スイート・ハイプ!
Name Setting
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
不二くん。
遠い客席から、あの子が僕を呼んだような気がした。
呼吸のたびに、喉が焼けつくようだ。脳はすでに真っ白で、ただ体に命令されるままに手足を引きずっているに過ぎない。
脱水症状だろうか。それとも、疲労が積み重なった結果だろうか。ここまで来るのにずいぶん長かったから。
もしもここでラケットを手放せば、もう終わりにできるだろうか。終わらせてしまいたい。もう疲れたんだ。本当にそう言ったら、越前はまた『本気でやってよ』だなんて言うだろうか。手塚はどんな顔をするだろうか。
いや、本当は分かっている。
どうせ、僕は諦めきれない。彼らの背中に追いつくことを。ボールを追い続けることを。コートに立ち続けることを。たまに手放したくなったって、逃げ出そうとしたって、どうしたって、僕は。
ほら、今だって。
迷いなくボールへ飛びついて、擦りむいた膝に血が滲む。
「不二くん」
心配そうな声が僕を呼んだ。今度は、気がした、じゃない。本当にあの子の声。
客席を見上げれば、不安そうな視線で僕を見下ろしている。そんな、今にも泣きそうな顔をしないでよ。僕は、君のそういう顔が怖い。そうやって何にでも怯えて、すぐに離れて行こうとしないで。怪我を見るのが嫌なら、痛くないよって笑ってあげる。青学が負けるのが怖いなら、僕は負けない。僕らとの間に距離を感じるなら、僕が隣にいる理由をあげる。恋の話をするのが苦しいなら、君が望むまま友達でいてあげる。だから。
「大丈夫だよ」
呟いた声は、きっと届かなかっただろう。けれど、いいんだ。僕はこれでいい。
目を閉じる。深く吸い込んだ空気が痛い。むせ返るような夏の匂い。手には慣れたラケットの重さ。足はまだ地面を感じている。
感覚が、感覚だけが、明瞭に研ぎ澄まされていく。
***
ありがとうございました。
大きな声がコートに響いた。それが、終わりだった。
結果は、氷帝学園の勝ち。
青学のインターハイは、あっけなく終わった。終わってしまった。
ぬるい涙が頬を伝っていく。
多分、私は応援席の中でだって一番テニス部から遠い人間だ。それでも悔しくて、寂しくて、本当はもっと違う結果があったんじゃないかって、詮ない考えが手放せない。
「なまえちゃん」
タカさんが私の方に優しく手を置いた。じんわり暖かい感覚が伝わってきて、私はますます涙が止まらなくなってしまう。
「泣かないで」
「う、ん。でも。だって、みんなあんなに練習したじゃん。あんなに楽しそうだったじゃん」
「そうだね」
静かに頷いたタカさんの隣で、大石くんが目元の涙を拭ったのが見えた。
みんな、悔しいんだ。そうに決まってる。
私、見てるだけだったけど知ってるんだ。私が昼寝してる間に、漫画読んでる間に、みんながどんなに頑張ってたか。そんな姿が羨ましくて、眩しくて、仲間外れになったみたいに思えるくらいで。
「なのに、どうして報われないの。どうして」
タカさんも、大石くんも、桃城くんも、海堂くんも、みんな困った顔をしていた。
私だってわかってる。何を考えたって、言ったって、ここで終わりなんだってこと。結果は変わりはしないってこと。わかってるのに、考えちゃう。もしも、もしも、って。
ああ、今まで負けた人たちは、きっとみんなこんな気持ちだったんだろう。私、初めて知った。今まで私は、彼らになんと薄っぺらい言葉をかけてきたことか。
「あ」
大石くんがコートから戻ってきた選手たちを見て声をあげる。
涙でぼやけた視界に、少し驚いたようなみんなの表情が見えた。私が顔をぐしゃぐしゃにして泣いているのに驚いたのかもしれない。
「みょうじ」
まっすぐ私に向かって歩いてきた乾を見上げる。こんな時でも、分厚いレンズが乾の表情を隠していた。でも、きっと乾だって少しは泣いただろう。なんとなく、そう思った。
「ありがとう」
彼が言ったのは、たったそれだけだった。応援してくれて、かな。それとも、悔しがってくれて、かな。それとも、ただここにいることに、一緒にこの夏最後の試合を見届けたことにかもしれない。
本当に、本当に終わってしまったのだな。私はもう一度そのことを噛み締めて、頷いた。言葉は出てこなかった。代わりに、涙が後から後から溢れてくる。
乾は少しだけ唇の端に笑みを載せて、私の頭を撫でた。いつものそれがなんだか悲しくてたまらなくなって、私はほとんど体当たりするみたいに彼の胸に飛び込む。うえ、と小さな呻き声が聞こえたのは聞かないふりをした。
「お疲れ、さま」
なんとか絞り出した乾いた声。
不格好に震えたまま彼のウェアを掴んでいる私の手に、乾の大きな手が重なった。もう片方の手が私の髪をゆっくりすいていく。泣いてもいいのだと許されているような気になって、そのまま彼の胸に額を押し当てて泣いていた。
本当に泣きたいのは、彼の、みんなの方のはずなのに。ごめんね。そんな言葉も、嗚咽に飲み込まれて声にできない。
せめて顔を上げる頃にはうまく笑えるように、早く涙が底を尽きてしまうように、目一杯泣き声をあげた。
***
バスへの帰り道、乾に手を引かれて子供みたいにとぼとぼ歩く。なんだか情けない。本当なら、私が乾の手を引いてあげるくらいできるはずなのに。
何も言わない大きな背中を眺めながら歩いていると、空いていた手を掴む手があった。
「不二くん」
「嫌かな?」
「ううん」
「よかった」
短い会話。
彼はいつもと同じ凪いだ笑顔だ。気を使わせているだろうか。思って彼を見上げると、不意にぎゅっと手に力が込められた。
「負けちゃったね、ごめん」
声は、いつも通りの調子。お弁当にタバスコかけ過ぎちゃった時の不二くんと同じ声。でも、それよりずっと特別な言葉だ。そのくらい、私にだってわかる。
「ううん、謝ったりしないで」
「ありがとう」
「違うよ、お礼とか、いらない」
「どうして?」
「だって、私、何もしてない」
「そんなことないよ。観客席にいてくれるだけで心強かったから」
ありがとう。
不二くんはまたそう繰り返す。
彼も乾と同じだ。本当は悔しいし悲しいはずなのに、人のことばっかり気遣って、私のことばっかり甘やかして、自分のことは二の次にしてしまう。もっと自分本位でいいんだよって伝えたいのに、どんなふうに言えばうまく伝わるのかよく分からなくて、私は両方の手をぎゅっと握り返した。
「私、ちゃんと応援できてたかな」
「できてたに決まってるよ」
「できてたさ」
思わずこぼしてしまった不安に、不二くんと乾の声が重なった。
「うん」
頷いて、私は止まりそうになる足を前へと動かす。やっと引っ込んだはずの涙がもう一度溢れそうだったから、奥歯を噛み締めながら。
テニスコートを振り返ろうとは、思わなかった。
66 インターハイ編27