合宿編(全22話)
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朝の支度を終えてダイニングルームに行くと、すでにたくさんの人が集まっていた。みんなの挨拶におはよう、と返しながら、椅子の間を進む。
今朝の席はもう決めていた。跡部の隣に、座ろうって。
うまく話せるかはわからないけれど、昨日歩み寄ってくれたのはわかったから私も少しくらい歩み寄ってみたいと思うのだ。
目的の後ろ姿はすぐに見つけることができた。でも、跡部の隣にはすでに樺地くんと向日くんが座っている。諦めるべきか。けれど、私には今日しかチャンスがない。申し訳ないが、譲ってもらおう。
後ろから向日くんの肩を叩いて、ジェスチャーで席を変わって、と示す。彼はびっくりしたままの顔で私と跡部を見比べて、少し考えるようなそぶりを見せたが、そのまま頷いて席を一つずれてくれた。
私は空けてもらった席に、滑り込むようにそっと座る。
何て話しかけたらいいのかな。シェフに何か指示を伝えているらしい横顔を見ながら考えていると。
あ。
彼が急にこちらを向いて、一瞬動きを止めた。
「……おはよう」
とりあえず挨拶をしてみるけれど、跡部はぐ、と眉を寄せる。なんだ、その顔。やっぱり、私が隣にいるのは嫌なのかな。
「何してんだ」
「朝ごはん食べに来ただけ」
「なんでここに座ってんだって聞いてんだよ」
「仕事頑張ったら跡部の隣に座っていいって言ってたじゃん。私、昨日もいっぱい働いたもん」
だから、追い出したりはしないでしょう。そんな意味を込めて見上げた。
目があったのは一瞬。ふい、とすぐにそらされて、彼は口元をかみしめるように歪めた。見たことのない顔。大して話もしたことのない私には、それの意味するものが理解できない。
「好きにしろ」
少なくとも、許容はされているようだけれど。
さて、問題はここからだ。帽子は自分で返したことと、それからバラ風呂のお礼。それが言えさえすればいい。多分、1分もかからない。短い言葉で伝えられるはず、なのに。
私が前を向いた途端に跡部が鋭い視線でこちらを睨んだのがわかるから、私は微動だにできない。どうしよう。彼は怒っているんだろうか。なんで。それともこの視線は別の意味があるのか。何が。わからない。跡部のことなんか、ちっともわからない。跡部の取扱説明書が欲しい。
何かを察して席を譲ってくれたのだろう隣の向日くんに視線を向けてみるけれど、目があった途端に朝といえば納豆だよな、と脈絡のない話題を振られたので、彼には期待するだけ無駄だ。
「侑士のやつ、俺が納豆食うと嫌がるんだよ。ありえねー」
「匂いがきついねん。食べんなとは言わへんから、遠くで食べてや」
「んだよ、ちょっとくらい我慢しろよ」
唇を尖らせてわがままを通そうとする向日くんと、それをたしなめる忍足くんは、弟と兄みたいだ。朝の緩やかな空気そのままの、なんでもない会話。
微笑ましいが、私はそれよりも跡部と話がしなければならないのに。なあ、と私に矛先を向ける向日くんに考えもせず言葉を返す。
「まあ、納豆嫌いな人にはきついんじゃない?」
「クソクソ、みょうじまで侑士の味方かよ」
「一般論じゃん」
「女はみんな侑士の味方なんだよな」
不満そうに息をついた向日くん。へえ、忍足くんってモテるのか。
「まあ、向日くんよりは落ち着いてるし、わかる気はするよ」
「はあ!? お前まじか」
向日くんのオーバーリアクションに、変な誤解をされたかなと思って、私は眉をしかめた。
「別に、忍足くんが特別どうこうって話じゃないからね」
「ほんなら、誰が好みなん?」
唇で綺麗な弧を描いて、私をじっと見つめてくる忍足くん。食いつき良すぎじゃないか、恋バナ大好きな女子か、君は。ていうか、私はこの世間話をいつまで続けなきゃいけないんだ。ため息をついて、首を振った。斜め前の宍戸くんが静かに苦笑していて、彼だけが味方に思える。
「特にない」
「あかんで、逃げるんは」
「そんなこと言ったって」
興味ありげないくつかな視線を受けつつ、私は内心で頭を抱えた。一番に思い出した顔は丸井くん。だけど、あれはただの感傷。仲がいいのは乾。だけど、ただの友達。思い浮かぶ顔は多いけど、好みと言われると難しい。
数秒考えて、一番印象が良かった人を思い出した。
「じゃあ、いっちゃんがいい」
いっちゃん、と誰かが私の言葉を繰り返した。
「ああ、六角の樹くん?」
滝くんが思い出したようにそう言って、いっちゃんという呼び方は六角の中だけに浸透していたものだったんだなあと今更に知る。
滝くんに、うん、と頷こうとした瞬間。
「痛!」
ガッと足を蹴られて、私は言葉を飲み込む。
蹴ったのは私の隣の跡部だった。
「なに、痛いんだけど」
「浮かれてんなよ」
「別に、そんなんじゃないよ。ただ、良い人だったなって」
「どうだかな」
ふんと鼻でいかにも高慢に笑われて、神経を逆撫でされている気分。これは、昨日とは違う。まごうことなき言い掛かりだ。
「跡部のばか、きら、」
嫌い、を言い切らないうちに、また跡部の長い指が私の顔を掴んで頬を寄せる。やめろ、私の顔が真ん中寄りになったら跡部のせいだぞ。
近付いた顔は先日と変わらず怖いほどに綺麗だけれど、先日のように距離がなくなることはなく。ただ憮然とした色を浮かべたまま、私を見下ろしていた。
「ふぁにふんの!」
「バーカ」
短くて静かな、たった一言。それがこんなに悔しいなんて。
手を振り払って、私も同じ言葉を返してやる。
「跡部の方がばかだもん」
「は、言ってろ」
「そっちこそ」
テーブルの下で足を蹴ると、長い足で悪かったな、と勝ち誇られた。ムカつく。
跡部の真似をして、彼の顔をぐい、と中央に寄せてやった。私には片手だけは無理だから、両手で挟んだのだけれど。
「……私、帽子自分で返したよ。あとバラ風呂初体験だったいい匂いだったありがとう、でも跡部嫌い、ばか、ぶす」
早口で言い切って、手を離す。氷帝の面々が各々笑いをこらえてたり、吹き出したりしているが、跡部に同情なんてしてやらない。彼がしたことを、やり返しただけだ。
「俺様をブスと言ったのはお前が初めてだ」
唖然とした顔を取り繕うように表情を引き締めて、跡部が言う。
「だろうね。さっきの顔は紛れもなくブスだったけど」
「うるせえ。今の言葉、すぐに後悔させてやるからな」
跡部と私が一緒の空間にいるのは、あと数時間。なにが出来るっていうんだ。私も跡部に倣って、彼の言葉を鼻で笑ってやる。跡部なんて、大嫌い。でも、初日より彼の隣は居心地が悪くないみたい。言いたいことが言えたからだろうから。
あー、唐揚げ食いてえ、なんて向日くんの間延びした声が響いて、私は笑った。朝の空気は、このくらい緩い方がいいんだ。
20 合宿編19