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長編

どのくらい立ち尽くしていたのだろう。ロウルサーブと人間の戦闘は既に始まっている。沙姫はその場から伝わる闘志に怖さを感じ、動けないでいた。

「どどど、ど、どうしよう…?」

あたふたしていても変わらない。戦闘は続いている。ウルフを探した。どこにも見当たらない。プロースやキインは見当たるのだが、どうしてもウルフだけが見当たらない。

「ウルフ…ウルフを探さなくちゃ。」

とは言いつつ、戦闘の場所に出る勇気がない。ポーチを開けて、中のクリソプレーズをちらっと見た。使う時なのだろうか?けれど、勇気はきっと、自分だけでもなんとかなる。そう思って、クリソプレーズを少し握るだけにした。ほんの少し、勇気が湧いてきた気がする。

「…行かなきゃ。」

沙姫は、戦闘の場に飛び出した。幸い、戦いに夢中で、誰も自分の存在に気づかない。頑張って避けてかいくぐると、ウルフは群れや戦闘をそっちのけにして、白衣を着た人間に近づいていた。白衣の人間達はウルフを見つめながら、ゆっくりと後退りしている。このままでは用心棒の甲斐虚しく、人間が食べられてしまう。なんとしてもそれはやめて欲しかった。

「待って、ウルフ。」

「…何だ!」

明らかに苛立った唸り声を出し、ウルフは沙姫に牙を向ける。沙姫は一瞬怯んだが、なんとか魔物向けに納得のいく言葉を選び抜いた。

「自分だけ抜け駆けするのはよくないと思う…キインが怒るよ。」

「…それもそうか。」

納得したようで、ウルフは戦闘に戻っていく。ほっとしたのも束の間、そうじゃないと沙姫は気づいた。

「私は、人間を殺さないで欲しいのに。」

「貴方は…人間よね?」

「えっ?」

声に振り向くと、美しい茶色のポニーテールを背中まで垂らした眼鏡の女性が立っていた。白衣を着ているので、この人も何らかの研究者か、医者か。沙姫は用心棒のことも気になって、急いで言った。

「人間です…あっ!」

用心棒の方へ向いた時、既にロウルサーブに怪我をしているものがいた。沙姫は咄嗟にウルフを連想し、思い切り叫ぶ。

「キイン!もう怪我人…魔?が、出てるよ!これじゃあフェミリーを相手する時、体力的にきついよ!」

「うるさい小娘!非戦闘力員は引っ込んでな!」

「う、ううーん…!」

キインは聞く耳を持たないようだ。というより、魔物としては最もなことを言われてしまい、どうすればいいのかと思案する。

(魔物が聞かないなら…!)

沙姫は、息を大きく吸った。今度は、用心棒二人にだ。

「すみませーん!あまり、その魔物達を傷つけないで下さーい!」

「そりゃあ無理ってもんだぜ!こいつら相手にそんなことできっかよ!」

「倒していいとか素材にしていいとか言ったのそっちだろ!」

(…なんか勘違いされてる。)

この状況の打破が望めない。二人は強く、何回かロウルサーブの噛みつき攻撃を振り払っている。ロウルサーブの方も少し手こずっていて、血を流しているものも多かった。説得のための嘘が、そろそろ本当になってきている。キインも苦しいのか、表情には出さないが動きが鈍くなってきた。プロースさえ、視界の隅で今、武器の攻撃を食らったところだった。沙姫はもう一度キインに叫ぶ。

「戦況的に不利だよ!このままフェミリーの相手までできない!今日は帰ろう、ねえ!」

「後もうちょっとなんだよ!」

キインはどうしても狩って帰るようで、聞く耳を持たない。沙姫は基地の存在を思い出し、声を荒げた。

「フィンとズルバーだけの基地を放っておけないよ!」

「あいつも魔物!子供一匹ぐらい守れるってもんさ!」

「う、くぅぅ…!」

沙姫は、戸惑う。白衣の人間達を見やった。自分の挙動を窺われているような、警戒されているような。眼鏡の女性は再び沙姫に話しかけた。

「貴方は…何者?」

「…私は…。」

言いかけて、答えに迷った。ただの人間だというのは分かっている。恐らく欲しい答えは、人間の味方か、魔物の味方かであろう。沙姫は、ウルフを見た。魔物らしく、傷ついて戦っている。用心棒を見た。二人は疲弊している。ロウルサーブ全体を見た。ここに流れた血は、殆どロウルサーブのものだった。

