君を守る正しい方法
六月某日。
一限からの講義が終わったあと、七宮なのははノートと筆箱をまとめながら小さく伸びをした。教室の冷房はきいているはずなのに、人が多いせいか少しぬるい。前の方ではまだ教授に質問をしている学生がいて、後ろの方ではもう放課後の予定の話をしている声がする。なんでもない、いつもの昼休み前の時間だった。
窓の外は今日もよく晴れていた。雨よりはマシだ、と思う。傘を持ち歩かなくていいのは身軽でいい。
トートバッグを肩にかけて、スマートフォンを確認する。通知は特に増えていない。大学からの一斉メールと、母親からのLINEがいくつか。それだけだった。必要なものだけ目で追って、画面を閉じる。
――ふと、数日前のことを思い出す。
駅前。
待ち合わせが流れたこと。
すぐ後ろを自転車が通り過ぎていったこと。
それから、あのタイミングで斎藤一がいたこと。
――いや、まあ、考えすぎか。
心の中でそう呟いて、スマートフォンをバッグにしまう。実際、あれから何か決定的におかしなことが起こったわけではない。ちょっと変だったというだけだ。そんなものをいちいち引きずっていてもしかたがない。
教室を出ると、廊下には昼休みの空気が流れていた。次の教室へ急ぐ人。友達と並んで歩いている人。飲み物を買いに行くらしい人。七宮なのはもその流れに混ざって階段へ向かう。途中で見知った顔と出会い、軽く手を振った。
昼は学食で適当に済ませて、午後の講義が終わったら駅前で友達と会う予定だった。そこまで親しい相手ではないけれど、何度か一緒に買い物をしたことがある。ちょうど欲しいものもあったし、断る理由もなかった。
学食はそれなりに混んでいた。
トレーを持って列に並び、空いていた席に座る。味噌汁の湯気が少しだけ顔にかかる。向かいの席では別のグループが賑やかに喋っていて、その声を聞き流しながら箸を動かした。
食事を半分くらい終えたところで、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震える。
反射的に手を伸ばす。
表示されていた名前を見て、七宮なのはは一瞬だけ動きを止めた。
――今日会うはずだった相手からだった。
『ごめん、今日やっぱ無理かも。また今度でもいい?』
数秒、画面を見つめる。
「……うそでしょ」
声には出たけれど、大きくはなかった。向かいの席まで届くほどでもない。とはいえ、がっかりしたのは確かだった。
一度目は流した。
二度目も、たまたまだと思った。
けれど、こう何度も続くとさすがに嫌な気分になる。しかも今回もまた、相手は別だった。
誰かひとりの都合が悪いだけなら、まだ納得しやすい。
でも違う。毎回別の人間が、別の理由で、都合よく会えなくなる。そこに意味なんかないはずだと思いたいのに、思いたいからこそ、少し気味が悪かった。
七宮なのはは短く息を吐いて、返信を打つ。
『了解ー。また今度あそぼうね』
送信。既読はすぐについた。その速さが少しだけ腹立たしい。いや、腹立たしいというのも違う。ただ、妙にあっさりしていた。
スマートフォンを伏せる。
味噌汁はまだ温かいままだったのに、少しだけ食欲が落ちていた。
たかが予定が流れただけだ。大したことではない。そう思い直して残りを食べる。食べ終えてトレーを返し、教室へ戻る頃には、その件をもう頭の隅へ押しやっていた。
午後の講義が終わるころには、空の色が少しだけ傾き始めていた。
とはいえ、まだ十分明るい。せっかく駅前まで出るつもりだったのだから、一人で少し見て回ってから帰ってもいいかもしれない。そんなことを考えながら、七宮なのはは校舎を出ようとする。ガラス扉に手をかける、その少し前。
後ろから「七宮さん」と呼びかけられて、反射的に振り返った。同じ講義を取っている学生だった。落としかけたノートを拾ってくれただけの、ほんの一言二言で終わるやり取り。礼を言って、七宮なのはは改めて扉に向き直る。次の瞬間、目の前のドアが勢いよく開いた。
「うわ」
思わず半歩引いた。向こう側から飛び出してきた学生が、慌てた顔で足を止める。もしさっきのまま扉に手をかけていたら、まともにぶつかっていたかもしれない。
「すみません!」
相手は頭を下げて、そのまま駆けていく。
七宮なのはは何も言えないまま、閉まりかけたドアを見つめた。
危なかった。
――でも、結局何も起きていない。
