第三話
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◆
「お前、男でもできたアルカ?」
お遣いの仕事を終えて、癒しの里から虹雅峡第六階層のオンボロ宿へと戻った翌日。
いつものように剣の鍛錬をするため、宿の近くの廃品置き場へ行こうとすると、マスターから呼び止められ、いきなりそう言ってきた。
(何を言っているんだ……コイツは)
俺は眉をひそめて、マスターを見遣る。相変わらず人を馬鹿にしているような顔でふんぞり返っている。
「まあ別に、嘘でも本当でも――どうでもいいアルけどネ」
と、マスターは口髭を指でくるくるといじっている。
「…………」
どうでもいいことなら答える必要はないし、(そもそも)義理もないだろう。鍛錬に行かなくては。
「じゃあな」
「ちょっと待つアル」
「何だよ」
「実際は……どうアルカ?」
「…………」
(いるかどうかなんて、どうでもいいんじゃなかったのか?)
というよりも何故マスターなんかにそんなこと教えないといけないんだ。マスターの存在ごと無視して剣の鍛錬に行くこともできたが、どうして男ができたと聞いてくるのか――その理由が少し気になってしまった。
聞き返してやると、マスターは俺をジロジロと不躾に見た後、自分の首元を指でトントンと軽く叩いて示した。
「お前のここ赤くなっているアルヨ」
「左の方か」
「そこに痛みとか痒みとか、感じないアルカ?」
「別に。どうもしない」
これまで大きな怪我はないし、虫などに刺された覚えはない。示されたところに触れてみたが、特に何も感じなかった。
マスターが一度見てみろヨ、と言うので、どういう風になっているのか、と部屋に戻り、置いてある手鏡で見てみれば――確かに首筋の左側には赤い斑点がいくつもあった。
「……何だ、これ?」
何かの病気か。いつ頃できたのか。記憶にないと首をひねっていると、後方からマスターの「はあ」と息を吐く音が聞こえて、振り返れば頭のできの悪い人を見る目がそこにあった。
「女将へ依頼品を渡す遣いとして癒しの里に行くよう、確かに言ったアルが……何色気づいているアルカ、お前」
「言っておくが俺は刀だ。剣気ならまだしも、色気なんてつけた覚えは、ない」
「それにしても、随分と趣味の悪い男がいるものアルネ。前に薪割りを手伝いに来てもらったおサムライ様も言っていたアルが、こんなお金も無い奴の、自分を刀だと自称する頭がオカシイ奴の、一体どこが良いアルカ?」
「おい」
マスターの言っていることはよく分からないが、俺を馬鹿にしていることだけはよく分かった。
腹は立つが……首筋にあった赤い痣のことを、体の主である自分ではなく、他人であるマスターだけが分かっていることの方が気に入らない。だから――馬鹿にされるのも承知の上で、一体これは何だ、と聞いてみる。
するとマスターはこれまたわけのわからないことを言ってきた。
「その赤い斑点は――俗にいう『キスマーク』って痣アルネ」
「きす……まーく? なんだ、それは? 初めて聞いたぞ」
「まあ、お前みたいに戦いに生きる奴には、あまり縁のないことかもしれないアルが……ある人を自分だけのものにしたいという強い独占欲を示す――男が惚れた女に残す傷跡のことアルヨ」
「……傷跡」
「だから、ワタシ聞いたのヨ。『男できたのか』ってネ。お前、癒しの里で男に抱き着かれたり、噛まれたりしなかったアルカ?」
一瞬、赤い外套を纏った金髪のサムライが頭の中に出てきたが――内なる自分が瞬時に斬ってやった。ざまあみろ。
「全くない」
「嘘アルナ」
「…………」
なぜばれる。視線をそらさずに、まっすぐに見て、間を置くことなく、即答したというのに。
「全く、と強く否定するあたり怪しいヨ。ワタシ、男女に関しての勘はとてもとっても鋭いアルネ」
「……その勘、生きるのに必要なのか?」
当然ヨ、とマスターは鼻を鳴らすと、近くにあった椅子を引き寄せて、腰をかけた。懐から煙管を取り出して、吸い始める。
はあ……と口から煙を吐き出して気持ち良さそうな顔をしているが、あんな煙たいモノを体に取り込むなんて肺をいたずらに傷つけるだけだろうに。一体何がいいのか。俺には理解できないし、するつもりも微塵もないが。
「ワタシがよく通っているバーの女主人から聞いた話と照らし合わせて考えてみても、まず間違いないアルネ」
「…………」
「それは首筋を吸われた後に残る痣アルヨ」
また心地良さそうに煙を吐き出した後、マスターは更に続ける。
「それにワタシの宿に戻ってきた時――お前、首にマフラーを巻いていたじゃないアルカ」
「それがどうした」
「巻いて帰ってください――と、女将から言われなかったアルカ」
「…………」
確かにマスターのいう通りだった。鍛錬の邪魔になる、と部屋の壁にかけてある首巻は桔梗屋の女将からタダでもらったものだ。
◆◆◆◆
マスターからの依頼を果たすために女将の部屋の中へ入った時だった。
「もしかしてシキ様は……女性なのですか?」
と、女将は唐突に言ってきた。
……今更、聞くことなのか。嘘をつく必要はないし、理由もないから素直に答える。
「俺は女だが」
「えええええッ!?」
ひどく驚いていた。そこまで驚くことなのかと思っていると、女将は畳の上に両手をつくなり、大広間でやっていた土下座をここぞとばかりに何度もしてきた。
一体、何を謝る必要があるのかと言えば、キッと挑むような眼で「貴方様は女性ですよ!」と大きな声を上げた。そして両手で顔を覆うと、本当に申し訳ございません、と泣き出す始末。
「…………」
面倒臭い。声を荒げたり、すすり泣いたりと店の仕事以外も忙しない女である。
それにしても「貴方は女性ですよ」なんて面と向かって言われたのはヘイハチとの会話の時以来だ。
女将は、俺の性別が女であるとは知らずに、危険な目に遭わせてしまったことを悔やんでいるようだった。女と知っていれば、キュウゾウ達にサムライとの戦いを任せていた、とか言い出し始めた。
