短編
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リビングの床の上に割れた硝子の破片が散乱していた。
カーテンの隙間から漏れる朝陽に照らされ、きらきらとか細い光が反射している。
―――――昨日の晩、夫と派手に喧嘩をした痕跡だ。
私はぎゃんぎゃん泣き喚いたあと、疲れてソファにもたれたまま眠ってしまったようだ。
ソファの上から砕け散った欠片をぼんやり見下ろす。
あんなに鋭利な物体になる前、それは優しい丸みを帯びたコップだった。
水を受け止め、口にそれを運ぶことのできる器だった。
私はゆっくりと身体を起こし、ふと額に手をやる。
その指先には固まった血が触った。
もうすっかり乾いているけど、傷口はずきりと痛む。
瞬間、昨夜の喧嘩の断片を思い出す。
*
23時35分。
帰宅した夫はいつもより苛立っていて、その苛立ちが伝染して私をいらいらさせた。
交わされる会話には棘が混ざり、次第に険悪になっていく空気。
何がきっかけだったろう………。
くだらない事で言い争いになった。
「うるさい」
そう怒鳴って夫がコップを床に叩きつけた。
彼は私に手を上げない代わりに、そうやって時々、物に八つ当たりをした。
派手な音を立てて飛び散る硝子の破片。
フローリングにも傷がついていた。
その瞬間、私は「あっ」と思わず口を押さえていた。
夫はそれを私が怯えて出した声だと勘違いしたらしい。
「片付けしといて。寝る」
そう言い残して椅子から立ち上がろうとした。
このとき、私は怒りのあまり突進する勢いで夫に詰め寄っていた。
彼が立ちあがりかけたその時、私はシャツの胸倉を掴んで乱暴に引き寄せた。
力任せに引っ張ったせいで、ワイシャツのボタンがいくつか弾け飛んだ。
驚きに目を開いた夫の顔が迫る。
そして、その顔面に思いっきり頭突きした。
ごつんという鈍い音と、自分の頭に走る衝撃。
夫は後ろの椅子も巻き添えにして、大きな音と共に床に転がった。
「………っい」
怒りで息の荒くなった私は、ゆっくりと呼吸をしながら夫を見下ろした。
夫は鼻と唇から血を出していた。
抑えている指の間から赤い液体が流れ落ちていく。
そのとき、自分の額を何かがすっと流れていることに気づく。
はっとして手を当てると、そこには夫の指についてるものと同じ色をした液体がついていた。
夫の歯にぶつかっておでこが切れたらしい。
「お前………」
夫が掌で鼻を押さえながら私を睨みつけた。
「やり返すなら私にしてよ」
「は?」
「物を壊さないで」
額から流れる血がぽとぽととフローリングを汚すのもかまわなかった。
傷はいつか癒える。
でも、割れたコップは元には戻らない……。
すると夫はうんざりしたようにため息をついてから、ゆっくりと立ち上がった。
「ああ。……それが一番清々するだろうな」
そう言って目の前に立った夫は、固く握った拳を私に向かって振り下ろした。
瞬間、私は怖くなって肩を竦ませてぎゅっと目を閉じる。
でも、なかなか痛みはやってこない。
そろりと目を開けると、寝室に入っていく夫の後姿が見えた。
「殴られる根性も無いくせに」
嘲笑交じりに吐き捨てられた台詞は、ぐさりと私の心に突き刺さった。
ばたん。
大きな音と共に閉められた扉。
その音が引き金になったみたいに、噛みしめていた唇から嗚咽が漏れた。
そして時間が経つのも忘れて、わんわんと泣き続けた。
悔しくて、惨めで、悲しくて………。
「三郎のばかやろう」
泣き声と共に吐き出す暴言は、私の心をいっそう悲しくさせるだけだった。
そしてそのまま、泣き疲れて眠ってしまった。
*
寝室に入ると夫はまだ深く眠っていた。
私はまだもやもやする心のまま、夫に近づいていった。
平日の朝。
彼を起こすのは妻の私の役目だ。
別に喧嘩なんて昨夜に限ったことではない、これまでに掃いて捨てるほどしてきた。
こんな風に流血沙汰になったのは初めてだけど。
