春のおはなし(全16話)
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日曜日の朝。携帯のけたたましいアラームに脳髄を揺らされて、私は飛び起きた。
顔を洗って、カフェオレとビスケット一枚、ヨーグルトで簡単に食事を済ませる。それから真新しい服に袖を通し、軽くメイク。睫毛だけはしっかり上げて、アイラインはブラウン、アイシャドウもチークもピンクでナチュラルめに。リップは少しくらい濃くてもいいだろうと赤を選んだけど、少しアンバランスに見えて慌てて拭う。上からピンクを乗せて、やっぱこっちか、と肩を落とした。ちらりと時計を確認すれば。あ、やばい。睫毛とリップに時間かけすぎたかな。慌ててコテで毛先を内側に巻いて、ちょっとワックスで整えて。よし、これで用意は完璧。カバンをひっつかんでドアまで小走りで行って、ヘッドフォンを持ってきてしまったことに気がついて部屋に戻る。今日は髪型が崩れてしまうから、こっちじゃダメなのだ。イヤフォンを引き出しから探し当てて、玄関に戻った。何そんなに慌ててるの、と不思議そうな顔の母に見送られて家を出る。
慣れないヒールにともすれば猫背になってしまいそうな背筋を叱咤して、私は駅までたどり着いた。時間はぴったり。観月くんは、と見回すけれど、それらしい姿はない。まだ来ていないのだろうか。そう思って携帯を確認しようとした時だった。ぐい、と後ろから片方のイヤフォンを引っこ抜かれる。
「みょうじさん」
「あ、観月く、ん?」
振り返って、一瞬思考が停止した。私の手にイヤフォンを落としていたずらっぽく笑う観月くんがいた。普通にいた。だけど、だけどね。
「え、そのシャツ」
鮮やかな紫色の、薔薇が一面にプリントされたシャツを着ていた。そんなものを普通に着て立っていた。いや、なんだそのシャツ。どこで売ってんだよ。いや、案外似合ってるけど。いや待って、そのシャツ似合うってどう言うこと。私服想像できないなと思ったことはあったけどそうくるとは思わないじゃん。いやある意味もうこれしかないって感じするけれども。ある意味の正解な気はするけれども。
片耳だけでパーカッションが響いて、私の思考をぐるぐるかき混ぜている。
「シャツがどうかしましたか?」
「え、あ、ううん」
いや、もういい。なんか似合ってるし、突っ込むまい。私は耳に残っていたイヤフォンを引っこ抜いて、首を振った。
「それじゃあ行きましょう。オススメのカフェがありますから。5分くらい歩きますけれど、大丈夫ですか?」
「うん、平気。行こう」
私のヒールを気遣ってくれたのだろう言葉に頷いて、歩き出す。
しばらく歩いていると、たまたまにショーウィンドウに映る私と観月くんが目に入った。彼の紫のシャツと私の赤いキュロットは何だかアンバランスで、でもちょうどいい身長差と悪くない雰囲気。うん、いいんじゃない。他人事みたいにそう思えたから、少し笑ってしまう。
私に合わせるように歩調を緩めた観月くんは、いつもより少し優しい表情。
「心配しなくても、今日のみょうじさんは素敵ですよ」
素敵。そんな褒め言葉を同年代の男の子からもらうのは初めてだ。クラスの男の子は、そんな言葉を使わないし、そもそも最近褒められた記憶なんて、芥川くんの気の抜けた『可愛い~』くらいのものだ。なんと答えていいか分からなくて口をパクパクさせていると、観月くんはクスクス笑った。
「せっかく可愛らしい格好をしているんですから、そのアホ面をなんとかしてください」
言葉は辛辣だったけれど、声も語調も私の知っている観月くんよりずっと柔らかくて戸惑ってしまう。所在をなくした気持ちをごまかすように後ろで手を組んで、私は自分の靴の爪先に視線をやる。歩き辛いからと棚の奥へ押し込んでいた7センチのヒールのパンプス。少し背伸びしてこれを履いてきて良かったな、なんて。
***
観月くんが連れてきてくれたカフェは予想以上に、そう、彼の言葉を借りるなら『素敵』な場所だった。落ち着いた赤茶色のレンガの壁に、鳥籠みたいなシェードに閉じ込められたランプ、大きな観葉植物が適度に視界を区切ってくれるからとても落ち着く。
紅茶の専門店らしく、メニューには紅茶の名前がずらりと並んでいた。私は詳しくないから、店員さんのお勧めしてくれた本日のフレーバーティーと、季節のロールケーキ。観月くんはお気に入りがあるらしく、難しい名前のブレンドティーと夏蜜柑のタルトを注文する。
「夏蜜柑かあ、もう夏なんだね」
観月くんの前に置かれた透き通るような黄色のタルトを眺めて、思わずそう呟いた。彼は優雅にフォークでそれを小さく切り分けて口元へ運んでいく。指先まできれいに整った動作だった。
「夏蜜柑の旬は4月から始まりますからね」
「夏蜜柑なのに?」
「ええ、夏になれば旬は終わりですよ」
「え、夏を名乗るのに? 詐欺じゃない?」
「品種改良で旬が変わるなんて、結構あることですからね」
「そうなんだ?」
「少しは物や言葉の由来に興味を持ちなさい。無知でいると、悪意のある人に侮られますよ」
先生のような観月くんの言いように、私もはあい、と生徒のように返事をする。ついでにロールケーキを口へ放り込むと、ふわふわした生地とちょうどいい甘さでとっても美味しかった。
「壇くんも来れたら良かったのにね」
「そうですね。大会なら仕方ありませんが」
「観月くんも一応、インハイ中じゃないの?」
「一応、じゃありません。先週、地区大会が終わりましたから、来週からは都大会です」
「そっか、忙しい時にごめんね」
「いいえ、誘ったのは僕だったでしょう。忘れたんですか?」
「そうじゃないけど」
「なら、それ以上は言わないのがマナーですよ」
今日の観月くんは、なんだか優しすぎて怖い。ケーキから視線をずらして彼を盗み見ると、彼はゆっくりとティーカップに口をつけるところだった。一口飲んで、ティーカップをソーサーに置いて、名残を惜しむみたいにカップの持ち手を指がなぞっていく。綺麗なカフェの背景と相まってあまりにも完璧な光景に思える。私がその中に入り込むのは分不相応な気がしてしまって、私はただ黙って見つめた。
見つめていた、のに。
私の視界の端に、よく知っている顔。いや、よく知っていた、というべきなのだろうか。あの人の顔を見たのは、とても久しぶりな気がする。
私が2年前に大好きだったあの人は、知らない女の子に手を引かれていた。
35 魚になる日04