合宿編(全22話)
Name Setting
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
バスの席を選ぶ時、私は当然乾の隣に座ろうと思っていた。他は知らない人だし、少し恨み言でも聞いてもらおうと思っていたのだ。けれど乾は自分の隣を荷物で塞いで、犬でも追い払うように手を振った。
私を無理矢理連れ出したのは乾のくせに、ひどいやつ。もう知らない。そう思って一番後ろの端に一人で陣取っていると、私の隣に腰を下ろす人がいた。
生徒会長、いや、もう違うのだったか。そう、手塚くんだった。
正直気まずい。『隣、いいか』『どうぞ』以降、会話がない。私はコミュニケーションが苦手だし、手塚くんは硬い表情で前を見据えたまま微動だにしない。他にも空いた席があるのに、どうしてわざわざ私の隣で難しい顔をしているんだ、この人は。
気づかれないようにこっそりため息をついて、ヘッドフォンで耳を塞いでしまおうとした時。
「みょうじ」
小さいけれど、凛としてよく通る声。
話しかけられるとは思っていなかった私は、ヘッドフォンを肩に落として隣の手塚くんを振り向く。
「今回は無理に頼み込んで、悪かった。しかし、こうなったからには共に努力できれば嬉しい。3日間、よろしく頼む」
なんだか朝礼の挨拶みたいなセリフに、私は、あ、はい、と間抜けな返事しか返せなかった。もしや、この話をするためにこの席を選んだのだろうか。だとしたら律儀にもほどがある。
どうしよう、私も何か頑張ります、的なことを言った方がいいのかな。いや、私には頑張る気はあんまりないぞ。いや、でも。
そう逡巡しているうちに、先に口を開いたのは手塚くんの方で。
「音楽を聴くつもりだったんだろう。そうしてくれて構わない。時間を取らせたな」
「あ、ううん。ありがとう」
「礼を言われるようなことはしていない。気にしないでくれ」
「うん」
本当はもう少しおしゃべりしてみたかったけれど、手塚くんの気遣いを無駄にしてしまうのも気が引けて、私はヘッドフォンに手をかけた。
おしゃべりしてみたい、か。なんだ。私も、友達、欲しいんじゃないか。
耳に響く重いベースの音に引きずられるようにして、目を閉じる。まどろんだ意識の中で、誰かが私の髪に優しく触れたような気がしていた。
***
夢を見ていた。高校に入る、乾に出会う少し前こと。
中学三年生の私が、教室で授業を受けている。国語の授業は退屈で、私は正面の男の子の背中ばっかりを見つめていた。
私は、彼が好きだった。休み時間に『今日は体育めんどくさいね』とか『ポッキー食べる?』とか『昨日ゲームしすぎて眠い』とか、そんな他愛ない話をしてくれる時間を大切にしていた。彼が笑ってくれるのが嬉しくて馬鹿みたいな冗談を一生懸命話した。他人から見れば滑稽だったかもしれないけれど、私は真剣だったのだ。
でもある日、友達に言われた。彼と付き合うことになったと。彼を好きなってしまったことを、どうしても言い出せなかったのだと。
私は『どうして』と言った。私の気持ちを知っていたくせに、どうして。そう言った。ずるい。嘘つき。どうして裏切ったの。泣きながら、彼女をそう詰った。
あの時より少し大人になった私には、それが裏切りでもなんでもないことがわかる。だって私と彼は付き合ってなんかなかったし、彼女にも、彼にも、自由に誰かを好きになる権利がある。その相手がたまたま私の好きな人と、私の友達だっただけ。
それなのに勝手に傷ついて、自分勝手に傷つけてしまった。私の中に残ったのは後悔と、漠然とした恐怖だけ。
夢の中の彼が振り返る。目が合う。ほんの小さく心臓が音を立てる。馬鹿みたいだ。
「みょうじ、今日、コンビニでじゃがりこの新味買ったから、後で毒味して」
「毒味って」
「やばそうな味だから」
いたずらを企む小さな子供みたいに笑う彼。ああ、こんな表情もまだちゃんと思い出せる自分が嫌いだ。
「やばそうなら買ってくんな、ばか」
「そう言いつつ? 興味が?」
「ない」
「あるって乗るとこだろ。とにかく、授業終わったらな」
言うだけ言って、彼は前に向き直った。こんなこと以前にあったかな。少し首をかしげると、まだ染めたことのない私の髪がサラサラ流れる。
あの日、やけくそになって吸ってみたタバコの味を思い出した。まるで自分の中の傷をえぐるように幾度も幾度も繰り返し思い出して噛み締めているあの味。
私はシャーペンをノートの上に放り出した。夢だとわかっているのにノートを取るなんて馬鹿らしい。もういい。早く目が覚めないかな。そう、思った。
***
「手塚、何をしてるんだい?」
乾の低い声に、思わず手を止めた。少しだけ焦ってしまった自分がいる。別にやましいことはしていないが、少しの下心があったことは否めない。
「いや、何も」
彼女の髪に触れていた手を肘掛に戻して、前の席から顔を出す乾に視線をやる。いつもの平坦な表情。俺を咎める色はないように思えるが、実際はどうだろうか。
「久々に会うんだろうし、手塚の気持ちもわからないではないけど、彼女はパーソナルスペースの広い人間だよ。不用意に距離を詰めようとすれば嫌われてしまう」
「……覚えておこう」
「ああ、そうしてくれ。まずは友達から。その約束は守ってほしいな」
「ああ」
気持ちを落ち着けるように、深く息を吸った。
中学の頃、彼女に片思いをしていた。
いや、片思いと言えるほど確かな気持ちではなかったのかもしれない。話したこともなかったし、目があったことさえなかった。ただ、校舎で彼女を見かける度に目で追いかけてしまうだけ。ただ、喧騒の中から彼女の笑い声を拾ってしまうだけ。そんな、淡くて美しいだけの思いだった。
ドイツに行ってからも数ヶ月は忙しく過ごし、彼女を思い出すこともなかった。
けれど、何か大事なものを置いてきてしまったような気になっていたのも確かだった。その正体を知ったのは、乾からの電話で彼女の名前を聞いた時。彼女にもう一度会いたいと思った。次に会えたら、きっと目が合う。きっと言葉を交わせる。きっと、きっと。
そうやって思いを募らせているうちに、跡部から今回の合宿の話をもらった。日本に帰る時にどうにかして彼女に会えないかと乾に相談して、そして今日を迎えた。
「乾、彼女は……」
「変わってしまったように見えるかい?」
美しい黒に輝いていた髪は以前よりずっと短くなった。人工的な金色に染められたせいで少し痛んでもいる。快活に友人たちと笑っていた表情には少し影が差して、うつむきがちになってしまった。
けれど、あどけない寝顔は。
「いや、変わっていない」
「……ありがとう、手塚」
乾の言う『ありがとう』が彼女と乾の信頼を示しているようで、少し俺を複雑な気持ちにさせる。俺が日本にいなかった1年と少し、彼らがどんな時間を過ごしたのか、俺には計り知ることさえできない。ドイツに行ったことに後悔はないが、少し羨むくらいは許されるだろうか。
車窓の景色は、止まる事なく流れていた。
03 合宿編02