「…私は…。」

どちらの味方にもなりたい。沙姫は、頭を抱え込んだ。ウルフの傷ついた姿。用心棒達の傷ついた姿。白衣の人間達が傷ついた姿。どれも、嫌なものだった。かといって、これからフェミリーとも一戦あるかもしれない。沙姫の頭の中の整理はつかなかった。

「私は…!」

「くっ!」

ウルフの声が聞こえた。用心棒を目の前にして片目を瞑っている。その片目からは、血が伝っている。

「あ…。」

血だと、理解した。別に何も思わなかった。魔物が傷つくのは当たり前だった。用心棒は、腕から血を流していた。別に何も思わなかった。そんな自分の気持ちに気づく。

「…あは、ははは…。」

なんて自分は醜いのだろう。アメトリンはこの感情を何かからの挑発とは見なしていない。これは明らかに自分の感情、自分の気持ちだった。

「私は…!」

自分の中から、石を感じた。テクタイトの存在を感じた。攻撃力があがる石だったか。沙姫は深く考えず、地を蹴った。

「私は、私の、味方だあっ!」

「さ…沙姫!?」

ウルフは、見たこともない沙姫の様子に怯み、尻尾を入れた。匂いは怒っているが、辛そうに笑っている。人間とは思えぬ勢いで走ってきた沙姫は用心棒の横をすり抜け、ウルフに素早く跨った。沙姫の体から、強い力を感じる。テクタイトの力だと分かったのは、一度受けたことがあったからだった。

(あの時よりも弱いな…沙姫の中にあるからか。)

ウルフは、無事である片目で目の前の人間を見据えた。人間は、沙姫の様子を窺っている。沙姫の匂いは、怯えていた。

「ウルフ、人間って勝手だよね。私、ウルフが怪我しても何とも思わなかったよ。」

「それがどうした?当たり前だろう。」

「…だよね!当たり前だよね!」

沙姫の言葉の意味が分からない。しかし、沙姫は泣いていた。笑っているが、泣いていた。ウルフは、沙姫の中のテクタイトから力を感じていた。

(この力なら、狩れるな。)

そう思い、ウルフは耳をくるりと回す。それを見た沙姫は、さらに笑った。

「私はこの戦いに意味がないと思うんだ。目的はフェミリーだよね?人間じゃない。でもどうして続けるの?ここに流れた血は殆どロウルサーブのだよ!」

「…確かに、一理あるな。」

プロースが沙姫とウルフに近づく。周りを見ると、殆どが戦いをやめていた。用心棒も二人集まり、話している。こちらの動向が気になるのだろう。そう判断した沙姫は、キインに向かって叫んだ。

「キイン、どうする!?」

「…そうだねえ。」

キインは、周りの状況を確認した。鼻を動かし、耳を回し、目で見回す。そして沙姫を見て、こう言う。

「だけどもこいつら、アタイの好みなんだよ。」

その発言をきっかけに、ロウルサーブ全員がまた用心棒に飛びかかる。沙姫は、ウルフにしっかりつかまった。

(もう…止められない!)

沙姫は、考えた。自分が、人間が殺される所を見るのが嫌なのだ。見ていなくても殺した事実があるのは嫌なのだ。ウルフが傷つくのは嫌なのだ。全部、自分のわがままだった。

(…でも…本来は、ウルフだって、人間を食べている。)

自分に出会う前、ウルフだって、人間を食べていたはずだ。沙姫はそこで、本当に自分が嫌がっていることが何であるかに気づく。それも、わがままだった。

(ウルフに人間を食べて欲しくないんだ。私が、ウルフを好きだから。)

「…沙姫?」

用心棒の腕に噛み付いたウルフは、噛んだまま話しかけた。背中にいる少女の匂いが、ころころ変わっていく。用心棒は武器を振り回し、足で蹴りだし、抵抗する。沙姫は、震えた声でウルフに尋ねた。

