スイート・ハイプ!
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試合が始まれば、あたりは水を打ったような静けさだった。
コートの中だけ違う時間が流れているように、激しくボールが行き交っている。鋭い目でそれを追いかける不二くんにいつもの穏やかな雰囲気はかけらもなく、薄暗い中に浮かび上がるナイフみたいに冷たい色を帯びていた。
思わず掌に力がこもって、カシャリとフェンスが硬質な音を立てる。ただそれだけで、この空間の何かを乱してしまったような気になって背筋がヒヤリとした。
「緊張してる?」
隣の佐伯くんが、小さな小さな声で私にそう言った。そうなのだろうか。そうかもしれない。初めて触れる真剣勝負に、緊張しているのかも。
「うん」
「大丈夫、不二は勝つよ。見ててごらん」
私の手に手を重ねて、そっとフェンスから遠ざけて、佐伯くんは密やかに笑う。まるで、私にだけとっておきの秘密を教えてくれたみたい。未来がわかるなんてこと、あるはずないのに。
コートへ視線を移すと、ちょうど不二くんのボールが相手のコートを穿ったところだった。
「サーティ、フィフティーン!」
審判のカウントが響いて、私は詰めた息を吐き出した。
練習試合とは違う、もっとずっと重い何か。いつだって手を抜いている人なんかいないはずなのに、どうしてこうも違うのだろうか。
逃げ出したくなるような気持ちになって、それでも目を離す事はできなくて、私は佐伯くんの言葉を信じてここに突っ立っているしかできなかった。
***
ベンチに座って少し遠くのみんなの姿をぼんやり眺める。
佐伯くんの言った通り不二くんは勝った。それどころか、青学はあっさりと第一回戦の勝ちを決めた。
青学は名門だし、乾など前大会のサーブスピードの記録保持者らしく、雑誌の記者につかまって何やら話を聞かれている。みんなすごい人だったんだな、なんて改めて思ってしまった。
「こんなところにいたんだ」
不意に影がかぶさって誰かと顔をあげれば、佐伯くんだった。
「こっそり抜けてきたつもりだったのに、気づかれちゃったか」
「俺、動体視力には自信があるんだ」
「動体視力、関係あるかなあ」
「ないかな?」
不思議そうな顔をしながらも、佐伯くんは私の隣に腰を下ろした。多分ないと思うけど、広げたい話題でもなくて私は話の矛先を変える。
「佐伯くんは、時間いいの?」
「ああ、俺はもう団体戦負けちゃったしね」
「え」
「まだ個人シングルスの試合が残ってるけど」
「そっか」
「何て言おうか迷ってる?」
「うん、ごめん。いい言葉見つかんない」
「いいよ、別に」
さらりと笑って、彼は私の肩を叩いた。案外、優しくない力加減。見やった彼の横顔は綺麗だけれど、何だか男の子って感じがする。佐伯くんってこんな感じの人だったっけ。合宿の時を思い出そうとしても、穏やかに笑っている表情が頭の中でぼやけるだけで、あまりうまくはいかなかった。そういえば、一対一で話すのも今日が始めただったかもしれない。
「もしも負けた奴が自分以外の誰かに慰めとかフォローとかを求めるなら、それはそいつのわがままだよ」
「そういうもんかな」
「少なくとも俺は負けたって別に言葉なんかいらないし、弱かったって言われたっていい」
「そうなの?」
「そうさ。次は俺が勝つからね」
好戦的な言葉とは裏腹に優しい笑顔。多分だけれど、言葉が本音で、笑顔が装われたものなのだろう。彼の表情以上に、彼は負けたことが悔しかったのだろうと思う。悔しかったかなんて聞けるわけもないけど、私の知らないどこかで彼が本音を言えていればいい。六角の人たちはとても信頼しあっているように見えるから、私が心配するようなことなんかないだろうけど。
「佐伯くん」
「うん」
「個人戦も、頑張ってね」
「ありがとう」
私が選んだ無難なだけの言葉にも、彼は嬉しそうに目を細めた。ああ、眩しい。彼の笑顔って、何だか凄く眩しい。
それから、途切れた会話をどう繋ごうか迷っているうちに、いっちゃんがやってきて私たちの前で足を止めた。
「サエ、そろそろいきますよ。バネとダビデの試合、始まっちゃうのね」
「もうそんな時間?」
「ええ。みょうじさん、サエがお世話になりました」
「ううん、こちらこそお世話になりました」
いっちゃんに頭を下げると、佐伯くんはあはは、と楽しそうな笑い声をあげる。
「二人とも、俺の保護者みたいだね」
「サエも大概手がかかるのね」
「ひどいなあ、少なくとも剣太郎よりはちゃんとしてるだろ」
「剣太郎はあれでいて、割とちゃんとしてますよ」
ふふ、と笑ういっちゃんは少し佐伯くんをからかっているのだろう。愛のある戯れだ。
「それじゃあ二人とも、またね。黒羽くんと天根くんにもよろしくね」
「はい、また会いましょうね」
「じゃあね、みょうじさん」
そうして立ち去ろうとした二人だったけれど、いっちゃんが、あ、と声を上げて立ち止まる。
「サエ、せっかくダビデに習ったあれ、いいんですか?」
「そっか、忘れてた」
佐伯くんは私の方に向き直って、嫌に真剣な顔。なんだろう。彼は天根くんに何を習ったんだろう。
「テニスコートは定休日です」
「え?」
いや、今テニスしてたけど。なんの話だと目をパチクリさせると、いっちゃんが大きなため息をついた。
「定休日と庭球をかけてるのね」
「あ、そういう」
「……みょうじさん、いっちゃん、俺、もしかしてすべったかな」
「もしかしなくてもすべったのね」
「え、いや、あのなんかごめん」
「いや、こっちこそ。やっぱりダビデみたいにうまくはいかないみたいだ」
急に恥ずかしくなったのか、両手で顔を覆ってしまった佐伯くんがちょっと可愛らしく見えてしまって、思わず笑ってしまう。申し訳なくて無理やり笑いを噛み殺そうとするけれど、あんまりうまくいかなかった。
「結果的に笑ってくれたんだから、いいじゃないですか」
「うん、そうだよな」
二人の会話を聞くに、私を笑わそうとしてくれたのだろう。どうしてそう思ったのかはよくわからないけれど、ちょっと嬉しい。
「あの、ありがとう?」
「どういたしまして」
やっと笑顔を取り戻した佐伯くんに、いっちゃんも安心したように笑う。私も少し肩の力が抜けた気がしたから、やっぱり私は佐伯くんに言われた通り、緊張していたのだろう。私が試合をするわけでもないのに、全く困った話だ。佐伯くんはそんな私を全部お見通しだったのかもしれない。彼の動体視力とやらも、なかなか侮れないようだ。
「ありがとう、佐伯くん」
別のコートに向かう背中にはもう聞こえないとわかっているけれど、もう一度呟いた。
もうすぐ、第二回戦が始まる。
41 インターハイ編02