合宿編(全22話)
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お昼ご飯の後、短いミーティングがあって、合宿は幕を閉じた。
ミーティングでは幸村くんと一緒にまとめたあの記録が配られ、みんながそれを大切そうに眺めるものだから、幸村くんと視線を交わして小さく笑った。用意したのは緒方さんたちスタッフだけれど、私たちだって手伝ったのだから、少しくらい誇ったっていいだろう。
始めに合宿所を発ったのは六角のみんなで、千葉は遠いのだと、別れを惜しむ暇がないのを残念がりながら慌ただしくバスへ乗り込んでいった。次々去って行くみんなを見送って、青学は最後から二番目。見送ってくれる氷帝のみんなに手を振って、バスに乗り込んだ。
行きと同じように、一番後ろの端の席を選んだ私。やっぱり同じように、隣の席には手塚くんが座った。
「お疲れ様」
「ああ。みょうじも、お疲れ様」
珍しくわずかな笑みを唇に淡く乗せて、手塚くんが頷く。きっと、合宿が楽しかったのだろう。
「天候にも恵まれて、有意義な合宿だったな」
「うん、そうだね」
バスが動き出して、緩やかに森の間を降り始めた。半分ほど開けた窓からは、冷たい風が流れ込んできて私の頬を撫でて行く。
「俺は明日、ベルリンに戻る予定だ」
「明日?」
「次のハーレの大会に向けて調整があるからな」
「そっか、手塚くんはプロなんだもんね」
こうして隣に座っているとあまり実感がわかないが、彼が中学の卒業を待たずに海外へ行ったのは留学などではなくテニスをするためだと聞いている。一年以上経った今でも青学の生徒たちの間ではよく囁かれる話題だった。卒業生の芸能人や政治家のように、彼のことを誇らしげに語るのだ。
「プロ、か。まだツアー公式戦に参加できるようになったばかりだが」
「それって、すごいことじゃないの?」
「いや、まだまだだ。マスターズ、ファイナルズ、グランドスラム、先は長い」
「そう、なんだ」
いつになく饒舌な彼に反して、私はうまくおしゃべりできなかった。
私からすれば、同い年でもう自分のやるべきことを自分で決めているだけですごいことだ。だから今の彼の境遇は想像もつかない話で、だからこそ、彼の隣にいる自分が矮小な存在に思えてしまう。
「またしばらくは、日本には戻らないだろう」
「うん」
「その前に、伝えておきたいことがある」
「私に?」
前の席で、わあ、と歓声が上がる。桃城くんたちがポーカーをすると言っていたから、きっと勝敗が決したのだろう。
後ろの座席を振り返る人なんて、誰もいなくて。まるで私と手塚くんだけ、区切られた場所にいるみたい。
触れない距離のはずなのにいやに隣の体温を感じてしまうようで、落ち着かなかった。彼が小さく息を吸い込む音が聞こえる。
「みょうじ、俺は」
「ごめん、待って」
ほとんど、反射だった。
咄嗟に、何を言われるか分かってしまったから。私の中には、返す言葉がなかったから。好きだなんて、言われたくなかった。
私は、弱い人間だ。少しのことですぐに間違えてしまう。簡単に人を傷つけてしまう。だから、踏み込まれたくない。私は手塚くんのことが嫌いじゃない。むしろ、いい人だと思う。かっこいいと思う。友達になれればいいなって思える。でも、だからこそ。
「ごめん」
繰り返した言葉に、返事はなかった。
私は彼の目を見ることができずに、肩の上にあったヘッドフォンに手をかける。けれど、それが耳に届く前に、手塚くんの手が私の手をつかんで止めてしまった。
「聞いてくれ」
彼には照れたような素振りも、臆した素振りもない。ただ、淡々と、まっすぐに私を見据えていた。手だけがじりりと私を焦がすように熱を伝えてくる。
「やだ」
「頼む、聞いてほしい」
静かで理知的な声の奥底に、押し込められた感情が揺れていた。らしくない声音。
「手、離し、」
「好きだ」
遮るように告げられた言葉は、思った通りの三文字だった。短くて飾り気のない、たった数秒の音の塊に射抜かれた私の心臓は、鼓動を早めるより重くなってしまう。
