合宿編(全22話)
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スッキリした気分でレセプションルームへ向かい、今日も健康チェック表を入力する。耳の奥の蝸牛に音楽をつぎ込んでいれば、作業はどんどん進んでいく。
しばらく作業を続けているうちに、控えめなノックが部屋に響いた。ヘッドフォンを外してどうぞと告げると、幸村くんがたくさんの紙の束を持って入ってくる。不思議なことにジャージではなくて、Tシャツにカーディガン姿だ。
「この席、良いかな?」
「うん、どうぞ」
私の正面の椅子を引いて、彼は紙の束をいくつかのブロックに分けて机の上に広げ始めた。
「どうしたの?」
「今朝の健康チェックで引っかかっちゃって。練習は休んだ方がいいって言われたから、代わりにスタッフさんから仕事をもらってきたんだ」
「寝てなくて大丈夫?」
「微熱だよ。本当に大したことはないから、大丈夫」
小さく微笑んだ幸村くんには、確かに辛そうな雰囲気はないけれど。
私は表の中から幸村くんのものを探し出し、確認してみる。熱が36.7度、食欲はややなし、睡眠はやや不足、他は健康。確かにひどくはないのかもしれないが、周りは気になるかもしれない。
「無理しないでね」
「うん、ありがとう」
言って、彼は書類へと視線を落とした。藍色の髪が窓から吹き込んでくる風にわずかに揺れて、ふわりと柔らかに光っている。幸村くんって、綺麗な人だ。不純物が少しも混じっていないような、ガラスのボトルに閉じ込められた水みたいな、そんな存在感。中性的な顔立ちと相まって儚い雰囲気を醸しているから、テニス部と言われると少し違和感がある。
「どうしたの?」
私の視線に気づいた彼が、困ったように眉を下げて笑った。きっと、見とれていたことに気付かれている。
「幸村くんは、ちょっとテニス部っぽくないなって思って」
「そうかい? 肌があまり焼けない体質だからかな」
「あ、そうだね。白くて羨ましいな」
「みょうじさんも十分白いと思うけど」
「私、インドアでこれだもん」
「テニス部じゃないの?」
彼が驚いてパチリと瞬きをした。同じ質問を何度かされたけれど、仕方のないことだ。私は肩をすくめて肯定を示す。
「部活、何してるんだい?」
「数学部」
「へえ、珍しいな。どんなことをする部?」
「数学の問題をみんなんで解いたり、問題つくったり、あとは昼寝したりする部」
「ふふ、昼寝も部活?」
「そうだよ。部室、すごく居心地がいいの」
「いいね、楽しそうだ」
緩やかなテンポで交わされる何気無い話は、とても心地がいい。幸村くんになら、素直に頭に浮かんだことが言えそうなのに。それなのに、跡部には。
思い浮かんだ顔を振り払うように、私はタブレットへと視線を戻す。空白はあと少しだ。
最後の欄まで入力を終えて、緒方さんに報告の連絡を入れておき、それから顔を上げた。
「私、作業終わったから、手伝うよ」
「ありがとう、助かるな。書類をそれぞれまとめてホッチキスでとめるだけなんだけど。4枚で1セットだよ」
「わかった」
ホッチキスを受け取ってから、書類を一枚ずつ重ねて、そこで気づく。
「あ、これ練習の記録?」
「そうだよ。二年前のものと、今年のものを比較した表を作ってくれたんだって」
「二年前も合宿したんだ。みんな、上手くなってるね」
プラスの記号がたくさん並んでいるのを見て、他人事なのに小さな感慨が生まれる。この三日間で、私も随分みんなに思い入れができてしまったってことかな。
「そうだね」
幸村くんの返事は静かで、でも、にじむように部屋に広がっていった。しばらく彼はじっと手元の書類を見つめていたけれど、それからゆっくりと顔を上げて、笑みを浮かべる。
「みょうじさんは、二年前は何をしてた?」
「うーん、何してだろう。普通に学校に通って、普通に授業を受けて」
それから、普通に恋をしていた。平凡でありふれた日々を、ただ楽しんでいたと思う。今だって、平凡でありふれていることには変わりないけれど。
「あんまり、思い出せないなあ」
「そっか。忙しく過ごしてたのかもしれないね」
私のついた小さな嘘を、幸村くんは優しく目を閉じて見ないふりをした。いや、きっとただ気づかなかっただけなのだろうけれど、私はこの緩やかな空間が壊れてしまわなかったことに、とても安心していた。
「うん、そうかも」
パチリ。ホッチキスを止めて。不意に、私の頭を優しく撫でる手に気づく。
「こうして記録には残ってないかもしれないけど、きっとみょうじさんもたくさん成長してるよ」
「どうしてそう思うの?」
「二年前のみょうじさんはここにはいなくて、俺の仕事を手伝ってくれていたわけでもない」
「それは、成長なのかな」
「以前とは違うことができているんだから、成長だろ?」
そう、なのだろうか。不思議な話をするなあと思って幸村くんを見上げていると、彼は小さく首を傾げて私を覗き込んだ。
「俺の言うこと、信じられない?」
何も知らないはずの幸村くんが、なんの確証もなく笑ってる。ただ、それだけのことだけれど。彼には、私を素直に頷かせる何かがあった。
「ううん」
「ふふ、うん。きっと成長してるよ」
「うん、ありがとう」
私の言葉に笑みを深くした彼は、涼やかな声でどういたしまして、と告げた。綺麗な音楽のように私の耳を満たすそれが、私にはちょっと特別なもののように響く。
「幸村くんて、すごいね」
私の言葉も、何も知らないはずの私が、何の確証もなく告げたものだった。何の意味もないただの音の集まり。
そんなものに彼が笑みを返してくれたのは、どうしてだったのだろうか。
***
二年前を思い出せないと言った彼女は、言葉とは裏腹に何かを思い返しているように何もない空間を見つめていた。きっと、口にしたくない思い出があるのだろうと思う。大切な、あるいは苦い思い出。
俺にとっても二年前は苦い思い出が多い時期だった。病を抱え、負けを知った時期。それでも今思い返せば、大切で美しいとさえ言える記憶だった。
彼女の記憶もそう言うものなのだろうか。そうであればいい。そう思って、押し付けるように、成長していると告げてしまったのに。
「幸村くんてすごいね」
何も知らない子供のような、純粋な尊敬の眼差しを向けられてしまう。彼女には俺のエゴなど思いも寄らないことなのだろう。少し愚かで、少し可愛らしく、少し遠い存在に思える。
「そうかな」
「うん、多分ね」
「多分なんだ」
「当社比だから」
「君は当社比を信じてないの?」
「だって、あれ『自称』みたいなものでしょ?」
「まあ、そうかもね」
「騙されちゃダメだよ、幸村くん」
小さく笑った彼女に、俺も少し笑う。明日には忘れてしまうような会話がとりとめなく流れていく感覚も、不思議と心地よかった。
二年前の自分の記録から、視線を彼女へと移す。
彼女のきらきら光る金色の髪の毛が、窓からの光を透かしてスパンコールみたいに輝いていた。綺麗な光景だと、いや、彼女は綺麗な人だと、そう思った。
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