スイート・ハイプ!
Name Setting
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
あんなに泣いたのにお腹は減るし、結局昨日と変わらない夕食を取って、みんなとくだらない話をした。例えば、乾がホテルの壁に数式を書こうとしてみんなに止められたとか、桃城くんの寝言が大きすぎて同室の人たちが飛び起きたとか、そんな話。なんだか負けてしまったことが夢だったみたいに思えた。
それでもふとした瞬間入り込む沈黙に、喉の奥を締め付けられるような気分になる。
笑うのが辛くなる前にと、私は早々に食事を終えて一人で部屋に戻ることに決めた。
乾に先に戻ると伝えて席を立つと、気がついた桃城くんが私を振り返る。
「みょうじ先輩、どこいくんすか?」
「もう部屋戻ろうかと思って」
「俺、送ってきますよ」
「いいよ、すぐそこだし」
「いやでも、色々あるかもしれないじゃないですか」
「ホテルの中で?」
「あるんすよ、それが」
困ったような表情になった桃城くん。彼の言う『色々』に想像が及ばなくて、私は首を傾げる。
「桃城くん、まだご飯中じゃん。大丈夫だよ。なんかヤバそうだったら走って逃げるから」
ていうか、何もないと思うけど。
「あー……、じゃあ、誰かに声かけられても部屋まで逃げてくださいね! 特に財前とか」
「財前くん、って」
あ、そうか。これは、知ってるってことかな。
「財前くんからなんか聞いた?」
「え、いやあ、偶然にっていうか」
「……へえ」
「別に、大した話は聞いてないっすよ」
なるほど。桃城くんはあれとかそれとか運命の人とか、全部知ってるってことか。特別隠さなきゃいけないことでもないのだろうけど、落ち着かない気持ちにはなる。
不意に、桃城くんの隣の不二くんもこちらを振り返ってにこりと笑った。
「二人はなんの話をしてるんだい?」
「な、んでもない! ね、桃城くん」
「そ、そうっすよ、はは……」
「じゃあ、また明日ね。おやすみ!」
言い捨てて私は食事会場を足早に後にする。桃城くんが私を呼んでいたような気がしたけれど、聞こえなかったことにしておいた。
とにかくこれで窮地は脱したわけだ。
とはいえまだ眠る気分でもないし、少し歩こうかと言う気になって適当に階段を降りてみる。
大浴場を通り過ぎていくらか歩くと、エレベーターの前へたどり着く。
そうか。ここ、初めて財前くんに会ったところだ。なるほど、こう繋がっていたのか。今更ながらにホテルの地図を頭に描きながらベンチへと腰をおろす。
プールが近いせいなのか、ほんのり塩素の匂いがした。夏らしいな、なんて平凡な感想が脳に滴り落ちていく。取り留めない。そう、今の私はとても取り留めないし、もっと取り留めなくなりたい。無性にヘッドフォンが欲しかった。
「みょうじさん」
私を世界に引き上げるように、嫌に明瞭な声が名前を呼ぶ。
廊下の曖昧な光の下に、財前くんが立っているのが見えた。出来すぎた偶然だ。桃城くんは予言者みたい。
「財前、くん」
とっさに私は腰を浮かせる。桃城くんのいう通りにしようと思ったわけでもないけれど気まずいのは確かで、逃げ出したくなったのだ。けれど、財前くんが私の進路を阻むみたいに立っていて、私は中途半端に動かした重心を元に戻すしかなかった。
「逃げんといて」
釘を刺すみたいにそう言って、彼は私の隣に座る。けれど、何か話すでもなく、私たちは味気ない壁紙を見つめるだけ。
結局、この空気に耐えきれなくなったのは私の方だった。
「ここに用でもあった?」
「別に。あんたが見えたから追いかけてきただけ」
「何か用事?」
「いや、少し話したかっただけやねんけど」
「財前くん、案外おしゃべり?」
「ちゃうわ」
「いや、話したいって自分で言ったじゃん」
「そう言うことちゃうやろ」
呆れたように息をついた彼は、やっぱり正面の壁紙を見つめたままおもむろに口を開く。
「青学、残念やったな」
「あ、うん」
「……ベスト8おめでとう。一応言うとくけど、皮肉やないで」
「あ」
そうか。
