短編集まとめ
玄関先に立ったまま、斎藤一は数秒、言葉を失っていた。正確に言えば、言うべき言葉はいくつか思い浮かんでいた。「なにしてるの?」とか「それ何?」とか、あるいはもう少し遠回しに「今日は随分と面白いことをしているんだね」とか。けれどそのどれもが、目の前の光景に対して少しだけ的外れに思えた。
リビングの真ん中に、七宮なのはが立っている。白いスケッチブックを胸の前で掲げていて、そこには太いマジックでこう書かれていた。
―――『フリーハグ』と。
家の中で。対象は言わずもがな自分しかいないのに。
「……なにしてるの」
結局、一番そのままの言葉が口から出た。彼女はスケッチブックを掲げたまま、少しきまり悪そうに目を逸らした。耳がほんのり赤い。
「…フリーハグ。」
「見ればわかるよ」
「じゃあいいじゃん」
「そういう事じゃないでしょ」
思わず笑ってしまいそうになるのを、なんとか堪える。意味は一瞬で分かっていた。分かっているからこそそのまま乗るのもなんだか違うような気がして、つい一言多くなる。
彼女はむ、という顔でこちらを見た。明らかに不服そうだが、しかしスケッチブックは下ろさない。
「家の中なのに?」
「……」
「対象、一人しかいないけど」
「知ってるし」
今度はもっとはっきりと、むっとした声が返ってきた。でも逃げない。彼女はスケッチブックを持ったまま、その場に立っている。それが可笑しくて、可愛くて、僕は息をついた。
「素直に言えばいいのに」
「言いづらいからこうしてるんじゃん」
それは確かにそうだろう。彼女はこういう時、言葉にする前に変な形にしてしまう。遠回りで、不器用で、でも結局ちゃんとこちらへ来る。そこがいかにも彼女らしかった。
「……そういうことなら」
そう言って、一歩近づく。彼女は札を持ったまま少しだけ肩を強張らせたけれど、逃げはしなかった。そのまま引き寄せて抱きしめる。細い身体が、最初は少し固かった。けれどすぐに力が抜けていく。
「はい、フリーハグ」
耳元でそう言うと、彼女は案の定、またむ……という顔をした。けれど抱き返してはくる。その腕の細さに対して、しがみつく力だけは意外と強い。
抱きしめられたまま、彼女はしばらく黙っていた。それから小さく、「……ん」とだけ鳴くみたいに返した。少しずつ彼女から身体の力が抜けて、最終的にはほとんど全部をこちらに預けてきた。スケッチブックを持っていた手もだらりと下がって、紙の端がくしゃりと折れた。その重みを受け止めながら、やっぱりこの子はこういう時だけ妙に素直だな、と思う。
「またやるの? それ」
抱きしめたまま訊ねると、彼女はしばらく考えてから、少しくぐもった声で言った。
「わかんない。……でも」
「でも?」
「はじめちゃんも使っていいよ」
「僕が?」
「うん」
「何に使うの」
「知らない。ハグしたくなった時とか」
その許容はあまりにも雑で、自然で、本人はたぶん大したことを言っているつもりもなさそうだった。けれど僕は少しだけ黙ってしまった。
――そういう許可を、こんなふうに渡すんだ。
彼女は何も気づかず、少しだけ顔を上げる。
「……でも返してね」
「所有権はそっちなんだ」
「私が作ったし」
それを聞いて、ふ、と小さく笑ってしまう。どうしようもなく、好きだなと思った。
「はいはい。じゃあ必要な時に借りるよ」
「ん」
その返事は、もう満足した猫みたいに緩んでいた。
***
その札を、本当に手に取る日が来るとは思っていなかった。
あの日のあと、スケッチブックはリビングの棚の下段に立てかけられたままになっていた。彼女は二、三日だけ妙に気まずそうにしていたけれど、そのうちいつも通りになって、札のことも忘れていた。札は、ほとんどただの生活の一部みたいにそこに置かれていた。
自分も、使うつもりはなかった。そもそも、自分からああいうものに頼る想像がつかなかった。だからそれは、ずっとそこにあるだけのものだった。