「…ねえウルフ。」

「む?」

「…人間って、どんな味?」

「……。」

少女の表情は匂いと同じになったが、瞳の色は生きていない。ウルフは答えず、用心棒の腕を放して駆空する。そして、キインを見下ろして叫んだ。

「キイン!どうも沙姫の様子がおかしい!」

「…ちぃっ。」

キインの舌打ちは大きかった。毛を逆立て、かなり怒った様子で空に吠える。

「テクタイトにやられてんだよ!安全な所で石を出してやんな!あの石は力の代わりに思考をおかしくするからねえ!」

「…なるほど、そうか。」

ウルフは背中の匂いを嗅いだ。確かに、自分の中にテクタイトがあった時、沙姫を食べていた。沙姫の中にある時、沙姫は泣きながら笑っていた。現に今、抜け殻のような瞳から涙を流している。

「……沙姫。」

背中の返事はない。匂いは、酷く湿っぽい。不意に、声がした。

「私…どうしたらいいんだろう…ねえ、どうしたらいいのかな…?」

テクタイトの力は、衰えない。沙姫は、懸命に石の力を抑えているようだった。ウルフは、尻尾を振る。沙姫は人間なのだが、同時にロウルサーブでもあるのだ。ウルフは、深く息を吐き、地を見下ろした。皆が、戦っている。

「…人間は。」

「…え?」

ぽつりと、答える。沙姫が聞き返した時、ウルフは背中に振り向いた。沙姫の顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。辛うじて、自分の姿が見えているようだった。

「人間は、美味い。だが最近は、とても不味い。」

片目を開ける。もう痛くはない。案の定、沙姫は驚いた。その表情に、苛立ちを感じる。毛を逆立て、ウルフは沙姫に牙を見せた。

「人間からの傷など浅い。すぐ治る。俺達は魔物だ。見くびるな!」

「…ごめん、ウルフ。」

次に沙姫は、にっこりと笑った。瞳も色づき、光が戻る。涙を拭い、ウルフの頭を撫でた。ウルフは、尻尾を不機嫌に揺らした。それを知ってか知らずか、沙姫は言う。

「用心棒さん達に死んで欲しくないなぁ。だって私、人間だもん。人間が魔物にやられるのは嫌だよ。」

「だが、人間は美味い。」

「そうなんだよね。フェミリーと人間だと、人間の方が美味しいのかな。」

「分からん。」

「えっ?」

沙姫は、テクタイトの存在が薄くなるのを感じた。逆に、アメトリンの光を感じる。その動きに、沙姫は安心した。やはり、挑発であったのだ。そう思っていると、ウルフは考え込むように言った。

「グラントフェザーは、大きいから量があっていいが、味は人間に劣る…しかし前に、フェミリーを食べたことのある長老が、味は人間よりも美味いと言っていたな。」

「えっ、食べたことあるの?」

沙姫は驚き、ウルフを見る。尻尾は、楽しそうに揺れていた。

「これから喰うのが、楽しみだ。」

「……。」

自分は魔物を知ったつもりでいた。けれど、まだまだ知らなかった。フィンは生まれたばかりなのに、1日で目が開き、牙も生えた。ウルフは目から血を流したのに、今ではもうなんともないように目を開けている。常識では考えられない事の連続に、沙姫は、諭すように言葉を発した。

「流石、魔物だね。」

「何を言っている?いいから早く石を出せ。」

「……うん。」

今思うと、自分が自分でない気がしていた。沙姫は意識を集中して、テクタイトの存在を感じる。こんなもの、中に入れておきたくはない。外に取り出し、手のひらに乗せた。光は淡い。あってないような力をふるいたくなる。その石を見つめていると、自分がまたおかしくなるような気がして、すぐにポーチへ放った。

