春のおはなし(全16話)
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公園の横に併設された小さなテニスコート。
俺が初めてここに来た時より少しコンクリートの灰色が目立つようになって、落書きはずいぶん増えた。よく会う面子はそれほど代わり映えしないけれど。
「お、来たな、神尾」
よう、と気安く俺に手をあげたのは、桃城だった。二年ほど前から現れるようになって、今ではもう常連と言って差し支えない顔。
「よう、杏ちゃんは?」
「今日はまだ顔見てねえな。そっちこそ、今日は一人か?」
「ああ。深司は後で来るかもってさ」
期待した姿がないことに少し落胆しながら、桃城に答えた。
高校に上がってから、杏ちゃんと会う機会はめっきり減ってしまった。仕方のないことだ。違う高校を選んだのだから。
正直、俺は高校を選ぶ時にとても迷った。橘さんを追いかけてテニスの強い学校へ行くか、杏ちゃんと同じ高校を選ぶか。どこでだってテニスはできる。橘さんのいない場所でどこまでできるか試してみるのもいい。そんな思いもあった。でも、そういう新しい挑戦だとか、恋愛だとか、そういうものが、もう一度橘さんと団体戦で優勝を目指したいという気持ちを踏みつけることなんて、あるはずはなかったのだ。俺は、みんなと一緒に橘さんを追いかけることを選んだ。きっと、秋の新人戦は中学の時と同じメンツで大会に臨めるだろう。待ち望んでいたことだ。俺は去年の選択を後悔したことはない。ないけれど、それでもずっと近くにあった存在が遠くなってしまったのは寂しいことだった。それが憧れていたあの子なら、尚更。
「ふーん、じゃあ今日はお前と二人か」
桃城は少し詰まらなそうに階段の上から俺を見下ろす。俺は足早に階段を上って、奴の隣をすり抜けた。
「なんだよ、俺が相手じゃ不満かよ」
「そうは言ってねえだろ」
はは、と声を上げて笑うこの男は、何かにつけて一歩俺の前を行っているようで気に食わない。気に食わないのだが、からりとした性格がどうにも憎めないのが困り物だ。
「お、そうだ。忘れる前に渡しとくわ」
ぽい、と投げるように渡されたのはコンビニの袋だった。覗き込んでみると、スナック菓子の類が適当に詰め込まれている。
「なんだよ、これ」
「みょうじ先輩がお前にってさ。カップ麺のお礼だっていえば分かるはずって言ってたけど」
「あ、そうか、あれか」
合宿の時に夜食のカップ麺を分けたお礼というわけか。あの後、ラインでも丁寧にお礼を言われたのに、わざわざここまでしてもらうだなんて。
「みょうじさん、元気にしてんのか?」
「まあ、あの人はいつもフラフラしてるけど、元気だよ」
「なんだそれ」
「たまに練習見にきてくれるし」
「へえ、インハイも応援来るって?」
「多分行くって言ってたけど、どうだろうな」
桃城はそう言って肩を竦めたけれど、俺はなんだか少し羨ましかった。中学の頃、よく杏ちゃんが練習見にきてくれたり、大会に応援に来てくれたりしたっけ。もちろん今だって応援してくれているには違いないけれど。それどころかフォームを注意されたり、ペース配分考えなさいよ、なんてアドバイスさえ受けるわけだけれど。
「なんか、いいよな」
「ん? 何がだよ」
「応援してくれる人が近くにいるってのがさ」
「まあ、俺らはまだ応援する側だけどな」
「確かに」
応援されるにもまだ足らない俺たちは、この観客のいないコートで打ち合うしかできない。
がさりと手の中のビニール袋が音を立てた。俺がもっと大きな舞台に立つときは彼女も俺のことを応援してくれるだろうか。そんなことを思って、鞄をベンチにおいた。
ナイターのささやかで真っ白な光が、いやに眩しかった。
***
6月に入って、教室にも夏服が目立つようになって来た。
部活を終えた俺は、第二多目的室へ向かう。そっと戸を引いて、部屋の中へ滑り込んだ。想像通り、ブランケットに包まってゆっくりと寝息を立てている彼女。起こさないように足音を忍ばせて、そっとコルクボードの方へと向かった。数学部の部員が置いていったメモを眺め、いくつかに答えを書き込む。一つは少し考える必要があるようだったから、ノートの端に問題を書き写しておいた。
彼女は、まだ起きる気配もない。もう少し寝かせておいてあげようかと、彼女のそばに腰を下ろした。無造作に流れた金色の髪の根本は黒い部分が目立ち始めている。最近は忙しかったようだから、髪に構う時間がなかったのかもしれない。