――少なくとも、今日までは。
仕事が長引いたわけではない。
誰かに怒鳴られたわけでも、理不尽なことを言われたわけでもない。けれど、ひとつずつなら流せるようなことが妙に重なって、その全部が薄く身体にまとわりついたまま帰ってきたような日だった。最寄り駅からの道を歩きながら、今日はやけに空気がぬるいな、と思った。春が近いせいなのか、それとも単に自分の感覚が鈍っているだけなのか、よく分からない。コンビニの前を通り過ぎても、いつもなら何かひとつくらい買って帰ろうかと思うのに、その気にもならなかった。
家の前まで来て、鞄の中から鍵を探す。金属の感触が指先に触れた時、玄関の向こうに灯りがついていることに気づいた。ああ、彼女がいるんだな、と思う。それだけのことなのに、少しだけ息が抜けた。
扉を開ける。リビングの方からテレビの音が小さく聞こえた。バラエティ番組か何かだろうか、誰かの笑い声が薄く響いている。けれど、その音も今日はやけに遠く感じた。
「おかえり」
ソファの方からなのはちゃんの声がした。返事をしようとして、一拍遅れる。
「……ただいま」
自分でも少し掠れていると思うような声だった。彼女は何も言わなかった。ただ、ソファの背に頬杖をついたままこちらを見ている。その視線の静かさに、余計に何かを言いづらくなる。
ジャケットを脱いで椅子の背にかける。ネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外したところで、ふと視界の端に白いものが入った。
――リビングの棚の下段。立てかけられたままのスケッチブック。あの日と同じように、少しだけ角が折れている。
足が自然と止まる。自分でも、何を考えているのか分からなかった。
ただ、そのまま何事もなかったみたいに洗面所へ行って、適当に手を洗って、適当に食事をして、いつも通りの顔をするには、今日の自分は少しだけ疲れていた。
なのはちゃんの方を見ると、もう一度ソファに沈んで、テレビの方へ顔を戻していた。
棚の前にしゃがむ。指先でスケッチブックの端をつまむ。ほんの少し迷ってから、それを引き抜いた。
白い紙に、太い黒字。――『フリーハグ』
思わず、小さく息を吐く。
「……何やってるんだろうね、僕」
独り言のつもりだったけれど、彼女には聞こえたらしい。ソファの布が擦れる音がして、彼女が身体を起こした気配がした。
「はじめちゃん?」
返事はしなかった。そのまま札を見たまま立ち上がる。さすがにこれを持ったままリビングの真ん中に立つのはどうなんだろう、と一瞬だけ思って、すぐに別にいいか、となった。ここで変に格好をつける方が今さらだ。
なのはちゃんの方へ向き直る。
彼女は最初、札を見て、次に僕の顔を見た。それだけでだいたい全部分かったらしい。目を少しだけ丸くしたあと、ふっと息を吐くように
「へぇ」
とだけ言った。
いつか自分がやった時と同じだ。けれど、そこに茶化す色はほとんどない。どちらかと言えば納得の方が近い声だった。
……僕は少しだけ目を逸らす。
「……借りてもいいって、言ってたでしょ」
「うん、言った」
「だから」
「うん」
そこで彼女はソファから降りた。裸足のまま、ぺたぺたとこちらへ歩いてくる。距離が縮まるたびに、どうにもいたたまれないような気分になるのに、逃げる気にもなれない。目の前で止まった彼女は、札を見て、僕を見る。それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「そっか」
その言い方が妙にやさしくて、余計に困る。
次の瞬間にはもう腕が回ってきていた。抱きしめるというより、包むみたいな、でも遠慮のない力だった。ぎゅう、と息が詰まるくらいに強く抱きしめられる。
彼女はそのまま、何も言わない。何があったの、とも、どうしたの、とも言わない。……ただ、しっかりと抱きしめてくれる。
ああ、そういうところなんだよな、と思う。
