春のおはなし(全16話)
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一晩過ぎれば、もう翌朝は学校だ。
疲れの抜け切らない体を引きずって、通学路をたどる。今日も空は透明に晴れ渡っていた。
ざわざわ、雑音の多い廊下を抜けて教室の戸を引くと同時。ひょこりと菊丸くんが顔をのぞかせる。そして、そのまま何も言わずに私をじっと見つめていた。
「え、何?」
「約束!」
約束って何だっけ。
よく思い出せなくて、私は彼にポケットの中にあったキャンディを押し付ける。それから彼の前を通り過ぎて、自分の席に着いた。
「何これ!」
「キャンディ」
「ありがと、じゃなくて! 約束!」
「ごめん、何だっけ?」
「覚えてないの!?」
ろくに中身の入っていないカバンから筆記用具を取り出す私の横で、大きく目を見開いて顔全体で傷ついたことを表現する菊丸くん。
あ、その顔。昨日の朝も見たっけ。そうか、あの時。
「思い出した。おはよう?」
「そうそう、それだよ! おはよ!」
パッと嬉しそうな笑顔を浮かべた彼を見て、私も少し笑う。そんな気分じゃなかったけれど、菊丸くんにはつられてしまうから不思議だ。
「もしかしてみょうじさん、合宿で疲れちゃった?」
「うん、ちょっとだけ」
「そっか、いっぱい働いてたもんなにゃあ」
にゃあって。いや、可愛いけども。
私の前の席に腰掛けてこちらを覗き込む彼は、大きな瞳で私を無邪気に覗き込んでいた。私と菊丸くんと言う珍しい組み合わせに、好奇の視線がいくつか私たちに降りかかっている。彼は気づいていないのだろうか。
「ちょっと寝るよ。チャイムなったら勝手に起きるから」
「俺、起こしてあげるよ?」
「起きれるからいいよ」
「んー……」
菊丸くんは少しだけ眉を寄せる。何かを悩んでいるような顔。
「わかった。でも、明日もちゃんとおはようって言ってね! ヒントなしで!」
「ん、りょーかい」
パタパタと気だるく手を振った私に、元気よくまたね、と大きく手を振る彼。変な温度差に、きっと周りも首を傾げていることだろう。私はそんな教室の光景を見ることなく、カバンに顔を押し付けて、耳を音楽で塞いだ。
あんまりたくさんのことを考えたくなかった。乾のことも、手塚くんのことも、何も考えたくなかった。
***
そんな月曜日、乾は数学部に顔を出すことはなかった。
火曜日、晴れ。私は菊丸くんに忘れずにおはようと言うことができて、菊丸くんは嬉しそうだった。乾の後ろ姿を廊下で見かけた。声はかけなかった。
水曜日も晴れ。今日も菊丸くんにおはようと言った。彼は笑っていた。それだけ。
木曜日、やっぱり晴れた。今朝は私が遅刻したせいで菊丸くんにおはようと言えなかった。一日中眠かった。
金曜日、晴れ。空は雨を忘れてしまったんじゃないだろうか。別に、構いやしないけど。今日は菊丸くんからおはようと言ってくれた。おはようと返しても、彼は笑ってくれなかった。
「みょうじさんも乾も、帰ってからずーっと難しい顔してんじゃん! いい加減、仲直りしなよ」
ここ数日と同じように私の前の席を勝手に陣取って、難しい顔をしてそう言う。手足をジタバタさせて、我慢ならないとでも言いたげだ。
「仲直り、って言っても」
私が勝手に顔を合わせ辛いと思っているだけ。それに、避けていると言うほどでもなくて、彼の姿を見かけることなんかほとんどなかった。乾が数学部に来なければ、私たちには接点なんてない。
「大石にラインしたらさ、二人の問題だから見守れって言うんだよ。でもさ、教室でも部活でも暗い顔されて、俺一人心配してバカみたいじゃん!」
「乾、暗い顔してんの?」
菊丸くんの意外な言葉に、私は目を瞬かせた。
私が、乾に暗い顔をさせてしまっているのか。そもそも、乾の暗い顔ってどんな感じだろう。彼の表情の変化といえば困った顔と笑った顔くらいで、落ち込んだ表情というのがイマイチ想像できなかった。
「してんの! だから早く仲直りしてね! 約束!」
はい、と差し出された小指。私はそれと菊丸くんの顔を見比べる。ぐい、と押し返そうとすると押し返されて、ん!ともう一度主張された。
「もう、わかったってば」
しぶしぶ小指に指を絡めると、菊丸くんはにこりといつもの人好きのする笑みを浮かべる。
「はりせんぼん、ゆーびきった!」
するりと解ける小指。
「よし、絶対今日中に仲直りね!」
「え、今日中とか聞いてないよ、後出しはズルいじゃん!」
「俺、初めに早くって言ったもん」
言ったかも知んないけど、それにしたって今日中は急すぎないか。もうちょっとくらい猶予をくれたっていいんじゃないのか。そう思うけれど。
「今日を逃したら、明日から休みだよ! 今日会わないとダメなの! わかった?」
「どうして月曜日じゃダメなの?」
「だから、早くっていってるじゃん! 早く仲直りしてってば!」
「でもさ」
「だいじょーぶだって。仲直りなんて、すぐだよ、すぐ!」
彼はからりと笑ってそう言った。絶対、根拠なんかないし、他人事だと思ってるでしょ、それ。でも、やっぱりつられて笑っちゃうから、それどころか少し気持ちが軽くなった気さえしてしまうから、菊丸くんてすごい。
「……うん、きっとすぐだね」
チャイムが鳴って、席に戻っていく菊丸くん。私は誰もいない校庭を見下ろして、息をついた。
彼の言う通り、すぐだったらいい。
何もないように過ごした一週間。それでも、ずっと晴れだったとか、菊丸くんと挨拶するようになったとか、そんな他愛ない出来事は積もっていった。私は、それを乾にいつもみたいに聞いてほしい。そうか、っていつもみたいな短い返事でいいから。
だから。
24 絵の中の君01