君を守る正しい方法
六月某日。
晴れ。午後四時を過ぎても、駅前のコンクリートはまだ昼間の熱を抱えたままだった。立っているだけで、じわじわ足の裏から暑さが上がってくる。人は多い。買い物帰りらしい人も、学生も、仕事中みたいなスーツ姿もいる。みんなそれぞれ忙しそうで、誰もこっちなんて見ていない。そういうところは、少し気が楽だった。
七宮なのはは駅前の時計を見上げて、それからスマートフォンの画面に目を落とした。待ち合わせの時刻まで、あと七分。少し早いけれど、遅れるよりはいい。どうせやることもないので、オブジェの前で立ち止まる。
人の流れをぼんやり見ている時間は、嫌いではない。自分だけ一歩ぶん外側に立っているような気がする。勝手で都合のいい感覚だけど、そういうのは案外大事だ。
スマートフォンが震えたのは、その直後だった。反射みたいに画面を見る。表示されていたのは、待ち合わせ相手からのメッセージだった。
『ごめん、急に予定入った。また今度でいい?』
七宮なのはは数秒、その短い文面を見つめたまま動かなかった。べつに責めるほどのことではない。急用なんて誰にでもあるし、事情があるなら仕方ない。そこまで親しい相手でもないから、予定が流れたところで大した損でもない。なのに、口から出たのは小さな溜め息だった。
「……またか」
自分で思ったより、低い声が出た。
一度目は流した。そういう日もあると思った。 二度目も、たまたまだろうで済ませた。
三度目になると、さすがに少し気になる。
しかも相手は毎回違った。
誰かひとりに避けられている、という感じではない。それが余計に気持ち悪かった。
――偶然にしては、少し重なりすぎている。
そう考えてから、いやそんなわけないか、と自分で打ち消す。重なったから何だというのだ。会えなかった、それだけだ。別に怪我をしたわけでも、困ったことになったわけでもない。
七宮なのはは短く返信を打った。
『了解。また連絡して』
送信。すぐに既読がつく。けれど、その先はなかった。
画面を閉じる。予定のなくなった時間だけが、ぽっかり残る。せっかくここまで出てきたのだから、どこか寄ってから帰ろうか。そう思って顔を上げた、その時だった。背後で、鋭いブレーキ音が鳴る。かなり近かった。
七宮なのはは咄嗟に足を止める。すぐ後ろを、自転車がふらつきながら通り過ぎていった。前かごには買い物袋がいくつも押し込まれていて、どう見ても重そうだ。あと半歩遅れていたら、ぶつかっていたかもしれない。
「うわっ」
思わず声が出る。
けれど、それだけだった。自転車に乗っていた中年の女性はこちらを振り返りもしないまま、流れていく人混みの中へ消えていく。
危なかった。そう言ってしまえばそれだけだ。でも、何も起きていない。怪我もないし、服も汚れていないし、スマートフォンもちゃんと手の中にある。結果だけ見ると、本当に何もない。なのに、妙な引っかかりだけが残った。
危なかった、というより、危なかったはずのものがぎりぎり外れていったような感じだった。うまく言えない。自分でも変なことを考えている気はする。七宮なのはは首の後ろを軽くさすって、今度こそ歩き出した。
商業施設の方へ行こうかと思っていたのに、数歩進んだところでやめる。今日はもう帰るか、と急に思った。暑さのせいかもしれないし、なんとなくそんな気分になっただけかもしれない。
途中のコンビニで、アイスと飲み物を買う。冷房の利いた店内は快適で、外にいた時間が少し馬鹿みたいに思えた。会計を済ませて外へ出たところで、七宮なのははふと足を止める。通りの向こうに、見覚えのある人影があった。
黒っぽい服。すっとした立ち姿。離れていても、すぐに分かった。斎藤一だった。
どうしてここにいるのだろう、と一瞬思う。
