春のおはなし(全16話)
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不二くんに連れられてやってきたテニスコート。フェンスの向こうでは、たくさんのテニス部員たちが練習に打ち込んでいる姿が見える。中には見知った顔もあった。もちろん、乾の姿も。
「じゃあ、僕はこれで。一人で大丈夫?」
「うん、平気」
「逃げちゃダメだからね」
優しい笑顔でそう念押しをして、不二くんはコートへと戻っていく。ここまできて逃げようなんて気、ないんだけどな。
私は近くの階段の端に腰掛けて、目の前の風景を眺めた。こうしてテニス部の練習を見るの初めてのことだ。遠くからでも長身の乾は目立つと言えば目立つけれど、当たり前にそこに立つ姿はまるで街ですれ違う知らない人のよう。ただ、私の目の中に絵として刻まれていく。
すると、乾がコートを抜けてこちらへやってきた。
彼がだんだんと近づくに連れて、彼は絵の中の一人から、私の知る乾に戻っていくみたいに思える。不思議な感覚だった。
「みょうじ」
いつもの、ボソボソした調子で私を呼ぶ。ほら、もうすっかりただの乾だ。
「今、抜けてきてよかったの?」
「ちょうど休憩の時間でね」
「お疲れさま」
「うん」
彼は私と少しだけ間をあけて座った。表情は分厚いメガネのレンズに阻まれてよくわからない。いつものことだけれど、今の私はそれが少しだけ不安だ。
「みょうじ、俺はまだ君に何をいうべきか整理がついていない。今回の合宿については以前からシュミレートもしていたし、俺の計画では君を傷つけるはずはなかったということだけは、今の段階で伝えておきたい。単にそう言われたって納得できないだろうから、改めて資料にまとめて、」
「乾」
「提出するつもり、」
「乾、聞いてよ」
ピタリと言葉を止めた彼は、ゆっくり油をさしていない機械みたいにぎこちなくこちらを向く。
「資料なんていらないよ」
「そうか」
「うん。それより、ちゃんと聞かせて欲しいんだ。私を合宿に誘ってくれた時の乾の言葉に、嘘はあった?」
「なかったさ」
「私はちゃんと、乾の友達かな」
「友達だよ」
迷いなく、彼は頷いた。
乾の計画がどんなものであれ、どんな裏があったにせよ。私が本当に聞きたかった言葉は、それだけだった。
「私ね、寂しかったんだと思う」
多分、そう言う話なのだ。
「乾が私より手塚くんのことを優先したみたいで寂しかった。乾に私以外の友達がいっぱいいることが寂しかった」
子供じみたわがままだ。幼稚な嫉妬だった。友達に自分より仲のいい友達がいるからって、拗ねて、駄々をこねて、乾の言い分なんか聞こうとさえしなかった。
「ごめんね」
自然に出た言葉。考えるまでもなかったみたいだよ、不二くん。ここにはいない彼に、心の中だけでそう言う。
乾の手が私の頭を優しく撫でていった。彼がよくする、小さな子供にするみたいな触れ方。
「謝ることなんてないさ。初めから俺がきちんと話さなかったのが悪かったんだから」
「手塚くんの気持ちを乾伝てに知るのはちょっと微妙だけど」
「そうだろうね。でも、やり方は色々あったはずだよ」
すまない、と彼は小さな声でそう言う。
私は彼の表情がはっきり見たくなって、彼の眼鏡に手を伸ばした。彼は抵抗することなく、私が眼鏡を外すのを黙って見守っていた。
「急に、どうしたんだい?」
「乾の顔が見たいなって思って」
「俺は見えなくなったけど」
心許なさげに笑う乾は、眼鏡がなくてもやっぱり乾だ。当たり前だけれど。
ふと思いついて眼鏡をかけてみると、視界がぐんにゃり曲がって気持ち悪くなって慌てて外した。そんな私を見て、乾はクスクス笑う。柔らかに細められた目に、彼はいつもこんな顔で笑っているんだな、なんて考えた。
ああ、そうだ。私は多分、友達が乾一人だって構わない。一人でいるのは気が楽だし、たまに寂しくなれば彼がいると思える。そう思えるほどには、彼の隣は心地いい。でも、きっとそれだけじゃダメなんだ。そう言うのは、依存って言うんだ。
「私も乾以外の友達、いっぱい作んなきゃかな」
「それはそれで、俺が寂しいな」
なにそれ。友達作れって言うくせに。
私が文句を口にする前に、彼は私に手を差し出す。
「そろそろ練習に戻らないといけないから、返してくれよ」
「はい、どーぞ」
眼鏡をかけ直していつもの乾に戻った乾は、立ち上がって、それから私を見下ろして。
「練習、見ていくだろう? それとも数学部に迎えに行こうか?」
当然のようにそう言った。
ねえ、乾。私たち、一緒に帰ったのなんて、合宿に誘われたあの日くらいのものなんだよ。当然みたいに一緒に帰ることになってるの、不思議だと思わないのは何でなの。
「ここで見てくよ」
私も当然みたいにそう返事をして、彼を見送る。
テニス部の練習はやっぱり一枚の絵みたいに見えたけれど、私を退屈させるものじゃなくて、時間はあっという間だった。
やがて練習を終えた乾は不二くんと菊丸くんを引き連れていて、今度も当然みたいに四人で帰ることになった。
「俺の言った通り、すぐだったでしょ」
菊丸くんがそう言って笑うので、私も頷いて笑う。確かにすぐだった。あっけないくらいに。
乾と、そして菊丸くんと不二くんを見回して、彼らが触れられる距離にいてくれることに安心していた。
もしも。もしもの話だけれど。ここに手塚くんがいたら、彼も一緒にこの道を歩いていただろうか。なんとなくそんなことを思って、私は最後に見た彼の横顔を思い出していた。
26 絵の中の君03