お互いが顔を合わせると、何かしら気に入らないことがあった。
そしてその「気に入らない」ことを包み隠さずに態度に出してしまうのが、私たち夫婦の最大の欠点であり、そして最大の美点であると私は思っている。
そうは思っているものの、やはり腹が立てば夫が憎らしい。
そもそも、あのコップは特別だった。
私の誕生日にも、クリスマスにも、そして結婚記念日でさえ贈り物一つ買ってこない夫が、なんの記念日でもない平日に買ってきてくれた「私のコップ」だったからだ。
夫の唇みたいに薄くて、脆そうな、硝子のコップ。
夫はそのコップを買って帰ってきた日、会社の同僚と飲んだくれて泥酔していた。
だから、私にコップを買ったことなんて忘れてしまっているかもしれない。
でも………。
私は夫が覚えていることを期待していた。
目立ちたがり屋で自信家の癖に、人一倍恥ずかしがりやな夫が、酔いのどさくさにまぎれてプレゼントしてくれたものだと。
私は喜んで、そのコップを大切にしていたのだ。
――――結局、あのコップは家にある他の食器と同じ扱いを受けたのだけど。
夫の手元に偶然置いてあって、夫は何の躊躇もなくコップを投げつけた。
だから余計に腹が立った。
私の大切なコップは、酔った勢いで買っただけの代物に過ぎないのだと言われたみたいで。
そんな思いを呑み込んで、私は一歩一歩、夫に近づいていく。
夫はとても静かに眠る。
耳を済ませても寝息が聞こえないくらい静かに……。
結婚した当初は、あまりにも静かすぎてそれが怖かった。
毎朝、「まさか死んでるんじゃないだろうか」という不安を抱え、忍び足でベッドに近づき、夫の布団を覗き込んだ。
でも、夫は毎朝ちゃんと生きていた。
そのことに安堵してから、私の一日は始まっていく。
今でもその癖は抜けなくて、まるで寝起きドッキリの仕掛け役みたいな忍び足で、夫の布団に近づいていった。
「………三郎」
ベッドの脇に立って、私は夫の背を揺すった。
「朝だよ」
すると、もぞりと寝返りを打ってから、何か呻きながら起き上がった。
ゆるい癖のついた茶色の髪が、朝陽に照らされている。
夫は脇に立つ私を一目見ると「おはよう」と、ぶっきらぼうに言った。
「おはよう」
私も負けじとぶっきらぼうに言葉を返す。
暫くの沈黙の後、先に口を開いたのは夫の方だった。
「……………ひじき。おでこ、見せて」
「見せて」なんて言っておきながら、視線は私の方へは向いていない。
だから私もそっぽを向いて「別に平気」と、可愛げのない返事をした。
私の予想では、夫はそれ以上のやりとりをすることなく、「あっそ」と言ったきり部屋を出ていってしまうだろうと思っていた。
しかし、予想に反して夫はもう一度「見せて」と言った。
今度は私を見ている。
いつもと様子の違う夫に、私は素直に前髪を上げておでこを出した。
きちんと消毒していないし、まだ固まった血がついているかもしれない。
ベッドから立ち上がった夫は、私のおでこをまじまじと見てから、傷になっていない側のおでこをぺしっと叩いた。
「いたっ!」
大して痛くもないけど、思わずその一言を叫んだ。
叩かれたことにびっくりして見上げると、夫はまるで自分が叩かれたようなショックを受けた顔をしていた。
それから「…最低」とぼそりと呟くと、私の脇を通り抜けてすたすたとリビングへと行こうとした。
だから、その背に向かって私は言った。
「次はうんと頑丈なコップがいい」
すると夫は振り返り、とても渋い顔をして私を見た。
その顔を見て私は確信した、「ああ、覚えていたんだ」と。
夫は「うん」と肯くと、そそくさとリビングへと消えて行った。
*
その夜、夫は“強化ガラス”のコップを買って帰って来た。
なるほど、これなら落としたとしても逆に床がへこむくらい頑丈だ。
私が「ありがとう」と言って受け取ると、夫は何か言いにくそうに口をもごもごさせた。
そのことを不思議に思って考えてみて、私はあることに気がついた。
