春のおはなし(全16話)
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やばい。何がやばいんだか分からないけど、とにかくやばい。
思わず潜りこんだテーブルの下で考える。あの人に見つからずにこのカフェを出るにはどうすればいいのか。私が身じろきをするたびにテーブルがガタガタ音を立てていた。ああ、もう静かにしてってば。
「一体、何をしているんですか」
テーブルの下を覗き込んだ観月くんのうろんな視線。ありありと軽蔑の色が浮かんでいる。
「あの、ええと、ちょっとこう、狭いところが恋しいな、なんて」
「そうですか。どうでもいいから、店員さんに注意される前に出てきて下さい。みっともない」
「だ、だめ、今はだめ」
「出てきなさい。それとも蹴飛ばされたいんですか」
すっと目の前に観月くんの靴の先が突きつけらて、私は震える。観月くんのことだ。きっと本気で蹴飛ばすに違いない。どうやらテーブルの下も私の安全地帯ではないみたいだ。
「……このくらいじゃダメかな」
テーブルから顔半分を出して言えば、観月くんはふん、と鼻で私を笑い飛ばした。
「いいわけないでしょう」
「ですよね」
「きちんとお座りなさい」
「……はい」
仕方なく座り直して、観月くんの影に入るように身を縮こめる。どうか、あの人が私に気付きませんように。私にはそう祈るしかできない。
「それで、どうしたんです?」
「どうって、別に」
「別に? 何の理由もなくそんな奇行に?」
「いや、だって、」
観月くんの背中の向こうであの人がテーブルを立つのが見えたから、私は返事をするどころじゃなくなってしまう。あ、やばいやばい。こっち来る。なんで。あ、あっちの奥がトイレだからか。どうしよう、なんかないかな、顔だけでも隠せれば。
「あれ、みょうじ?」
ああ、もう。やっぱりこうなっちゃうのか。
「……ひ、さしぶりだね」
おずおずと顔をあげると、中学の時より少し大人びた彼と目が合った。屈託なく笑う表情は、あの時とちっとも変わらない。
「うん、久しぶり。こんなところで会うなんて思わなかった、って、あ、そっか。ここ、ケーキうまいって評判だもんな」
「あ、はは、うん」
うんって、何それ。私は自分のつまらない返事に苦く笑ってしまう。もう彼を直視できなくて、テーブルの上の自分の拳に視線を落とした。さいあく。さいあくだ。今なら、中学の時よりはうまく彼に笑えると思ったのに。
ぎゅっと握り締めた私の手に、ふと重なる私より大きな手。観月くんの手だ。こんなにきれいな癖に、ちゃんと男の子の手だと思えるから不思議だ。
「お友達ですか、なまえさん?」
観月くんはなんでもない顔で私と彼を見比べていた。なまえさん、なんてさらっと呼んで、観月くんは演技派だ。私なんて、表情一つ繕えないのに。
「あ、中学の時の友達です、ただの友達!」
彼は少し慌てたようにそう言って、邪魔してごめんな、元気そうで良かったよ、と足早に私たちのテーブルから離れていく。その足音が喧騒に消えていくのを聞いて、私は手から力を抜いた。同時に、観月くんの手もするりと私の手の上から去ってく。
「ごめん。そろそろ出ようか」
こんな気まずい空間にいたくはなかった。あの人の視界に入らないようにビクビクしながらお茶なんて、とてもできやしない。そう思ったのに。
「何を言ってるんですか。まだ紅茶が残っているのが見えませんか?」
「え、でも」
「背筋を伸ばしなさい。誰よりも堂々としているべきですよ、君は」
「観月くん、は、何か知ってるの?」
「いいえ。ただ、逃げ出すなんてプライドのないことをみょうじさんにして欲しくないだけです」
にこりともせず、悠然とティーカップを持ち上げる彼。私も真似して、背筋を伸ばして、指先まで揃えてティーカップを持ち上げる。
きっと観月くんほどうまくは出来ていなかったけれど、彼が緩やかに笑ってくれたので、これでいいんだと言われているように思えた。だから、私もぎこちなく笑みを浮かべる。
ほんのちょっとだけ、強くなれた気がした。
***
ゆっくり紅茶を飲んで、それからゆっくり店を出た。私がおごる約束だったのにいつの間にか観月くんが会計を終えていたのは、一応恋人みたいな演技をしたからだろうか。別に彼氏だったとしても奢らなきゃいけないなんて理由にもならない気がするけれど。店を出た後いくらだったか聞いても値段を教えてはくれなかったので、もしかすると観月くんなりに何か思うところがあったのかもしれない。
少し歩きましょうか、と誘われて公園へと足を向ける。
休日の公園の中は散歩やランニングの人、遊びに来たのだろう家族連れで賑やかだった。どこへ向かうでもなく、レンガの道を辿る。
「それで、説明はしてくれないんですか?」
観月くんはおもむろに、そう切り出した。公園に誘われて時点で、そうなるだろうとは思っていたけれど。
「やっぱり、言わなくちゃダメ?」
「フォローしてあげた僕に少しも感謝していないなら、言わなくても構いませんよ」
「意地悪な言い方」
「真っ当な意見だと思いますけど」
私が睨み上げても、彼は微笑んだままで見下ろしてくるだけだ。私は少し迷って、昔好きだった人、とだけ告げた。
「そうですか」
「それだけ?」
「深く聞かれたいわけでもないでしょう?」
「そうだけど、興味ないなら聞かないでよ、観月くんのばか」
「興味がないわけではありませんよ。ただ、配慮したにすぎません」
「それはどーも」
「何を拗ねているんですか」
頭でも叩かれるかと思えば、優しく手を取られて。
「え、何それ」
「何それとはどういう意味ですか、なまえさん」
「いや、なまえさんって」
今日の観月くんはちょっと変だ。優しすぎて、甘ったるくて、観月くんっぽくない。きっとからかわれているんだろうけれど、一人であたふたしてしまうから悔しくなる。
「ここはカフェからそう離れていませんから、また偶然、彼に合わないとも限らないでしょう」
「そう、かもしれないけど」
「せいぜい、逃した魚は大きかったと思わせてやりなさい」
私は観月くんの言葉に、少しだけ笑った。なんだか観月くんらしいなと思ったのだ。彼だったら、自分に振り向かなかった人にうんと素敵な姿で堂々と立って、にっこり笑って見せて、相手を後悔させるに違いない。
でも、私にはできない。きっとあの人は私が誰と何をしていたって、よかったなって笑うに違いないのだ。私のことを、少しもなんとも思っていなかったんだから。でも、それでいいと思う。そういう人だから好きになった。
「逃した魚にはなれないけど、でも、ちょっとは大きな魚になりたいね」
いつか私も誰かの水槽できれいに泳ぐ日が来るだろうか。
観月くんは何も言わず緩やかに笑う。その後ろの空は、澄んだ水色だった。
36 魚になる日05