合宿編(全22話)
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午後に入ってから最初の仕事は、タオルを洗濯機に放り込むことだった。洗濯機が頑張ってくれている間にドリンクボトルを洗って、次のドリンクを用意する。粉と水の分量はさっき教えてもらった。混ぜるだけだから難しいことはない。
すでに夕食の用意を始めているシェフさんたちが行き交うキッチンの端で、私はメモを確認していた。
「ふむ、ハイポトニックだな」
「うわあ!」
後ろからかかった声に思わず声を上げてしまう。あまりにも声が近かったから、なおさら驚いた。
出来るだけ体を逸らして振り返ると、思っていたよりもずっと上に知らない顔があった。
「だ、だれ」
「今朝、ミーティングで自己紹介したはずだが」
「ごめん、覚えきれなかった」
にじりと彼から離れて、改めて彼を見てみる。筆ですっと引いたような目に薄い唇。水墨画の中からそのまま出てきたような雰囲気。ジャージはからし色だから立海のはずだ。今朝入力した健康チェック表の中から、それらしい名前を探してみる。
「あー……、わかった、真田くん?」
「残念ながら、ハズレだ」
「じゃあ幸村くん」
「それも違う」
真田幸村の他にどんな名前があったっけ。丸井くんはさっき会ったし、ジャッカルは似合わなすぎる。
「ごめん、降参。教えてくれる?」
「仕方ないな」
クスリと彼は大人っぽく笑う。
「柳蓮二という」
「柳くん。今度こそ覚えたよ」
「ああ」
静かに頷いた彼に、私はそういえば、と首を傾げた。
「キッチンに何か用だった?」
「いや、今コートが埋まってしまったから、この時間を利用して君に会いにきただけだ」
「私に?」
「良ければ手伝おう」
「え、いいよ、悪いし」
「気にするな。その代わり少し話にでも付き合ってくれればいい」
大きなポリエチレンのジャグを私の手から奪って、慎重に水を足していく柳くん。水でいっぱいのジャグは重いから、正直助かる。
「ありがとう」
「いや。それより次の用意を」
「あ、うん」
もう一つのジャグにドリンクの粉を入れながら、ふと思い出したことを口にしてみる。
「さっき言ってたハイ何とかって、何?」
「ああ、ハイポトニックか?」
「そう、それ」
「ハイポトニックは糖質を低めにしたスポーツドリンクのことだ。エネルギー補給の意味は薄れるが、水分の吸収率が上がる」
「はあ、なるほど」
「運動中に補給するのに向いている」
「普通のは、もう少し糖質が多いってこと?」
「『普通』という分類はないな。ハイポトニックより糖質が高いものはアイソトニック飲料と呼ばれる」
「あいとそにっく?」
「アイソトニック」
「あいそとにっく」
「違う、アイソトニック」
「合ってんじゃん、アイソトニック!」
私の発音をただした柳くんは、先生のようにそうだ、と頷いた。どことなく話し口が乾に似ていて変な感じがする。話しやすいと言えば話しやすいけれど。
「アイソトニックは運動前や、長時間の運動中に向いている」
「へえ、今まで粉混ぜるだけの飲み物だと思ってた。ごめん」
「大抵の部活では使いわけることまではしていないだろうから、そう思ってくれても構わないぞ」
「そうなの?」
「そうだろう。面倒だからな」
身も蓋もない。まあ、そりゃそうだろうけど。
「なんか柳くんとの会話って不毛だ」
「はは、そうか」
「なんで楽しそうなの、ばかなの」
思わず飛び出した私の悪態に、柳くんはまた少し笑い声をあげる。
「貞治の言っていた通りだな、みょうじは」
「さだはるって、乾か」
親しげに乾の名前を呼ぶ彼は乾の友人なのだろう。青学のテニス部のみんなも乾と呼ぶから、貞治という呼び名は新鮮だった。
「俺と貞治は幼馴染だぞ」
「お、幼馴染?」
あまりに予想外の単語に、おさななじみ、と繰り返してしまった。そう言われてみると、腑に落ちる感じはする。
「乾に幼馴染なんてものがいたの、知らなかった」
「そうか。まあ、最近はお互い忙しくて連絡も頻繁ではないしな」
「へえ」
乾って、忙しかったんだ。知らなかった。
遅くまで部活頑張ってるのは知ってたけど、数学部でやたらと顔を見るから、暇もあるものだと思い込んでいたのだ。乾について案外知らないことが多いんだな、なんて、少しだけ寂しく思ってしまう。
「何を拗ねているんだ」
「え、拗ねてはないよ!」
「拗ねた顔をしていたが」
ふに、と遠慮なく柳くんは私の頬をつまむ。
「やにゃいふん、いひゃい」
「何を言っているのかわからないが」
「い、た、い!」
パシリと手を払うと、はは、と彼はまた楽しそうに声をあげた。こいつサディストだ!