「…………」
それも今更過ぎるだろ。今となっては別にどうでもいいことだが……。
「女将、気にするな」
「え……?」
「言っただろ。俺は刀だ」
無刀流九代目当主鋼音シキは一人の人間でありながら、一本の刀でもある。この世に生を受けてから、一本の刀として――無刀の剣士として、今の今まで生きてきたのだ。
肉体が女性だろうが、病弱だろうが無刀流を継ぐことには関係がない。剣をとらない理由にはならない。 鋼音家に生まれたからには誰一人と例外はなく、皆が一本の刀となり、剣士となり――剣の道を歩んでいくことになるのだから。
女将が気に病むことではない。俺は剣士なのだから――危険な目に遭うのも斬り合いするのも当たり前のことだと伝えてやる。
「そうなのですか……」
「ああ。だから気にするな」
「…………」
完璧に理解ができて、完全に納得ができた――というわけではなさそうだったが、なんとか落ち着きを取り戻せたようであり、最後に改めて「申し訳ございません」と頭を下げる。
そして――それぞれの品物の交換を終えて、女将の部屋を後にする時だった。「お待ちください」と、女将が呼び止める。どうしたと振り向けば、女将は両手にのせた何かを差し出してきた。
「シキ様、これをどうぞ」
「これは?」
「マフラーです」
「マフラー?」
「首巻、ともいいます」
確かに女将の言った通り、冬の寒い時など防寒のために首へと巻くものだった。女将の好みなのか。彼女の羽織と同じ青みがかった紫色だった。
聞けば女将がお手製で編んだものであり、質も良くて桔梗屋の隠れ商品でもあるらしい。
「どうかこれを身に着けてお帰りください」
「悪いが、別にいらない」
寒くも何ともないからと、受け取りを断ったが「せめて宿のまでの帰りだけでもつけてください」と強く勧められて、俺の手元に戻される。そこまでおすすめする程のものなのか?
しかも、金はとらないということだった。商品というならば、金は取るものなのではないのだろうか。ますます怪しい……と思ったが、女将からは、不審な気配は感じられなかった。
ふふふ……と口元に手を当てて、微笑ましいものを見るかのような瞳で俺を見ている。
「シキ様」
「何だ」
「キュウゾウ様と仲がとてもよろしいのですね。もしかしてお知り合いでしたか?」
「……はい?」
何故、唐突に……キュウゾウの名前が出てくるんだ?
「…………」
黙っている俺に、女将は「女中から聞いたのです」と話し始める。女将曰く――桔梗屋は、アヤマロが癒しの里においてのアキンドとの商談のため、何度か利用する店の一つらしく、店に来る度に用心棒として二人のサムライを連れている。
つまり二人のサムライ――キュウゾウとヒョーゴのことは、女将は前から知っていたのであった。
「ヒョーゴ様は愛想がよくて、話しやすかったのですが、キュウゾウ様は……」
「その先、言わなくてもいいぞ……何となく想像がつくしな」
アヤマロの商談が終わるまでの間に、待つだけでは退屈だから、という女将の配慮により、キュウゾウやヒョーゴへ(用心棒の仕事に支障がでない程度の)食事を振る舞ったり、店の女に酌をさせたりしていたらしい。
「その接待の時にキュウゾウ様へ本気に近い好意を抱いた子もおりまして、体をすり寄せたり、夜のお誘いをかけたりしていたようなのです。その結果は……」
「それも言わなくていい……大体、分かる」
キュウゾウという人物を知っているなら誰でもわかりそうだ。桔梗屋で自慢の美人たちに接待させても、奴はいつもの無表情で、無口でいたらしい。
時折、頷きこそするものの――店の女との会話はほぼ全てヒョーゴを通してしたようだ。そんなキュウゾウの愛想の悪い態度が店に来るたびに変わることなく続いたこともあり、彼女達はいつしか奴へ言い寄ったり、近くに寄ったりすることをパタリと止めてしまったらしい。
こんなに懸命に接待してもぽっと照れたり、にこりと笑ったりせず、大した反応も示さない人を相手にしてもつまらない――という自分を納得させる理由をつけて。
「ところがです」
と、女将はそこでパチンと両手を打った。
「あの無口で無表情でいることで有名なキュウゾウ様が、シキ様といる間だけ、会話らしい会話をした、というではありませんか。しかも楽しそうに」
「大げさだろ」
「大げさなことではありません。すごいことなのですよ。当店が自慢する美人娘達では、あの人を喜ばせることは全然できなかったのですから」
「…………」
そんな、世紀の大発見だ! みたいな反応をしなくてもいいのに。心底呆れて言葉も何も言えないでいると
「それに――」
と、女将は更に続ける。
「あの後、キュウゾウ様が大広間を出て、どこかへ行っていたようでしたけど――シキ様のもとにいかれていたのでありませんか」
「…………」
違う、と否定しようとしたが、女将が目を輝かせていることから嘘をついても無意味と判断して、否定はしなかったが、肯定も、しないでおいた。俺の反応から察したのだろう。
女将は「やっぱりそうでしたか」と自分のことのように、嬉しそうにする。
「…………」
他人事なのに何故そうまで喜ぶことができるのか、理解不能。
「シキ様」
「何だよ」
「是非、キュウゾウ様とは仲良くしていてくださいね。桔梗屋女将からの――いいえ、私個人からのお願いです」
「……はあ」
何か色々と誤解されているような気がするが、桔梗屋に来てからというものの、精神的に疲労していたせいなのか。女将の言葉を否定したり、訂正したりする気力が全然起きなかった。
◇
ちなみにキュウゾウ達というと、俺が女将とやりとりするより先に桔梗屋を去っていた。
何故分かるのか、といえば女将がアヤマロ一行を見送るところを出入口近くにある柱の陰に隠れて見ていたからだ。
「アヤマロ様にお怪我が無くて、本当によかったです」
「あれだけ痛い目に遭えば、奴らも懲りるであろう」