こちらが言葉にしたくないことを、無理に引きずり出そうとしない。けれど、触れないわけでもない。ちゃんと気づいて、ちゃんと受け取る。その距離の取り方に、何度助けられてきたか分からない。
僕も遅れて腕を回した。気づけば、さっきより少し強く抱き返してしまっていた。
なのはちゃんは何も言わない。でも、少しだけ満足そうな顔をしているのが、声がなくても分かった。たぶん頼られたことが嬉しいのだろう。そういうところも彼女らしかった。
しばらくそうしてから、ようやく身体がゆるむ。息を吐くと、胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけ形を失っていくような気がした。
先に離れたのはなのはちゃんの方だった。腕をほどいて、一歩だけ下がる。けれど完全には離れず、僕の袖を指先でつまんだままこちらを見上げる。
「ね、コンビニでアイス買ってこない?」
その声があまりにもいつも通りで、思わず笑いそうになる。
「急だね」
「甘いの食べたい」
「自分がでしょ」
「そうだけど?」
そう言って、まだ僕の袖を持っている。行く前提なんだな、と思って、少しだけ息を吐いた。
「……うん、行こうか」
「ん」
なのはちゃんは満足そうに頷いて、やっと手を離した。
コンビニまでの道は、夜にしては少しだけあたたかかった。
並んで歩きながら、彼女はコンビニで何を買うかしか考えていないみたいな顔をしていた。けれど、本当に何も考えていないわけではないことを、僕は知っている。
「アイス、何にするの」
「まだ決めてない」
「え、珍しい」
「そう?」
「はじめちゃんってだいたい同じの買うじゃん」
「……今日は、何でもいいかなって」
「ふーん」
自動ドアが開いて、白い光が夜道を切った。彼女は迷いなくアイスケースの方へ向かっていく。僕もそのあとを追った。
「これ新しいやつ」
「へえ」
「でも外れだったらやだな」
「じゃあいつものにすれば」
「えー、でも気になる」
「じゃあ両方買えばいいんじゃない」
「天才?」
僕が言うと、彼女は本気で感心したみたいな顔をした。たぶん天才なのはそっちじゃないかな、と思う。こんな時でも、いつもの調子のまま僕をコンビニまで連れ出せるから。
結局、なのはちゃんは新作といつものと、二つ買った。僕はいつものをひとつ。会計を済ませて店を出ると、彼女はビニール袋を揺らしながら、少しだけ機嫌よさそうに見えた。
「ちょっと分けてね」
「別にいいけど」
「やった、私のも食べていいから」
「交換条件なんだ」
「うん」
家に戻って、ソファに並んで座る。
さっきまでついていたテレビはもう消してしまった。部屋の中は静かで、アイスの包装を剥く音だけが小さく響く。
ひとくち食べたところで、案の定なのはちゃんが横から覗き込んできた。
「はじめちゃん、それちょっとちょうだい」
「自分のあるでしょ」
「そっちの方がおいしそう」
「バニラアイスなことは同じだけど」
「企業によっても違うんだよ」
しょうがないな、と思いながら差し出す。なのはちゃんはひとくちだけ食べて、「あ、やっぱこっちのが好きかも」と勝手なことを言った。
「ほら、はじめちゃんも」
「ありがとう」
今度は彼女の方をひとくちもらう。甘い。少しだけ、春っぽい味がした。
そのまま、他愛のない会話をいくつか交わした。
新作は微妙だったとか、明日は起きられる気がしないとか、そういうどうでもいい話ばかりだった。けれど、そういう話をしているうちに、胸の奥にへばりついていた重さが少しずつ剥がれていくようだった。
先に食べ終えたなのはちゃんが、空になったカップをテーブルに置く。それから僕の肩に少しだけ体重を預けてきた。
何も言わない。僕も、しばらく何も言わなかった。
ただ、その重みがそこにあるだけでよかった。
「……ありがとね」
ほとんど独り言みたいに言うと、彼女は顔も上げずに、
「ん」
