合宿編(全22話)
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今朝も、目覚ましが鳴り始めるのを待たずに目を覚ました。頭は綺麗に冴えている。よく眠れたせいに違いない。
窓を開けて風を部屋へ招き入れた。真っ白なカーテンが緩やかに揺れる。肺を満たしていく新緑の香りに思わず笑みがこぼれた。
合宿も今日で終わりかと思うと、それなりに名残惜しい気持ちになる。昼にはここを発つ予定だから、実質もうあと半日だ。3日間がいつもよりずっと短く感じた。もちろん、慌ただしかったせいもある。でも、一番の理由は楽しかったからじゃないかと、そう思う。
「おーい、みょうじさん!」
大きな声に誰だろうと視線を巡らせてみると、窓の下に菊丸くんと大石くんの姿が見えた。菊丸くんが大きく手を振っていて、大石くんは彼の大声をたしなめているようだ。
「朝練?」
「うんにゃ、大石と遊んでただけ!」
「一応、遊びじゃなくて練習だったろ?」
「今日は色々試してみたし、遊んだーって感じだったじゃん」
「はは、それもそうか」
大石くんが口を大きく開けて、顔いっぱいで笑っていた。昨日寂しそうな表情を見てしまっただけに私も少し嬉しい。そしてまた少し羨ましいなあと思ってしまう。
窓枠に肘を置いて、顎をのせた。私の部屋は二階だけれど、こうして見下ろしていると案外近く感じるものだ。
「楽しかった?」
「めちゃくちゃ楽しかったよ!」
「ああ、思い切りテニスができて、俺も楽しいよ」
菊丸くんはいい笑顔とVサイン、大石くんはなんだか照れたような笑顔。
「良かったね」
他人行儀に響いてしまう言葉。でも、私はそれ以上に相応しい言葉を持っていない。
と、奥の方から二人、誰かが歩いてくるのが見えた。あのジャージは山吹だったかな。ええと、名前は。思い出そうと記憶を探ってみるけれど思い出せない。ここ二日でだいたいみんなの名前は覚えたつもりだったのに。あの二人誰だっけ。挨拶だってした気がするのにな。
彼らは立ち止まっていた菊丸くんと大石くんを不思議に思ったのだろう。二人の視線をたどって、すぐに私に気がつく。
「あ、みょうじさんか。おはよう」
オールバックの身長の高い方の彼が、目を細めてそう言った。窓が陽の光を反射して、眩しいのかもしれない。
「おはよう、二人とも」
「ああ、おはよう」
もう片方の彼がそう応え、笑顔を浮かべてくれるものだから、私の中の罪悪感が膨れ上がっていった。他の人なら思い出せるのにどうして彼らだけ思い出せないのか。内心で一人ごちる。
すると、大石くんはつい、と彼らの方を見て、それから得心したように小さく頷いた。
「みょうじさん、南と東方は俺たちの練習に付き合ってくれていたんだ。南と東方はダブルスコンビとして、とても有名なんだよ」
あ、二回も彼らの名前を呼んだ。きっと私への配慮だろう。大石くんの目線でどっちが南で東方なのかまで理解できる。
私が彼らの名前を忘れてしまっていること、お見通しだったのか。大石くんはすごいなあ。
「南くんと東方くん、すごいんだ」
「それほどでもないさ」
「青学のゴールデンコンビには負けるよ」
交互に謙遜する彼らだけど、やっぱり誇らしげだ。名前もちゃんと呼べたし、良かった。
口パクで大石くんにありがとうと伝えると、一応気持ちは伝わったらしく、軽く手を振ってくれる。
その動作が南くんの目に留まったのかもしれない。
「大石とみょうじさんは仲がいいんだな」
微笑ましそうにそう言われてしまった。
「話すようになったのはこの合宿がきっかけなんだけどね」
「へえ、そうなのか。あ、大石は今、青学じゃないんだもんな」
大石くんの言葉に、東方くんが感慨深そうに呟いた時。菊丸くんが、しんみりした空気を壊そうとするかのように明るい声で。
「みょうじさんと仲良いっていうなら俺の方が仲良いかんね! おんなじクラスだし!」
そう、言う。
あれ。うそ。
「え、うそ」
「へ? 嘘って?」
「同じクラスだっけ?」
「えええええ!」
思い切り目を見開いた菊丸くんの表情に、うそではないことを知る。
まじか。菊丸くんと私って同じクラスだったのか。菊丸くん、こんなに存在感あるのに、なんで今まで印象に残っていなかったんだろう。
「ひ、ひどいにゃ……。朝、挨拶だってしてんじゃん!」
どうやら私は、南くんと東方くんの名前以上に忘れてはいけないことを忘れていたらしい。
「ごめん、そうだっけ?」
「してるよ! 毎日じゃないかもしんないけど、何度もしたよ!」
「あー、うん、なんとなく思い出した気がする、多分」
「思い出してないだろ、絶対! もうクラス替えして一ヶ月なのに! もー、みょうじさんなんて知んない!」
菊丸くんの怒涛の文句に、私はもう一度ごめん、と繰り返してみるけど、彼は子供のように頬を膨らませて完全に拗ねてしまう。
南くんと東方くんはおろおろするばかりなので、大石くんに助けてと視線を送ってみるけれど、今度は肩をすくめたばかりだった。彼もお手上げらしい。
「菊丸くん、ごめんって」
「じゃあ、次はみょうじさんから挨拶すること!」
「え、いいけど、約束忘れてたらごめん」
「覚えててよ! ぜーったい覚えてて!」
「わかったよ、わかった」
私もお手上げだ。ハンズアップして降参のポーズをとれば、菊丸くんはわかりやすくへにゃりと表情を緩める。
「じゃあ、明日の朝ね!」
大きく笑った菊丸くん。仲直り早いな、と南くんが笑って、東方くんと大石くんも笑う。
明日、か。
そっか。私、明日も菊丸くんには会えるのか。合宿が終わったって、みんなと二度と会えなくなるわけじゃないんだ。当たり前のことなのに、今知らされたような気分。
「うん、明日ね」
確かめるようにそう言って、私も一緒に笑った。
19 合宿編18