「そうですね。……あんな騒動が起こった後でお伝えするのも憚られることではございますが、是非ともまた桔梗屋にいらしてくださいね」
女将の言葉に、虹雅峡差配であるアキンド――アヤマロは贅沢の上に更に贅沢を塗りたくったような太い肉塊を震わせて、当然じゃと笑っていた。
サムライくずれ達に対して、キュウゾウ達の後ろに隠れて、ただ怯えていただけなのに。何もしていないくせに、何故あんな偉そうに振る舞えるのか。
そんなアヤマロの後ろにサムライが二人――キュウゾウとヒョーゴが無表情で立っていた。
何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。分からないが――俺の目には奴らが少なくとも、キュウゾウが退屈しているように映る。
サムライにとっての生きる場所を――戦場を、失くした者達が安寧を得るために、受ける代償が虚無なのだろうか。
「…………」
キュウゾウを二階建ての屋根の上から吹っ飛ばしたことに対して若干の罪悪感を覚えていた俺は(たとえする意味はなくとも)キュウゾウを見送ろうと、アヤマロのもとへと向かう女将の後ろをついていき、物陰に潜んでいた。
しばらくの間見送りの様子を眺めていると、突っ立っていたヒョーゴがこちらに気付いて向かってくるのが目に入った。
「――ちっ」
どうやら気づかれてしまったようだ。即刻この場を立ち去ろうとしたが、通路は女中達が皆忙しそうに行き来していて、素早く移動することができそうにない。
突き破って逃げようかな……と天井を見上げているうちに、俺の目の前を立ち塞ぐようにしてヒョーゴが現れる。
「何をしている?」
「別に何もしていない。気にするな」
「そういわれると逆に気になるだろ。何故、隠れていた?」
「実は俺、かくれんぼが好きなんだ」
「はあ? 何を言っているんだ? お前、頭大丈夫か?」
「うるさい。別に何をしようと俺の勝手だろ」
「……まあいい。それで? お前、本当はそこで何をしていたんだ?」
腰の刀に手をかける。俺の答える内容によっては、斬るも辞さない、といわんばかりの殺気をヒョーゴは放っている。
「…………」
……言いたくないし、言い辛い。
罪悪感を少しでも払拭するためとはいえ、キュウゾウを見送りに来た、なんて……口が裂けても言えない。
そんなのまるで……俺がキュウゾウのことを気にかけている、とみたいじゃないか。
ずっと黙っている俺を訝しそうに見ているが危険がない、と判断したのだろう。
ヒョーゴは刀の柄から手を離すとそれにしても見事だったぞ――と、話題を変えてきた。
何のことだ、と顔を向けると、
「銃で撃たれたと見せかけたり、店にやってきたサムライくずれ共を一人残らず、峰打ちで倒したりしたことだ」
と、ヒョーゴは言った。
「……正直いって、男が拳銃を撃った時、お前は死んだと思ったし、殺さずに全員を倒すなど不可能、とも思っていた。斬ってしまえばもっと簡単だったからな」
「…………」
「それにお前は刀なんだろう。本当ならば一人残らず――斬りたかっただろうに」
「別に。持ち主の命令があったからな――俺はそれに従っただけだ」
刀は斬る相手を選ばない。ただし、持ち主は選ぶ。サムライくずれ達を相手にしている間だけと、限定していたとはいえ、刀である俺は女将を持ち主として選んだ。
刀だからこそ――所有者のやり方には、その人の意思にはすべて従うものだと剣の師範から、俺の父から教えられてきた。
不殺の命がなければ、あの命令がなければ――問答無用に、無慈悲に、無刀流の技をもって、一人もあますところなく斬るつもりだった。そうであれば――今頃、大広間は男達の血で染まっていたことだろう。ここが戦場であったならば――いくらでも、どこでも、真っ赤に染めてやれるのに。
「……そうか」
「それで話は終わりか? なら早く帰れよ」
「もう一つある」
「聞かないからな。帰れ」
「さっきまで、キュウゾウとは何をしていたんだ? お前」
「――ッ」
ヒョーゴの放った言葉に、思わずピシリと固まってしまった。起きてほしくないことが、とうとう起こってしまった。それだけは聞かれたくなかったのに。
「どうなんだ? 二人で何をしていた?」
「…………」
何も言わずに黙っていると、ヒョーゴは嘆息して「少し考えれば分かることだ」と、眼鏡を押し上げる。
「あの仕事に真面目なキュウゾウが『厠に行ってくる』と嘘をついてまでどこかへ向かったのだ。御前の命令があったわけでもない。奴は他に用事がなければ、出向くことなどない。もし行くところがあるとすれば……鋼音シキ、お前のところしか考えられないからな」
と、ヒョーゴは腕を組んだ。
「それにアイツ、お前には随分とご執心のようだしな」
「ヒョーゴ、相棒だろ。何とかしてくれ」
「一つだけ簡単な方法があるぞ」
ヒョーゴが人差し指を立てる。簡単な方法?と首を傾げる俺に、ああと頷いて奴は続ける。
「キュウゾウに、剣の勝負で負けろ。わざとな」
「斬るぞ」
「冗談だ」
なら、自分で何とかしろと呆れ顔で溜息を吐かれた。やっぱり……人に頼るのは駄目か。
「……アイツの行く先が俺のところって言うけどさ……そうとは限らないだろう。もしかしたら、ここで強そうな剣客でも見つけて、ソイツと斬り合いをしていたかもしれないぞ」
「それが本当なら俺にも行こうと誘ってほしかったものだ」
「それは同感」
そんな奴がいたのならば、むしろ俺が真剣勝負に挑みたい。真剣、とついてはいても俺は無刀だけど。
「冗談はさておき。……で、どうなんだ?」
「…………」
先程までキュウゾウと一緒にいたことは、俺の反応からすでに分かり切っているだろうに。見遣れば、さも可笑しそうに、ヒョーゴの顔がニヤニヤと笑っている。
(……ヒョーゴの奴、わざとやっているな)
完全に、俺への嫌がらせになると分かっていて、尋ねている。ヒョーゴのにやけた面へ目掛けて、貫手突きを打ち込みたい衝動に駆られたが、俺は両手を握りしめることで我慢をしてみせる。
