長め

 満たされているはずなのに心が渇いて仕方ない。訓練は真面目にこなしているつもりだった。成績もいいし何かに気を取られてミスをすることもなかった。だが、常に心の奥の何かが満たされない。それは照りつける日差しの下で砂漠を歩き続けるような、そんな苦しさだった。目的地は見えなく自分がどこへ向かって歩いているのかすら分からない。ただ漠然と足を進めていく。本当にこの道で合っているのか、それすらも分からない。
 僕がこんなにも激しい渇望を覚えているのには心当たりがあった。それはジララ様のことだった。僕はあろうことかジララ様に心を寄せていた。そう気付いたのは最近のことだった。訓練には集中できるが、終わった途端頭の中をジララ様が支配してきた。考えようと思わなくとも僕はいつもジララ様のことばかり考えていたのだった。勿論手の届く相手ではない。早めに諦めてしまったほうが気が楽だと何度も自分に言い聞かせた。だが、できない。感情を捨てろとさえ言われているというのに僕はジララ様に恋焦がれていた。行き場のなくした愛情が今日も心の中を彷徨っていた。
 他のことが満たされればと思い、意識を別の方向へ向けたりもした。部屋をピカピカになるまで掃除したり、ひたすら読書に耽ったり。それでもジララ様は容赦なく僕の前に現れた。そして分かったのは他のことが満たされようがジララ様がいない限り僕は満たされることはない、ということだった。ジララ様がいて欲しい箇所が空いていて心は寂しく悲鳴を上げた。
 幸い、訓練には集中できた。成果が上がればジララ様に褒めて頂けるということもあり、僕は日々技を磨いていった。訓練が終わるとぷつりと集中力の糸が切れ些細なことにイライラした。自分の無力さ。こんなにもジララ様に恋焦がれていることが情けなくてたまらない。感情がピリついているのが自分でも分かって自己嫌悪に陥った。食堂で食事を摂っていても誰も僕と同じテーブルには座りたがらない。不機嫌なオーラが出ているのだろうと肩身が狭く感じた。恋に恋するなどよく言ったものだ。恋など、何が楽しい。今にもジララ様への秘めた思いが爆発しそうになる。このまま思いが溢れてしまったらジララ様はどんな顔をするのだろう、そして僕はどうなるのだろう。
 低い声を思い出すだけで胸が震えた。ジララ様の顔を見るだけであの胸に飛びつきたくなる。金属の手に触れてみたい。いつでも名前を呼んで欲しい……。
「ゼロロ」
 と、その時僕が求めている声がした。自室の戸を叩く音。僕は慌ててドアを開ける。そこにはジララ様が立っていた。
「提出期限が切れているぞ」
 ジララ様が僕に見せたのはいつかの書類だった。
「す、すみません。すぐに提出します」
 僕は机の上に置かれていた白紙の書類を手に取る。ペンで書き殴るように書くべき項目を埋めていった。
「珍しいな」
 ジララ様はその様子を見ながら呟いた。
「……すっかり忘れていました」
 ジララ様にばかり気を取られた結果がこれだ。提出期限など気にもしていなかった。
「疲れているのか、それとも悩みでも」
「い、いえ、特には」
 僕は書類をジララ様に手渡した。申し訳ありません、と頭を下げた。ジララ様は書類に目を通す。そして指で紙をトントンと叩いた。
「これは正しいと言えるのか」
 ジララ様は紙を僕に見せつけた。それはストレスに関するアンケートだった。
「最近貴殿の様子がおかしいと報告を受けている」
「気のせいではないでしょうか」
「俺の目を侮るな」
 ジララ様の赤い目が僕の目をじっと見た。暗殺兵術、読心鬼属。僕は頭が真っ白になった。何も考えまいと頭を空っぽにしたつもりだがジララ様の前では何の効果もないだろう。ジララ様は何も言わなかった。ただじっと僕を見ていた。
「……あの」
 僕は何か言おうと口を開いたが続く言葉が思い浮かばなかった。ジララ様はドアに手をかける。姿が半分見えなくなった。
「驕るな」
 そしてそう言い残してドアを閉めた。僕は呆然とその場に立ち尽くした。気分は最悪だった。心を見られるなど誰でもされたくはないだろう。ましてや、恋心など。僕はベッドへ体を倒した。これからどうしたらいいのだろう。どんな顔でジララ様に会えばいいというのだろう。分かってはいたこととはいえ、ジララ様に気持ちが通じることなどない。突きつけられた現実に胸が痛んだ。うら若き乙女の如く僕は悲しみに沈んだ。
 
