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 始まりがどういうことだったかなんてもう思い出せなくなってしまった。
 元兄であり元家族であるアーサーに片想いすること三百年弱。もうアーサーに恋なんてするだけ無駄だやめてしまおう、と考えたのは両手の指がいくらあっても足りないくらい。
 だって、どうしたって会話がうまく続かない、お互いによそよそしい態度をとってしまう、会話が続いたって二言三言、最悪俺の独立関係の話になって大喧嘩等々。そんな状況が何十年も続いていたのだ。前向きなヒーローをしてたとはいえ、どこからどう見てもうまくいく要素なんてひとつもなかった。そうなれば俺だって後ろ向きなヒーローにもなる。
 しかしそれでもアーサーに対する気持ちを諦めきれずに、ゆっくりと二人の間にある大きな溝(主に俺の独立関連のことである)を埋めて、ようやくお互いの顔を見て話をするようになったのが百年ほど前。そこから庭の薔薇が咲いたことだとか新作の映画のことだとかの仕事の話ではないことを話すようになるまでまた二十年ほどかかり、アーサーの家に遊びに行くようになり、ちょっとずつ距離を縮めて、恋人同士になったのは今から十年ほど前のことだった。自分でも恐ろしくなるほどの執念深さの末にアーサーと恋人同士になったなと思う。俺はそれくらいアーサーのことを愛していたのだ。少なくともそのときは純粋な気持ちでアーサーのことを愛していた。
 ではこれで全てが幸せ、ふたりは末長く暮らしました、めでたしめでたし、というハッピーエンドになったのは最初の三年ほどだけ。その後は会うたびに些細なことで喧嘩になってしまうようになった。
 元々そんなに性格とか趣味とか好きなものとかが似ているとか、気が合うとかの二人ではないのだ。昔は距離を近づけることを避けていたり、一緒にいる時間が少なかったりしたせいでわからなかっただけだった。多分、お互いにお互いの相性はそんなによくないものだと気付いたのはそう遅くはなかったはずだ。
 アーサーのことを三百年弱愛している俺でさえ二人でいない方がいいのでは、と考えたことは何度もある。アーサーのほうもきっと、少なからずそういったことを考えていたはずだろう。しかし別れなかったのは少ないとは言えない数の喧嘩だとか相性の問題だとかといったこまごまとしたことよりも、俺自身がアーサーのことを愛していた、というような、そういう少し複雑なもののせいだ。アーサーはどう考えていたのかはわからないけれど、一緒にいるには少々厄介な問題がたくさんあったにもかかわらずに、俺と別れずに一緒にいたということは、少なからず俺と同じ気持ちを持っていたのだろう。少なくとも俺はそう思いたい。
 とにかく、俺とアーサーは会う度に些細なことから喧嘩になってしまうようになった。最初は他愛もない普通の恋人同士の会話から、最終的には大抵決まって俺が独立した話になるのだから不思議である。そうして行きついた先の独立した話に入ると、決まってアーサーは「お前は結局裏切るんだ」とか「信じられない」とかいったことを泣きながら言うのだ。こうなると俺も口から出て行く言葉はそうとう酷いものになる。毎度、自分でも言わないようにしようと気をつけているはずなのに、口からひどい言葉が勝手に出て行ってしまうのだからどうしようもない。
 「喧嘩なんてそういうものです。言いたくないことも言ってしまうものですから、そのときはちゃんと後から謝ればいいんですよ」と、俺がアーサーとのことを唯一相談していた東洋の友人は遠い昔に言っていた。けれど、結局俺は喧嘩の度に何日が過ぎても謝ることができずにお互いの気持ちが自然に収まるのを待っていた。今思えば、そういったことの積み重ねから少しずつおかしくなっていったのかもしれない。