――――すっかり忘れていたけど、今日は結婚記念日だった。
カーテンの隙間から漏れる朝陽に照らされ、きらきらとか細い光が反射している。
―――――昨日の晩、夫と派手に喧嘩をした痕跡だ。
私はぎゃんぎゃん泣き喚いたあと、疲れてソファにもたれたまま眠ってしまったようだ。
ソファの上から砕け散った欠片をぼんやり見下ろす。
あんなに鋭利な物体になる前、それは優しい丸みを帯びたコップだった。
水を受け止め、口にそれを運ぶことのできる器だった。
私はゆっくりと身体を起こし、ふと額に手をやる。
その指先には固まった血が触った。
もうすっかり乾いているけど、傷口はずきりと痛む。
瞬間、昨夜の喧嘩の断片を思い出す。
*
23時35分。
帰宅した夫はいつもより苛立っていて、その苛立ちが伝染して私をいらいらさせた。
交わされる会話には棘が混ざり、次第に険悪になっていく空気。
何がきっかけだったろう………。
くだらない事で言い争いになった。
「うるさい」
そう怒鳴って夫がコップを床に叩きつけた。
彼は私に手を上げない代わりに、そうやって時々、物に八つ当たりをした。
派手な音を立てて飛び散る硝子の破片。
フローリングにも傷がついていた。
その瞬間、私は「あっ」と思わず口を押さえていた。
夫はそれを私が怯えて出した声だと勘違いしたらしい。
「片付けしといて。寝る」
そう言い残して椅子から立ち上がろうとした。
このとき、私は怒りのあまり突進する勢いで夫に詰め寄っていた。
彼が立ちあがりかけたその時、私はシャツの胸倉を掴んで乱暴に引き寄せた。
力任せに引っ張ったせいで、ワイシャツのボタンがいくつか弾け飛んだ。
驚きに目を開いた夫の顔が迫る。
そして、その顔面に思いっきり頭突きした。
ごつんという鈍い音と、自分の頭に走る衝撃。
夫は後ろの椅子も巻き添えにして、大きな音と共に床に転がった。
「………っい」
怒りで息の荒くなった私は、ゆっくりと呼吸をしながら夫を見下ろした。
夫は鼻と唇から血を出していた。
抑えている指の間から赤い液体が流れ落ちていく。
そのとき、自分の額を何かがすっと流れていることに気づく。
はっとして手を当てると、そこには夫の指についてるものと同じ色をした液体がついていた。
夫の歯にぶつかっておでこが切れたらしい。
「お前………」
夫が掌で鼻を押さえながら私を睨みつけた。
「やり返すなら私にしてよ」
「は?」
「物を壊さないで」
額から流れる血がぽとぽととフローリングを汚すのもかまわなかった。
傷はいつか癒える。
でも、割れたコップは元には戻らない……。
すると夫はうんざりしたようにため息をついてから、ゆっくりと立ち上がった。
「ああ。……それが一番清々するだろうな」
そう言って目の前に立った夫は、固く握った拳を私に向かって振り下ろした。
瞬間、私は怖くなって肩を竦ませてぎゅっと目を閉じる。
でも、なかなか痛みはやってこない。
そろりと目を開けると、寝室に入っていく夫の後姿が見えた。
「殴られる根性も無いくせに」
嘲笑交じりに吐き捨てられた台詞は、ぐさりと私の心に突き刺さった。
ばたん。
大きな音と共に閉められた扉。
その音が引き金になったみたいに、噛みしめていた唇から嗚咽が漏れた。
そして時間が経つのも忘れて、わんわんと泣き続けた。
悔しくて、惨めで、悲しくて………。
「三郎のばかやろう」
泣き声と共に吐き出す暴言は、私の心をいっそう悲しくさせるだけだった。
そしてそのまま、泣き疲れて眠ってしまった。
*
寝室に入ると夫はまだ深く眠っていた。
私はまだもやもやする心のまま、夫に近づいていった。
平日の朝。
彼を起こすのは妻の私の役目だ。
別に喧嘩なんて昨夜に限ったことではない、これまでに掃いて捨てるほどしてきた。
こんな風に流血沙汰になったのは初めてだけど。
お互いが顔を合わせると、何かしら気に入らないことがあった。