 翌日食堂へ赴くといつものようにみんなは僕を避けた。誰もいないテーブルで一人でご飯を食べるのが日課になっていた。昨日あのようなことがあって食欲はない。ご飯は味がしなくてただ飲み込むように食べた。背中に受ける視線が痛い。どんよりした重い空気がのしかかる。そこに僕の向かい側に誰かがプレートを置いた。僕は顔を上げる。
「ジララ様!?」
 僕は思わず叫んだ。恥ずかしくなって口を押さえる。
「空いている席に座るのが悪いことか」
 僕は首を振った。そういうことではない。何より昨日の今日だ。彼には気まずいという感情がないというのだろうか。僕はさっさと食事を済ませてこの場を去ろうと思った。だがジララ様によく噛んで食べろと引き留められた。ジララ様は小さく声を発した。
「貴殿のおかしさは俺も前から思っていた」
「……気づいていたのですか」
「アンケートなどただの紙だ」
 形だけのアンケートより生身の会話のほうが相手のことがよく分かる。それは言えている。
「だがストレスは発散しなければ溜まっていく一方だ」
 僕は頷いた。そんなこと言われなくても分かっていた。自分なりに色々やってみた結果がこれだった。
「訓練後俺の部屋に来い」
 ジララ様はそう言った。僕はその言葉を理解するのに時間がかかった。まさか、本当に。僕は声を絞り出して返事をした。か弱い声だった。
 
 訓練後、僕は約束通りジララ様の部屋へ向かった。兵舎の中で最も恐ろしい、黒いドアの部屋。入舎した時以来入ったことはない。廊下を歩くのにも足音を立ててはいけないような気がして、息すら潜めてドアの前に立った。重く黒いドアを引けばそこにはジララ様がいる。僕は息を飲んでドアを引いた。
「失礼いたします」
 ジララ様は大きなデスクの向こうの革張りのソファに腰掛けていた。窓から差す光がジララ様を照らしてる。僕はそっとドアを閉めるとジララ様はこちらを見た。
「アンケートで高ストレス判定が出た」
「高ストレス……ですか?」
「思い当たるだろう」
 思い当たることはあった。ジララ様に見破られた、ジララ様に関することだった。僕は何も言えず俯く。
「俺のことで悩んでいる」
 ジララ様の声が脳に響いた。恥ずかしくてこの場を立ち去りたくなった。
「見ていれば誰でも気付く。だが、感心はしない」
 ジララ様の声が低く唸る。視線は真っすぐに僕を見ているようだった。
「ゼロロよ、こちらを向け」
 僕は顔を上げる。熱い顔が火照っていないよう祈った。ジララ様と目が合った。いつもと変わらない顔。僕は必死に平静を装った。
「俺は感情を捨てろと言いたいところだが、今のお前には無理だろう」
 ジララ様椅子から降り立ち上がると僕の前へゆっくりと歩いてきた。そして僕の顔を覗き込む。
「そんなにも俺が恋しいか」
 僕は直視できず顔を背けた。何も言えない。まるで固められたように体がびくとも動かない。ジララ様の手が僕の顎に触れた。冷たい指先が触れて肩が跳ね上がる。ジララ様はじっと僕の目を見つめた。何を考えているかなどジララ様には暗殺兵術を使わずともお見通しだった。ジララ様は手を離す。僕は何も言えないままジララ様の足元を見ていた。
「何か言え」
 ジララ様の声が苛ついていた。僕は声を絞り出そうとするが上手く出せない。
「……ぁ……」
 見上げるとジララ様の視線が刺さった。赤い目がいつもより威圧的に感じられた。
「も、申し訳ありません」
 咄嗟に出た言葉だった。
「浮ついた気持ちを捨てて真面目に訓練に励みます」
 敬礼した手が震えた。だがジララ様はそうではないと言った。
「俺がいる限りストレスが溜まるか?」
「そんなことは……」
 そう言いかけて思った。確かにそうだった。ジララ様が近くにいるだけで気持ちがふわふわして落ち着かない。今こんな場でも話せることが嬉しいと思っている自分がいる。
「俺を思うな」
「了解しました」
「……それでいい」
 ジララ様は後ろを向くと窓を見上げた。空は雲が夕焼けを隠していた。もうすぐ日が落ちる。夕食の時刻だ。
「食事はしっかり摂れ」
 そう言うと椅子へと足を進めていった。革張りのソファが軋むのを僕は見つめていた。失礼いたしますと敬礼をしてジララ様の部屋を出た。重いドアを閉めて暗い廊下を歩いた。このまま食堂へ向かうつもりだった。食欲は相変わらずないが、食べることも訓練だと教えられている。今は何も考えたくなかった。ただ僕がジララ様を思っていることが露見してしまったという事実を信じたくなかった。どうか夢であって欲しいと願う。目眩がして壁にもたれかかった。きっと幻滅されただろう。だがあの時僕の手に触れた冷たい手。僕は顎に触れてみた。いつか触れたいと思っているあの手が僕に触れたことが夢のように感じられた。見つめる赤い目を思い出すと頭をかきむしりたくなった。今は全てを忘れるために目の前のことに集中するのがいいだろう。食事の時もシャワーの時も無駄なことを考えないように努めた。だがやはり布団に入って目を閉じると頭に浮かぶのはジララ様の姿だった。
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