合宿編(全22話)
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「あとはタオルを運ぶだけですね!」
満足そうに言ったのは壇くん。
全部のタオルをたたみ終わって、カゴに詰め込んで、やっとスタート地点に立てたわけだ。
「それじゃあ僕らはコートに戻ります。ついでに運んでおきますから、君も緒方さんのところに戻ってください」
観月くんの言う緒方さんと言うのは氷帝のコーチングスタッフの一人だ。合宿の間、私に指示をくれることになっている。
「二人とも、手伝ってくれてありがとう」
「いええです!」
「ええ、きちんと感謝してくださいね」
対照的な二人の返事に笑いつつ、彼らが廊下の向こうに消えるのを見送った。
時間は10時半。まだ一仕事できるだろう。長い廊下を早足に通り過ぎて、私はレセプションルームへと戻る。
ノックをしてから扉を開くと、緒方さんがテーブルの上に書類を広げているところだった。
「失礼します」
「ああ、みょうじさん。お疲れ様」
「タオル、観月くんと壇くんがコートに運んでくれるそうです。遅くなっちゃってごめんなさい」
「いや、大丈夫だよ。それじゃあ次はこっちを手伝ってもらおうかな」
緒方さんは隣の椅子を軽く叩いて、私に座るように促す。
「この書類が選手たちの健康チェック表。体温、脈拍、血圧の計測結果と、睡眠、食欲、体調の五段階評価。これを三日間続けるからタブレットに入力してまとめてほしい」
渡されたタブレットの液晶画面には、まだ真っ白な表が映し出されていた。書かれているのは選手の名前だけだ。
「ここに入力するとスタッフ全員の端末に共有されるからね」
「なるほど」
「機械は得意? 出来そうかな?」
「大丈夫だと思います」
普段は家のパソコンをいじるくらいだけど、難しい作業ではなさそうだから私でもどうにかなるだろう。それにしても、三日間だけの合宿なのに本格的なことだ。
「じゃあ任せたよ。私は席を外すけど、何かあったら連絡してくれ」
頑張ってね、と去って行った緒方さんに頭を下げて、私はタブレットに向き合う。集中しなくちゃとヘッドフォンをして世界をちょっと遠ざけた。
学校別に並ぶ名前と書類を見比べて、上から埋めていくことに決める。それにしても、変わった名前も多い。『幸村』、『真田』と言う名字が並んでいるのを見た時は少し笑ってしまった。
しばらく集中して作業を進めていれば、不意に足音が近づいてきて扉が開く。緒方さんかなと思って移した視界では、赤い髪の男の子が驚いた顔でこちらを見返していた。からし色のジャージは立海だと言うことはもう覚えたし鮮やかな髪色は印象に残っていたけれど、肝心の名前が思い出せない。
「悪りぃ、人がいるとは思ってなかったから」
ノックをしなかったことを言っているのだろうか。どうせ音楽のせいで聞こえなかっただろうから、どっちだって構いやしない。私はヘッドフォンを外して肩へ落とした。
「別に大丈夫。緒方さんに用事?」
「じゃなくて、忘れ物」
彼は部屋に踏み入れるとキョロキョロと辺りを見回して、それからテーブルの上にあった小さなものを手に取ると、あった、と呟いた。何となく、その姿を目で追ってしまう。彼の華やかな雰囲気のせいか、それとも。何だろう。
「これがないと調子出なくってさ」
くるりと彼の手の中で持て遊ばれたものには、グリーンアップルと書かれていてる。ガムか、もしかしたらキャンディかもしれない。
「みょうじは何してんの?」
「私はみんなの健康チェックシートまとめてるの」
「へえ」
パチリと一つ瞬きをした彼は私の手元を覗き込んで、それから顔をこれでもかと言うほどしかめた。
「何枚あるんだよ、それ」
「わかんない。人数分?」
「うわ、めんど」
「でもまあ、そんなに内容ないし、すぐ終わる、と思う、けど……」
だんだん自信がなくなって窄まる語尾に、彼は苦笑する。
「ま、頑張れよぃ。手、出せ」
何だろうか。手をそのまま差し出すと、そうじゃなくて、と私の手はぐるりと回され手のひらを上にされる。そして、落とされたグリーンアップルの何か。
「ガム? キャンディ?」
「ガム」
「そっか、ありがとう。ええと……」
呼ぶべき名前を頭の中で探してみるけど、やっぱり思い出せなくて私は言葉尻をさまよわせるしか出来なかった。
「もしかしてお前、俺の名前覚えてねえの?」
「えっと、あはは……」
「俺はお前の名前覚えたのに?」
困ったような、怒ったような顔をされたって、思い出せないものは仕方ないじゃないか。
「ごめんなさい」
「ばか」
パシリ、と後頭部を遠慮なく叩く彼。思わず痛い、と声を上げる私にもお構い無しのようだ。
「名前、何?」
「なんか教えんの癪なんだけど」
「じゃあ赤い人って呼んでいい?」
「やめろ、ばか」
パシリ。また叩かれる後頭部。ひどい。今日はやたらと人に怒られる日だな。
「名前教えてよ、赤い人」
彼は拗ねたような表情で、とん、と机の上の一枚の書類を指差した。それから、じゃーな、と振り向かずに部屋を出て行ってしまう。
残された私は書類を手にとって、そこに大きく書かれた名前を確認してみた。丸井ブン太、か。これが、赤い人の名前なのだろうか。
「変な、名前」
すべて良好のところに丸がついている彼の書類を一番上に置いて、私は少し笑う。奔放な筆跡は何だか彼らしい気がした。まだよく知りもしないくせに。
私は立ち上がって窓を開け放った。肺に新鮮な空気を流し込んで、息をつく。外の白樺の木々が日を透かして、まだらな木漏れ日を床に落としていた。遠くからは練習中のみんなの声が聞こえる。ただただ、綺麗な光景。
握りしめたままだったグリーンアップルのガムを口の中に放り込んだ。爽やかな酸味と、どこか懐かしい香りがする。好きな味だ。それなのに私の心臓は小さくきしむ。
私はどうしてか、あの苦かった恋を思い出していたんだ。
06 合宿編05