スイート・ハイプ!
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空の上にいたのは、ほんの短い時間だったように思う。タカさんや大石くんとおしゃべりしたり、ちょっと外を眺めているうちに関西空港に着いてしまった。東京と大阪ってこんなに近かったっけ。
空港にはすでに迎えの車が来ていて、ホテルまで連れて行ってもっらた。私は部屋着のままだったので外を歩き回らずに済むのはありがたいが、何から何まで先回りされている感覚が落ち着かなかった。それをタカさんたちに言ったら、『跡部だから仕方ない』の一言で済まされてしまったけれど。
ホテルに用意された部屋で、跡部に押しつけられた白いワンピースに着替える。そう言えば、青学ジャージは忘れてきてしまった。持ってくる余裕があればよかったんだけど、今回ばかりは仕方ない。家から持ち出したものといえば、財布と携帯だけだ。
それから、バスルームに用意されていたコスメの中からペールピンクのリップと日焼け止めだけを塗って、部屋を出た。きっとみんなが待っているだろうから、急がなくちゃ。
エレベーターを降りて、ロビーへ向かおうと思ったのだけれど。
「あれ?」
行きと違うエレベーターに乗ってしまったのだろうか。中庭のようなところに出てしまった。少しあたりを歩いてみても、元の場所に戻れそうにもない。こう言う時は。そう、早く連絡しろって大石くんに言われたっけ。
携帯を取り出して大石くんに電話をかけてみると、1コールで繋がった。
「はや!」
「部屋にいないみたいだったから、電話しようかと思ってたところだったんだ」
「そっか、ごめん。今、なんか変なとこにいる」
「変なとこって」
はは、と電話越しに大石くんが苦笑した。
私はあたりを見回して、目印になりそうなものを探す。
「中庭みたいなとこで、プールこっちって看板があるんだけど」
「ああ、反対側のエレベーターかな?」
「多分そう」
「迎えにいくから、動かないでくれよ」
「分かった、待ってるね」
絶対に動かないで、と念を押した大石くんは、私を幼児か何かだと思っているのだろうか。迷子の前科があるだけに、反論できないけれど。
とにかく、近くのベンチに座って大石くんを待つことにした。手持ち無沙汰になって、足をブラブラさせる。あ、そうだ。いつものヘッドフォンも忘れてしまったから、音楽も聞けないんだ。こんな時、耳に何か流し込んでるだけで気分も変わるんだけど。
周りに人がいないのいいことに、何か口ずさんでみようか、なんて考えが過ぎる。何がいいかな。
適当になぞり始めたメロディは、スタンドバイミー。不二くんが気に入ってくれてると知ってから、何度かお昼にかけたせいか、歌詞もスルスル出てくる。ベンさんみたいにうまくはないけれど、優しいメロディを一つずつ音にしていくと、それだけで落ち着く気がした。
不意にカタン、と音がして、私は口を閉じる。
誰かに鼻歌を聞かれるってすごく恥ずかしい。恐る恐る顔をあげると、鮮やかな色のジャージの男の子が立っていた。多分、同い年くらい。耳元でたくさんのピアスがキラキラ光っている。
「邪魔してすんません」
彼はそう言って私の方へ歩いてくると、無表情のままじっと私を見下ろす。
「あ、いえ」
他になんと言ったものか分からずに、私は彼をただ見上げた。彼も何か言葉をつなげるでもない。この状況がものすごく気まずいのは、私だけなのだろうか。
と、少し遠くから、私の名前を呼ぶ大石くんの声が聞こえた。助かった、と私は立ち上がる。
「それじゃあ、あの、失礼します」
振り返らずに声の方へと早足で向かうと、すぐに大石くんの姿が視界に入った。安心して、息をつく。
「ごめん、大石くん」
「いや、大丈夫だよ。エントランスで跡部たちも待っているから、行こうか」
「うん」
私が迷子になったと知ったら、跡部に馬鹿にされるだろうか。なんて言い返そうと考えながら、大石くんの背中を追った。
もう鼻歌を聞かれたことなんか、私の頭にはなかった。私を見下ろしていた彼のことも。
***
宙に浮いた自分の手。
足早に去っていった彼女を、引き留めようとしてできなかったそれを元に戻して、息をつく。
もしも引き留めることができていたら、俺はどうするつもりだったのだろうか。名乗って、それから連絡先を渡して。
考えてみると、ナンパみたいだ。
そう言うことがしたいのではない。ただ、彼女の口ずさむ歌があまりにも優しくて。だから。
だから、なんだって言うんだ。結局、また会いたいとか、その先を望むのなら、ナンパに違いあるまい。
「アホらし」
自嘲して、俺は踵を返した。そろそろ会場に戻らないと、試合が始まってしまう。別に試合に出るわけでもないし、あの先輩たちに限って初戦を落とすとも思えないが、応援席にいないければまたどやされるに違いない。何かと後輩に構いたがる人たちだから。
一度だけ、振り返ってみる。当然、彼女の姿はもうない。それだけで、なんとなくやりきれないような気分。今からでも走って追いかけようか。そんな、らしくない考えが浮かんでしまう。
思考を振り切るように、無理やりに足を前へを動かした。
「ざーいぜーん!」
廊下の向こうに金ちゃんの姿が見えた。迎えに来たのだろうか。無事に合流できたからいいものの、よりにもよって彼を迎えに寄越すなんて。部長に後で文句の一つでも言わなければと、俺は小走りに金ちゃんの方へと向かう。
これで、彼女に会うことはもうなくなってしまうのだろうと思った。きっと、しばらくは『もしも』を考えてしまうだろうけれど、それだけ。小さな思い出になって、きっとあの曲を聞くたびに彼女の姿を思い出すだけ。あの、小さくて、透明で、触れたら消えてしまいそうな姿を。
みょうじさん。みょうじさん、か。
聞こえた名前を覚えていたところで、何か意味があるだろうか。多分、意味なんかない。ただの感傷に成り果てるだけの音の塊。それでも俺は頭の中で繰り返してしまう。
みょうじさん。
彼女の、名前。
53 インターハイ編14