スイート・ハイプ!
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我が青春学園高等部には、数学部なるものがある。
時たま集まって数字パズルを解いたり、自作の数学の問題を持ち寄って解いてみたりする地味な部活だ。数学を面倒な勉強としか捉えられない私にとっては、至極退屈でマゾヒズムに似た何かを感じる場所である。
そこまで言っておいて何とも滑稽な話だが、私はその数学部の一員だった。自分の意思で入ったわけではなく、クラスの男子に部員が足らなくて困っている、と泣きつかれた結果なのだけれど。あの時は名前を貸すだけなら、と了承したのだったか。
しかしながら、数学部の部活は校舎の一番端の第二多目的室という空き教室同然の場所で行われる上、部員も幽霊部員が多く、とても静かで居心地がいい。いつしか、第二多目的室は私の根城と化し、絶好のサボりポイントになってしまった。
「みょうじ、起きろ」
低い声でゆっくりと紡がれるその言葉は心地が良くて、むしろ眠気を誘うような質のものだ。
「みょうじ」
けれど、私が起きるまでこの行為が繰り返されることはよく知っていたので、私は重たい瞼を無理やり上げた。すると、まだぼやけた視界に男の顔。表情は分厚いメガネのレンズに阻まれてよく分からない。
「いぬい、私、まだねむい」
「なら家に帰って眠った方がいい。もう下校時間だぞ」
「むり、家帰るのしんどい」
「ここに泊まるつもりかい? 現実的には思えないが」
「そーだね」
私の適当な同意に眉を寄せて、彼は私に手を差し出す。せっかくのなので手を借りて立ち上がった。
彼は、乾貞治という。私がこの部室で最もよく会う男だが、おかしなことに彼は数学部には所属していない。不意に現れては自作の数学の問題を置いて行ったり、部員たちが置いて行った問題に答えを書き込んで去って行ったりする。数学が好きなだけの、テニス部員だった。
「みょうじは本当に部室が好きだね」
「居心地いいから」
「ブランケットまで持ち込んで、まるで自室だ」
「授業サボって昼寝する時は、貸してあげるよ」
「おそらくその機会はないだろうが、ありがとうと言っておくよ」
「どーいたしまして」
乾はこうして理屈っぽくボソボソと喋るのだが、私は案外それが気に入っている。単に声が耳に心地いいからかもしれない。
教室の端でアヴィーチーの悲しい歌を鼓膜に注ぎ続けているような私と、真面目な優等生でちょっと変わった雰囲気の彼は、本来なら縁のない人種だっただろう。今こうして並んで話しているのが不思議なくらいだ。
「乾、今日は新作持ってきたの?」
「ああ、昨日の夜に一つ思いついてね」
言って、彼は壁にかけられたコルクボードに一枚のメモを留めた。メモの上には几帳面な数字が整然と並んでいる。
ちょうど今日、解くべき問題が少なくなってきたと部長が嘆いていたから、きっと歓迎されるに違いない。
「さて、これで俺の用事は半分終わりだ。残りの半分も片付けてしまいところだが、みょうじ、時間はあるかい?」
「時間? 別にいいけど、どうしたの?」
「少し話がしたい」
「あ、分かった。告白?」
「残念ながらハズレだ」
「冗談だよ、笑うところだよ」
「次回はそうするよ。さあ、行こう」
私のブランケットを几帳面にたたみ直した彼は、夕日に光る眼鏡の奥で少しだけ目を細めたようだった。
***
「それで、話って?」
高校に入学してすぐから、一年とちょっとの付き合いになるというのに、乾と並んで帰るというのは初めての事かもしれない。部活中に一緒に自販機に行くとか、廊下でたまたま会って、みたいなことは何度もあったけれど、こうして一緒にいようとしていること自体が稀有だ。彼はいつも、気がついたら隣にいるような人だった。
「そうだね、どこから話そうかな。うん、そうだ、みょうじは友達と呼べる人間が何人いる?」
「は?」
「精々、2、3人だろう」
「ねえ乾は私をディスるために一緒に帰ってんの?」
「事実を言ったまでだ」
「事実と言い切りますか」
とはいえ、実際、友人が少ないことは否定できない。
「友達を作りたいとは思わないかい?」
「無理に作るもんでもないよ」
「そうだね。でも、自分から動かなければ何も変わらない」
「分かった、今度ね」
説教など勘弁してほしい。とりあえず会話を切り上げたくて頷くと、乾はふふふ、と低く笑った。嫌な笑い方。これは、悪いことを考えている時の笑い方だ。
「その『今度』を俺が用意しておいたよ」
「え、どういう意味?」
「今度、テニス部の、というか、テニスの合宿があるんだ。みょうじもおいで」
「何言ってんの」
思わず目を丸めて、斜め上の乾の顔を見上げる。彼は私を見下ろしていつものように笑うだけ。
私は今までテニスラケットなんて授業以外で触ったこともない。どうして合宿なんかに行かなきゃいけないんだ。
「別にテニスをしろと言っているわけじゃない。少し身の回りの世話を手伝ってくれればいいだけさ」
「バイト代は?」
「俺とテニス部のみんなからの友情だ」
「乾、ばかなの。つまんない冗談やめてよ」
「俺は本気だよ」
「そもそも、私が行っても迷惑なだけでしょ。何もできないし」
「いいさ、少しくらい迷惑をかけたって。別に、正式な部活で行くわけじゃないんだ。中学三年の時の大会のメンツでテニスをしようと誘ってくれた男がいてね。同窓会みたいなものだよ」
はあ、と私の口からため息が漏れる。同窓会みたいなものと言うのなら、私が行けばなおさら邪魔になるだろう。部外者も部外者、綺麗さっぱり関わりのない人間なのだから。
「行かない、行けない、無理」
「何でもそうやって初めから決めつけるものじゃないよ。行ってみれば案外楽しいかもしれないじゃないか」
「無理だって」
「来週の土曜日から3日間の予定だから、そのつもりで荷物を作っておいてくれ」
「行かないってば」
いつになく譲らない乾に少し苛立ちを覚えて、私は彼を睨み上げた。すると、彼は困ったように笑っている。ゆっくりと私の脱色で痛んだ髪を優しく撫でて、わがままを言う子供なだめるみたいに優しい声で諭す。
「心配しなくても、テニス部のみんなはいい奴らばっかりだよ」
「行かないよ」
「それなら、土曜日の朝に迎えに行くから、答えはその時に聞かせてくれ」
行かないってば。行かないったら行かない。
そう言えばいいのに、どうしてだか私はただ彼の言葉に頷いた。きっと、はねのけてしまうには乾の手が優しすぎたせいだろう。
鮮やかなオレンジ色と深い藍色が混じる空で、一番星が輝いていた。
01 プロローグ