けれど別におかしなことではない。この辺りにいても不思議ではないし、駅前ならなおさらだ。ただの偶然だろう、と考えるのが一番自然だった。七宮なのははガラス扉の前で軽く手を振る。斎藤一は少し遅れてこちらに気づき、いつものように目を細めた。それから横断歩道の信号を確認して、こちらへ渡ってくる。
「やっほー、はじめちゃん」
「…なのはちゃん。何してるの、こんなとこで」
「それはこっちの台詞じゃない?」
「確かにそうだね」
穏やかな言い方だった。いつもと同じ、のはずなのに、何かひとつだけ薄く膜がかかったみたいな感じがした。上手く言えないけれど、少しだけ変だった。七宮なのははコンビニの袋を持ち上げて見せる。
「予定潰れたから、帰るとこ」
「そうなんだ」
短い返事。その一言が、妙に引っかかった。知らなかったようにも聞こえるし、知っていたようにも聞こえる。そんな曖昧な間だった。七宮なのはが眉を寄せるより先に、斎藤一はいつもの調子で続ける。
「送ろうか?」
「え、いいの」
「いいよ。ついで」
ついで、という言葉を使う時の斎藤一は、大体ついでではない。七宮なのははそれを知っている。知っているけれど、だからといって断る理由にもならない。
今日は、ひとりで帰るよりいいかもしれない。そう思った自分に、少しだけ首を傾げながら、七宮なのはは頷いた。
「じゃあお願いしよっかな」
「うん」
二人はそのまま並んで歩き出した。
帰り道は驚くほど平和だった。
信号はタイミングよく青になるし、車も自転車も妙に大人しい。人と肩がぶつかることもない。ぬるい風が吹いて、袋の中のアイスが溶けないかだけ気にしていればよかった。
途中で、そのことに気づく。
斎藤一が隣にいる間だけ、何も起きない。いや、何も起きないのが普通なのだ。おかしかったのはさっきまでの方かもしれない。そう考え直しても、一度引っかかったものは消えてくれなかった。
七宮なのははちらりと隣を見る。
斎藤一は前を向いたまま歩いている。何を考えているのかわからない顔だった。考えごとをしているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。この人はたまに、そういう顔をする。
「どうしたの」
視線に気づいたのか、斎藤一が言う。
「いや、別に」
「そう」
それきり会話は途切れた。
気まずいわけではない。けれど、沈黙が少しだけ重い。夏の湿気みたいに、肌に薄く張りつく感じがした。
マンションの前で足を止める。
「送ってくれてありがと」
「どういたしまして」
「またね」
「……うん、また」
一拍遅れて返ってきた声が、ほんの少しだけ沈んで聞こえた。七宮なのははそれ以上気にせず、軽く手を振って建物の中に入る。エレベーターに乗り、部屋へ戻って、冷房をつける。アイスを冷凍庫へ入れて、飲み物の蓋を開けたところで、ふと手が止まった。
斎藤一は、どうしてあの場所にいたのだろう。
駅前の、あの時間。待ち合わせが流れた直後。
まるで、そうなることを知っていたみたいなタイミングだった。
――いや、考えすぎだろう。
偶然は偶然だ。ただ見かけて、たまたま送ってくれただけ。そういうことは普通にある。なのに、変に引っかかる。七宮なのははスマートフォンを手に取り、さっきのメッセージ画面を開いた。追加の連絡は来ていなかった。既読だけが、妙にあっさり残っている。
それを閉じて、今度は斎藤一とのやり取りを開く。
最後の会話は数日前のものだった。特に変わったことはない。
それでも少しのあいだ、画面から目が離せなかった。
何もわからないまま、スマートフォンを伏せる。理由のはっきりしない違和感に、名前をつけるにはまだ早い。でも、その日のことを思い返した時、最初に浮かんだのはキャンセルのメッセージではなく、横断歩道の向こう側に立っていた斎藤一の姿だった。
――ただの偶然だと思うには、少しだけ、出来すぎていた。
