スイート・ハイプ!
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思い出すのは少し前の、初夏のことだ。
香港で、付き合いのある企業の創立3周年パーティーがあった。ホテルの屋上を電飾と花で彩り、BPMの早い音楽を大音量で流すそれは、普段の社交場より幾分か開放的で派手な雰囲気だった。まだ若い会社だからか、若いCEOの影響かもしれない。人々はアルコールを片手に騒いだり、プールに飛び込んだり、派手に騒いでいた。随分と蒸し暑かったので、プールに飛び込みたくなる気持ちはわからないでもなかった。俺も早々にジャケットを脱いでしまったことを覚えている。
引き止める女の手を適当に交わしながら、俺は端に置かれたソファーへと逃げ込んだ。愛想笑いにもそろそろ疲れてきた頃合いだったのだ。そこへ、真っ青なカクテルを差し出す手があった。
「ノンアルコールだから、安心して」
見上げた先でにっこりと綺麗な笑みを浮かべていたのは、萩之介。久しぶりの旧友の顔に、気が抜けたような、してやられたような気分になる。
「来るなら来ると言え」
カクテルを受け取れば、彼は悪びれた様子もなく俺の隣に腰掛けた。相変わらずだ。
「ごめんね、ちょっと驚かせてみたくて」
「知っていれば、時間を作ったんだがな」
「いいよ。どうせ忙しくしてるんでしょ」
「言うほどでもない」
「一般から見れば十分忙しいよ。少しは休まないと」
「自己管理くらいできる」
「それならいいんだけどね」
萩之介はため息を落として、俺から視線を外す。心配してくれているのはわかるが、実際、スケジュールはこなせる範囲で組んでいるつもりだ。人よりは多くをこなせるたちだから、忙しく見えるのだろう。
カクテルを口に含むと、シロップの甘さとライムの香りが一気に押し寄せてきた。
「それより、そっちはどうだ」
「テニス部なら順調だよ」
「そうか」
「インハイまでは、まあ、安泰でしょ」
「言うじゃねえか」
「ふふ、青学もいい仕上がりみたいだけど、負ける気はしないしね」
萩之介は静かに笑って、正面を見つめている。きっと、もう頭の中ではコートに立っているのだろう。
去年までは、俺もそこにいた。本当なら、ずっとそこにいたかった。けれど、家が、祖父が俺に『先延ばし』を許したのはたった一年。俺が望んだものに比べて、あまりにも短かい時間だった。今は、言われるがままに家のために学び、家のために働いている。けれど、ずっとそうしている気もない。解決法はもう分かっている。この一年でテニスと跡部家の後継としての仕事は両立できるのだと証明してやればいいだけだ。
来年は俺も日本に戻って、ラケットを握っているはずだ。きっと。いや、絶対に。
「青学と言えばさ」
萩之介の声に思考の糸を切られ、俺は彼を省みた。
「みょうじさん、元気にしてるみたいだよ」
「ああ? なんだ、藪から棒に」
「跡部、気になってるかと思って」
「なんでだよ」
しばらく脳味噌の奥の方に追いやっていた名前だったのに、聞かされた途端に合宿での記憶が一気に蘇る。不機嫌そうな顔ばかりこちらに向ける、どうにも噛み合わない女。顔を合わせるだけでイライラする女。
「彼女、人気者みたいだよ。観月ともデートしたってさ。うかうかしてるとあっという間に手が届かなくなっちゃうかもね」
「知ったことか」
「あんなに突っかかっていく跡部、初めて見たけど。気になってたんじゃないの?」
「どうだかな」
「そうやって意地張るとこはよく似てるね、二人」
反論か悪態か、何か言ってやろうと口を開こうとするけれど、萩之介はすっと立ち上がって、少し歩こうよ、なんて笑った。先を読まれていたようで気に食わず、舌打ちをもらすと、ほら、と手を差し出されて、渋々手を取って立ち上がる。
