スイート・ハイプ!
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電話越しの大石の声が、ひどく懐かしく感じられた。
前にあったのは数ヶ月前、跡部主催の合宿でだ。あれからまだ数ヶ月しか経っていないだなんて信じられない。もうすっかり昔のことのように思える。それだけ忙しく過ごしたということだろう。いや、充実していたと言った方が正しいか。
「じゃあな、手塚。また連絡するよ」
「ああ。待っている」
返事から一呼吸、通話は切れる。
電話をデスクに戻して、俺は窓の外を仰いだ。眼下の通りはまだ正午の緩い空気に満たされているが、日本はもうすっかり夜だろう。東京の蒸し暑さが、あの煩わしい夜が、少しだけ恋しい。
『みょうじさんが一番泣いていたよ』
大石はそう言っていた。
そうか、彼女が。
俺のいない青学で、彼女はテニス部に随分馴染んだようだった。少し嫉妬のような感情がわだかまるのは、どちらに対してのものだろうか。自分でもよく分からない。ただ、うらやましく、寂しく思える。己でさえ自分らしくないと思うのだから、きっと旧友たちに話したら驚くだろう。とはいえ、話すつもりもないが。
近くに置いていたタブレットを手に取って、メールソフトを起動した。
少し迷って、慎重に言葉を選んでいく。これを読む彼女の心が少しでも軽くなればいいと思いながら。
いや、綺麗事か。俺はただ彼女に近付きたいだけの、諦めの悪い男なのだろう。彼女の存在を持て余しているのかもしれない。うまく手放せる日が来ればいいが、まだしばらくはそんな日は訪れないように思えた。
窓からは、湿った風が吹き込んでいた。午後からは、きっと雨になるだろう。
***
みょうじへ
連絡をするのは久しぶりだが、元気で過ごしているだろうか。
今年の日本は殊更暑いと聞いたので心配している。
ところで、大石から今年のインターハイの結果を聞いた。
みょうじの応援が、皆に取っても力になっていたようだ。
俺からも礼を言わせて欲しい。
ありがとう。
これからも力になってやってくれ。
きっと来年も君の応援が必要になるだろう。
こちらは日本よりずっと落ち着いた気温だ。
俺も一つ大会を終え、短い夏を楽しんでいる。
みょうじも残りの夏休みを楽しんで欲しい。
返事については気にしなくていい。
体に気をつけて。
手塚
***
朝起きて、はじめにメールに気がついた。
差出人は手塚くんだ。きっちりとした文章は簡潔で整然としていて、それにとても優しくて彼らしい。返事は要らないと書いてあるけれど、後でゆっくり返事をしよう。
とにかく身支度を整えなくてはとクローゼットを開いた。今日もずらりと並んだ高そうな服に、頭を悩ませる。跡部はどうしてもっと動きやすい服を用意してくれなかったのか。用意してもらった分際で文句を言うつもりもないが、少し不思議に思ってしまう。
「こう言う感じが好みとか?」
あり得る。なんでも高級嗜好そうだもんな、跡部は。いっそ、彼が一番好きそうなサテンのワンピースでも着てやろうか。鏡の前でワンピースを自分に当ててみて、苦笑する。
似合わない。
私はどうあがいても跡部の好みにはなれそうもない。なったところでなんなんだって話でもあるけど。バカバカしくなって、ワンピースを投げ捨て、代わりに私はショートパンツと白いシャツを引っ張り出した。
早く身支度を整えて、部屋を出なくちゃ。
***
準決勝の会場には、青学のみんなと一緒に行くことになった。応援席にも、みんなと一緒につく。もう試合がないから当たり前なのだけれど、ちょっと変な感じだ。それに、今から始まるのは青学の試合じゃない。応援をするにしたって、身の置き場がない感じがする。
「何ソワソワしてんの?」