晴れ。午後四時を過ぎても、駅前のコンクリートはまだ昼間の熱を抱えたままだった。立っているだけで、じわじわ足の裏から暑さが上がってくる。人は多い。買い物帰りらしい人も、学生も、仕事中みたいなスーツ姿もいる。みんなそれぞれ忙しそうで、誰もこっちなんて見ていない。そういうところは、少し気が楽だった。
七宮なのはは駅前の時計を見上げて、それからスマートフォンの画面に目を落とした。待ち合わせの時刻まで、あと七分。少し早いけれど、遅れるよりはいい。どうせやることもないので、オブジェの前で立ち止まる。
人の流れをぼんやり見ている時間は、嫌いではない。自分だけ一歩ぶん外側に立っているような気がする。勝手で都合のいい感覚だけど、そういうのは案外大事だ。
スマートフォンが震えたのは、その直後だった。反射みたいに画面を見る。表示されていたのは、待ち合わせ相手からのメッセージだった。
『ごめん、急に予定入った。また今度でいい?』
七宮なのはは数秒、その短い文面を見つめたまま動かなかった。べつに責めるほどのことではない。急用なんて誰にでもあるし、事情があるなら仕方ない。そこまで親しい相手でもないから、予定が流れたところで大した損でもない。なのに、口から出たのは小さな溜め息だった。
「……またか」
自分で思ったより、低い声が出た。
一度目は流した。そういう日もあると思った。 二度目も、たまたまだろうで済ませた。
三度目になると、さすがに少し気になる。
しかも相手は毎回違った。
誰かひとりに避けられている、という感じではない。それが余計に気持ち悪かった。
――偶然にしては、少し重なりすぎている。
そう考えてから、いやそんなわけないか、と自分で打ち消す。重なったから何だというのだ。会えなかった、それだけだ。別に怪我をしたわけでも、困ったことになったわけでもない。
七宮なのはは短く返信を打った。
『了解。また連絡して』
送信。すぐに既読がつく。けれど、その先はなかった。
画面を閉じる。予定のなくなった時間だけが、ぽっかり残る。せっかくここまで出てきたのだから、どこか寄ってから帰ろうか。そう思って顔を上げた、その時だった。背後で、鋭いブレーキ音が鳴る。かなり近かった。
七宮なのはは咄嗟に足を止める。すぐ後ろを、自転車がふらつきながら通り過ぎていった。前かごには買い物袋がいくつも押し込まれていて、どう見ても重そうだ。あと半歩遅れていたら、ぶつかっていたかもしれない。
「うわっ」
思わず声が出る。
けれど、それだけだった。自転車に乗っていた中年の女性はこちらを振り返りもしないまま、流れていく人混みの中へ消えていく。
危なかった。そう言ってしまえばそれだけだ。でも、何も起きていない。怪我もないし、服も汚れていないし、スマートフォンもちゃんと手の中にある。結果だけ見ると、本当に何もない。なのに、妙な引っかかりだけが残った。
危なかった、というより、危なかったはずのものがぎりぎり外れていったような感じだった。うまく言えない。自分でも変なことを考えている気はする。七宮なのはは首の後ろを軽くさすって、今度こそ歩き出した。
商業施設の方へ行こうかと思っていたのに、数歩進んだところでやめる。今日はもう帰るか、と急に思った。暑さのせいかもしれないし、なんとなくそんな気分になっただけかもしれない。
途中のコンビニで、アイスと飲み物を買う。冷房の利いた店内は快適で、外にいた時間が少し馬鹿みたいに思えた。会計を済ませて外へ出たところで、七宮なのははふと足を止める。通りの向こうに、見覚えのある人影があった。
黒っぽい服。すっとした立ち姿。離れていても、すぐに分かった。斎藤一だった。
どうしてここにいるのだろう、と一瞬思う。
けれど別におかしなことではない。この辺りにいても不思議ではないし、駅前ならなおさらだ。ただの偶然だろう、と考えるのが一番自然だった。七宮なのははガラス扉の前で軽く手を振る。斎藤一は少し遅れてこちらに気づき、いつものように目を細めた。それから横断歩道の信号を確認して、こちらへ渡ってくる。