そういうことが、最近少し多い気がする。なんとなく気味の悪さを感じながらその場を離れる。駅前へ行く気は、さっきまでより少し薄れていた。とはいえ、このまままっすぐ帰るのも何となく癪だ。どうするか決めきれないままスマートフォンを取り出した時、友人とのチャットに新着が増えていることに気づく。何気なく開く。
『駅前のショッピングビル前、なんか騒ぎになってるらしい』
『軽い接触事故だって』
『さっき救急車いたよ』
画面を見下ろしたまま、七宮なのははしばらく動かなかった。そこは今日、友人と会うはずだった場所のすぐ近くだった。
大事故というほどではないらしい。けれど、タイミングが悪ければ十分巻き込まれていたかもしれない。そう考えられる程度の距離だった。
偶然だ、と思う。そんなの当たり前だ。世の中には事故なんていくらでもあるし、たまたまその近くに行かなかっただけで、何か意味があるわけではない。
――意味があるわけではない。そう思うのに、喉の奥が少しだけ乾いた。
結局、七宮なのはは駅前へは向かわず、そのまま最寄り駅へ向かうことにした。
道すがら、自販機で冷たいお茶を買う。ペットボトル越しの温度が妙に気持ちよかった。
ホームに下りる階段の手前で、ふと立ち止まる。
自分でも理由はよくわからなかった。何となく、誰かに聞いてほしいと思っただけかもしれない。スマートフォンを開く。連絡先の一覧を少しだけスクロールして、斎藤一の名前をタップする。
『ねー聞いてよ』
送る。少し間を置いて、さらに打つ。
『最近よく予定が潰れるんだけど』
『今日もまた流れたんだよね』
『なんか呪われてる?』
最後の一文は半分冗談のつもりだった。
送ってから、少しだけ後悔する。重く見えるだろうか、と考えかけて、まあいいかと思い直す。返信は思ったより早かった。
『それは災難だね』
七宮なのはは、その返信を見てすぐに打ち返した。ここまできたら、ほとんど愚痴だった。
『大学でもさっき目の前でドアが勢い良く開いてさー、ガチ危なかったんだよね』
『ぶつかってはないけど』
既読はすぐにつく。だが、返信は少し遅れた。そのわずかな沈黙のあいだに、ホームへ入ってきた電車の風が髪を揺らした。電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。周囲の人たちは当たり前の顔で足を動かし、七宮なのはもその列に押されるみたいに少し横へ寄った。その時、返信が来た。
『今日は寄り道しないで、まっすぐ帰った方がいいかもね』
七宮なのはは小さく瞬きをした。
それだけなら、ただの心配とも取れる。取れるはずなのに、なぜか妙に引っかかった。
今日も、という言い方ではなかった。でも、まるで今日はもう何か十分起きていると知っているみたいな言い方だった。
『なにそれ、保護者?』
なるべく軽い調子で返す。少しからかいも混じっていたかもしれない。すぐに返事が来る。
『そうかもね』
思わず画面を見直す。冗談にしては、少しだけ温度が低い。かといって本気とも思えない。いつもの斎藤一なら、こういう時はもう少し曖昧に笑って流すか、軽く否定するかなのに、今日は妙にそのままだった。
『やだこわ』
『でも萎えたしとりあえず帰る』
そう送った。今度の返信は、短かった。
『うん。気をつけて』
電車がホームに滑り込んでくる。
ドアが開いて、人が降り、また乗り込んでいく。七宮なのはもその流れに混ざって車内へ入った。空いていた吊革を掴みながら、さっきまでのやり取りをもう一度見返す。それほどおかしな会話ではない。普通に読めば、ただ少し心配された、それだけだ。
それなのに、なぜか胸のあたりに小さな棘みたいなものが残っている。
――寄り道しないで、まっすぐ帰った方がいい。
優しい言葉のはずなのに、うまく飲み込めない。窓の外を流れていく景色を見ながら、七宮なのははゆっくり息を吐いた。
助かっているのかもしれない、とふと思う。
今日の約束が流れたことも。ドアが開く一瞬前に話しかけられたことも。結果だけ見れば、全部“何も起きていない”で済んでいる。そう考えた瞬間、安心より先に薄気味悪さがきた。
守られている、という言い方を頭の中でしてみて、七宮なのはは自分で眉を寄せる。馬鹿みたいだ、と思う。守られているだなんて。そんな都合のいい話があるわけがない。偶然が重なっただけだ。少し気にしすぎているだけだ。
なのに、頭の片隅には斎藤一の返事が残ったままだ。
――今日は寄り道しないで、まっすぐ帰った方がいいかもね。
ただの心配だと思うには、その言い方はどこか少しだけ、出来すぎている気がした。