とだけ返した。短い返事だった。でも、今の僕にはそれで十分だった。
たぶん今日のことも、そのうち彼女は忘れるのだろう。――けれど、それでいいと思った。
リビングの真ん中に、七宮なのはが立っている。白いスケッチブックを胸の前で掲げていて、そこには太いマジックでこう書かれていた。
―――『フリーハグ』と。
家の中で。対象は言わずもがな自分しかいないのに。
「……なにしてるの」
結局、一番そのままの言葉が口から出た。彼女はスケッチブックを掲げたまま、少しきまり悪そうに目を逸らした。耳がほんのり赤い。
「…フリーハグ。」
「見ればわかるよ」
「じゃあいいじゃん」
「そういう事じゃないでしょ」
思わず笑ってしまいそうになるのを、なんとか堪える。意味は一瞬で分かっていた。分かっているからこそそのまま乗るのもなんだか違うような気がして、つい一言多くなる。
彼女はむ、という顔でこちらを見た。明らかに不服そうだが、しかしスケッチブックは下ろさない。
「家の中なのに?」
「……」
「対象、一人しかいないけど」
「知ってるし」
今度はもっとはっきりと、むっとした声が返ってきた。でも逃げない。彼女はスケッチブックを持ったまま、その場に立っている。それが可笑しくて、可愛くて、僕は息をついた。
「素直に言えばいいのに」
「言いづらいからこうしてるんじゃん」
それは確かにそうだろう。彼女はこういう時、言葉にする前に変な形にしてしまう。遠回りで、不器用で、でも結局ちゃんとこちらへ来る。そこがいかにも彼女らしかった。
「……そういうことなら」
そう言って、一歩近づく。彼女は札を持ったまま少しだけ肩を強張らせたけれど、逃げはしなかった。そのまま引き寄せて抱きしめる。細い身体が、最初は少し固かった。けれどすぐに力が抜けていく。
「はい、フリーハグ」
耳元でそう言うと、彼女は案の定、またむ……という顔をした。けれど抱き返してはくる。その腕の細さに対して、しがみつく力だけは意外と強い。
抱きしめられたまま、彼女はしばらく黙っていた。それから小さく、「……ん」とだけ鳴くみたいに返した。少しずつ彼女から身体の力が抜けて、最終的にはほとんど全部をこちらに預けてきた。スケッチブックを持っていた手もだらりと下がって、紙の端がくしゃりと折れた。その重みを受け止めながら、やっぱりこの子はこういう時だけ妙に素直だな、と思う。
「またやるの? それ」
抱きしめたまま訊ねると、彼女はしばらく考えてから、少しくぐもった声で言った。
「わかんない。……でも」
「でも?」
「はじめちゃんも使っていいよ」
「僕が?」
「うん」
「何に使うの」
「知らない。ハグしたくなった時とか」
その許容はあまりにも雑で、自然で、本人はたぶん大したことを言っているつもりもなさそうだった。けれど僕は少しだけ黙ってしまった。
――そういう許可を、こんなふうに渡すんだ。
彼女は何も気づかず、少しだけ顔を上げる。
「……でも返してね」
「所有権はそっちなんだ」
「私が作ったし」
それを聞いて、ふ、と小さく笑ってしまう。どうしようもなく、好きだなと思った。
「はいはい。じゃあ必要な時に借りるよ」
「ん」
その返事は、もう満足した猫みたいに緩んでいた。
***
その札を、本当に手に取る日が来るとは思っていなかった。
あの日のあと、スケッチブックはリビングの棚の下段に立てかけられたままになっていた。彼女は二、三日だけ妙に気まずそうにしていたけれど、そのうちいつも通りになって、札のことも忘れていた。札は、ほとんどただの生活の一部みたいにそこに置かれていた。
自分も、使うつもりはなかった。そもそも、自分からああいうものに頼る想像がつかなかった。だからそれは、ずっとそこにあるだけのものだった。
――少なくとも、今日までは。
仕事が長引いたわけではない。
