったみたいな感じが、まだ消えない。なのに、斎藤一と一緒だと何も引っかからない。店にも入れたし、機械も動いていたし、列も普通だった。何も起きない。びっくりするくらい、普通だ。
――それが逆に気味が悪い。
「どうしたの」
「……いや」
七宮なのははストローから口を離して、カップの縁を見た。
「一人だと来れなかったのに、って思って」
言ってから、自分でその言葉の重さに少しだけ気づく。
けれど、もう引っ込めるには遅かった。
斎藤一はすぐには答えなかった。その沈黙に、七宮なのはは目だけを上げる。
「でも、来れたでしょ」
やがて返ってきた声は、穏やかだった。穏やかだったけれど、それだけだった。
「そうだけど」
「じゃあ、いいんじゃない?」
それで終わらせる気らしい。七宮なのはは少しだけ苛立つ。
「よくないんだよね、たぶん」
「何が?」
「何がって……」
言葉が続かない。おかしいのは、何となくわかる。気味が悪いのも本当だ。けれど、何がどうおかしいのかを、今この場でうまく説明できるわけではなかった。
一人だとうまく辿り着けない。
でも、はじめちゃんと一緒なら来れる。そんなの、ただの偶然で片づけるには少し出来すぎていた。
七宮なのははカップを少し回して、それから小さく言った。
「……条件付きみたい」
斎藤一が目を上げる。
「条件?」
「一人だとだめで、はじめちゃんがいると平気、みたいな」
言ってしまってから、自分でぞっとした。言葉にした途端、それがただの冗談ではなく聞こえてしまったからだ。
斎藤一は少しだけ視線を伏せる。その反応が一拍遅れたことを、七宮なのはは見逃さなかった。
「そんなこと、あるかな」
返ってきた声は静かだった。否定でも肯定でもない、曖昧な言い方だった。
「知らない。でも最近ずっと変なんだよね」
「うん」
「予定は流れるし、寄り道しようとすると失敗するし、帰る方ばっかり上手くいくし」
そこまで言って、七宮なのはは口を閉ざした。斎藤一は黙ったままこちらを見ている。その沈黙に押されるみたいに、七宮なのはは残りを飲み込んだ。
「……しかも、そういう時に限ってはじめちゃんいるし」
ほんの少しだけ、責める響きが混ざったかもしれない。
けれど、斎藤一は眉一つ動かさなかった。
「それは偶然じゃない?」
穏やかな声だった。あまりに穏やかで、逆に薄く腹が立つ。
「そうかな」
「駅前だし」
「そうだけど」
「僕が駅前にいるの、そんなに不自然?」
不自然、という言葉を向こうから出されると、急に足場が悪くなる。別に、不自然だと断定したいわけではない。したいわけではないのに、何かが引っかかっている。それがうまく説明できない。
七宮なのはは視線を逸らして、ストローを指で弄んだ。
「……うまく言えないけど、なんか嫌」
ぽつりと零す。自分でも思ったより素直な言い方だった。
斎藤一はしばらく何も言わなかった。
窓の外を行き交う人の姿だけが、ガラス越しに流れていく。店内の空調の音と、遠くの話し声と、氷の触れ合う小さな音だけが妙に鮮明だった。
やがて、斎藤一が静かに口を開く。
「嫌な思いをさせたいわけじゃないよ」
七宮なのはは顔を上げる。
その一言は、少しだけおかしかった。“させたいわけじゃない”という言い方は、まるで本人に何かしら関係があるみたいだ。気のせいかもしれない。言い間違いかもしれない。そう流せる程度の小さな違和感だった。でも、小さいからこそ余計に引っかかった。
「……それ、どういう意味?」
今度こそ、斎藤一は少しだけ困ったように目を細めた。けれど次の言葉は、すぐには出てこなかった。
七宮なのははカップを握ったまま、じっと相手を見る。
逃げるように話を逸らされるのか、それともまた曖昧に笑われるのか。そう思って待つ。
けれど、返ってきたのは短い一言だった。
「そのままの意味だよ」
納得はできない。できないのに、それ以上追及すると何かが決定的に変わってしまいそうで、七宮なのはは少しだけ息を詰めた。
結局、そのあとは当たり障りのない話をいくつかして店を出た。
外はもう、来た時より少しだけ暗くなっていた。曇った空の下で、駅前の明かりがぼんやり滲んで見える。帰宅の時間だった。
帰り道も、何も起きなかった。
信号は普通に青になるし、人とぶつかりもしない。道が塞がることもない。さっきまで感じていた引っかかりだけが、胸の奥に小さく残っている。
駅のホームで並びながら、七宮なのはは改めて思う。
一人では来れなかった。はじめちゃんと一緒なら、来れた。
それがただの偶然なら、それでいい。
――でも、もしそうじゃないなら?
自分に起きている妙なことには、条件があることになる。許される、ということは、許さない何かがある、ということだ。
電車がホームに滑り込んでくる。開いたドアの向こうへ人が流れ込み、七宮なのはもその中へ混ざる。吊革を掴んで窓の外を見た時、スマートフォンの画面は暗いままだった。新しい連絡は何もない。
それでも、今日いちばん頭に残っているのは、フラッペの味でも、駅前の人混みでもなかった。
――嫌な思いをさせたいわけじゃないよ。
その言い方だけが、妙に胸に残っている。
疑いたくはない。疑いたくはないのだが――最近のはじめちゃんはどこか少しだけ、変な気がする。