お遣いの仕事でなければ――この場で今すぐにでも、斬り捨ててやるのに。斬ることができない代わりに、ヒョーゴの体を視線で穴を穿たんとばかりに鋭く睨みつけてやる。
たとえ効果は全くないと分かっていても、何かをせずにはいられない。
触らぬ神に祟りなし。
俺とヒョーゴの様子に、店の客や女中たちは恐々とした顔をして、俺らを避けながら通路の横を恐々と通り過ぎて行く。そんなところに歩み寄れるのは怖いもの知らずの物好きか、肝の据わった奴か。あるいは、
「ヒョーゴ」
赤い外套を着た金髪のサムライくらいしかいないだろう。
「そろそろ出立か?」
「ああ……」
「そうか。運が良かったな、シキ」
「とっとと帰れ、色白メガネ」
しっしっ、と手を払い、塩を撒く振りをする俺に、ヒョーゴは鼻を鳴らすと背中を向け「じゃあな」と片手を振って、アヤマロのところへと戻っていく。
去るところを見送っていると、右横から視線を感じた。
「…………」
何故まだいるのか。
「キュウゾウ、お前も一緒に行かないのか?」
「…………」
返答はなかったが、その代わりに何故か左手を伸ばしてきたので、ついっと躱す。
「俺に触るな」
「…………」
キュウゾウは左手を伸ばしたまま、緋色の眼でじっと俺を見ている。
「…………」
(やっぱりさっきしたこと……怒っているのか? )
俺が急に屋根から突き飛ばしたとはいえ、キュウゾウはそこらにいる落ちぶれたサムライくずれと違って、優れた剣客で、サムライなのだ。
落下時にすぐさま機転を利かせて、刀を使って衝撃を和らげるなどして、受け身を取ったのだろう。赤色のコートには汚れや破れたところは見られなかった。大した怪我もなく、死んでもいないから不幸中の幸いだが、一言くらいは……謝ろう。
ここで言わないと虹雅峡に帰った時は、もう会えないかもしれないから。
「おい、キュウゾウ。少しいいか」
「何だ」
「……さっきは、悪かったな」
「何のことだ」
「お前を屋根から突き飛ばしたことだ。……すまなかった」
「お主でも謝りはするのか」
「どういう意味だ」
なんでヒョーゴといい、コイツといい、俺の気に障るようなことを言ってくるんだろう。
俺、お前らに何かしたか?
「……そ、それとだな」
「何だ」
「……俺、すごく嬉しかった。刀を捨てないって、サムライだって、言ってくれたこと」
「……シキ」
「お前の愛刀は幸せモノだな。刃が折れるその時まで、ずっと大事にしろよ」
「言われるまでもない」
何を当たり前のことを、という顔をするキュウゾウに、俺は「ははっ」と声を上げた。
別段、面白おかしいことなんて言ってないのに、頬が緩むのを感じる。
「そうだよな。お前は、サムライ、だもんな」
「…………」
剣士であり、刀でもある俺もいつかの日か――共に堕ちてくれる主と、最期まで生きる様を見届けたいと想える持ち主と出会うために剣の道を歩み続けていこう。
遠くで「キュウゾウ!」と名を呼ぶ声が聞こえる。声の主はきっとヒョーゴだろう。アヤマロを待たせているからなのか、少し怒気が混じっている。
「ヒョーゴが呼んでいるぞ。早く行ってやれ」
「……ああ」
「俺もそろそろ行くから。じゃあな」
女将に渡す品物が待機部屋に置きっぱなしだからまずはそれを取りに行くか、と桔梗屋に戻ろうとすると――、
「シキ」
と呼び止める声が耳に入る。
……何だ。キュウゾウ、まだそこにいるのか。
「どうした?」
振り返るとなぜか俺の両方の手首をガッシリとキュウゾウに掴まれていた。
……なんかこんなこと、前にも一度あったような気がする。気のせいか?
「…………」
「……おい、何の真似だ」
「お主が悪い」
「はい?」
キュウゾウはズイッと顔を近づけ、俺の耳元へ唇を寄せ、
「シキ」
と俺の名前を低い声で囁いてーー、
「好きだ」
『ちゅっ』と俺の耳元で、そんな音がした。
「―――ッ」
一体、何をされたのか、と頭の理解が追いつくより先に――俺は、上げた脚でキュウゾウを蹴り飛ばすと、間髪入れずに手刀を振って斬撃を飛ばした。
だが、それで奴の首を斬り落とすこと叶わなかった。思いっきり蹴りを食らわせたのに、すぐに体勢を立て直され、素早く抜いた一刀で、上へと弾かれてしまっていた。
チッと舌を打つ。せっかくお前のこと見直せたと思ったのに。全部、台無しになったんだが。
この野郎……と奴の唇が触れた耳を抑えながら、睨み据える俺に対して、キュウゾウは、次は逃さぬと妖しく口元を歪める。
「お主は俺のものだ」
「………ッ」
「いずれ、また」
早く戻ってこいと、催促するヒョーゴの声が再び上がっている。それを切欠にして奴は刀を鞘に納めると、スッと背を向けて、呼んでいる声がする方へ歩み去っていった。
「…………ちッ」
隙が無い。再び斬撃を飛ばしても、今度は俺に向かって弾き返してくるだろうな、と予想できてしまう自分が憎い。
それにしても、俺はまたもやキュウゾウとどこかで会うことになってしまうのだろうか。
段々と小さくなっていく紅色コートの背中を見送りながら「勘弁してくれ」と深く大きい溜め息を吐いた。
あんな恥ずかしいこと、もう懲り懲りだ。
「お前、男でもできたアルカ?」
お遣いの仕事を終えて、癒しの里から虹雅峡第六階層のオンボロ宿へと戻った翌日。
いつものように剣の鍛錬をするため、宿の近くの廃品置き場へ行こうとすると、マスターから呼び止められ、いきなりそう言ってきた。
(何を言っているんだ……コイツは)
俺は眉をひそめて、マスターを見遣る。相変わらず人を馬鹿にしているような顔でふんぞり返っている。
「まあ別に、嘘でも本当でも――どうでもいいアルけどネ」
と、マスターは口髭を指でくるくるといじっている。
「…………」
どうでもいいことなら答える必要はないし、(そもそも)義理もないだろう。鍛錬に行かなくては。
「じゃあな」
「ちょっと待つアル」
「何だよ」
「実際は……どうアルカ?」
「…………」
(いるかどうかなんて、どうでもいいんじゃなかったのか?)
