春のおはなし(全16話)
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水族館の中は少しひんやりと肌寒くて、水の匂いがしていた。薄暗い空間に水槽が鮮やかな青に浮かび上がって、その中をゆらゆら魚の影が通り過ぎていく。
キラキラした光景に目を奪われて、自然と私の足取りはゆっくりになって。みんなと少し離れてしまったことに気づいて少し足を早めると、私に気づいた幸村くんが足を止めて私を迎えてくれた。
「急ぐことなんてないのに」
「でも結構広いから、はぐれたら大変かなって思って」
「出口は一つだから、どうせそこで落ちあえるよ」
「あ、なるほど」
確かに、そう言われてみればそうだ。頷いた私に、幸村くんはクスリといたずらっぽく笑った。
「じゃあ、ちょっとだけはぐれてみる?」
「わざと?」
「そう、わざと。楽しそうだろ?」
私が頷くと同時、幸村くんは私の手を引いてそっと道をそれる。順路と書かれた表示を無視して、少し静かな方へ。迷いのない足取りだった。しばらく進んで、たくさんのクラゲがゆらゆら揺れる場所で足を止める。それから、今気がついたように私の手を離して、少し照れたように笑った。
水の向こうのライトが不安定に彼の頬に陰影を作るから、輪郭の滲んだ幸村くんは今にも消えてしまいそうに見える。
なんとなく会話が欲しくなって、私は口を開いた。
「幸村くんのチケット、ペンギンだ。かわいいね」
「みょうじさんのチケットはクラゲ?」
「うん、綺麗でしょ」
「そうだね。ペンギンもいる?」
「え、いいの? あ、ていうか、出るまで持ってなくて平気?」
「いいんじゃない? 別行動する予定もないし」
どうぞ、とペンギンの写真が印刷されたチケットをもう一枚に重ねる。うん、かわいい。
「そうだ、みょうじさん。河村寿司、もう行った?」
「行ってないけど」
そういえば、と幸村くんの言葉に合宿の時のことを思い出す。河村くんに来てねと言ってもらったけれど、あれは社交辞令じゃないととってよかったのか。
「じゃあ、一緒に行かない? ずっと行ってみたかったからいい機会だと思ったんだけど、一人で顔を出すのも、少しやりにくい感じがして」
「あ、それは私もかも。じゃあ、一緒に行こうか」
何となく、一人でお寿司屋さんというのもハードルが高い。私なんか、回らないお寿司なんてほとんど行ったことがないから尚更だ。一緒に行ってくれる人がいるなら、私も嬉しい。
「良かった。また後で、改めて連絡するね」
「うん、待ってるね」
ちょっとデートみたいな会話だなあ、なんて。浮かんだ考えに私は笑う。他に誰か誘うだろうし、そんなことじゃないはずなのにな。
「あ、隠れて」
言われて、とっさに柱の影へと。
少し向こうに、あたりを見回しながら歩く真田くんが見えた。きっと私たちを探しているのだろう。私たちは見つからないようにそろそろと水槽の影になるように回り込む。ガラスと水の向こうのおぼろげな真田くんの影を見ながら、幸村くんはいたずらを企む小さな子供のように目を輝かせていた。
「ねえ、このまま後ろに回り込んで驚かせてみたくない?」
「確かに」
真田くんのびっくりする顔、見てみたいかも。
「じゃあ、静かに、そっとだよ。あいつは気配に聡いからね」
「了解」
そうして、二人でそっとそっと人に紛れて、足音を殺して真田くんの背中に近づく。あと数歩の距離になったところで、幸村くんがこちらを向き、指だけで三、二、一、とカウントダウン。
ゼロになった瞬間、私たちは勢いをつけて真田くんの背中に。いや。違う。私だけが。あれ。
「真田!」
私がぶつかるほんの一瞬前に幸村くんが真田くんを呼んで、彼が振り返って。背中に軽く体当たりするつもりだった私は、思い切り真田くんの胸に頭突きをかます。
「な! っみょうじ!」
同時にぐらりとバランスを崩しかけるけれど、真田くんは踏みとどまって私を支えてくれた。さすが運動部。体幹すごい。
「ふふ、ドッキリ大成功だね」
てくてくと数歩進み出てきて、幸村くんは楽しそうに笑う。それはそれは、本当に楽しそうに。
「お前らは、全く! 子供のようなことをしおってからに!」
真っ赤になって大きな声でそう言いながらも、真田くんは私をちゃんと立たせてくれた。彼はなおも言葉を紡ごうとするけれど、クスクス笑い止まない幸村くん見てため息をつく。
私はといえば、両手で顔を覆ってこみ上げる羞恥に耐えていた。いや、だって、だって。幸村くんと一緒に背中にどーんとするものだと思っていたのだ。それなのに、一人で真田くんの胸に飛び込むというのは、私にはレベルが高すぎる。
「ゆ、幸村くん!」
「どうしたの?」
「二人で行くもんだと思ってたよ!」
「さすがの真田も二人は支えきれないかもしれないだろ。危ないよ」
「でも、なんか恥ずかしいじゃん! どう考えても一人でお寿司屋さんよりハードル高いよ!」
「大丈夫だよ。真田もそんなに怒ってないし」
言われてちらりと指の間から真田くんを見やれば、迷うように言葉を詰まらせた彼が見えた。
「怒ってないよね?」
幸村くんが穏やかな調子で問い直すと、真田くんは諦めたように怒っていない、と小さく呟いた。
「なんかごめんね、真田くん」
「うむ。今後は公共の場でむやみに走り回ったりするなよ」
「うん、もうしない。絶対しない」
「わかったならいい」
やっと表情を緩めた真田くんに、私も安心して体の力を抜く。そんな私達を幸村くんは楽しそうに眺めていた。初めてちゃんと話した時は、幸村くんってもっと静かではしゃいだりしないイメージだったけれど、こんな風にいたずらしたり、笑ったり、そんなところもあるらしい。
「さあ、そろそろ行こうか。みんな、俺たちを探してくれていたみたいだし」
幸村くんが言って、私たちは3人で歩き出す。
足元の影の輪郭を薄めて、もう少し明るい方へと。
30 たのしいきょうほたいかい04