柳くんは私が粉を入れ終わったジャグと自分の手元のジャグを入れ替えて、また水を入れ始める。私が睨んでいることなんて、少しも意に介していないようだ。
「みょうじと友人になったと言ったら貞治も拗ねるだろうな」
「乾が?」
「ああ、拗ねるぞ」
拗ねる乾を想像してみたら何だかおかしくて笑ってしまった。
だから、いつの間に友人になったんだって疑問は言えないまま。私は1日目にして1人目の友人を得たことになってしまった。
悪くない気分だった。新しい友達ができたのは、きっと、1年ぶり。
***
初めてみょうじなまえという名を聞いたのは、去年の春頃だった。高校に進学して間もない頃。
貞治はあまり女子に縁のないたちの男だったので、彼から女性の名前が飛び出した時、やっとあのテニスと謎のドリンクにばかり関心を傾けていた幼馴染にも春が来たのだと喜んだものだった。蓋を開けてみれば彼らは緩やかな友情を育むばかりだったのだが。
「いつか蓮二にもみょうじを会わせてみたいな」
電話越しに、貞治がそう言っていたのを覚えている。
「あいつは面白いやつだよ。それに、蓮二だったら俺よりあいつの力になってやれるかもしれない」
「彼女の問題は深刻そうか?」
「そんなことはないよ。本当は問題なんて何もないさ。それに彼女が気づかないことが問題なんだ」
彼の声が少し笑っていたから、心配ないのだろうと思った。時間か、あるいは簡単なきっかけが解決してくれるような話なのかもしれない。
そうか、と相槌を打って、それから俺は何といったのだったか。よく覚えていない。
ただ、顔も知らない相手の行く末が明るいであろうことに、なぜかひどく安堵していたのだ。貞治からよく名前を聞いていたせいなのだろうか。それとも、話の端々から推測した彼女の『問題』とやらに共感でもしたのか。
彼女に出会ってしまった今となってはもうよくわからない。今は目の前の少女が親しい友人に思えるだけ。そう、俺と彼女が友人である以外の理由は消えてしまった。
「なかなか興味深いな」
心理学にはそう明るくないが、こういった共感についてはどの辺りを調べるべきだろうか。ノートに心理学、共感について、とだけメモをしておいた。すると、彼女がじっと睨むような視線で俺を見る。
「柳くんもまさかデータとか言い出さないよね?」
「貞治にデータテニスを教えたのは俺だ、という答えで満足してもらえるだろうか」
「お、おまえが諸悪の根源か!」
「諸悪とは、ひどい言い様だな」
「データ、データって、あれ結構こわいんだからね」
「一年以上も一緒にいれば慣れた頃だろう?」
「そりゃそうだけ、ど、って、私と乾がいつ会ったのかも知ってるの」
「馴れ初めは詳しく聞いたぞ」
「馴れ初めって言い方なんかやだ。やめて」
「ふむ」
「ねえ、何書き込んでんの。もうやだ、柳くんのばか」
ボキャブラリーの乏しい憎まれ口は、子供じみていて可愛らしくさえある。もう一度、頬をつまんでやれば、ふにゃふにゃ、よくわからない言葉で抗議された。
なるほど、彼女は実に興味深い。
08 合宿編07