というよりも何故マスターなんかにそんなこと教えないといけないんだ。マスターの存在ごと無視して剣の鍛錬に行くこともできたが、どうして男ができたと聞いてくるのか――その理由が少し気になってしまった。
聞き返してやると、マスターは俺をジロジロと不躾に見た後、自分の首元を指でトントンと軽く叩いて示した。
「お前のここ赤くなっているアルヨ」
「左の方か」
「そこに痛みとか痒みとか、感じないアルカ?」
「別に。どうもしない」
これまで大きな怪我はないし、虫などに刺された覚えはない。示されたところに触れてみたが、特に何も感じなかった。
マスターが一度見てみろヨ、と言うので、どういう風になっているのか、と部屋に戻り、置いてある手鏡で見てみれば――確かに首筋の左側には赤い斑点がいくつもあった。
「……何だ、これ?」
何かの病気か。いつ頃できたのか。記憶にないと首をひねっていると、後方からマスターの「はあ」と息を吐く音が聞こえて、振り返れば頭のできの悪い人を見る目がそこにあった。
「女将へ依頼品を渡す遣いとして癒しの里に行くよう、確かに言ったアルが……何色気づいているアルカ、お前」
「言っておくが俺は刀だ。剣気ならまだしも、色気なんてつけた覚えは、ない」
「それにしても、随分と趣味の悪い男がいるものアルネ。前に薪割りを手伝いに来てもらったおサムライ様も言っていたアルが、こんなお金も無い奴の、自分を刀だと自称する頭がオカシイ奴の、一体どこが良いアルカ?」
「おい」
マスターの言っていることはよく分からないが、俺を馬鹿にしていることだけはよく分かった。
腹は立つが……首筋にあった赤い痣のことを、体の主である自分ではなく、他人であるマスターだけが分かっていることの方が気に入らない。だから――馬鹿にされるのも承知の上で、一体これは何だ、と聞いてみる。
するとマスターはこれまたわけのわからないことを言ってきた。
「その赤い斑点は――俗にいう『キスマーク』って痣アルネ」
「きす……まーく? なんだ、それは? 初めて聞いたぞ」
「まあ、お前みたいに戦いに生きる奴には、あまり縁のないことかもしれないアルが……ある人を自分だけのものにしたいという強い独占欲を示す――男が惚れた女に残す傷跡のことアルヨ」
「……傷跡」
「だから、ワタシ聞いたのヨ。『男できたのか』ってネ。お前、癒しの里で男に抱き着かれたり、噛まれたりしなかったアルカ?」
一瞬、赤い外套を纏った金髪のサムライが頭の中に出てきたが――内なる自分が瞬時に斬ってやった。ざまあみろ。
「全くない」
「嘘アルナ」
「…………」
なぜばれる。視線をそらさずに、まっすぐに見て、間を置くことなく、即答したというのに。
「全く、と強く否定するあたり怪しいヨ。ワタシ、男女に関しての勘はとてもとっても鋭いアルネ」
「……その勘、生きるのに必要なのか?」
当然ヨ、とマスターは鼻を鳴らすと、近くにあった椅子を引き寄せて、腰をかけた。懐から煙管を取り出して、吸い始める。
はあ……と口から煙を吐き出して気持ち良さそうな顔をしているが、あんな煙たいモノを体に取り込むなんて肺をいたずらに傷つけるだけだろうに。一体何がいいのか。俺には理解できないし、するつもりも微塵もないが。
「ワタシがよく通っているバーの女主人から聞いた話と照らし合わせて考えてみても、まず間違いないアルネ」
「…………」
「それは首筋を吸われた後に残る痣アルヨ」
また心地良さそうに煙を吐き出した後、マスターは更に続ける。
「それにワタシの宿に戻ってきた時――お前、首にマフラーを巻いていたじゃないアルカ」
「それがどうした」
「巻いて帰ってください――と、女将から言われなかったアルカ」
「…………」
確かにマスターのいう通りだった。鍛錬の邪魔になる、と部屋の壁にかけてある首巻は桔梗屋の女将からタダでもらったものだ。
◆◆◆◆
マスターからの依頼を果たすために女将の部屋の中へ入った時だった。
「もしかしてシキ様は……女性なのですか?」
と、女将は唐突に言ってきた。
……今更、聞くことなのか。嘘をつく必要はないし、理由もないから素直に答える。
「俺は女だが」
「えええええッ!?」
ひどく驚いていた。そこまで驚くことなのかと思っていると、女将は畳の上に両手をつくなり、大広間でやっていた土下座をここぞとばかりに何度もしてきた。
一体、何を謝る必要があるのかと言えば、キッと挑むような眼で「貴方様は女性ですよ!」と大きな声を上げた。そして両手で顔を覆うと、本当に申し訳ございません、と泣き出す始末。
「…………」
面倒臭い。声を荒げたり、すすり泣いたりと店の仕事以外も忙しない女である。
それにしても「貴方は女性ですよ」なんて面と向かって言われたのはヘイハチとの会話の時以来だ。
女将は、俺の性別が女であるとは知らずに、危険な目に遭わせてしまったことを悔やんでいるようだった。女と知っていれば、キュウゾウ達にサムライとの戦いを任せていた、とか言い出し始めた。
「…………」
それも今更過ぎるだろ。今となっては別にどうでもいいことだが……。
「女将、気にするな」
「え……?」
「言っただろ。俺は刀だ」
無刀流九代目当主鋼音シキは一人の人間でありながら、一本の刀でもある。この世に生を受けてから、一本の刀として――無刀の剣士として、今の今まで生きてきたのだ。
肉体が女性だろうが、病弱だろうが無刀流を継ぐことには関係がない。剣をとらない理由にはならない。 鋼音家に生まれたからには誰一人と例外はなく、皆が一本の刀となり、剣士となり――剣の道を歩んでいくことになるのだから。
