短編集まとめ
それは、桜の花が咲き乱れる季節のことだった。
結婚が決まった、とお父様から告げられたのは、夕餉の後だった。
相手はどんな人かと尋ねれば、「お前が望んでいた、不干渉の相手だ」とだけ。それは確かに、私が求めていた最低ラインの条件であった。
古文を読んでいても、奇異の目を向けない人。私の世界に、無理に踏み込んでこない人。
だから、文句はなかった。これでいいのだと、自分に言い聞かせた。
両親も、妹も、皆が私を心配している。今でさえ行き遅れているというのに、これ以上気を揉ませるわけにはいかない。
了承した私に、お父様は淡々と続けた。
「急な話だが、来週には向こうへ行ってもらう。荷物をまとめておけ」
――もう、ここには戻れない。
そう思った瞬間、胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。
きっと、あの人とも、二度と会えない。明日が、最後だ。ちゃんと、お別れを言わなくては。そう心に決めて、私は布団に入った。
***
明くる日。
いつもの時間、いつもの場所。桜の下で、いつも通りのたわいもない会話を交わす。
この時間が、たまらなく好きだった。願わくば、このまま時が止まってしまえばいいと、何度思っただろう。
けれど、奇跡は起こらない。無情にも時は流れ、別れの気配が近づいてくる。
――言わないと。せめて、君にだけは。
「あのね、私。聞いてほしいことがあって」
声が震えないよう、努めて明るく切り出す。うまく喋れているだろうか。
「うん、なぁに」
彼は変わらない調子で、先を促した。
「―――結婚相手が、決まったの」
「…そっか、どんなひと?」
彼の表情は、前髪で隠れていて、こちらからはよく分からなかった。
「私に興味のないひと。……ちょうどよかったの、きっと」
自分に言い聞かせるように、そう答える。
「ふぅん」
短い相槌。なんだか妙に胸に刺さる。
「だからね、私……来週には、ここを出るの。君とも、もう会えないと思う」
俯いたまま、それ以上は言えなかった。これ以上何かを口にすると、ずっと隠してきた言葉が溢れてしまいそうで。
「ねぇ」
頭上から声が降ってくる。
「それで、いいの?」
思わず顔をあげると、いつもの調子の彼がこう続ける。
「最後くらい、ちょっとしたワガママなら聞いてあげようか?」
その言葉に、秘めていたものが決壊する。
「じゃあ、ひとつだけ―――――」
一度、息を吸う。
「私ね……結婚するなら、きみが良かった」
それを聞いた彼は一瞬だけ、目を見開いて。それからすぐ、いつもの調子に戻った。
「……そんなの、聞かなかったことにできないでしょ」
それってどういう、と言葉を紡ぐことは叶わなかった。
桜の花びらが舞う中、影がひとつに重なる。
しばらくして、影がふたつに戻り。彼がふと口を開く。
「今なら、まだ戻れるけど」
軽い前置きみたいに言って。でも、視線は逸らさない。
「じゃあ―――――――逃げちゃおうか」
冗談めいた口調だった。けれど、その目はちっとも笑っていなかった。
私は、その意味をすぐに理解してしまった。
桜の季節が終わる頃、私の居場所は、もう―――ここではなくなっていた。
結婚が決まった、とお父様から告げられたのは、夕餉の後だった。
相手はどんな人かと尋ねれば、「お前が望んでいた、不干渉の相手だ」とだけ。それは確かに、私が求めていた最低ラインの条件であった。
古文を読んでいても、奇異の目を向けない人。私の世界に、無理に踏み込んでこない人。
だから、文句はなかった。これでいいのだと、自分に言い聞かせた。
両親も、妹も、皆が私を心配している。今でさえ行き遅れているというのに、これ以上気を揉ませるわけにはいかない。
了承した私に、お父様は淡々と続けた。
「急な話だが、来週には向こうへ行ってもらう。荷物をまとめておけ」
――もう、ここには戻れない。
そう思った瞬間、胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。
きっと、あの人とも、二度と会えない。明日が、最後だ。ちゃんと、お別れを言わなくては。そう心に決めて、私は布団に入った。
***
明くる日。
いつもの時間、いつもの場所。桜の下で、いつも通りのたわいもない会話を交わす。
この時間が、たまらなく好きだった。願わくば、このまま時が止まってしまえばいいと、何度思っただろう。
けれど、奇跡は起こらない。無情にも時は流れ、別れの気配が近づいてくる。
――言わないと。せめて、君にだけは。
「あのね、私。聞いてほしいことがあって」
声が震えないよう、努めて明るく切り出す。うまく喋れているだろうか。
「うん、なぁに」
彼は変わらない調子で、先を促した。
「―――結婚相手が、決まったの」
「…そっか、どんなひと?」
彼の表情は、前髪で隠れていて、こちらからはよく分からなかった。
「私に興味のないひと。……ちょうどよかったの、きっと」
自分に言い聞かせるように、そう答える。
「ふぅん」
短い相槌。なんだか妙に胸に刺さる。
「だからね、私……来週には、ここを出るの。君とも、もう会えないと思う」
俯いたまま、それ以上は言えなかった。これ以上何かを口にすると、ずっと隠してきた言葉が溢れてしまいそうで。
「ねぇ」
頭上から声が降ってくる。
「それで、いいの?」
思わず顔をあげると、いつもの調子の彼がこう続ける。
「最後くらい、ちょっとしたワガママなら聞いてあげようか?」
その言葉に、秘めていたものが決壊する。
「じゃあ、ひとつだけ―――――」
一度、息を吸う。
「私ね……結婚するなら、きみが良かった」
それを聞いた彼は一瞬だけ、目を見開いて。それからすぐ、いつもの調子に戻った。
「……そんなの、聞かなかったことにできないでしょ」
それってどういう、と言葉を紡ぐことは叶わなかった。
桜の花びらが舞う中、影がひとつに重なる。
しばらくして、影がふたつに戻り。彼がふと口を開く。
「今なら、まだ戻れるけど」
軽い前置きみたいに言って。でも、視線は逸らさない。
「じゃあ―――――――逃げちゃおうか」
冗談めいた口調だった。けれど、その目はちっとも笑っていなかった。
私は、その意味をすぐに理解してしまった。
桜の季節が終わる頃、私の居場所は、もう―――ここではなくなっていた。
