春のおはなし(全16話)
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昼休みを告げるチャイムと同時に教室を出て、第二多目的室へと向かう。廊下をすり抜けて扉の前までたどり着くと、そこにはすでに不二くんと河村くんの姿があった。
「また来てたの?」
部長から預かっている鍵を取り出しながら言うと、不二くんが小さく笑う。
「ここ、静かで居心地がいいんだ。今日もお邪魔していい?」
「いいけどさ」
鍵を回して戸を引くと、河村くんが申し訳なさそうにお邪魔します、と中へ入っていった。不二くんも河村くんの謙虚さを見習ってほしいものだ。
まず部屋の空気を入れ替えようと、私は教室のカーテンと窓を開ける。その間に河村くんと不二くんが端に寄せてあった椅子を3人分、綺麗に並べてくれた。
最近は、ほとんど毎日こんな感じだ。乾、不二くん、河村くん、菊丸くん、四人がそれぞれ好きな時にやってきて、好きにご飯を食べたり、少しおしゃべりしたりして去っていく。五人揃う時もあるし、誰かと二人になる時もある。最近不二くんと仲良いね、とクラスの女の子に言われたりするけど、思った以上に気にされることはないようだ。ライバルに値しないと思われているのかもしれない。別にライバルになる気もないからいいけれど。
「今日、乾と英二は食堂かな?」
不二くんの言葉に、財布を持って教室を出ていった菊丸くんの姿を思い出して私は頷いた。
「菊丸くんは多分、食堂だと思う」
「乾はどうだろう。わからないけど、先に食べちゃおうか」
河村くんの言葉に不二くんは一瞬だけ考えて、そうだね、と頷く。
私は携帯のプレイリストから穏やかめの曲を集めたリストを選んで再生ボタンをタップした。一人の時はずっとヘッドフォンだったけど、今はイヤフォンジャックになにも刺していない。せっかくこうしてみんなで聞くのなら、今度ポータブルスピーカーを買ってもいいかもしれないな、なんて。私もこの状況に馴染みつつある証拠だろうか。
ちなみに音楽の趣味はみんなバラバラなので、私の好きなものをかけている。
「あ、河村くん。今度河村くんちのお寿司屋さん、幸村くんと一緒に行こうねって言ってるの」
お弁当を広げながらそう言うと、河村くんは嬉しそうに笑ってくれた。
「本当かい? いつでもおいでよ、歓迎するよ」
「ありがとう。いつなら河村くんに会える?」
「学校以外の時間は大体店に出てるよ」
「まじか。週末も?」
河村くんは遊んだりしたくならないのか。驚いて彼を見つめると、彼は決まり悪そうに少し眉を下げる。
「週末も店に出るけど、代わりに定休日に休むんだ。あ、そうだ、定休日教えておくね」
「うん、ありがとう」
定休日を携帯のメモに打ち込みながら、河村くんを見上げる。いつも穏やかで優しいけど、河村くんは意志の強い人なんだろう。バイトもせず、熱中するものもなく、この数学部の部室で惰眠を貪っている私とはまるで正反対。
「いつ頃になるかわかる?」
「幸村くん忙しそうだから、まだ先になりそう」
「ああ、そうか。もう、インターハイが始まってるんだな」
河村くんが小さくつぶやいて、私はちょっと遣る瀬無い気持ち。けれど、当の河村くんはなんでもない顔だった。いや、むしろ期待に目を輝かせているようにさえ見える。
「みょうじさん、大石も誘って一緒に応援行こうか」
「うん、行きたい」
頷くと、不二くんがクスリと笑った。
「応援に来てくれるの、楽しみにしてるね。タカさんがまた応援旗振ってくれるのかな?」
「うん、任せてよ!」
「応援旗?」
私が首を傾げると、不二くんは両手をいっぱいに伸ばして、空中に四角を描く。
「うちの学校には、こう、大きな応援旗があってさ、すごく重いんだ。でもタカさんはそれを片手で振るんだよ」
自慢げに言う様子は、いつもより少し子供っぽく見えて可愛らしくさえ思えた。
「へえ、タカさん力持ちだね」
って、あ。
ノリと勢いで呼んでしまった彼のニックネーム。けれど、河村くんは何も気にした風もなく、そのくらいしか取り柄がないから、などと照れたように笑っている。
「……タカさん」
「ん? なんだい?」
きょとんとした顔の彼。並んだ不二くんも同じ顔。
「あのね、タカさん」
「うん」
やっぱり何でもなく返事を返される。なんでだ。私、前からタカさんって呼んでたっけ? 間違ってるのは私なのか、記憶が改ざんされているのか。そんなわけあるか。
「タカさんタカさん!」
「え、何、どうしたの?」
「タカさんがいいなら、これからもタカさんって呼びますけれど、いいですか!」
「う、うん? もちろいいよ?」
半ばヤケクソのように直球に投げた言葉にさえ、よくわからないって顔をされる。どうしよう。いや、彼がいいならいいのか。
すると、あはは、と不二くんが笑い声を立て始める。どうやら状況を理解してくれたらしいが、そんなに笑われるのも心外だ。私はいたって真剣なのに。
「タカさんは、みんなからタカさんって呼ばれるから」
「そっか、むしろ河村くんの方がマイノリティーなんだね」
「二人とも、何の話?」