負けちゃったんだって、そんなことばかり考えていたけど、ベスト8なんだ。たくさんある高校の中で、上から8番。すごいことなんだ。そっか。胸をはらなくちゃいけないんだ。
私もみんなにちゃんとおめでとうって言わなくちゃ。
「ありがとう、って私が言うのも変だけど」
「東京から大阪まで来て応援してる時点で、十分ありがとうって言う資格あるやん」
「そうかな」
「せやろ」
なんでもないことみたいに即答されて、私は思わず彼を省みた。誰かから見た私がちゃんと青学の一員に見えていることは、とても嬉しい。何もできなかった私が、青学のひとりとして何かを成し遂げた顔なんかできるはずはないけれど、それでも。
「なんか、ありがとう」
「なんかってなんやねん」
「なんとなく?」
「アホやんな、あんた」
「ねえ、急なディスはやめてくんない?」
「あーはいはい」
「すごく適当にあしらわれている気がするんだけど」
「気のせいちゃう?」
馬鹿にするみたいに低く笑い声をたてる彼は、とても楽しそうだ。
エレベータで会ったときに『初めて会った気がしない』って言われたの、今なら少しわかる気がした。こう言う気安い雰囲気は結構好きだし、私も彼と話すのは楽しいみたい。
「四天宝寺は準決勝進出だよね。おめでとう」
「どーも。次は氷帝やし、青学の仇、先輩らが取ってくれるんちゃう?」
「いや、仇って。ありがたい、のかな」
「まあ俺は試合出ないから応援せんでええけど」
「あ、そうなんだ」
「一年やし補欠でもしゃーないやろ」
「え、財前くん年下?」
てっきり同い年だと思っていたのに。
「あんたは二年やろ」
しれっと答えた声に反して、彼はこれでもかと言うほど嫌そうに顔を歪めて呟いた。イケメンが台無しだ。
「そうだけど、っ、ふは、何その顔」
思わず吹き出してしまった私に、彼はますます眉間のシワを深くする。
「笑うなや、めっちゃムカつく」
「だって、すごい顔」
「うっさいわ」
「はいはい、ごめんね」
「誠意のない謝罪やな」
「大丈夫、めちゃくちゃ誠意あるって」
「どこがやねん」
「そっちこそ嫌に絡むじゃん」
「しゃあないやん。知れば知るほど、あんたは遠くなるし」
遠くなる。
彼が静かに告げた言葉を、なんとなく変な言葉だと思った。私と財前くんには、距離と言えるほどのものがまだ培われていないからだろうか。
「青学とかめっちゃ遠いやん。しかも年上で、なんや知らんけどすぐ逃げるし」
「ごめん」
「ごめんはええて言うたやろ」
「そうでした」
「それに」
彼はふいに私を視線で捉える。表情が抜け落ちたような顔の奥の感情に触れてしまいそうで、私はとっさに視線をそらした。
けれど彼が口にしたのは、私が思っていたのとは少し違う言葉だ。
「乾さんと付き合ってるん?」
「え?」
「試合の後、なんやそう言う雰囲気に見えたから」
乾は、そんなんじゃない。
私は乾がいなければだめになってしまうに違いないけれど、乾をそんな風に思ったことはない。乾をそんな風に思うことは、裏切りにさえ感じる。
でも。
ここで付き合ってるといえば、財前くんは私のことを綺麗さっぱり忘れてくれるんじゃないだろうか。今のままの、ただ他愛ない話をするばっかりの友達になれるんじゃないだろうか。罪悪感がないと言えば嘘になるけれど、財前くんに取っても中途半端にされるよりよっぽどいいかもしれない。
唐突な思いつきは、考えれば考えるほど良い案のように思える。私は少しだけ深く息を吸って、小さく頷いた。
「その、みんなには秘密にしてね」
私のついた辿々しい嘘にも、彼は息を飲んだようだった。
返事は、少しの沈黙を経て、静かに返ってくる。
「そういうことは、先に言うてくれへん?」
「ごめん、なんか、あの、タイミングなかったっていうか」
「……せやな。俺、一人で浮かれとったしな」
「え、あ、いや」
ごめん、とか、そんなことない、とか。何か言わなければと思う反面、何を言えばいいか分からなくて、言葉尻を迷わせるしかできない。そんな私を見下ろして、財前くんは小さく口元を笑みの形に歪めた。
「お幸せに」
多分、皮肉だった。