そしてその「気に入らない」ことを包み隠さずに態度に出してしまうのが、私たち夫婦の最大の欠点であり、そして最大の美点であると私は思っている。
そうは思っているものの、やはり腹が立てば夫が憎らしい。
そもそも、あのコップは特別だった。
私の誕生日にも、クリスマスにも、そして結婚記念日でさえ贈り物一つ買ってこない夫が、なんの記念日でもない平日に買ってきてくれた「私のコップ」だったからだ。
夫の唇みたいに薄くて、脆そうな、硝子のコップ。
夫はそのコップを買って帰ってきた日、会社の同僚と飲んだくれて泥酔していた。
だから、私にコップを買ったことなんて忘れてしまっているかもしれない。
でも………。
私は夫が覚えていることを期待していた。
目立ちたがり屋で自信家の癖に、人一倍恥ずかしがりやな夫が、酔いのどさくさにまぎれてプレゼントしてくれたものだと。
私は喜んで、そのコップを大切にしていたのだ。
――――結局、あのコップは家にある他の食器と同じ扱いを受けたのだけど。
夫の手元に偶然置いてあって、夫は何の躊躇もなくコップを投げつけた。
だから余計に腹が立った。
私の大切なコップは、酔った勢いで買っただけの代物に過ぎないのだと言われたみたいで。
そんな思いを呑み込んで、私は一歩一歩、夫に近づいていく。
夫はとても静かに眠る。
耳を済ませても寝息が聞こえないくらい静かに……。
結婚した当初は、あまりにも静かすぎてそれが怖かった。
毎朝、「まさか死んでるんじゃないだろうか」という不安を抱え、忍び足でベッドに近づき、夫の布団を覗き込んだ。
でも、夫は毎朝ちゃんと生きていた。
そのことに安堵してから、私の一日は始まっていく。
今でもその癖は抜けなくて、まるで寝起きドッキリの仕掛け役みたいな忍び足で、夫の布団に近づいていった。
「………三郎」
ベッドの脇に立って、私は夫の背を揺すった。
「朝だよ」
すると、もぞりと寝返りを打ってから、何か呻きながら起き上がった。
ゆるい癖のついた茶色の髪が、朝陽に照らされている。
夫は脇に立つ私を一目見ると「おはよう」と、ぶっきらぼうに言った。
「おはよう」
私も負けじとぶっきらぼうに言葉を返す。
暫くの沈黙の後、先に口を開いたのは夫の方だった。
「……………ひじき。おでこ、見せて」
「見せて」なんて言っておきながら、視線は私の方へは向いていない。
だから私もそっぽを向いて「別に平気」と、可愛げのない返事をした。
私の予想では、夫はそれ以上のやりとりをすることなく、「あっそ」と言ったきり部屋を出ていってしまうだろうと思っていた。
しかし、予想に反して夫はもう一度「見せて」と言った。
今度は私を見ている。
いつもと様子の違う夫に、私は素直に前髪を上げておでこを出した。
きちんと消毒していないし、まだ固まった血がついているかもしれない。
ベッドから立ち上がった夫は、私のおでこをまじまじと見てから、傷になっていない側のおでこをぺしっと叩いた。
「いたっ!」
大して痛くもないけど、思わずその一言を叫んだ。
叩かれたことにびっくりして見上げると、夫はまるで自分が叩かれたようなショックを受けた顔をしていた。
それから「…最低」とぼそりと呟くと、私の脇を通り抜けてすたすたとリビングへと行こうとした。
だから、その背に向かって私は言った。
「次はうんと頑丈なコップがいい」
すると夫は振り返り、とても渋い顔をして私を見た。
その顔を見て私は確信した、「ああ、覚えていたんだ」と。
夫は「うん」と肯くと、そそくさとリビングへと消えて行った。
*
その夜、夫は“強化ガラス”のコップを買って帰って来た。
なるほど、これなら落としたとしても逆に床がへこむくらい頑丈だ。
私が「ありがとう」と言って受け取ると、夫は何か言いにくそうに口をもごもごさせた。
そのことを不思議に思って考えてみて、私はあることに気がついた。
――――すっかり忘れていたけど、今日は結婚記念日だった。