わけがわからない、と言う顔をした河村くん改めタカさんに、不二くんはにっこり笑って答えた。
「タカさんはタカさんだって話」
まるで禅問答みたいな言葉に、やっぱりタカさんはよくわからないって顔。そんなところが彼らしくて、私も不二くんと一緒に笑ってしまった。
と、携帯がメッセージの着信を知らせたので、私は携帯に目を落とす。待ち受けに、『観月くん』と差出人の名前だけが表示されている。次の日曜日、観月くんにケーキを奢る予定になっているから、その件だろう。あとで返信しておかなくちゃ。
そう言えば、日曜日は何を着て行こうか。観月くんのことだから、下手な格好をしていったらきっとこれでもか言うほどの渋面で見下されるに違いない。あ、考えてたら不安になってきた。二人だから余計に不安だ。壇くんも誘ったのだけれど、用事があって来れないと言っていたので、壇くんに緩衝剤の役割を頼むわけにもいかない。
「みょうじさん?」
「あ、ごめん」
「何か心配事?」
「ううん」
表情を曇らせた不二くんに、私は慌てて首を振る。
別に、心配事ってほど大きな問題じゃない。ただ、帰ったらタンスをひっくり返さなきゃいけないだけだ。今日は早めに帰ろうかな。タカさんみたいに働くわけじゃないけど、私も少しは生産的に日曜日の用意をしてみよう。窓の外の青い空を眺めながら、そう思った。
***
家に帰ってきてから数時間。私は自分の服を床にベッドに所狭しと並べていた。どれもこれもピンとこない。こない、と言うか、気に入った服はたくさんあっても、何を着て行ったらいいものか頭が真っ白になってしまう。
と、携帯が震える。このバイブは着信か。誰だろうと確認してみると、向日くんからだった。珍しいな
と思いつつ、通話ボタンを押す。
「お前、なんかあった?」
もしもし、もなく、第一声がそれだった。
「え、何もないけど」
「は? まじかよ」
「うん、どうしたの、急に」
「昨日ラインしたのに、既読もつかねえから」
「あ、そう言うことか」
合宿の時に一気に増えたラインの『友達』の人数。その中でも、頻繁に連絡をくれる人が何人かいた。
一人は千石くんで、イメージ通りと言うかなんと言うか。些細な、けれど面白い話や、山吹のみんなの写真を送ってきてくれるのだ。
それから、意外なことに越前くんがよく連絡をくれる。アメリカに住む彼の話が面白くて、私があれこれ質問するからだろうか。ブロードウェイ、ハリウッド、ウォール街、ゴールデンゲートブリッジ。私の携帯に綺麗な写真が溜まっていく。
それから、一番頻繁に連絡をくれるのは、向日くんだった。他愛ない、なんでもない話をたくさんする。嬉しかったこと、つまんなかったこと、驚いたこと。彼にとってはなんでもいいらしい。とにかく頻繁にメッセージが来る。返信だって早いし、返事をしないとすぐにスタンプで返事を急かされる。さみしがり屋なのだろうか。
昨日はたまたま早く眠ってしまって、返事を忘れていただけなのだが。
「ごめん、返事忘れてた」
「何だよ、それだけかよ」
ため息をついた彼が、電話口の少し遠くから明後日の方向に向かって、みょうじ生きてた!と叫ぶと、かすかにおー、とかわー、とか、誰かの返事が聞こえる。心配してくれたのはわかるが、私はそう簡単には死なないことは覚えておいて欲しいと思う。
「あ、そうだ向日くん。ついでにちょっとだけ相談に乗ってもらっていい?」
「いいぜ、何?」
「観月くんって、どんな服が好きだと思う?」
「はあ!? 観月ってルドルフのなんか偉そうな感じのあいつだろ?」
「その観月くんだけど」
「それが何で、え、どう言うこと?」
興味津々と行ったテンションの彼に、私は経緯を簡単に話した。
「つまり、デート服に迷ってるってことだよな」
「デートじゃないけど、だいたいそんな感じ」
「いーや、それはデートだな」
「ええ、いや、もうそこはどうでもいいから」
「俺、観月とは仲良くねえし、お前がどんな服持ってるかも知らねえし、頑張れとしか言えねえけど」
「うん、まあ、そうなるよなあ。ごめん、ありがとう」
「つーか、しっくりこないなら、買いに行ったらいいんじゃね?」
なるほど。買いに、か。確かに、それもアリかもしれない。こうして手持ちの服を睨んでいるだけじゃ一向に決まる気がしないし。
「行ってみようかな」
「付き合うか?」
「え、いいの?」
「明日の放課後でよければ、俺も行くぜ。服見立ててやるよ」
「ありがとう、めちゃくちゃ助かる」
一人だと悩みに悩むことは目に見えているので、誰かがいてくれるだけで私にとってはありがたいことだ。明日会ったらアイス奢って拝み倒さなくちゃいけないな。
それから時間と場所を決めるのは早かった。
「おー、じゃあ明日な!」
「うん、また明日」
通話終了のボタンを押して、一応携帯に明日の予定を入れておく。
少し前までうんともすんとも言わなかった携帯が最近はラインの通知で忙しいし、真っ白だったスケジュールは予定のアイコンが目立つようになった。急に、何かが変わっていく感覚。目まぐるしくて、でも楽しくて、なんだか溺れてしまいそう。
いや、とにかく今は服を片付けなくちゃ。目の前の洋服の山に、私は手を伸ばした。
32 魚になる日01