誰かに怒鳴られたわけでも、理不尽なことを言われたわけでもない。けれど、ひとつずつなら流せるようなことが妙に重なって、その全部が薄く身体にまとわりついたまま帰ってきたような日だった。最寄り駅からの道を歩きながら、今日はやけに空気がぬるいな、と思った。春が近いせいなのか、それとも単に自分の感覚が鈍っているだけなのか、よく分からない。コンビニの前を通り過ぎても、いつもなら何かひとつくらい買って帰ろうかと思うのに、その気にもならなかった。
家の前まで来て、鞄の中から鍵を探す。金属の感触が指先に触れた時、玄関の向こうに灯りがついていることに気づいた。ああ、彼女がいるんだな、と思う。それだけのことなのに、少しだけ息が抜けた。
扉を開ける。リビングの方からテレビの音が小さく聞こえた。バラエティ番組か何かだろうか、誰かの笑い声が薄く響いている。けれど、その音も今日はやけに遠く感じた。
「おかえり」
ソファの方からなのはちゃんの声がした。返事をしようとして、一拍遅れる。
「……ただいま」
自分でも少し掠れていると思うような声だった。彼女は何も言わなかった。ただ、ソファの背に頬杖をついたままこちらを見ている。その視線の静かさに、余計に何かを言いづらくなる。
ジャケットを脱いで椅子の背にかける。ネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外したところで、ふと視界の端に白いものが入った。
――リビングの棚の下段。立てかけられたままのスケッチブック。あの日と同じように、少しだけ角が折れている。
足が自然と止まる。自分でも、何を考えているのか分からなかった。
ただ、そのまま何事もなかったみたいに洗面所へ行って、適当に手を洗って、適当に食事をして、いつも通りの顔をするには、今日の自分は少しだけ疲れていた。
なのはちゃんの方を見ると、もう一度ソファに沈んで、テレビの方へ顔を戻していた。
棚の前にしゃがむ。指先でスケッチブックの端をつまむ。ほんの少し迷ってから、それを引き抜いた。
白い紙に、太い黒字。――『フリーハグ』
思わず、小さく息を吐く。
「……何やってるんだろうね、僕」
独り言のつもりだったけれど、彼女には聞こえたらしい。ソファの布が擦れる音がして、彼女が身体を起こした気配がした。
「はじめちゃん?」
返事はしなかった。そのまま札を見たまま立ち上がる。さすがにこれを持ったままリビングの真ん中に立つのはどうなんだろう、と一瞬だけ思って、すぐに別にいいか、となった。ここで変に格好をつける方が今さらだ。
なのはちゃんの方へ向き直る。
彼女は最初、札を見て、次に僕の顔を見た。それだけでだいたい全部分かったらしい。目を少しだけ丸くしたあと、ふっと息を吐くように
「へぇ」
とだけ言った。
いつか自分がやった時と同じだ。けれど、そこに茶化す色はほとんどない。どちらかと言えば納得の方が近い声だった。
……僕は少しだけ目を逸らす。
「……借りてもいいって、言ってたでしょ」
「うん、言った」
「だから」
「うん」
そこで彼女はソファから降りた。裸足のまま、ぺたぺたとこちらへ歩いてくる。距離が縮まるたびに、どうにもいたたまれないような気分になるのに、逃げる気にもなれない。目の前で止まった彼女は、札を見て、僕を見る。それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「そっか」
その言い方が妙にやさしくて、余計に困る。
次の瞬間にはもう腕が回ってきていた。抱きしめるというより、包むみたいな、でも遠慮のない力だった。ぎゅう、と息が詰まるくらいに強く抱きしめられる。
彼女はそのまま、何も言わない。何があったの、とも、どうしたの、とも言わない。……ただ、しっかりと抱きしめてくれる。
ああ、そういうところなんだよな、と思う。
こちらが言葉にしたくないことを、無理に引きずり出そうとしない。けれど、触れないわけでもない。ちゃんと気づいて、ちゃんと受け取る。その距離の取り方に、何度助けられてきたか分からない。