「…もう大丈夫、多分。」

「降りるぞ。」

「…うん。」

ウルフの暖かい背中につかまる。下では、用心棒の一人が白衣達の側にいた。ウルフはキインの側に降りて、事を伝える。

「石を出した。」

「…ったく、手間がかかるね、この小娘は!」

キインは沙姫を睨み、すぐに用心棒へ体を向ける。用心棒は、得物を構え、ぽつりと呟いた。

「…嬢ちゃん、敵だな」

「えっ…?」

用心棒の目つきが変わったかと思えば、用心棒の足元に何やら丸い光の絵が描かれた。よく見ると、色々ごちゃごちゃ書いてある。

「…えっ?え?」

妙に見慣れた気がするその丸い光の絵は、段々大きくなっていく。それを見たロウルサーブ達は、警戒して皆離れる。キインすら、尻尾を足の間に入れた。

「こいつは…!皆、逃げな!」

キインが一吠えすると、弾かれたように逃げ出すロウルサーブ。沙姫はその丸い光の絵をじっと見つめていたが、ややあって、合点が行く。

「魔法陣だ…流石ファンタジー。」

沙姫が言うが早いか。光は辺りを包み込み、大きな爆発を巻き起こした。目を瞑っても光は眩しく、爆音は耳に突き刺さる。

「み、耳が…目が…。」

「…ばかな!?」

用心棒達が狼狽える声で、沙姫は目を凝らして周りを見た。ロウルサーブは傷一つなく、自分達がいた所から後ろは、いつも通りに金色の草が揺れていた。用心棒達がいるところの草は黒く焦げてなくなっている。不思議な現象への理解が追いつかず、沙姫は混乱した。

「な、何が…?」

「…十字石の匂いがする。沙姫、中に入れたのか?」

「えっ?…あっ。」

ウルフの言葉で思い出す。基地を出る前、十字石は自分の中に入れた。これはそのおかげなのだろうか。僅かに自分の中で、優しい光を感じる。

「うん、入れたよ。」

その優しい光は、自分の本当の気持ちを教えてくれた。沙姫は誰にも聞こえないように、静かに告げる。

「ウルフ、人間を食べないでね。」

「…最近の人間は不味い。誰が喰うか。」

「…よかった。」

胸を撫で下ろした瞬間、キインが叫ぶ。

「小娘ぇ!!」

「はっ、はい!」

おぞましい声を聞き、咄嗟に震え上がる。キインは尻尾を激しく揺らし、舌なめずりをしてみせた。

「よくやった!!後でアンタにも肉を分けてやるよ!」

「い、いい!いらない!」

「行くよあんたら!もう怖くはないからねえ!!」

「グルォアァアア!!」

キインが駆け出し、他のロウルサーブも駆け出す。沙姫は、自分の本当の気持ちを思いっきり叫んだ。

「逃げてくださーい!用心棒さーん!」

心のある声を聞き、用心棒は顔を見合わせる。眉を顰めたが、互いに頷いた。

「…言葉に甘えよう。最強魔法も効かなかったし分が悪い。俺達の任務は依頼者を守ることだ。」

「…色々気に食わないが、悪くはない。」

人間達は、ポケットから玉を取り出す。その道具を知るウルフがすぐさま駆け出した。

「逃がすか!」

「わっ、ちょ、ウルフ!?」

玉が投げられ、煙が立ち込めるが、ウルフは煙の中へ突っ込み、駆ける。沙姫が後ろを見ると、ロウルサーブは煙を吸って咳き込んでいた。沙姫は、伏せてつかまり、ウルフが走りやすいようにした。ウルフの怒りが背中からひしひしと伝わる。沙姫は戸惑いながら、ウルフに尋ねた。

「どうしたの、ウルフ!?」

「以前これにやられてお前を逃がした。次こそ負けるか!」

「え、ええーっ!?」

つまり、今のウルフは食べるためでも殺すためでもなく、ただの負けず嫌いから人間を追っているのだ。あの時自分をさらった人間への恨みがあるのだろうか。ウルフは速く、すぐに人間の足に追いついた。

「くっ…!」

用心棒がこちらに振り向き、得物を振りかざす。ウルフはそれを意にも介さず、用心棒に襲いかかった。用心棒は仰向けに倒れ、得物を噛ませて抵抗している。

「グゥルルル…!」

「ウルフ、離して!」

「…ふん。」

沙姫が言うと、唸っていたウルフも得物を放して引き下がる。用心棒は、ゆっくりと起き、立ち上がる。そんな時、用心棒の陰から、先程の女性が目を輝かせて集団の前へ出てきた。

「あなた、今のは何!?」

「えっ?」

「ランクAで知能の高いロウルサーブだけど、人間の言うことを聞くなんて!ねえ、どうやってるの?どうしてできるの?教えて頂戴!」

「えっ、えっ?」

女性は美しい茶髪を激しく揺らし、沙姫へ話しかける。用心棒が魔物であるウルフの動きを警戒するが、ウルフは女性の声がうるさいようで、耳を伏せていた。沙姫が返答する前に、女性は次々と言葉を投げかける。

