君を守る正しい方法

六月某日。
講義が終わって校舎を出る時には、空はまだ充分明るかった。夕方というには少し早い時間帯で、風もぬるい。帰るにはまだ早すぎるし、かといってどこかへ遠出するほどの気分でもなかった。
七宮なのはは改札へ向かう人の流れから少し外れて、スマートフォンの画面を見た。数日前のやり取りが、まだ少しだけ頭に残っている。
――今日は寄り道しないで、まっすぐ帰った方がいいかもね。
読み返すほどのことでもない。ただの気遣いといえばそれまでだ。実際、その日はそのまま帰ったし、何も起きなかった。だからもう気にしなくていいはずなのに、ふとした拍子に思い出す。七宮なのはは画面を消して、小さく息を吐いた。
「だからって、毎回まっすぐ帰るわけないでしょ」
口の中だけで呟く。誰に言うでもない言葉だった。
昼休みに友達が、駅前のコーヒーショップで新作のフラッペが出ていると言っていた。甘いものが特別好きというわけではないけれど、新作と聞くと少し気になる。飲みたかったとまでは言わない。ただ、今日はなんとなく、それを理由に寄り道してもいい気がした。
たかがフラッペだ。そんなものまで気にして行動を変える方が変だろう、と七宮なのはは思う。
改札を抜け、駅前へ出る。夕方の駅前は人が多い。学校帰りらしい学生、買い物帰りらしい人、待ち合わせ中の人。特に珍しくもない景色の中を抜けて、目当てのコーヒーショップへ向かった。
ガラス張りの店内はそれなりに混んでいた。
レジ前には数人並んでいて、奥の席もかなり埋まっている。とはいえ、入れないほどではない。七宮なのははそのまま中に入って、メニューボードへ視線を上げた。その瞬間、カウンター横の小さな札が目に入る。
『マシン調整中』
「えぇ……」
思わず声が漏れる。大きくはないが、自分では十分不満の混じった音だった。よりによって、と思う。
別に今日しか飲めないわけではない。でも、わざわざ来てそれを見ると普通に嫌だ。店員に聞くほどでもない。何時に復旧するかも書かれていない。七宮なのはは数秒だけその札を見つめて、それから小さく肩を落とす。
まあ、いい。駅の反対側にも別の系列店はある。そこまでして飲みたいわけではないが、ここで引き返すのもなんとなく癪だった。
店を出て、横断歩道の方へ向かう。信号はちょうど赤に変わったところだった。少し舌打ちしそうになって、さすがにやめる。自分でも機嫌が悪いと思う。
「七宮さん?」
後ろから声をかけられて、七宮なのはは振り返る。
同じ学部の学生だった。そこまで親しいわけではないけれど、授業が被ることが何度かあって、顔と名前くらいは知っている相手だ。
「あ、どうも」
「今帰り?」
「いや、ちょっとだけ寄り道」
そんな一言二言で済むはずの会話だった。
けれど相手はそのまま、最近の授業の話や提出課題の話を続けた。話しづらい相手ではない。むしろ感じはいい方だ。だから適当に切り上げる理由もなくて、七宮なのはは流れのまま数分立ち話をしていた。ようやく会話が終わった頃には、さっきより少しだけ日が傾いていた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
相手と別れて、七宮なのははもう一度歩き出す。
さっきの店に戻る気にはならなかった。反対側の店へ行くには、少しだけ遠回りになる。とはいえ、ここまで来て何もせず帰るのも負けた感じがして嫌だった。
だから行く。そう決めて角を曲がったところで、今度は小さな人だかりが見えた。
何だろうと思って近づく。
歩道の一角で、自転車と歩行者が軽く接触したらしい。大した事故ではなさそうだったが、近くの店員が出てきていて、道の一部が塞がっている。完全に通れないほどではない。けれど通り抜けるには妙に気を使うし、混んでいる場所にわざわざ突っ込んでいく気分にもならなかった。
七宮なのはは足を止める。
数日前に会うはずだった友人との待ち合わせが流れた場所も、このあたりだった。少し前のことを思い出して、少しだけ眉を寄せる。
「……いや、だから、考えすぎでしょ」
小さく呟く。別に何もおかしくない。マシンの調整中も、知り合いに会うことも、ちょっとした接触事故も、それぞれなら普通にある。
そう思うのに、妙に気味が悪かった。
結局、七宮なのははフラッペを諦めた。諦めた、というより、ここまでくるともういいかという気分になっていた。帰ろうと思って踵を返す。そうした途端、ひどく自然に帰り道へ足が向いた。
駅へ戻るまでの道は妙に空いていた。さっきまでより人の流れが少ない。信号のタイミングも悪くない。足を止める理由が何もなくて、そのままずるずる帰路に乗せられているような感覚になる。改札の前まで来たところで、七宮なのははふと顔を上げた。
見覚えのある姿が、少し先にあった。
黒っぽい服。よく知っている立ち方。
――斎藤一だった。
一瞬だけ、またか、と思う。駅前なら別にいてもおかしくない。そう考える余地はまだある。あるのに、先に出てくるのがその言葉な時点で、たぶんもう何かがずれている。