一限からの講義が終わったあと、七宮なのははノートと筆箱をまとめながら小さく伸びをした。教室の冷房はきいているはずなのに、人が多いせいか少しぬるい。前の方ではまだ教授に質問をしている学生がいて、後ろの方ではもう放課後の予定の話をしている声がする。なんでもない、いつもの昼休み前の時間だった。
窓の外は今日もよく晴れていた。雨よりはマシだ、と思う。傘を持ち歩かなくていいのは身軽でいい。
トートバッグを肩にかけて、スマートフォンを確認する。通知は特に増えていない。大学からの一斉メールと、母親からのLINEがいくつか。それだけだった。必要なものだけ目で追って、画面を閉じる。
――ふと、数日前のことを思い出す。
駅前。
待ち合わせが流れたこと。
すぐ後ろを自転車が通り過ぎていったこと。
それから、あのタイミングで斎藤一がいたこと。
――いや、まあ、考えすぎか。
心の中でそう呟いて、スマートフォンをバッグにしまう。実際、あれから何か決定的におかしなことが起こったわけではない。ちょっと変だったというだけだ。そんなものをいちいち引きずっていてもしかたがない。
教室を出ると、廊下には昼休みの空気が流れていた。次の教室へ急ぐ人。友達と並んで歩いている人。飲み物を買いに行くらしい人。七宮なのはもその流れに混ざって階段へ向かう。途中で見知った顔と出会い、軽く手を振った。
昼は学食で適当に済ませて、午後の講義が終わったら駅前で友達と会う予定だった。そこまで親しい相手ではないけれど、何度か一緒に買い物をしたことがある。ちょうど欲しいものもあったし、断る理由もなかった。
学食はそれなりに混んでいた。
トレーを持って列に並び、空いていた席に座る。味噌汁の湯気が少しだけ顔にかかる。向かいの席では別のグループが賑やかに喋っていて、その声を聞き流しながら箸を動かした。
食事を半分くらい終えたところで、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震える。
反射的に手を伸ばす。
表示されていた名前を見て、七宮なのはは一瞬だけ動きを止めた。
――今日会うはずだった相手からだった。
『ごめん、今日やっぱ無理かも。また今度でもいい?』
数秒、画面を見つめる。
「……うそでしょ」
声には出たけれど、大きくはなかった。向かいの席まで届くほどでもない。とはいえ、がっかりしたのは確かだった。
一度目は流した。
二度目も、たまたまだと思った。
けれど、こう何度も続くとさすがに嫌な気分になる。しかも今回もまた、相手は別だった。
誰かひとりの都合が悪いだけなら、まだ納得しやすい。
でも違う。毎回別の人間が、別の理由で、都合よく会えなくなる。そこに意味なんかないはずだと思いたいのに、思いたいからこそ、少し気味が悪かった。
七宮なのはは短く息を吐いて、返信を打つ。
『了解ー。また今度あそぼうね』
送信。既読はすぐについた。その速さが少しだけ腹立たしい。いや、腹立たしいというのも違う。ただ、妙にあっさりしていた。
スマートフォンを伏せる。
味噌汁はまだ温かいままだったのに、少しだけ食欲が落ちていた。
たかが予定が流れただけだ。大したことではない。そう思い直して残りを食べる。食べ終えてトレーを返し、教室へ戻る頃には、その件をもう頭の隅へ押しやっていた。
午後の講義が終わるころには、空の色が少しだけ傾き始めていた。
とはいえ、まだ十分明るい。せっかく駅前まで出るつもりだったのだから、一人で少し見て回ってから帰ってもいいかもしれない。そんなことを考えながら、七宮なのはは校舎を出ようとする。ガラス扉に手をかける、その少し前。
後ろから「七宮さん」と呼びかけられて、反射的に振り返った。同じ講義を取っている学生だった。落としかけたノートを拾ってくれただけの、ほんの一言二言で終わるやり取り。礼を言って、七宮なのはは改めて扉に向き直る。次の瞬間、目の前のドアが勢いよく開いた。
「うわ」
思わず半歩引いた。向こう側から飛び出してきた学生が、慌てた顔で足を止める。もしさっきのまま扉に手をかけていたら、まともにぶつかっていたかもしれない。
「すみません!」
相手は頭を下げて、そのまま駆けていく。
七宮なのはは何も言えないまま、閉まりかけたドアを見つめた。
危なかった。
――でも、結局何も起きていない。