「やっほー、はじめちゃん」
「…なのはちゃん。何してるの、こんなとこで」
「それはこっちの台詞じゃない?」
「確かにそうだね」
穏やかな言い方だった。いつもと同じ、のはずなのに、何かひとつだけ薄く膜がかかったみたいな感じがした。上手く言えないけれど、少しだけ変だった。七宮なのははコンビニの袋を持ち上げて見せる。
「予定潰れたから、帰るとこ」
「そうなんだ」
短い返事。その一言が、妙に引っかかった。知らなかったようにも聞こえるし、知っていたようにも聞こえる。そんな曖昧な間だった。七宮なのはが眉を寄せるより先に、斎藤一はいつもの調子で続ける。
「送ろうか?」
「え、いいの」
「いいよ。ついで」
ついで、という言葉を使う時の斎藤一は、大体ついでではない。七宮なのははそれを知っている。知っているけれど、だからといって断る理由にもならない。
今日は、ひとりで帰るよりいいかもしれない。そう思った自分に、少しだけ首を傾げながら、七宮なのはは頷いた。
「じゃあお願いしよっかな」
「うん」
二人はそのまま並んで歩き出した。
帰り道は驚くほど平和だった。
信号はタイミングよく青になるし、車も自転車も妙に大人しい。人と肩がぶつかることもない。ぬるい風が吹いて、袋の中のアイスが溶けないかだけ気にしていればよかった。
途中で、そのことに気づく。
斎藤一が隣にいる間だけ、何も起きない。いや、何も起きないのが普通なのだ。おかしかったのはさっきまでの方かもしれない。そう考え直しても、一度引っかかったものは消えてくれなかった。
七宮なのははちらりと隣を見る。
斎藤一は前を向いたまま歩いている。何を考えているのかわからない顔だった。考えごとをしているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。この人はたまに、そういう顔をする。
「どうしたの」
視線に気づいたのか、斎藤一が言う。
「いや、別に」
「そう」
それきり会話は途切れた。
気まずいわけではない。けれど、沈黙が少しだけ重い。夏の湿気みたいに、肌に薄く張りつく感じがした。
マンションの前で足を止める。
「送ってくれてありがと」
「どういたしまして」
「またね」
「……うん、また」
一拍遅れて返ってきた声が、ほんの少しだけ沈んで聞こえた。七宮なのははそれ以上気にせず、軽く手を振って建物の中に入る。エレベーターに乗り、部屋へ戻って、冷房をつける。アイスを冷凍庫へ入れて、飲み物の蓋を開けたところで、ふと手が止まった。
斎藤一は、どうしてあの場所にいたのだろう。
駅前の、あの時間。待ち合わせが流れた直後。
まるで、そうなることを知っていたみたいなタイミングだった。
――いや、考えすぎだろう。
偶然は偶然だ。ただ見かけて、たまたま送ってくれただけ。そういうことは普通にある。なのに、変に引っかかる。七宮なのははスマートフォンを手に取り、さっきのメッセージ画面を開いた。追加の連絡は来ていなかった。既読だけが、妙にあっさり残っている。
それを閉じて、今度は斎藤一とのやり取りを開く。
最後の会話は数日前のものだった。特に変わったことはない。
それでも少しのあいだ、画面から目が離せなかった。
何もわからないまま、スマートフォンを伏せる。理由のはっきりしない違和感に、名前をつけるにはまだ早い。でも、その日のことを思い返した時、最初に浮かんだのはキャンセルのメッセージではなく、横断歩道の向こう側に立っていた斎藤一の姿だった。
――ただの偶然だと思うには、少しだけ、出来すぎていた。
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