 何度目かの喧嘩の最後、俺はアーサーを殴ってしまった。

 途中まではいつも通りの喧嘩だった。違うところといえば、そのときの俺は仕事続きで、久々の休みにアーサーの家を訪ねに行ったことだ。こんなことになるならわざわざ仕事を大忙しで終わらせて来なければよかったとアーサーの言葉を聞きながらぼんやりと考えていたら、いつの間にかに手が出てしまったのだ。どうしてそうなったのかという明確な理由はもうわからない。とにかく俺はアーサーのことを殴ってしまったのだ。
 一度そうしてしまうと不思議なもので、その後も続けてアーサーのことを殴り続けた。頭の片隅にはやめよう、と叫んでいる自分がいるのに、体が全くいうことをきかないのだ。そのうちやめようと思っている自分もいなくなる。最悪だった。
 ようやく俺がふと我に返ると、目の前には頭や鼻から血を流して目をつむっているアーサーがいた。そのときの俺は、目の前のことを見ているだけで精一杯だった。なぜ目の前にどこからどう見ても殴られた後の恋人であるアーサーがいるのかがわからなくなってしまったのだ。それに、なぜ自分の手が痛いのか、血が出ているのかということがわからずにただただ混乱していたのだ。恋人を殴っておいてそれはないだろうと思うが、仕方がなかったのだ。そのときの俺はひどく混乱していた。
「アーサー、アーサー!」
 今がどういう状況なのかようやく把握すると、俺はとにかくアーサーの名前を何度も呼んだ。目の前のアーサーは顔中痣だらけで、所々に血が流れている。その全てが自分がつけたものだ。国だから死ぬことはないかもしれないけれど、もしかしたら、と思うと気持ちだけが焦って乱暴に体を揺すってしまう。ごめんなさいお願い目を覚まして、という気持ちだけが頭の中を支配していた。
 そうこうしているうちに、アーサーはようやく目を開けた。アーサーは、俺を認識すると少しだけ笑った。そうして小さな声で「いいんだよ」と言ったのだ。
 その動作に俺が呆気にとられていると、アーサーは目を細めてまた笑うのだ。いいんだよアルフレッドと。
「いいんだよアルフレッド、お前は俺を殴る権利がある」
 アーサーはとびきりの優しい声でそう言うと、俺の手を取り、起き上がった。
「血が出てるな、今すぐに手当するからいいこにできるか?」
 その言葉を聞いた俺はなんだいそれとも、ふざけないでくれとも、ごめんなさいとも言うことができずに頷いた。それしかできなかったのだ。アーサーの声はそれ以上を望んでいなかったように聞こえたし、ほんとうに俺にはそう言う権利があると思ってしまうほど、優しい声だったのだ。
 そのあとは地獄だった。俺は喧嘩のたびにアーサーのことを殴ってしまうようになってしまった。やめようと思っているのにどうしたって手が出てしまうのだ。しかもアーサーが気絶するまでそれは終わらない。地獄だった。俺は眠ればアーサーを殴る夢を何度も見て、その度に胃の中のものを全部吐き出した。大好きだったハンバーガーもシェイクも、食べればそのまま戻してしまう。食事もうまく取れなくなった、アーサーは怪我が増えて、会議にも腕を吊って出席することも増えた。他の国も不思議がっている。
 もういっそ別れれることが一番のハッピーエンドなのだろうけれど、俺はアーサーを手放すことなんてできなかったし、アーサーも「別れよう」とは言ってこなかったのだ。不思議と。だから俺は週末になるとアーサーの家に行って、今回は絶対に大丈夫と思っているのに、些細なことから喧嘩をして、アーサーのことを殴ってしまう。そして目が覚めたアーサーが俺の手の手当てをするのだ。「大丈夫だよアルフレッド」と言いながら、優しく。その繰り返しだった。

 その日も俺はアーサーのことを殴ってしまっていた。きっかけは多分夕食の話だったような、それとも明日の予定だったろうか、とにかく、始まりなんて些細なことだったのだ。気が付いたら、血まみれのアーサーが目の前にいる。もうだめだった。
「大丈夫だよアルフレッド、なんにも怖いことはないからな」
 いつものようにアーサーの名前を呼びながら体をゆすり、アーサーのことを起こすと、アーサーは優しい声でそう言ったのだ。全然大丈夫ではないのに、大丈夫なふりをして。そうして俺のことを見て優しく笑って、いつもの場所に救急箱を取りに行く。俺のために。
 アーサーが立ち上がる。でも今日は黙ってその行動を見るだけじゃない。今日は心に決めたことがあったのだ。近くに置いていた鞄から銃を取り出す。アーサーは驚いたような顔でそれを見た。
「もう、俺は君のそばにいるのはだめだと思うんだ」
 手に持っていた銃を自分の頭に向ける。アーサーは俺のその動作を黙って、でも目を逸らさずにじっと見つめている。
「ごめんね、アーサー」
 世界が反転する前に見たアーサーの顔は、不思議と笑っていた。 



 壁や床をふき、捨てるものは捨てて、何事もなかったように元に戻す時間は嫌いではない。むしろ好きな時間だ。
 アルフレッドが死んだ。これで三回目だ。国だからちゃんとは死ねないけれど、次に目を覚ましたときに俺と付き合っていたことは忘れるというのは最初でわかっている。それは俺にとって好都合だった。それはそれは、とても。
 俺はアルフレッドのことを憎んでいる。理由は簡単、アルフレッドのことをたいそうかわいがって育てたはずなのに俺を裏切って独立したからだ。それっぽっちの理由で、と思うかもしれないが、俺にとっては重大すぎる出来事なのだ。あいつが独立したことは、それはもう。独立されたばかりの頃はただただ悲しくて思い出しては泣き、吐き、飯を食べることすらままならなかったほどだ。それが数年続き、その悲しみはいつしか憎しみに変わっていった。どうすればあいつを同じ目に合わせることができるか、そればかりを考えるようになってしまった。
 俺はずっとアルフレッドにどうやって復讐をしようか考えていたのだ。
 でもなかなかきっかけがつかめない。友人になって裏切るだけでは俺の気持ちがおさまらない。それよりももっと大きな傷をつけなければ。アルフレッドの恋人を寝取ってしまうとか、そしてそのことをばらしてみるとか、いろいろと考えた。そう考えているときだった。アルフレッドが俺のことを恋愛の意味で好いていると気付いたのは。
 それはもうこちらとしては好都合だった。好かれているなら、いっそアルフレッドの恋人になってしまおうと思ったのだ。それで、アルフレッドが俺を殴ってくるように仕向けようと思いついたのだ。アルフレッドはヒーロー気取りのハッピーエンド主義者だから、恋人を殴るなんてことをしてしまったらきっと苦しむだろう。でもまさか自殺をするなんてことは思いもよらなかったことだったけれど、それはそれでいいことだった。だってアルフレッドはそこまで追い込まれたという証だったからだ。俺によって、追い込まれたのだ。
 床に敷いていた絨毯やソファーのカバーやらをまとめて庭に出す。このままゴミとして出すと、血もついているだろうし怪しまれる可能性もあるので、いつも庭で燃やしているのだ。ここは郊外の家なので近所に住宅もないし、まあ大丈夫だろう。
 マッチを使って血の付いた布に火をつけると、ふと、自分が泣いていることに気が付いた。頬を伝うその水滴に触れる。それはまぎれもなく自分の涙だった。こんなこと今までなかったのに、どうして。涙の理由はわからないまま、俺は目の前の炎を眺めていた。

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