そういうことが、最近少し多い気がする。なんとなく気味の悪さを感じながらその場を離れる。駅前へ行く気は、さっきまでより少し薄れていた。とはいえ、このまままっすぐ帰るのも何となく癪だ。どうするか決めきれないままスマートフォンを取り出した時、友人とのチャットに新着が増えていることに気づく。何気なく開く。
『駅前のショッピングビル前、なんか騒ぎになってるらしい』
『軽い接触事故だって』
『さっき救急車いたよ』
画面を見下ろしたまま、七宮なのははしばらく動かなかった。そこは今日、友人と会うはずだった場所のすぐ近くだった。
大事故というほどではないらしい。けれど、タイミングが悪ければ十分巻き込まれていたかもしれない。そう考えられる程度の距離だった。
偶然だ、と思う。そんなの当たり前だ。世の中には事故なんていくらでもあるし、たまたまその近くに行かなかっただけで、何か意味があるわけではない。
――意味があるわけではない。そう思うのに、喉の奥が少しだけ乾いた。
結局、七宮なのはは駅前へは向かわず、そのまま最寄り駅へ向かうことにした。
道すがら、自販機で冷たいお茶を買う。ペットボトル越しの温度が妙に気持ちよかった。
ホームに下りる階段の手前で、ふと立ち止まる。
自分でも理由はよくわからなかった。何となく、誰かに聞いてほしいと思っただけかもしれない。スマートフォンを開く。連絡先の一覧を少しだけスクロールして、斎藤一の名前をタップする。
『ねー聞いてよ』
送る。少し間を置いて、さらに打つ。
『最近よく予定が潰れるんだけど』
『今日もまた流れたんだよね』
『なんか呪われてる?』
最後の一文は半分冗談のつもりだった。
送ってから、少しだけ後悔する。重く見えるだろうか、と考えかけて、まあいいかと思い直す。返信は思ったより早かった。
『それは災難だね』
七宮なのはは、その返信を見てすぐに打ち返した。ここまできたら、ほとんど愚痴だった。
『大学でもさっき目の前でドアが勢い良く開いてさー、ガチ危なかったんだよね』
『ぶつかってはないけど』
既読はすぐにつく。だが、返信は少し遅れた。そのわずかな沈黙のあいだに、ホームへ入ってきた電車の風が髪を揺らした。電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。周囲の人たちは当たり前の顔で足を動かし、七宮なのはもその列に押されるみたいに少し横へ寄った。その時、返信が来た。
『今日は寄り道しないで、まっすぐ帰った方がいいかもね』
七宮なのはは小さく瞬きをした。
それだけなら、ただの心配とも取れる。取れるはずなのに、なぜか妙に引っかかった。
今日も、という言い方ではなかった。でも、まるで今日はもう何か十分起きていると知っているみたいな言い方だった。
『なにそれ、保護者?』
なるべく軽い調子で返す。少しからかいも混じっていたかもしれない。すぐに返事が来る。
『そうかもね』
思わず画面を見直す。冗談にしては、少しだけ温度が低い。かといって本気とも思えない。いつもの斎藤一なら、こういう時はもう少し曖昧に笑って流すか、軽く否定するかなのに、今日は妙にそのままだった。
『やだこわ』
『でも萎えたしとりあえず帰る』
そう送った。今度の返信は、短かった。
『うん。気をつけて』
電車がホームに滑り込んでくる。
ドアが開いて、人が降り、また乗り込んでいく。七宮なのはもその流れに混ざって車内へ入った。空いていた吊革を掴みながら、さっきまでのやり取りをもう一度見返す。それほどおかしな会話ではない。普通に読めば、ただ少し心配された、それだけだ。
それなのに、なぜか胸のあたりに小さな棘みたいなものが残っている。
――寄り道しないで、まっすぐ帰った方がいい。
優しい言葉のはずなのに、うまく飲み込めない。窓の外を流れていく景色を見ながら、七宮なのははゆっくり息を吐いた。
助かっているのかもしれない、とふと思う。
今日の約束が流れたことも。ドアが開く一瞬前に話しかけられたことも。結果だけ見れば、全部“何も起きていない”で済んでいる。そう考えた瞬間、安心より先に薄気味悪さがきた。
守られている、という言い方を頭の中でしてみて、七宮なのはは自分で眉を寄せる。馬鹿みたいだ、と思う。守られているだなんて。そんな都合のいい話があるわけがない。偶然が重なっただけだ。少し気にしすぎているだけだ。
なのに、頭の片隅には斎藤一の返事が残ったままだ。
――今日は寄り道しないで、まっすぐ帰った方がいいかもね。
ただの心配だと思うには、その言い方はどこか少しだけ、出来すぎている気がした。