女将が気に病むことではない。俺は剣士なのだから――危険な目に遭うのも斬り合いするのも当たり前のことだと伝えてやる。
「そうなのですか……」
「ああ。だから気にするな」
「…………」
完璧に理解ができて、完全に納得ができた――というわけではなさそうだったが、なんとか落ち着きを取り戻せたようであり、最後に改めて「申し訳ございません」と頭を下げる。
そして――それぞれの品物の交換を終えて、女将の部屋を後にする時だった。「お待ちください」と、女将が呼び止める。どうしたと振り向けば、女将は両手にのせた何かを差し出してきた。
「シキ様、これをどうぞ」
「これは?」
「マフラーです」
「マフラー?」
「首巻、ともいいます」
確かに女将の言った通り、冬の寒い時など防寒のために首へと巻くものだった。女将の好みなのか。彼女の羽織と同じ青みがかった紫色だった。
聞けば女将がお手製で編んだものであり、質も良くて桔梗屋の隠れ商品でもあるらしい。
「どうかこれを身に着けてお帰りください」
「悪いが、別にいらない」
寒くも何ともないからと、受け取りを断ったが「せめて宿のまでの帰りだけでもつけてください」と強く勧められて、俺の手元に戻される。そこまでおすすめする程のものなのか?
しかも、金はとらないということだった。商品というならば、金は取るものなのではないのだろうか。ますます怪しい……と思ったが、女将からは、不審な気配は感じられなかった。
ふふふ……と口元に手を当てて、微笑ましいものを見るかのような瞳で俺を見ている。
「シキ様」
「何だ」
「キュウゾウ様と仲がとてもよろしいのですね。もしかしてお知り合いでしたか?」
「……はい?」
何故、唐突に……キュウゾウの名前が出てくるんだ?
「…………」
黙っている俺に、女将は「女中から聞いたのです」と話し始める。女将曰く――桔梗屋は、アヤマロが癒しの里においてのアキンドとの商談のため、何度か利用する店の一つらしく、店に来る度に用心棒として二人のサムライを連れている。
つまり二人のサムライ――キュウゾウとヒョーゴのことは、女将は前から知っていたのであった。
「ヒョーゴ様は愛想がよくて、話しやすかったのですが、キュウゾウ様は……」
「その先、言わなくてもいいぞ……何となく想像がつくしな」
アヤマロの商談が終わるまでの間に、待つだけでは退屈だから、という女将の配慮により、キュウゾウやヒョーゴへ(用心棒の仕事に支障がでない程度の)食事を振る舞ったり、店の女に酌をさせたりしていたらしい。
「その接待の時にキュウゾウ様へ本気に近い好意を抱いた子もおりまして、体をすり寄せたり、夜のお誘いをかけたりしていたようなのです。その結果は……」
「それも言わなくていい……大体、分かる」
キュウゾウという人物を知っているなら誰でもわかりそうだ。桔梗屋で自慢の美人たちに接待させても、奴はいつもの無表情で、無口でいたらしい。
時折、頷きこそするものの――店の女との会話はほぼ全てヒョーゴを通してしたようだ。そんなキュウゾウの愛想の悪い態度が店に来るたびに変わることなく続いたこともあり、彼女達はいつしか奴へ言い寄ったり、近くに寄ったりすることをパタリと止めてしまったらしい。
こんなに懸命に接待してもぽっと照れたり、にこりと笑ったりせず、大した反応も示さない人を相手にしてもつまらない――という自分を納得させる理由をつけて。
「ところがです」
と、女将はそこでパチンと両手を打った。
「あの無口で無表情でいることで有名なキュウゾウ様が、シキ様といる間だけ、会話らしい会話をした、というではありませんか。しかも楽しそうに」
「大げさだろ」
「大げさなことではありません。すごいことなのですよ。当店が自慢する美人娘達では、あの人を喜ばせることは全然できなかったのですから」
「…………」
そんな、世紀の大発見だ! みたいな反応をしなくてもいいのに。心底呆れて言葉も何も言えないでいると
「それに――」
と、女将は更に続ける。
「あの後、キュウゾウ様が大広間を出て、どこかへ行っていたようでしたけど――シキ様のもとにいかれていたのでありませんか」
「…………」
違う、と否定しようとしたが、女将が目を輝かせていることから嘘をついても無意味と判断して、否定はしなかったが、肯定も、しないでおいた。俺の反応から察したのだろう。
女将は「やっぱりそうでしたか」と自分のことのように、嬉しそうにする。
「…………」
他人事なのに何故そうまで喜ぶことができるのか、理解不能。
「シキ様」
「何だよ」
「是非、キュウゾウ様とは仲良くしていてくださいね。桔梗屋女将からの――いいえ、私個人からのお願いです」
「……はあ」
何か色々と誤解されているような気がするが、桔梗屋に来てからというものの、精神的に疲労していたせいなのか。女将の言葉を否定したり、訂正したりする気力が全然起きなかった。
◇
ちなみにキュウゾウ達というと、俺が女将とやりとりするより先に桔梗屋を去っていた。
何故分かるのか、といえば女将がアヤマロ一行を見送るところを出入口近くにある柱の陰に隠れて見ていたからだ。
「アヤマロ様にお怪我が無くて、本当によかったです」
「あれだけ痛い目に遭えば、奴らも懲りるであろう」
「そうですね。……あんな騒動が起こった後でお伝えするのも憚られることではございますが、是非ともまた桔梗屋にいらしてくださいね」