「さっきもロウルサーブと話してたけど、あなたまさか魔物の言葉を理解できるの?何て言ってるの?あなたの名前は?」

「ちょ、ちょっと待ってくだ…わっと。」

「うるさい奴だ。」

不意にウルフがその場に伏せ、耳を後ろに伏せる。その動きに、用心棒も戦闘の構えを解いた。沙姫はウルフに乗ったまま、女性に尋ねる。

「あ、あなたは…誰なんですか?」

「あっと…私の自己紹介がまだだったわね。私の名前はウール。学者よ。魔物の事を研究しているの!」

「魔物のことを…?」

「…余計なことを喋るな。」

「あ…うん。」

ウルフから忠告され、沙姫は頷く。そのやりとりを感じたのか、ウールは黄色い悲鳴をあげた。

「今話したの!?話したのね!?どんなことを話したの!?」

「よ、余計なことを話すなと。」

「ということは…やっぱり!さっきから思ってたけどこれで確信が持てたわ!魔物は人間の言葉がわかるのね!大発見よ!」

一人舞い上がるウールを、呆然と見つめる沙姫。ウールは白衣の胸ポケットから小さな手帳を取り出し、記述する。用心棒の奥から、白衣の人達が控えめに言葉をかける。

「あの、嘘の可能性は考えないんですか?」

「疑う理由がないわ、大丈夫よ。」

「は、はぁ…?」

自信ありげにはっきりと言い切った後、ウールは沙姫に向き直り質問を続ける。

「貴方の名前は?」

「私は、沙姫って言います。」

「沙姫?いい名前ね!」

「…はい。」

いい名前。そう聞いて、沙姫はクリソプレーズをくれたロークアーシャの雄を思い出した。喉元を手で押さえ、沙姫の気分は少し沈みがちになる。今更になって、命を食べて生きていることを感じた。その様子に気づいたのか、ウールは心配そうな表情で沙姫を見る。

「どうしたの?何か嫌なことでも?」

「いえ…大丈夫です。」

「ならいいけれど…。」

「グゥッ。」

「きゃっ!」

ウルフが一瞬牙を見せ、ウールは怯む。用心棒がウールの前に出て、得物を構える。しかしウルフはそれ以上派手な動きをしないようで、大人しくしていた。沙姫が尻尾に目をやると、少し嬉しそうでいる。煙玉に勝った余韻にでも浸っているのだろうか。

「いきなり何なのさ。」

「あの変なロークアーシャの事を思い出した。」

「…私も。」

「しかし、確かに沙姫というのはいい名前だ。」

(…ウルフまで。)

ウルフに言われると、少しくすぐったい。嬉しい反面、同時に言いようのしれぬ感覚が沙姫を襲った。

(…人間のような魔物。)

その単語が頭に浮かんだ時、ウールはまた興奮して沙姫に迫る。

「今度はなんて!?」

「あ、えっと…。」

長くなるし、上手く伝えられない。どうしたものかと困っていると、ウルフがウールを見て言った。

「沙姫というのは、いい名前だ。」

「…ウールさんの考えに、同感だって、言ってます。」

「ええっ!?」

ウールは驚き、ウルフの目を見つめる。ウルフは目をそらし、自分の足に顎を乗っけて退屈そうにした。ウールは突然深刻そうな表情をして、下を向いて考え込む。

「…どうしたんですか?」

「…人間みたいな考え方ね?」

「……。」

沙姫は何も言わなかった。ウールは暫く考えた後、そういえばと顔を上げる。

「フェミリーがどうとか言っていたけど、何をするの?」

「あ、フェミリーへは、質問をしに行こうと思ってるんです。」

「質問?」

「はい。ちょっとわからないことが沢山あるので…フェミリーの巣へ直接。」

「へぇ…フェミリーは温厚だから、あまり刺激しないようにね!」

「え?」

フェミリーの素性はあまり知られていないらしい。喰われそうになった時のことを思い出し、苦笑いになる。ウルフは鼻を鳴らし、苛立ったように言い放った。

「これだから奴らは嫌いだ。沙姫、もう行くぞ。」

「あはは…うん。」

ウルフが立ち上がることで、ウールは別れを惜しむように眉を下げる。少し媚びるように、声を出した。

「もう行っちゃうの?」

「はい、もう行くみたいです。」

「残念…また、会えたらね。」

「…はい、さようなら!」

挨拶などお構いなしに、くるりと向きを変えて駆ける。沙姫は後ろを振り向いて、ずっと手を振り続けた。
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