越前くんに不審そうな視線を向けられて、私はだって、と唇を尖らせる。
「なんか、こう、落ち着かない。みんながこっち側いるし。それに、どっち応援したらいいかわかんないし」
「別に無理に応援しなくていいんじゃない?」
「え、まあ、そうかな?」
「ていうか、一生懸命応援されても先輩たちはフクザツな気分になるでしょ」
「そういうもん?」
「さあ? まあ適当に見てれば?」
「なんか越前くん適当だな」
「別にいいじゃん」
「そっか、いっか」
もうみんな肩の荷を下ろしているのだろうから、私も同じテンションでいいのか。
と、すぐ近くの席に、財前くんの姿が見えた。目が合ったと思ったのも一瞬。
すぐにそらされてしまう。
私がついた嘘のせいだろう。それを寂しく思ってしまうから、私という人間はどこまでも自分勝手だ。
「あ、なまえちゃんやん!」
私の姿を認めた小春ちゃんは、四天宝寺の一団から外れてこちらへとやってきた。ちょっとごめんなさいね、と私の隣の乾を押し除けて、私の隣に座る。
「うふ、また会えたわね」
「う、うん、そうだね」
「それで、どう? 何か進展はあったん?」
「進展って?」
「ラブアクシンデント!」
「いや、ないですね」
「ほんまにないん?」
「ないよ」
「んもう、財前ちゃんたらシャイなんだから!」
残念そうに肩を落とした小春ちゃんにも、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。多分、小春ちゃんは私と財前くんがうまくいったらいいと思っていたんだろう。
「ごめんね」
「急にどうしたん?」
「うん、色々。あの、」
財前くんにもごめんって伝えて。
そう言いかけて、口をつぐむ。そんなこと伝えられたって、財前くんは嬉しくないだろう。きっと、私の言葉なんて聞きたくないに違いない。
「何やってんすか」
唐突に背後から現れたのは、海堂くんだった。逆光に表情を隠した彼は、いつにも増して凄みを纏っているのだけれど、小春ちゃんは嬉しそうに、バンダナくん、と彼を呼ぶ。
「さっさと向こう戻ってください」
「きゃっ!」
海堂くんは小春ちゃんの襟首を掴んで、ひょいと放り投げてしまった。投げられた小春ちゃんはと言えば、何故だか少し嬉しそうだし、心配はなさそうだけれど。
「それじゃあまたね」
彼は元気に投げキッスを一つ飛ばして、四天宝寺のみんなの方へと戻っていく。彼を見送った海堂くんは、渋い顔だ。
「油断も隙もねえな」
重い息を吐き出しながら、独り言をこぼした。
「別にあのままでもよかったのに」
「いいわけないじゃないっすか」
「悪い人じゃなさそうだけどな」
「悪い人じゃないっすよ」
「でしょ」
「でも、面倒な人ですから」
「あはは、海堂くん、案外小春ちゃんのこと好きでしょ」
「おいやめろ」
「うんうん、ごめんね」
私の適当な返事に、海堂くんは怒ったような困ったような複雑な表情を浮かべた。きっと、私の言った『好き』が図星ではあるんだろう。
「あんたは黙って守られてりゃいいんだ」
海堂くんは、小さな声でポツリとそうこぼす。
「え」
「あ、いや」
あ、今の聞かなかったことにしたほうがいいやつ、なのかな。
守るって。守ってくれるって。嬉しいけどくすぐったくて、私はどんな顔をしていいかわからない。海堂くんはきっと合宿のあの日からずっと義務感みたいなものを感じてくれているんだろうけれど、それでも。
「なんでもないっす」
「う、ん。そろそろ海堂くんも座ったら?」
「……そうっすね」
多分、聞こえちゃったの、彼もわかっているんだろう。でも、なにも言わないほうがいいのだと思う。
私は前に向き直って顔の熱を逃がそうと手で自分を煽いだ。そんな弱々しい風じゃ、なんの役にも立ちそうにはなかったけれど。
68 インターハイ編29