女将の言葉に、虹雅峡差配であるアキンド――アヤマロは贅沢の上に更に贅沢を塗りたくったような太い肉塊を震わせて、当然じゃと笑っていた。
サムライくずれ達に対して、キュウゾウ達の後ろに隠れて、ただ怯えていただけなのに。何もしていないくせに、何故あんな偉そうに振る舞えるのか。
そんなアヤマロの後ろにサムライが二人――キュウゾウとヒョーゴが無表情で立っていた。
何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。分からないが――俺の目には奴らが少なくとも、キュウゾウが退屈しているように映る。
サムライにとっての生きる場所を――戦場を、失くした者達が安寧を得るために、受ける代償が虚無なのだろうか。
「…………」
キュウゾウを二階建ての屋根の上から吹っ飛ばしたことに対して若干の罪悪感を覚えていた俺は(たとえする意味はなくとも)キュウゾウを見送ろうと、アヤマロのもとへと向かう女将の後ろをついていき、物陰に潜んでいた。
しばらくの間見送りの様子を眺めていると、突っ立っていたヒョーゴがこちらに気付いて向かってくるのが目に入った。
「――ちっ」
どうやら気づかれてしまったようだ。即刻この場を立ち去ろうとしたが、通路は女中達が皆忙しそうに行き来していて、素早く移動することができそうにない。
突き破って逃げようかな……と天井を見上げているうちに、俺の目の前を立ち塞ぐようにしてヒョーゴが現れる。
「何をしている?」
「別に何もしていない。気にするな」
「そういわれると逆に気になるだろ。何故、隠れていた?」
「実は俺、かくれんぼが好きなんだ」
「はあ? 何を言っているんだ? お前、頭大丈夫か?」
「うるさい。別に何をしようと俺の勝手だろ」
「……まあいい。それで? お前、本当はそこで何をしていたんだ?」
腰の刀に手をかける。俺の答える内容によっては、斬るも辞さない、といわんばかりの殺気をヒョーゴは放っている。
「…………」
……言いたくないし、言い辛い。
罪悪感を少しでも払拭するためとはいえ、キュウゾウを見送りに来た、なんて……口が裂けても言えない。
そんなのまるで……俺がキュウゾウのことを気にかけている、とみたいじゃないか。
ずっと黙っている俺を訝しそうに見ているが危険がない、と判断したのだろう。
ヒョーゴは刀の柄から手を離すとそれにしても見事だったぞ――と、話題を変えてきた。
何のことだ、と顔を向けると、
「銃で撃たれたと見せかけたり、店にやってきたサムライくずれ共を一人残らず、峰打ちで倒したりしたことだ」
と、ヒョーゴは言った。
「……正直いって、男が拳銃を撃った時、お前は死んだと思ったし、殺さずに全員を倒すなど不可能、とも思っていた。斬ってしまえばもっと簡単だったからな」
「…………」
「それにお前は刀なんだろう。本当ならば一人残らず――斬りたかっただろうに」
「別に。持ち主の命令があったからな――俺はそれに従っただけだ」
刀は斬る相手を選ばない。ただし、持ち主は選ぶ。サムライくずれ達を相手にしている間だけと、限定していたとはいえ、刀である俺は女将を持ち主として選んだ。
刀だからこそ――所有者のやり方には、その人の意思にはすべて従うものだと剣の師範から、俺の父から教えられてきた。
不殺の命がなければ、あの命令がなければ――問答無用に、無慈悲に、無刀流の技をもって、一人もあますところなく斬るつもりだった。そうであれば――今頃、大広間は男達の血で染まっていたことだろう。ここが戦場であったならば――いくらでも、どこでも、真っ赤に染めてやれるのに。
「……そうか」
「それで話は終わりか? なら早く帰れよ」
「もう一つある」
「聞かないからな。帰れ」
「さっきまで、キュウゾウとは何をしていたんだ? お前」
「――ッ」
ヒョーゴの放った言葉に、思わずピシリと固まってしまった。起きてほしくないことが、とうとう起こってしまった。それだけは聞かれたくなかったのに。
「どうなんだ? 二人で何をしていた?」
「…………」
何も言わずに黙っていると、ヒョーゴは嘆息して「少し考えれば分かることだ」と、眼鏡を押し上げる。
「あの仕事に真面目なキュウゾウが『厠に行ってくる』と嘘をついてまでどこかへ向かったのだ。御前の命令があったわけでもない。奴は他に用事がなければ、出向くことなどない。もし行くところがあるとすれば……鋼音シキ、お前のところしか考えられないからな」
と、ヒョーゴは腕を組んだ。
「それにアイツ、お前には随分とご執心のようだしな」
「ヒョーゴ、相棒だろ。何とかしてくれ」
「一つだけ簡単な方法があるぞ」
ヒョーゴが人差し指を立てる。簡単な方法?と首を傾げる俺に、ああと頷いて奴は続ける。
「キュウゾウに、剣の勝負で負けろ。わざとな」
「斬るぞ」
「冗談だ」
なら、自分で何とかしろと呆れ顔で溜息を吐かれた。やっぱり……人に頼るのは駄目か。
「……アイツの行く先が俺のところって言うけどさ……そうとは限らないだろう。もしかしたら、ここで強そうな剣客でも見つけて、ソイツと斬り合いをしていたかもしれないぞ」
「それが本当なら俺にも行こうと誘ってほしかったものだ」
「それは同感」
そんな奴がいたのならば、むしろ俺が真剣勝負に挑みたい。真剣、とついてはいても俺は無刀だけど。
「冗談はさておき。……で、どうなんだ?」
「…………」