ゆっくりとプールサイドを歩き始めた萩之介の後ろについて、俺も歩き出した。水面がネオンカラーのライトを反射して、萩之介の髪を色とりどりに染めていく。ゆらゆら、揺れる光は美しい。
「そうだ。携帯貸してよ」
「構わねえが、何に使うんだ?」
「使わないけど、念のため」
「なんだそりゃ」
差し出された手が引っ込められる気配がないことにため息をついて、よくわからないまま彼の手に携帯を乗せる。すると、彼は携帯をすぐにポケットへと仕舞い込んで、綺麗に整えた爪を俺の肩に置いた。
しまった。
思った瞬間にはすでに萩之介の手に力が込められ、俺の重心がぐらりと傾く。
短い浮遊感。バシャンと水音が聞こえた気がした。冷たい水の感覚と、水色に染まった視界。畜生、やりやがったな。胸中で毒づいて、プールの床を蹴る。
水面から顔を出すと、上機嫌でこちらを見下ろす萩之介の顔があった。
「ふざけんなよ」
「そんな顔しないでよ。携帯には配慮してあげたじゃないか」
「携帯の前に俺に配慮しやがれ」
「たまには飛び込んでみるのもいいでしょ。素直になってみたら?」
俺を引き上げてくれるとでも言うのか、差し出された萩之介の手を、俺は思い切り引っ張ってやった。油断していたのか、彼は派手な水音を立ててプールへと落ちる。因果応報ってやつだ。
「跡部!」
「たまには飛び込むのもいいんだろうが」
「携帯は、」
「心配するな、防水だ」
言うと、彼はじろりと俺を睨んで髪をかき上げた。どうやら、やり返されたのがお気に召さなかったらしい。
「水も滴るなんとやらだな」
言い終わらないうちにばしゃりと水しぶきが飛んでくるから、思わず笑ってしまった。
***
飛行機に乗り込んだ途端、みょうじは大石と河村の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄っていった。一緒に応援に行けることにはしゃいでいるらしい。すぐに部屋着であることを指摘されて、顔を赤くしていたが。
「おい、そろそろ席につけ。時間だ」
俺の声に振り向いた彼女は、何を思ったか、俺のそばまでやってくる。
「私、窓際がいい。跡部、一個ずれて」
図々しい言葉に、面倒だと思いながらも席を立ってやると、彼女は俺の座っていた席に腰を下ろした。それから、ぽんぽんとその隣の席の座面を叩く。
「そこに座れってか」
「嫌なの?」
「何様だよ」
「別に」
ふい、と顔を背ける彼女だが、俺を嫌っているわけではないことはわかる。合宿の時からそうだ。嫌いだ、馬鹿だと、言葉では言いながらも、彼女は俺の隣に何食わぬ顔で座ったりするのだ。
とりあえず、彼女のいう通りに座ってやって、頑なにこちらを向かない横顔を眺める。
「跡部」
「なんだ」
「ありがとう」
小さな声で告げられた言葉に、自然と口の端が上がった。
「聞こえねえな。もう一度言ってみろ」
「絶対聞こえてたやつじゃん。絶対言わない」
「はっ、そうかよ」
笑い出したいのを堪えて、俺はシートベルトをしめた。
萩之介は俺と彼女が似ているだなんて宣ったが、俺より彼女の方が幾分かは素直らしい。俺は、言えそうにはない。東京に寄ったのはお前を迎えにいくためだとか、お前が喜ぶ顔が見れてよかったとか、そんな言葉は。
代わりに口をついて出るのは、益体もない悪態ばかり。
「可愛くねえな、お前は」
「うるさい」
「誰がだよ」
「跡部以外に誰がいるの」
「わざわざ人の隣に陣取っておいてよく言えるな」
「この席がいいだけだもん」
とうとうこちらを向いて、俺を視界に収めた彼女。表情はいつも通り不機嫌そうだったが、それでもいいと思う。悪くはない。
そうだ。たまには飛び込んでみるのも悪くはない。パーティーは楽しむものだ。なあ、そうだろう、みょうじ。
52 インターハイ編13