そう言えば彼女と初めて会ったのも、ここだった。多分、今日と同じように夕方で、同じように綺麗な赤色の空だったはずだ。数学部の友人に頼まれて作った問題を持って来た俺を迎えたのは、友人ではなく無愛想に俺を見返す彼女だった。
「誰?」
「一年の、乾貞治だよ」
「ふうん」
「君は?」
「みょうじなまえ」
至極興味のなさそうな返事。けれど、今とは違ってまだ彼女の寝床は整っておらず、彼女はただ窓際に置いたパイプ椅子に腰掛けて、誰かの作った問題を眺めていた。内容に視線をやれば、俺にはすぐに答えがわかる代物だった。よくあるテンプレートの問題だったのだ。
「フィボナッチ数列の簡単な応用だね」
「え、なんて?」
聞き取れなかったのか、首をかしげた彼女に、もう一度フィボナッチ数列だ、と繰り返すと、ふうん、といかにも適当な返事が返ってきた。
「こういうの好き?」
「ああ」
「じゃあ、あげる」
ぽいと興味のかけらもなく放り出された紙を手に取って、歪な手書きの四角のなかに34と答えを書き込む。
彼女はそれを一瞥して、はや、と小さく呟いた。
「法則性がわかれば簡単だよ。教えようか?」
「いいよ、私ばかだからきっとわかんないもん」
「数学部だろ、興味はないのかい?」
「部室が気に入ってるだけの幽霊部員だよ」
「そうか、それは残念だな」
不意に彼女の手が伸びてきて、俺から紙を奪って行く。何かが見えるわけでもないだろうに、それを日に透かした。
「乾、くんだっけ」
「うん」
「数学部?」
「いや、テニス部だよ」
「そっか。それは残念だなあ」
先ほどの俺の言葉をなぞって、彼女はふふ、と小さく笑った。
「みょうじさん。変わってると言われたことがあるだろう?」
「何それ、なんか変だった?」
「変と言えば、初めから少し」
俺の素直な感想に、彼女は眉をしかめて軽く俺の脛を蹴る。
「乾くんきらい」
「そうか」
「何笑ってんの、ばか」
じとりと俺を睨む目にはしかし、どこか好奇心の色が浮かんでいるように見えた。
「また来るよ。次はフィボナッチ数列について教えよう」
「どんだけ教えたいの」
「面白いよ」
「いらない」
拗ねたように言った彼女。けれど、数日後の俺の説明になんで、どうして、と楽しそうに追求してきたことを思えば、彼女は初めからあの紙に書かれた問題が気にかかっていたに違いない。
「いぬ、い?」
ブランケットの中の彼女が、のそりと身じろきをして、視線で俺を捉えた。あの日より少し大人びたその顔。けれど、中身はちっとも変わらないように思う。素直じゃなくて、不器用で、けれど愛すべき、子供と大人の間の少女。
「おはよう、みょうじ」
「おはよ」
「みょうじ、フィボナッチ数列を覚えてるかい?」
「あー、あれでしょ。その数はその前の、えっと、二つの数を足した答えってやつ」
「よく覚えてたな」
「一年の時、乾が無理やり私に教えたんじゃん」
「無理やりだったかな」
「無理やりだったよ」
起き上がった彼女の前髪を指先で直してやると、彼女はくすぐったそうに笑った。
「ちょっと面白かったけどね」
「それはよかった」
近くに丸めていたカーディガンを羽織って、彼女はそう言えば、と俺に向き直る。少し真剣になった表情。
「都大会、準優勝だったって聞いたよ。おめでと、でいいのかな」
濁された言葉は、結果が優勝ではなかったせいだろう。黒星をつけてしまったことに悔しさが残るとは言え、十分に良い結果には違いないけれど。
「ありがとう。関東大会は応援に来てくれるって聞いたよ」
「うん、タカさんと大石くんと行く予定」
「面白い試合が見せられるように努力するよ」
「いいよ、そんなの。面白くなくても、乾のしたいようにしなよ」
一年の時より少し柔らかく笑うようになった彼女。
「ありがとう」
頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じた。まだこうして彼女を妹のように扱うことを許されていることが嬉しい。もしも、彼女にパートナーができたら少しは距離を取れと言われてしまうだろうか。そんな日がいつかは来るとしても、まだ先のことであればいいと思ってしまう。
愚かにも、思ってしまうのだ。
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