先程までキュウゾウと一緒にいたことは、俺の反応からすでに分かり切っているだろうに。見遣れば、さも可笑しそうに、ヒョーゴの顔がニヤニヤと笑っている。
(……ヒョーゴの奴、わざとやっているな)
完全に、俺への嫌がらせになると分かっていて、尋ねている。ヒョーゴのにやけた面へ目掛けて、貫手突きを打ち込みたい衝動に駆られたが、俺は両手を握りしめることで我慢をしてみせる。
お遣いの仕事でなければ――この場で今すぐにでも、斬り捨ててやるのに。斬ることができない代わりに、ヒョーゴの体を視線で穴を穿たんとばかりに鋭く睨みつけてやる。
たとえ効果は全くないと分かっていても、何かをせずにはいられない。
触らぬ神に祟りなし。
俺とヒョーゴの様子に、店の客や女中たちは恐々とした顔をして、俺らを避けながら通路の横を恐々と通り過ぎて行く。そんなところに歩み寄れるのは怖いもの知らずの物好きか、肝の据わった奴か。あるいは、
「ヒョーゴ」
赤い外套を着た金髪のサムライくらいしかいないだろう。
「そろそろ出立か?」
「ああ……」
「そうか。運が良かったな、シキ」
「とっとと帰れ、色白メガネ」
しっしっ、と手を払い、塩を撒く振りをする俺に、ヒョーゴは鼻を鳴らすと背中を向け「じゃあな」と片手を振って、アヤマロのところへと戻っていく。
去るところを見送っていると、右横から視線を感じた。
「…………」
何故まだいるのか。
「キュウゾウ、お前も一緒に行かないのか?」
「…………」
返答はなかったが、その代わりに何故か左手を伸ばしてきたので、ついっと躱す。
「俺に触るな」
「…………」
キュウゾウは左手を伸ばしたまま、緋色の眼でじっと俺を見ている。
「…………」
(やっぱりさっきしたこと……怒っているのか? )
俺が急に屋根から突き飛ばしたとはいえ、キュウゾウはそこらにいる落ちぶれたサムライくずれと違って、優れた剣客で、サムライなのだ。
落下時にすぐさま機転を利かせて、刀を使って衝撃を和らげるなどして、受け身を取ったのだろう。赤色のコートには汚れや破れたところは見られなかった。大した怪我もなく、死んでもいないから不幸中の幸いだが、一言くらいは……謝ろう。
ここで言わないと虹雅峡に帰った時は、もう会えないかもしれないから。
「おい、キュウゾウ。少しいいか」
「何だ」
「……さっきは、悪かったな」
「何のことだ」
「お前を屋根から突き飛ばしたことだ。……すまなかった」
「お主でも謝りはするのか」
「どういう意味だ」
なんでヒョーゴといい、コイツといい、俺の気に障るようなことを言ってくるんだろう。
俺、お前らに何かしたか?
「……そ、それとだな」
「何だ」
「……俺、すごく嬉しかった。刀を捨てないって、サムライだって、言ってくれたこと」
「……シキ」
「お前の愛刀は幸せモノだな。刃が折れるその時まで、ずっと大事にしろよ」
「言われるまでもない」
何を当たり前のことを、という顔をするキュウゾウに、俺は「ははっ」と声を上げた。
別段、面白おかしいことなんて言ってないのに、頬が緩むのを感じる。
「そうだよな。お前は、サムライ、だもんな」
「…………」
剣士であり、刀でもある俺もいつかの日か――共に堕ちてくれる主と、最期まで生きる様を見届けたいと想える持ち主と出会うために剣の道を歩み続けていこう。
遠くで「キュウゾウ!」と名を呼ぶ声が聞こえる。声の主はきっとヒョーゴだろう。アヤマロを待たせているからなのか、少し怒気が混じっている。
「ヒョーゴが呼んでいるぞ。早く行ってやれ」
「……ああ」
「俺もそろそろ行くから。じゃあな」
女将に渡す品物が待機部屋に置きっぱなしだからまずはそれを取りに行くか、と桔梗屋に戻ろうとすると――、
「シキ」
と呼び止める声が耳に入る。
……何だ。キュウゾウ、まだそこにいるのか。
「どうした?」
振り返るとなぜか俺の両方の手首をガッシリとキュウゾウに掴まれていた。
……なんかこんなこと、前にも一度あったような気がする。気のせいか?
「…………」
「……おい、何の真似だ」
「お主が悪い」
「はい?」
キュウゾウはズイッと顔を近づけ、俺の耳元へ唇を寄せ、
「シキ」
と俺の名前を低い声で囁いてーー、
「好きだ」
『ちゅっ』と俺の耳元で、そんな音がした。
「―――ッ」
一体、何をされたのか、と頭の理解が追いつくより先に――俺は、上げた脚でキュウゾウを蹴り飛ばすと、間髪入れずに手刀を振って斬撃を飛ばした。
だが、それで奴の首を斬り落とすこと叶わなかった。思いっきり蹴りを食らわせたのに、すぐに体勢を立て直され、素早く抜いた一刀で、上へと弾かれてしまっていた。
チッと舌を打つ。せっかくお前のこと見直せたと思ったのに。全部、台無しになったんだが。
この野郎……と奴の唇が触れた耳を抑えながら、睨み据える俺に対して、キュウゾウは、次は逃さぬと妖しく口元を歪める。
「お主は俺のものだ」
「………ッ」
「いずれ、また」
早く戻ってこいと、催促するヒョーゴの声が再び上がっている。それを切欠にして奴は刀を鞘に納めると、スッと背を向けて、呼んでいる声がする方へ歩み去っていった。
「…………ちッ」
隙が無い。再び斬撃を飛ばしても、今度は俺に向かって弾き返してくるだろうな、と予想できてしまう自分が憎い。
それにしても、俺はまたもやキュウゾウとどこかで会うことになってしまうのだろうか。
段々と小さくなっていく紅色コートの背中を見送りながら「勘弁してくれ」と深く大きい溜め息を吐いた。
あんな恥ずかしいこと、もう懲り懲りだ。