僕も遅れて腕を回した。気づけば、さっきより少し強く抱き返してしまっていた。
なのはちゃんは何も言わない。でも、少しだけ満足そうな顔をしているのが、声がなくても分かった。たぶん頼られたことが嬉しいのだろう。そういうところも彼女らしかった。
しばらくそうしてから、ようやく身体がゆるむ。息を吐くと、胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけ形を失っていくような気がした。
先に離れたのはなのはちゃんの方だった。腕をほどいて、一歩だけ下がる。けれど完全には離れず、僕の袖を指先でつまんだままこちらを見上げる。
「ね、コンビニでアイス買ってこない?」
その声があまりにもいつも通りで、思わず笑いそうになる。
「急だね」
「甘いの食べたい」
「自分がでしょ」
「そうだけど?」
そう言って、まだ僕の袖を持っている。行く前提なんだな、と思って、少しだけ息を吐いた。
「……うん、行こうか」
「ん」
なのはちゃんは満足そうに頷いて、やっと手を離した。
コンビニまでの道は、夜にしては少しだけあたたかかった。
並んで歩きながら、彼女はコンビニで何を買うかしか考えていないみたいな顔をしていた。けれど、本当に何も考えていないわけではないことを、僕は知っている。
「アイス、何にするの」
「まだ決めてない」
「え、珍しい」
「そう?」
「はじめちゃんってだいたい同じの買うじゃん」
「……今日は、何でもいいかなって」
「ふーん」
自動ドアが開いて、白い光が夜道を切った。彼女は迷いなくアイスケースの方へ向かっていく。僕もそのあとを追った。
「これ新しいやつ」
「へえ」
「でも外れだったらやだな」
「じゃあいつものにすれば」
「えー、でも気になる」
「じゃあ両方買えばいいんじゃない」
「天才?」
僕が言うと、彼女は本気で感心したみたいな顔をした。たぶん天才なのはそっちじゃないかな、と思う。こんな時でも、いつもの調子のまま僕をコンビニまで連れ出せるから。
結局、なのはちゃんは新作といつものと、二つ買った。僕はいつものをひとつ。会計を済ませて店を出ると、彼女はビニール袋を揺らしながら、少しだけ機嫌よさそうに見えた。
「ちょっと分けてね」
「別にいいけど」
「やった、私のも食べていいから」
「交換条件なんだ」
「うん」
家に戻って、ソファに並んで座る。
さっきまでついていたテレビはもう消してしまった。部屋の中は静かで、アイスの包装を剥く音だけが小さく響く。
ひとくち食べたところで、案の定なのはちゃんが横から覗き込んできた。
「はじめちゃん、それちょっとちょうだい」
「自分のあるでしょ」
「そっちの方がおいしそう」
「バニラアイスなことは同じだけど」
「企業によっても違うんだよ」
しょうがないな、と思いながら差し出す。なのはちゃんはひとくちだけ食べて、「あ、やっぱこっちのが好きかも」と勝手なことを言った。
「ほら、はじめちゃんも」
「ありがとう」
今度は彼女の方をひとくちもらう。甘い。少しだけ、春っぽい味がした。
そのまま、他愛のない会話をいくつか交わした。
新作は微妙だったとか、明日は起きられる気がしないとか、そういうどうでもいい話ばかりだった。けれど、そういう話をしているうちに、胸の奥にへばりついていた重さが少しずつ剥がれていくようだった。
先に食べ終えたなのはちゃんが、空になったカップをテーブルに置く。それから僕の肩に少しだけ体重を預けてきた。
何も言わない。僕も、しばらく何も言わなかった。
ただ、その重みがそこにあるだけでよかった。
「……ありがとね」
ほとんど独り言みたいに言うと、彼女は顔も上げずに、
「ん」
とだけ返した。短い返事だった。でも、今の僕にはそれで十分だった。
たぶん今日のことも、そのうち彼女は忘れるのだろう。――けれど、それでいいと思った。