「答えは求めていないから安心してくれ。ただ、伝えておきたかっただけだ」
にわかに私を掴む手から力が抜けて、私の手は重力に従って下へと落ちる。
なんで。答えが欲しくないなら、なんでそんなこと言うの。どうしてそんなもの、押し付けようとするの。私の中の小さな子供がそうわめき立てていた。
けれど、そうじゃない。そうじゃないんだ。あの時、中学の時、自分ばっかりを守ろうとして後悔したのに、繰り返すつもりなの。違うでしょう。
「すまない」
低く呟かれた謝罪に、私は首を振った。
「違うの。ごめん。好きって言ってもらえるの、嬉しい」
そうだ。誰かに愛されることは、喜ぶべきことだ。感謝するべきことだ。
「でも、私、余裕なくて、その、うまく受け取れないんだ。ごめんね。手塚くんは何も悪くないから」
「君が謝ることはない。忘れてくれて構わない」
ゆるりと伏せられたまつ毛。手塚くんの、嘘つき。それは、忘れて欲しくない顔でしょう。忘れないよって言ってあげたいのに、忘れてしまいたいと思う私はとっても嫌なやつだ。
ああ、でも結局忘れられやしないんだろうから、きっとお互い様なんだろう。
「ごめんね」
繰り返し繰り返し、私はごめんばっかり。他の言葉なんて思いつかなかった。
彼の返事を待たずに、今度こそヘッドフォンで世界を閉ざす。途端に薄まる現実感。もう触れていないはずの手首だけが、まだ熱を持っていた。
どうして、手塚くんは私だったんだろう。
聞く気も考える気もない疑問は、丸めて飲み込んでしまった。きっと、胃の中でゆっくり溶けて消えてしまうだろう。
***
学校に着いたバスを降りて、私はみんなが挨拶を交わしているのをぼんやりと眺めていた。海外に戻る人もいると言うのに、皆あっさりしたもので、またな、と来週にでも約束があるかのような調子だった。声をかけてくれるみんなに、私もまたね、と挨拶を返す。手塚くんとも同じ挨拶を交わしたけれど、目があうことはなかった。
すぐに一人また一人とその場を立ち去り、私も乾に行こうか、と声をかけられて帰路に着く。
夕方のオレンジ色に侵食され少し湿った空気は、まとわりつくような重さ。乾はいつもよりゆっくりと歩いていた。
「手塚に、何か言われた?」
急に振ってきた声は、金メッキみたいに平静が貼り付けられている。
「言われた。乾、知ってたの?」
「何を?」
「手塚くんが、私を好きだって」
「それなら、知ってたよ」
彼は、事も無げにそう告げた。あるいは、それも装われた落ち着きだったのかもしれないけれど。
「乾」
「何だい」
いつもの低くボソボソとつぶやくような声。見上げた横顔に表情はない。
「私を合宿に呼んだのって、そのため?」
違う、と言って欲しかった。例えば、『元々、手塚は来る予定じゃなかった』とか、そんな類の返事を望んでいた。だって乾は言ったじゃないか。私が友達を作る機会を用意したんだって。私のためって。
「手塚が、みょうじに会いたいと言ってね」
「だから、だったんだね」
「否定はしないよ」
ぐ、と唇をかんだ。つまりは手塚くんのためだったのか。そっか。中学の時からの友達のためなら、そのくらいして当たり前なのかもしれない。
「乾のばか」
「手塚のことが嫌いかい?」
「違う。でも」
でも、だからなんだって言うんだ。
「乾はずるいよ」
ずるい。私のためみたいな言い方して、私を心配する顔をして、そんなのずるい。
「みょうじ」
乾の声は、少し私を責めるみたいに響いた。私が駄々をこねているだけなんだろうか。よくわからない。私が悲しいと思うのは間違ってることなんだろうか。
「一人で帰る」
早口にそれだけ告げて、私は駆け出した。乾の長い足なら追いつかないはずなんてないのに、彼が私を追ってくることはない。そのことに安心しながら、また少し悲しい気持ちが腹の底に溜まっていくのを感じる。
「ばか、乾のばか」
出会ってから何度も繰り返してきた悪態は今までで一番虚しく響いて、真っ黒なアスファルトに吸い込まれてしまった。
23 合宿編22