春のおはなし(全16話)
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最近の部活は、ほんの少しだけ雰囲気が変わったみたいに思える。幸村部長や柳先輩は機嫌がいいし、逆に丸井先輩はちょっと調子が悪そうだ。かと言って、それがはっきりとした変化というわけではなく、なんとなくそんな感じっていうだけ。
「なんつーか、なんなんすかね?」
「いや、何が言いたいんだよ、赤也」
ぺしりと軽く俺の頭を叩いたジャッカル先輩は、ベンチに腰掛けたままなんでもない顔。
「なんか、変じゃないっすか?」
「何が?」
「わかんねーけど」
「なんだそれ」
はは、と軽やかに笑って俺の言葉を流すこの先輩は、本当にわかっていないのか、それとも何もないことにしたいのだろうか。
「俺、嫌なんすよ」
「だから、何がだよ」
「変わるのが、嫌なんす」
今が一番いいと思う。もちろん早く公式試合に出たいとか、もっと強くなりたいとか、そういう変化は望んでいる。けれど、そうじゃなくて。例えば、幸村部長が入院してた間の部活のピリピリした空気とか、重苦しさとか。幸村先輩が完治のためにアメリカにいた半年の静かすぎる感じとか。そういうのが何かのきっかけでまた来てしまうんじゃないかってビビってんだ。情けねえの。
「お前なあ。何が変わるっていうんだよ。それに、んなこと言ったって、仕方ない時はあるだろ」
「そう、かも知んねえけど」
「けども何もねえよ」
「けど、」
「何に駄々こねてんだか知んねえが、なるようにしかならねえもんだろ」
ずっとそうだったろ。
そのジャッカル先輩の言葉は、どんと構えているようにも聞こえるし、諦めて逃げているようにも聞こえる。たとえどっちなのだろうと、俺には真似できそうもないが。そもそもからして、こんなぼんやりとした不安を誰がわかってくれると言うのか。
あの人だったら、なんと言うだろうか。不意に思い浮かんだ、情けない顔。ビビリで気が小さいくせに、たまに口が悪くて、すぐはしゃいで子供っぽくて、それから優しく笑う彼女。彼女なら。そう考えてみても、彼女のことを一個も知らない俺は、彼女の言葉を少しも想像できない。
なんだか馬鹿らしくなって、ベンチに背を預けて空を仰いだ。空の色は春先より少し濃くなって、夏を予感させる。
「あー、テニスしてえ」
「しろよ」
「一年は素振りばっかなんすよ」
「お前はたまに練習試合させてもらってんだろ」
「一年エースですから?」
「レギュラーになってから言えって」
「秋の新人大会では即レギュラーっすよ」
「おう、頑張れよ」
クッと喉の奥で笑うジャッカル先輩は余裕たっぷりで、悔しいけれどかっこいい。うちの先輩たちは、みんなそうだ。みんな俺より大人でテニスがうまくてかっこいい。ずるい。いつか全員ぶっ潰してやる。
じゃあな、と立ち上がった背中は嫌に大きく見えて、俺は舌打ちをした。
あーあ、なんだよ。やっぱり、俺一人焦ってビビってるだけなのかな。馬鹿みてえ。なあ、あんた、どう思う?
想像の中のみょうじさんに話しかけてみても、やっぱり彼女はふわふわ曖昧に笑うばっかりだった。
と、遠くで真田副部長が俺を呼ぶ声が響き渡る。やば。早く行かなきゃまたどやされる。あの人はいつまで経っても変わらない。少しは丸くなればいいものを。
「はいはい、今行きますよ!」
叫ぶように言って、俺もベンチを後にした。
***
母さんに買い物を頼まれるのは、よくあることだった。昔から少し抜けたところのある人で、ことあるごとに『あれ買い忘れちゃった。虎次郎ちょっとおつかいいって来てくれない?』なんて言う。買い物に行くこと自体はそれほど苦でもないのだが、いつまで経っても改善しない母のうっかりに少し心配になったりもする。
今日もまた例によって買い物を頼まれ、近所の商店街までネギを買いに来た。八百屋でネギを手に入れてから、思い立って少し遠回りをする。目的はいっちゃんの実家の食堂だ。この時間なら顔でも見れるかなと思ったのだが、大当たりだった。ちょうどいっちゃんがほうきを持って出てきたところ。
「やあ、いっちゃん。今日も手伝い?」
「そうですよ。サエはお買い物?」
「うん、いつものやつ」
「おばさん、相変わらずなのね」
「本当、困った物だよね」
「でも、おかげで僕はサエに会えましたよ」
にこにこ、嬉しそうに笑っていっちゃんがそう言うものだから、俺が女の子だったらいっちゃんが初恋だっただろうか、なんて馬鹿な想像をしてしまった。
「緑茶くらいしかないけど、寄っていって」
彼はほうきを壁に立てかけると、店の戸を引く。ありがとう、と彼の背中に続くと、中には見慣れた背中があった。ダビデだ。珍しいこともあったものだ。
「あ、サエさん」
「ダビデ、久しぶり、でもないか」
「ああ。先週、みんなで海に遊びにいったばっかりだ」
彼の手元にはノートと教科書が広げてあり、勉強していたことが伺えた。
「何してるの?」
隣に座って覗き込むと、どうやら日本史らしい。
「明日、小テストがあるんだ。姉貴と姉貴の友達が来てるから、家じゃ集中できなくて。夕方の営業始まるまでここにおいてもらうことにした」
「なるほど。ちゃんと勉強もして偉いな」
「うちの学校は、成績下がると試合に出してもらえないんだ」
唇を尖らせて不満そうに言うダビデに、思わず笑う。六角にいたころはずいぶん緩かったから、今が少々不自由に感じてしまうのは仕方のないことだろう。
カウンター越しにお茶を置いたいっちゃんも、カウンターに肘をついてクスクス笑った。
「ダビデ、勉強も大事ですよ」
「わかってる。でも」
素直に頷くダビデに、俺といっちゃんはこっそり視線を交わす。
そうだ。でも、の続きは、俺もいっちゃんも、ここにいないやつだってみんなよくわかっている。どうしたって、みんな一緒だったあの頃を懐かしく思ってしまうのだ。
「……合宿は楽しかったよね」
またみんな一緒にテニスができたことが嬉しかった。俺を、俺たちを六角の連中と呼ぶ奴がいることが嬉しかった。まだ俺は、みんなと過ごした時間を額縁に入れて眺める気にはならないのだ。まだここにちゃんとつながっている糸があるのだと思っていたい。
「そうですね」
いっちゃんはゆっくり頷いて、お茶を一口。
「そう言えば、みょうじさんは元気にしてるかな」
ダビデが不意に口にした名前。みょうじさん。そう言えば、関東大会では青学の応援に来るのだろうか。運が良ければ会えるかもしれない。ダビデのダジャレに笑った彼女の何気ない笑顔を思い出して、ダジャレとかそういうの好きなのかな、と思い当たる。
「関東大会始まるまでに、ダビデにダジャレでも習おうかな」
「サエ、急にどうしたの?」
「ん? ただ、誰かが笑ってくれるのっていいじゃない」
「よし、とっておきを教えて進ぜよう」
目を爛々とさせて俺に向き直ったダビデに、いっちゃんは大きなため息を落とした。
「ダビデはまず勉強を終わらせてから」
「……うい」
肩を落としてペンを手にしたダビデ。俺はお茶を片手に、そろそろ帰らないと母さん心配するかな、と思いつつも、まだ立ち上がる気にはなれなかった。どうせ、もうすぐお店も開店時間だ。それまでは、ゆっくりして行こうかな、なんて。
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