斎藤一は改札の脇でスマートフォンを見ていた。七宮なのはが立ち止まった気配に気づいたのか、少し遅れて顔を上げる。
「……なのはちゃん」
「やっほー」
「どうしたの?帰り?」
その問いかけに、七宮なのははほんの少しだけ間を置いた。
「……結果的には」
自分でも、少し変な返事だと思う。斎藤一は一瞬だけ目を細めて、それから小さく笑った。
「何それ」
「寄り道しようと思ってたんだけど、失敗した」
「失敗」
「そう。駅前のコーヒーショップで新作のフラッペ飲もうと思ったのに、機械が調整中でさ。じゃあ別の店でいいやってしたら知り合いに捕まって、そのあと今度は道がちょっと騒ぎになってて。なんかもう、いいやってなっちゃった」
そこまで言ってから、七宮なのはは少しだけ首を傾げる。
「……最近こういうの多いんだよね」
斎藤一はすぐには答えなかった。何かを考えるみたいに、ほんの少しだけ黙る。その間が、七宮なのはには妙に長く感じられた。
「そういう日もあるよ」
やがて返ってきた声は、穏やかだった。穏やかだったけれど、うまく飲み込めない。
「そういう日、で済ませるには多いんだよね」
斎藤一は困ったように笑うでもなく、真面目に否定するでもなく、曖昧な表情のまま七宮なのはを見る。
「でも、困ってないならそれでいいんじゃない」
その言い方に、七宮なのはは小さく瞬きをした。
困ってないなら。問題はそこなのだろうか、と思う。寄り道できなかったとか、妙に偶然が重なるとか、そういうことではなくて。
「……何それ」
今度の一言は、さっきより少しだけ素だった。斎藤一は一拍遅れて、少しだけ視線を逸らした。
「深い意味はないよ」
「ある言い方だったけど」
「そう聞こえたなら、ごめん」
謝られているのに、納得はできなかった。七宮なのはは眉を寄せる。けれど、それ以上どう聞けばいいのかもわからない。自分でも、何を疑っているのかまだきちんと説明できない。
駅のアナウンスが頭上で流れる。
改札を抜けていく人の波が、少しだけ二人の間を切った。
斎藤一が先に口を開く。
「電車、もうすぐじゃない?」
「あ、うん」
「なら、あんまりゆっくりもしてられないね」
その言い方まで、妙に自然だった。
自然なのに、帰る方へ話を戻されている気がする。七宮なのはは小さく息を吐いた。
「……はじめちゃんさ」
「うん」
「最近、やたら家に帰したがるよね」
ほんの少しだけ、冗談の体裁を残して言う。
半分は軽口で、半分は確かめるための言葉だった。斎藤一はそれを否定しなかった。代わりに、ほんのわずかに困ったような顔をする。
「そう見える?」
「見える」
「気のせいじゃない?」
「それも最近ちょっと信用ならない」
そこまで言って、自分で言いすぎたかなと思う。けれど斎藤一は怒るでもなく、笑うでもなく、ただ静かにこちらを見た。その視線の意味が読み取れなくて、七宮なのはは少しだけ落ち着かなくなる。
「……まあ、帰るけど」
結局そう言ってしまうあたり、自分も大したことはない。七宮なのはは少しむっとしながらも、改札へ向かって歩き出す。数歩進んでから振り返ると、斎藤一はさっきと同じ場所に立ったままだった。
「またね」
言うと、斎藤一は少しだけ目を細める。
「うん。気をつけて」
その返事は、たぶんいつも通りだった。
それなのに今日に限っては、その「気をつけて」が普通の挨拶以上の意味を持っているような気がしてしまう。
改札を抜け、ホームへ向かう。階段を下りながら、七宮なのははさっきの会話を反芻した。
困ってないなら、それでいい。
最近、やたら帰したがる。
そんなつもりはないような顔をして、でも否定もしなかった。
電車がホームに滑り込んでくる。ドアが開いて、人が降りて、また乗り込んでいく。七宮なのはもその流れに混ざって車内へ入った。空いていた吊革を掴み、窓の外へ視線を向ける。
今日だって、危ない目に遭ったわけじゃない。何かが壊れたわけでも、怪我をしたわけでもない。ただフラッペが飲めなかっただけで、ただ少し帰るのが早くなっただけだ。
なのに、妙に後味が悪い。
寄り道しようとするたび、帰る方向へ押し戻される。
そう考えると、胸の奥がひやりとした。
守られている、というより。
――帰る方へ寄せられている。
そんな言い方を思いついて、七宮なのはは小さく眉を寄せる。馬鹿みたいだ、と思う。ただ偶然が重なっただけかもしれない。店の機械が止まっていることも、知り合いに会うことも、道が少し混むことも、全部ありふれたことだ。そこに意味を見出す方がどうかしている。それでも、意味なんてないと言い切るには、少しだけ都合がよすぎる気がした。
スマートフォンの画面は暗いままだった。
何も届いていない。新しい連絡もない。けれど、さっき改札前で見た斎藤一の顔だけが、妙に頭の片隅に残っている。
帰るしかなくなったタイミングで、またあの人がいた。

そのこと自体に理由はないはずなのに、理由がないと思うほど、逆に少しだけ気味が悪かった。
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